【肥前】龍造寺氏を語るスレ【佐賀】
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 12:00:13ID:MCwH6NwX0814人間七七四年
2010/01/29(金) 23:12:13ID:HjlzEidkサンクス
ああなら墓参りしてるわ俺
滝口作品も読んでみよう
0815人間七七四年
2010/01/29(金) 23:48:58ID:OekmnPR20816人間七七四年
2010/01/30(土) 22:09:39ID:IaTkOrJFいまある再建御殿も水浸しになっちゃうぞ?
0817人間七七四年
2010/01/30(土) 23:10:28ID:zszAp2w+>いまある再建御殿も水浸しになっちゃうぞ?
それも予定通りでの「沈み城」
最後は天守閣のみ残して全てを水浸しにする為に別名「亀甲城」とも云われる
水面に亀(天守閣)が頭を出している様子を意味してるらしいね
0818人間七七四年
2010/01/30(土) 23:53:42ID:vs+wTkyJ0819人間七七四年
2010/01/31(日) 00:47:36ID:CDMv35Ql0820人間七七四年
2010/01/31(日) 06:26:53ID:CDMv35Qlなぜ川上左京は隆信の居場所がわかり、さらに隆信本人だとわかったのか?
0821人間七七四年
2010/01/31(日) 07:30:08ID:O8CjD3ZA0822人間七七四年
2010/01/31(日) 11:31:48ID:NDWRrCLJ0823人間七七四年
2010/01/31(日) 13:08:35ID:/OBem0zIと書いて思ったところだが、
軍記物では円城寺が同じよろいを着ていて、
隆信に危険が及んだ際に、影武者として隆信の名を名乗ったという。
でも体型で一発でばれたんじゃないのかな?
それに、輿ではなく馬上だとしたら、その点でも。
0824人間七七四年
2010/01/31(日) 23:56:54ID:O8CjD3ZA肥満で馬に乗れなかった説
両方アリ。
0826人間七七四年
2010/02/05(金) 04:36:11ID:C2D1jIfW0827人間七七四年
2010/02/10(水) 07:42:05ID:4uhXsoUi敵を防いで居たりしが、主従16,7人に討ちなされ、とある処に息を休め、傍輩共の段々に討死するを見て
早此信勝が死時も今なるべし。いでさらば大将の目の前にて討死し、兼ねての君恩を生前に報い奉るべしと
云い、金に日の出したる扇を開き、敵を麾いで呼ばはりけるは、「是は先年豊後の大友八郎を討取りたる
成松遠江守と云う者ぞ。敵に於ては不足あらじ。首取って褒美に預かれ!」と高らかに申しければ、
薩摩勢百人ばかり、一同に切り懸る。
遠江守長刀押取り渡り合い、東西切って廻りしに、家人共皆討たれ、自身は敵七人薙倒し、八人に当るときは
終に討たれにけり。
鍋島直茂
島津豊久は鍋島直茂が逃げる処を目に掛け、馬引寄せて打乗り大音揚げて名乗り様、
「鍋島殿。何処まで落ち行くぞ。某は薩摩の島津家久が嫡子島津豊久なり。我れを討って高名にせよ」と呼ばれば、
鍋島は馬の手綱を引き返し「大将隆信は討れ、手勢はおらず何を持って戦をせん」と馬より飛び降り兜を取るや、
刀を投げ捨て、弓糸切って降参する。
「鍋島其儀ならば、薩摩に降参したる者の首は取らぬ。存命ならば肥前の城は貴殿に預け置くぞ」と仰せける。
鍋島は三畳下り、三度礼をして豊久の御前をすざり肥前の城へと逃げ帰えられる。
0828人間七七四年
2010/02/10(水) 23:27:42ID:joCthqG/0830人間七七四年
2010/02/12(金) 21:13:48ID:p0piVxPt未だ生残りてありけるが、隆信既に川上左京が為に討たれ、其の首敵陣にありと呼ばわる声を聞いて、
今はいづくをか期すべきと、討死の者の首を切り、左の手に提げ乱髪になりて敵に紛れ、島津中務が
弓杖にすがり馬上より敗軍を追わせてありける処に相近づき、「某、薩摩国主の御令弟に重大な秘密を
御打ち明け申す必要あり!」と味方の分捕見参に入ると偽って、持ちたる首を投懸け家久を礑と斬る。
一太刀は腕、さらにふくら脛とニ箇所へ傷を負わせ家久馬上より落つ。時に家久が馬廻りの者驚いて、
江里口を取籠め討捕りけり。
0831830
2010/02/13(土) 13:15:40ID:xUl+hCWo江里口信常 ○
0832人間七七四年
2010/02/13(土) 14:17:49ID:bhXkng4iサンクス
面白いね
金持ちになって早くリタイヤして、
佐賀に戻って軍記ものとかよんで楽しみたい。
地元じゃないとピンとこない歴史とかあるもんね。
0833人間七七四年
2010/02/16(火) 10:49:22ID:WnzrtHoQおりを見て県立図書館へ足を運んでるけど、鍋島ものに比べて隆信ものは少ないですね。
それに貸出し不可だったりして・・・。
0834人間七七四年
2010/02/19(金) 23:12:03ID:HNte6JGP来月半ばまでかな
学芸員のギャラリートークも何度かあるみたい
0835人間七七四年
2010/02/20(土) 00:01:47ID:diBG9UYQ知ってたら武雄市図書館に寄れたのに残念!!
0836人間七七四年
2010/02/20(土) 02:47:38ID:odbFbRhi0837人間七七四年
2010/02/20(土) 19:35:09ID:M/j1LCRC0838人間七七四年
2010/02/20(土) 20:10:07ID:diBG9UYQたまには佐賀へ帰ってきなよ。
とりあえず今日のところは「佐賀のがばいばあちゃん」でも見て佐賀を思い出しなさいよ。
0839人間七七四年
2010/02/22(月) 00:56:55ID:PP2fp0ct武雄藩のことを地元出てからもっと知りたくなったから、これはある意味チャンスだよなあ
ちょいと休みもらって帰るのもありかも知れん
0840人間七七四年
2010/02/22(月) 22:21:19ID:7dSzGL8o後藤貴明惟明の親子喧嘩あたりは面白いね
それが原因かどうかわからんけど、隆信が三男の鶴仁王(家信)を養子として送り込んだ
0841人間七七四年
2010/03/05(金) 20:30:45ID:K1pFtZNm立花親子の肖像や後藤貴明の木像、鍋島直茂のド派手な肖像、
蔚山籠城戦の屏風、国崩しのレプリカなどが印象的でした。
奥ではビデオを上映されていました。
後藤家信が蔚山救援を主張して、以後清正と親交を深めた
とは知りませんでした。
しかし誤算だったのは展示物が前期後期で入れ替えられていたこと。
そのせいで観れなかったものがありました……。
0842人間七七四年
2010/03/06(土) 22:10:28ID:5YXWSdHT戦国武将の書状なんか面白いだろね。
0843人間七七四年
2010/03/07(日) 13:30:25ID:R4s82w5wよ
あとテレビでお馴染みの島津義弘の肖像とか
名護屋城跡から出土した瓦とか
陶磁器とかがあった
0844人間七七四年
2010/03/07(日) 21:55:03ID:L+YKxjO/0845人間七七四年
2010/03/07(日) 22:45:50ID:R4s82w5w0846人間七七四年
2010/03/08(月) 22:20:31ID:ioz2opHm興味深いので分かったら教えてほしい
0847人間七七四年
2010/03/10(水) 03:48:16ID:ozQyaRlShttp://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1574214.article.html
どう云う流れになるのは記事にないけど
0848人間七七四年
2010/03/10(水) 21:20:34ID:7GFjLOki0851人間七七四年
2010/03/20(土) 00:53:48ID:x17qcc0Z0852人間七七四年
2010/03/26(金) 13:06:33ID:GpWGXiyJ沖田畷で隆信が薩摩の川上左京に見つかり、討たれた訳だが
なぜ川上左京は隆信の居場所がわかり、さらに隆信本人だとわかったのか?
821 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/31(日) 07:30:08 ID:O8CjD3ZA [1/2]
鍋島が内通してたから
0853水色桔梗
2010/03/28(日) 22:02:40ID:78UKED7K島津も当時はやばかったらしい。肥後へ北進出来なかったのは南関に龍造寺
家晴が居たし、有馬が泣きついてきたからね
・・・歴史の表舞台にはあまり出てこないけど、直茂と
家晴の確執は凄いよね。家晴はもっと評価されても良い人物なのに・・・
最近は旧勢力第一人者で出てくるようになったけど・・・
隆信は、油断したのね・・・もう九州制覇も夢では無くなってきてたから・・・
0854人間七七四年
2010/03/29(月) 00:30:07ID:PGLebZ670855人間七七四年
2010/03/29(月) 09:29:21ID:SJo+ZaAxそれ今川義元だって同じじゃん。
総大将だもの、雑魚兵とは違う格好してるだろうし
よく時代劇とかでもあるみたいに、観念した隆信が
「この首を末代までの武功とするがよいわ」とか名乗ったんじゃ?
相手に誰だかわからないまま討たれたら、それこそ悲惨じゃん。雑魚兵の1人として殺されるわけで
0856人間七七四年
2010/03/29(月) 09:48:45ID:yuXLs0d70857人間七七四年
2010/03/29(月) 18:52:49ID:zX5FjViR0858人間七七四年
2010/03/30(火) 11:11:30ID:4WHQnJ1c家康(徳川)は秀頼(豊臣)が成人のち政権を返すとの約定を反故にしている。
万が一、伯庵の言い分を認めたら幕府の根幹に関わってくるし、
どんなに正論を述べても結論ありきで却下だろ
まー、一番迷惑だったのは幕府だろね。
しかし鍋島も寝耳に水で驚いただろな。
0859高伝
2010/04/03(土) 00:17:30ID:dbk9+EKP0860高伝
2010/04/03(土) 01:12:55ID:dbk9+EKP0861高伝
2010/04/03(土) 10:10:48ID:dbk9+EKP0862人間七七四年
2010/04/03(土) 11:27:10ID:tFWCyWxv実態は禅譲なんて仰々しいものじゃなくて
委員長を押し付けられた優等生みたいなもんだったんだろう
0863人間七七四年
2010/04/05(月) 23:20:45ID:++16zVT9803さんは私の親戚になるのでしょうか?
私の祖父は国太郎の孫です。
0864高伝
2010/04/05(月) 23:54:53ID:e88HfmPh墓を見たら大切に奉って頂いて来たんだと私は感じましたよ。
0865人間七七四年
2010/04/06(火) 00:03:37ID:BcEav8HT観光案内所では沖田畷とか原城はまったくアピールせず
島原城と火災関係のところばかりすすめられた
貴重な観光資源があるのにわかってないよな
0866人間七七四年
2010/04/06(火) 00:17:56ID:nHLqyGpUさっそくにありがとうございます。
父方の親戚付き合いは全くなかったのですが、自分のルーツに興味が
ありました。
機会がありましたら高伝寺、訪れてみたいと思います。
0867高伝
2010/04/07(水) 23:46:30ID:YvJP5zo6たぶん、家のような、龍造寺の端くれの末裔の様に分からなくなっているところはまだまだあるでしょう。以前、大隈記念館を訪れた時に観光客の人も佐賀はまだまだ解明されてないとおっしゃってましたし。
0868人間七七四年
2010/04/09(金) 00:02:00ID:plM5cvNY龍造寺の墓はそれまでどこにあったんだろかね
隆信の場合は泰龍寺→宗龍寺→高伝寺となってるけど
家兼とか政家などはそれまでどこのお寺に墓があったんだろか
0869人間七七四年
2010/04/09(金) 00:50:38ID:uWo31RHq0870人間七七四年
2010/04/09(金) 15:51:49ID:pJiERaSR龍造寺一門が本家を見放して鍋島直茂を担いだというのが真相だよ。
佐賀藩では藩主の力が弱く、龍造寺一門四家が藩の実権を握っていた。
もっとも、龍造寺四家には鍋島から養子が入ったりするけど。
0871人間七七四年
2010/04/09(金) 22:06:30ID:qE4MvI7D> 龍造寺一門が本家を見放して鍋島直茂を担いだ
幕府の圧力もかなりあったのではないか?
0872ryu
2010/04/09(金) 22:42:59ID:urCf8gR2国太郎からどう来る方でしょう。俊彦さん?
0873人間七七四年
2010/04/10(土) 00:03:18ID:ccLM3DyW0874人間七七四年
2010/04/10(土) 00:11:39ID:ccLM3DyW0875人間七七四年
2010/04/10(土) 00:24:56ID:h8F3TRHs0876人間七七四年
2010/04/10(土) 00:31:12ID:ccLM3DyW0877人間七七四年
2010/04/10(土) 00:39:50ID:ccLM3DyW0878人間七七四年
2010/04/10(土) 00:43:08ID:h8F3TRHsそのほか
胤家系−藤井、村上、三上、小山、北村
家和系−平尾、藤井
家種系−勝山
政家系−朝山
などが存在したらしいが殆ど自然消滅かな
0879人間七七四年
2010/04/10(土) 00:59:36ID:h8F3TRHs頼純系−松井もいた
0880人間七七四年
2010/04/10(土) 01:01:17ID:ccLM3DyW0881人間七七四年
2010/04/10(土) 01:10:37ID:ccLM3DyW0882人間七七四年
2010/04/10(土) 11:54:12ID:ccLM3DyW0883人間七七四年
2010/04/10(土) 12:52:49ID:iDOHC/bn龍造寺の家督で紛争が起きた際に幕府からの呼び出しで、鍋島の支配を是認してるよねこの人。
柳川城籠城なんかは家晴の能力とは関係ないのかね?
九州一難攻不落とも言われる水濠の柳川城って関ヶ原後に押し寄せた鍋島相手に宗茂も籠城してるよね。
当時の柳川城を評価するべきなのか
指揮した鍋島や家晴や宗茂らを評価すべきなのか…
0884人間七七四年
2010/04/10(土) 12:53:07ID:Xn07TPqJ> 龍造寺一門が本家を見放して鍋島直茂を担いだ
理由は?
0885人間七七四年
2010/04/10(土) 12:54:52ID:Xn07TPqJ> 当時の柳川城を評価するべきなのか
> 指揮した鍋島や家晴や宗茂らを評価すべきなのか…
どちらも評価すべき。
いくら宗茂が名将でもショボイ城では防戦は不可能。
0886人間七七四年
2010/04/10(土) 13:06:03ID:iDOHC/bnそこそこ守れる城かも知れんだろうが。
だから晴家の指揮能力の評価を聞きたいんだよ。
0887人間七七四年
2010/04/10(土) 13:08:52ID:iDOHC/bn蒲池氏が作ってから、田中の大改造までは柳川城ってそれほど変化ないのかね?
柳川城を参考に、有事には水没する仕様と言われるように佐賀城も大改造されたんかな。
0888人間七七四年
2010/04/10(土) 13:18:30ID:Xn07TPqJ> いや誰が籠もっても
> そこそこ守れる城かも知れんだろうが。
凡将では守れないが、それなりのレベルの将なら守れるという感じ。
0889人間七七四年
2010/04/10(土) 13:19:52ID:Xn07TPqJ0890人間七七四年
2010/04/10(土) 14:43:19ID:h8F3TRHs内田は家晴が南関にいる時は大野を守備してるし、伊佐早の西郷氏を攻めた時は
援軍の大将として行ってるよね
0891人間七七四年
2010/04/10(土) 16:26:54ID:iDOHC/bnいやだから、家晴の指揮能力について聞いているんだが…
0892人間七七四年
2010/04/10(土) 18:19:18ID:0Ea4ZdHO家晴は有能でしょ。
柳川城に籠城して攻撃側を撃退したのは家晴だけだし、
道雪・高橋紹運を破ったのも大きい。
野戦では立花勢に連戦連敗だがうまく立ち回って
持久戦に持ち込んでいる。
>>871
幕府の圧力はなかったと思うよ。
政家は非常にアレな人物だった様だし。
直茂が執政になったのも龍造寺一門の意向だからね。
0893水色桔梗
2010/04/10(土) 18:49:27ID:6x3W5TAW直茂是認したのは、あくまでも西肥前や佐賀の領民を守るためであり、
当時、やろうと思えば直茂排斥は簡単に出来た状況です。
でもそれをやると幕府はすぐにでも、ここぞとばかりに佐賀藩取り潰しにかかります。
それを熟知していた家晴は敢えて龍造寺一門の代表格として排斥を訴える者を説得した経緯があるとのことです。
無能(?)な政家に変わり、国政を任せられるのは直茂の他に家晴の名前も挙がっていたことは事実ですが京畿の情報に長けた直茂が選ばれたのです。直茂も家晴の尽力にはかなりの感謝感激状態だったそうですが・・・
やがて二人には大きな確執が生まれるのは歴史の知るところです。
0894人間七七四年
2010/04/10(土) 19:30:49ID:iDOHC/bn撤退するまで要害を頼りに耐えたと言うべきだろ。
蒲池氏の時代から柳川城は要害と言われていたし、柳川城の蒲池攻めに失敗した隆信が騙し討ちして手に入れたわけだし。
家晴は野戦指揮能力は疑問符がつくし、鍋島に屈して、龍造寺宗家を売っただけじゃね?
家晴はヘタレなようにしか思えないんだが。
0895sage
2010/04/10(土) 19:54:55ID:kb48Rb3V863です。
特定されてしまうかもしれませんが、俊彦の流れです。
俊彦が私の父の祖父になります。
0896水色桔梗
2010/04/10(土) 20:20:49ID:UfOGpWHD確かに要害を頼りに耐えたのは間違いないと思います
鬼立花もダメダコリャと早々に引き上げ、運悪く高良山で病死した
こともある意味ラッキーだったのかもしれません
家晴は指揮能力では、朝鮮の役での戦いが高く評価されてますね
すでに戦国時代末期の日本では活躍の場が無かったのも事実のようです
また秀吉や当初の幕府は、お家騒動に因縁を付け、御家取り潰しで直轄領を
増やしていたため、それだけは避けたい佐賀の実情もあったようです
土地が欲しい秀吉が無能なマチャに官位授けたのもそれが狙いだったと言えます
0897人間七七四年
2010/04/10(土) 20:25:37ID:p6uBsoqS> 無能(?)な政家に変わり、国政を任せられるのは直茂の他に
家晴の名前も挙がっていたことは事実ですが京畿の情報に長けた直茂が選ばれたのです。
京畿の情報に長けたというより、徳川との関係が良かったということではないだろうか?
0898人間七七四年
2010/04/10(土) 20:27:10ID:p6uBsoqS野戦が苦手だったのではないか?
(家康の逆パターン)
0899水色桔梗
2010/04/10(土) 21:24:47ID:UfOGpWHD隆信にも京の秀吉との交流を勧めたのですが
隆信は軽く受け流した感じです
仕方なく直茂は独自で龍家のためにと秀吉との交流を
続けたのです その結果、秀吉の受けが良くなったのです
徳川も実際のところ九州の田舎大名の諸事情には疎く、秀吉路線で
出来上がった直茂国主論に傾いた感じですね
史実では家晴は突出した戦術家ではなく、バランスの取れた感じですね
野戦では、朝鮮にて明軍に囲まれた加藤清正を先陣切って助け出しています
また人の意見を聞かない暴れん坊清正に一度だけですが戦術を教授して
受け入れられ成功しています
加藤清正曰く「この俺様に戦振りを教授するなどお主が最初で最後であろうぞ」
と言わしめています まぁ創作の域もあるでしょうけど(笑)
0900人間七七四年
2010/04/10(土) 22:47:30ID:iEFkAxeZ> 隆信にも京の秀吉との交流を勧めたのですが
> 隆信は軽く受け流した感じです
仮に隆信が生きていたにしても
結局は小田原の北条氏みたいに
中央政権に滅ぼされた可能性もありそうですね。
0901水色桔梗
2010/04/10(土) 22:58:32ID:ZlZ8M9cpやはり中央には敵いません
直茂でも秀吉、家康にはビクビクして日常を過ごしていたそうですから・・・
やはり名跡の出ではないという現実と主家を乗っ取った自責の念はあったようです
まぁ乗っ取ったというより周りから時代の風に乗らされてしまった
という解釈が正しいようですが・・・でも鍋島藩が明治まで続くのは
凄いことですね
隆信・直茂・家晴などが中央にいたら面白かったでしょうね
ある意味、隆信は九州の信長のような勢いでしたから
0902人間七七四年
2010/04/11(日) 01:05:25ID:B0QmCXGx0903人間七七四年
2010/04/11(日) 14:32:30ID:Ekhzox1X立花勢は柳川城を落とせなかったばかりか
高良山に逃げ込んでる訳で。
柳川城の近所の城に引き上げて布陣したのとは異なる。
>>896
道雪は高良山で死んでない。
あなたが>>893で言っている
龍造寺家晴と鍋島直茂の確執って何?
0904人間七七四年
2010/04/11(日) 14:47:59ID:xK1OXkHD0905人間七七四年
2010/04/11(日) 15:48:53ID:JulLuz+U> 立花勢は柳川城を落とせなかったばかりか
203高地みたいに甚大な被害を出す覚悟があれば落とせたと思う。
0906人間七七四年
2010/04/11(日) 17:16:35ID:aGL4d1L0高良山に「逃げ」こんだ…えっ?
攻められ、なんら策無く撤退をひたすら待っておきながら、
なぜかそんなに龍造寺側が優勢なら
なんで家晴は高良山を襲撃して道雪を討ちとらなかったんだよw
0907人間七七四年
2010/04/11(日) 18:58:51ID:q1jCaPJ6> なんで家晴は高良山を襲撃して道雪を討ちとらなかったんだよw
それは誘いのスキであって、要害を攻めるよりは
野戦に持ち込んだほうが勝てるだろうという考えではないか?
0908人間七七四年
2010/04/12(月) 01:42:16ID:fSQ1zGpg松浦郡も本領として安堵されたんじゃなかろうか
0909人間七七四年
2010/04/12(月) 09:49:32ID:ZgBj7Trvなぜか島津・大友の対決ばかりが目立つ
その間なにしてたの?
0910人間七七四年
2010/04/12(月) 11:25:36ID:3kQrNTUS0911水色桔梗
2010/04/12(月) 11:25:52ID:LjzuSWI8道雪は高良山下の北野陣中で病没したとされる文献もあったものですから
それで高橋も戦意を失い筑後から去ってしまったと・・・
間違ってたら、申し訳ありません
本当のところはどうなんでしょう???
0912水色桔梗
2010/04/12(月) 11:40:44ID:LjzuSWI8時代はすでに秀吉太閤の時代になっていたわけで
九州内でゴタゴタしてるご時世ではなかったのです
大友は秀吉を九州に呼び寄せ、協力して島津を打つ手立てを進行中なわけで
龍造寺としても島津寄りの中立を守りながら、これからは太閤の時代と認識
しており、大友に負けじと連絡を密にしていたようです
結局、中小企業になった龍造寺としては、領地拡大より御家存続が大切な
わけで大友と島津の間で揺れに揺れてた感じですね
そのうち直茂と家晴は、新興勢力と旧勢力の代表みたいな感じに担ぎ上げられ
んでしょう・・・
もうちょっと隆信の弟、長信・信周がしっかりしてれば・・・
家信(隆信三男)が家督相続してれば状況は変わっていたかも???
って話、聞いたことあります
0913人間七七四年
2010/04/12(月) 11:58:31ID:bZK+TmjE島原方面での龍造寺の大敗を見た肥後の国人は龍造寺の支援を得られないので島津に寝返る
そもそも以前に相良氏の援軍要請すら蹴って、島津と肥後で和睦して相良を見捨てた経歴も持ってるから、島津が相良を先鋒に甲斐&阿蘇まで潰しにかかったから肥後での龍造寺勢力は崩壊。
筑後では蒲池滅亡の件もあり龍造寺から離反が酷くなる一方だし秋月や筑紫はもともと毛利や龍造寺や島津を利用して勢力拡大しようとしてるに過ぎないから、彼らの意向でオセロのように簡単に勢力圏はひっくり返る。
肥前もヤバくなってきたから鍋島らは島津に土下座和睦。
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。