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【肥前】龍造寺氏を語るスレ【佐賀】

レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/07/17(月) 12:00:13ID:MCwH6NwX
龍造寺氏について語りましょう。
0812人間七七四年2010/01/29(金) 20:11:16ID:BcMAwsVd
>>801
平野のど真ん中だから高見櫓でもあれば相手の行動がまる分かりだったんだろうな
0813人間七七四年2010/01/29(金) 22:01:34ID:5erS5J3W
>>811
於安のことは滝口康彦の「龍造寺の娘」を読んだことがあるよ
高伝寺にお墓があるよね

「沈み城」って云われるのは敵が攻めてきた時、堰を切って城の周りをわざと水浸しにして
敵を近づけさせないからと聞いたことがある。水攻めの反対だね
実際は松の木で遠くから城が見えないようにしてたからそう云う名がついたんだろうね
0814人間七七四年2010/01/29(金) 23:12:13ID:HjlzEidk
>>813
サンクス
ああなら墓参りしてるわ俺

滝口作品も読んでみよう
0815人間七七四年2010/01/29(金) 23:48:58ID:OekmnPR2
龍造寺の時代から沈み城だったの?
0816人間七七四年2010/01/30(土) 22:09:39ID:IaTkOrJF
ほんとに沈み城なら
いまある再建御殿も水浸しになっちゃうぞ?
0817人間七七四年2010/01/30(土) 23:10:28ID:zszAp2w+
>>816
>いまある再建御殿も水浸しになっちゃうぞ?

それも予定通りでの「沈み城」
最後は天守閣のみ残して全てを水浸しにする為に別名「亀甲城」とも云われる
水面に亀(天守閣)が頭を出している様子を意味してるらしいね
0818人間七七四年2010/01/30(土) 23:53:42ID:vs+wTkyJ
小船で天守閣まで攻められたらすぐ落城すんじゃ・・・
0819人間七七四年2010/01/31(日) 00:47:36ID:CDMv35Ql
その時は小便かけて抵抗するか、泳いで逃げるしかあるまい
0820人間七七四年2010/01/31(日) 06:26:53ID:CDMv35Ql
沖田畷で隆信が薩摩の川上左京に見つかり、討たれた訳だが
なぜ川上左京は隆信の居場所がわかり、さらに隆信本人だとわかったのか?
0821人間七七四年2010/01/31(日) 07:30:08ID:O8CjD3ZA
鍋島が内通してたから
0822人間七七四年2010/01/31(日) 11:31:48ID:NDWRrCLJ
輿から顔を出してる巨漢が目立ったから
0823人間七七四年2010/01/31(日) 13:08:35ID:/OBem0zI
あんなデブ、そうそういねーよ

と書いて思ったところだが、
軍記物では円城寺が同じよろいを着ていて、
隆信に危険が及んだ際に、影武者として隆信の名を名乗ったという。
でも体型で一発でばれたんじゃないのかな?
それに、輿ではなく馬上だとしたら、その点でも。
0824人間七七四年2010/01/31(日) 23:56:54ID:O8CjD3ZA
馬に乗っていた説
肥満で馬に乗れなかった説
両方アリ。
0825人間七七四年2010/02/01(月) 20:56:23ID:B+cFJkZD
>>821
それらしき資料ってありますか
0826人間七七四年2010/02/05(金) 04:36:11ID:C2D1jIfW
大友宗麟なんて天正十年八月一日に死亡確定じゃん
0827人間七七四年2010/02/10(水) 07:42:05ID:4uhXsoUi
成松信勝
敵を防いで居たりしが、主従16,7人に討ちなされ、とある処に息を休め、傍輩共の段々に討死するを見て
早此信勝が死時も今なるべし。いでさらば大将の目の前にて討死し、兼ねての君恩を生前に報い奉るべしと
云い、金に日の出したる扇を開き、敵を麾いで呼ばはりけるは、「是は先年豊後の大友八郎を討取りたる
成松遠江守と云う者ぞ。敵に於ては不足あらじ。首取って褒美に預かれ!」と高らかに申しければ、
薩摩勢百人ばかり、一同に切り懸る。
遠江守長刀押取り渡り合い、東西切って廻りしに、家人共皆討たれ、自身は敵七人薙倒し、八人に当るときは
終に討たれにけり。

鍋島直茂
島津豊久は鍋島直茂が逃げる処を目に掛け、馬引寄せて打乗り大音揚げて名乗り様、
「鍋島殿。何処まで落ち行くぞ。某は薩摩の島津家久が嫡子島津豊久なり。我れを討って高名にせよ」と呼ばれば、
鍋島は馬の手綱を引き返し「大将隆信は討れ、手勢はおらず何を持って戦をせん」と馬より飛び降り兜を取るや、
刀を投げ捨て、弓糸切って降参する。
「鍋島其儀ならば、薩摩に降参したる者の首は取らぬ。存命ならば肥前の城は貴殿に預け置くぞ」と仰せける。
鍋島は三畳下り、三度礼をして豊久の御前をすざり肥前の城へと逃げ帰えられる。
0828人間七七四年2010/02/10(水) 23:27:42ID:joCthqG/
出典は何?
0829人間七七四年2010/02/10(水) 23:38:34ID:4uhXsoUi
>>828
成松信勝 北肥戦誌
鍋島直茂 赤星軍記
0830人間七七四年2010/02/12(金) 21:13:48ID:p0piVxPt
圓城寺美濃守信胤
未だ生残りてありけるが、隆信既に川上左京が為に討たれ、其の首敵陣にありと呼ばわる声を聞いて、
今はいづくをか期すべきと、討死の者の首を切り、左の手に提げ乱髪になりて敵に紛れ、島津中務が
弓杖にすがり馬上より敗軍を追わせてありける処に相近づき、「某、薩摩国主の御令弟に重大な秘密を
御打ち明け申す必要あり!」と味方の分捕見参に入ると偽って、持ちたる首を投懸け家久を礑と斬る。
一太刀は腕、さらにふくら脛とニ箇所へ傷を負わせ家久馬上より落つ。時に家久が馬廻りの者驚いて、
江里口を取籠め討捕りけり。
08318302010/02/13(土) 13:15:40ID:xUl+hCWo
圓城寺美濃守信胤 ×
江里口信常 ○
0832人間七七四年2010/02/13(土) 14:17:49ID:bhXkng4i
>>829
サンクス

面白いね
金持ちになって早くリタイヤして、
佐賀に戻って軍記ものとかよんで楽しみたい。
地元じゃないとピンとこない歴史とかあるもんね。
0833人間七七四年2010/02/16(火) 10:49:22ID:WnzrtHoQ
>>832
おりを見て県立図書館へ足を運んでるけど、鍋島ものに比べて隆信ものは少ないですね。
それに貸出し不可だったりして・・・。
0834人間七七四年2010/02/19(金) 23:12:03ID:HNte6JGP
武雄市図書館・歴史資料館で「戦国の九州と武雄」展を開催中
来月半ばまでかな
学芸員のギャラリートークも何度かあるみたい
0835人間七七四年2010/02/20(土) 00:01:47ID:diBG9UYQ
一昨日鹿島市図書館まで隆信の資料をあさりに行ったばかり。
知ってたら武雄市図書館に寄れたのに残念!!
0836人間七七四年2010/02/20(土) 02:47:38ID:odbFbRhi
マジか、地元だし帰りてえが余裕が無い…ひどく残念だ
0837人間七七四年2010/02/20(土) 19:35:09ID:M/j1LCRC
俺も佐賀に帰りたい
0838人間七七四年2010/02/20(土) 20:10:07ID:diBG9UYQ
>>836>>837
たまには佐賀へ帰ってきなよ。
とりあえず今日のところは「佐賀のがばいばあちゃん」でも見て佐賀を思い出しなさいよ。
0839人間七七四年2010/02/22(月) 00:56:55ID:PP2fp0ct
リアルにエキストラでおじちゃんとか出てたりするけどそれはともかく、
武雄藩のことを地元出てからもっと知りたくなったから、これはある意味チャンスだよなあ
ちょいと休みもらって帰るのもありかも知れん
0840人間七七四年2010/02/22(月) 22:21:19ID:7dSzGL8o
武雄邑出身ですか
後藤貴明惟明の親子喧嘩あたりは面白いね
それが原因かどうかわからんけど、隆信が三男の鶴仁王(家信)を養子として送り込んだ
0841人間七七四年2010/03/05(金) 20:30:45ID:K1pFtZNm
「戦国の九州と武雄」展観に行きました。

立花親子の肖像や後藤貴明の木像、鍋島直茂のド派手な肖像、
蔚山籠城戦の屏風、国崩しのレプリカなどが印象的でした。
奥ではビデオを上映されていました。

後藤家信が蔚山救援を主張して、以後清正と親交を深めた
とは知りませんでした。

しかし誤算だったのは展示物が前期後期で入れ替えられていたこと。
そのせいで観れなかったものがありました……。
0842人間七七四年2010/03/06(土) 22:10:28ID:5YXWSdHT
おぉー、行って来られましたか。

戦国武将の書状なんか面白いだろね。
0843人間七七四年2010/03/07(日) 13:30:25ID:R4s82w5w
大友側から鶴田某に送られた天罰書状なんてのが複数あった


あとテレビでお馴染みの島津義弘の肖像とか
名護屋城跡から出土した瓦とか
陶磁器とかがあった
0844人間七七四年2010/03/07(日) 21:55:03ID:L+YKxjO/
後藤家と鶴田家は後藤貴明の頃から深い関係にあったらしい
0845人間七七四年2010/03/07(日) 22:45:50ID:R4s82w5w
天罰起請文だった
0846人間七七四年2010/03/08(月) 22:20:31ID:ioz2opHm
宗麟がどんなことを約束してたか分かりますか

興味深いので分かったら教えてほしい

0847人間七七四年2010/03/10(水) 03:48:16ID:ozQyaRlS
龍造寺隆信の末裔2人 多久、武雄を訪問
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1574214.article.html

どう云う流れになるのは記事にないけど
0848人間七七四年2010/03/10(水) 21:20:34ID:7GFjLOki
武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり…
0849人間七七四年2010/03/11(木) 02:45:14ID:3RaQP0s+
この栃木県の竜造寺さんはどの系統の人なのかな
>>803かな
高房系の宗家だったらすごいね
0850人間七七四年2010/03/11(木) 23:40:12ID:rXrLIqyJ
>>848
鍋島スレの方がピッタリと思うが

>>849
隆信から数えて12〜3代目だろうね
0851人間七七四年2010/03/20(土) 00:53:48ID:x17qcc0Z
高房の子、伯庵季明の末裔ですよ。
0852人間七七四年2010/03/26(金) 13:06:33ID:GpWGXiyJ
820 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/31(日) 06:26:53 ID:CDMv35Ql [2/2]
沖田畷で隆信が薩摩の川上左京に見つかり、討たれた訳だが
なぜ川上左京は隆信の居場所がわかり、さらに隆信本人だとわかったのか?

821 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/31(日) 07:30:08 ID:O8CjD3ZA [1/2]
鍋島が内通してたから
0853水色桔梗2010/03/28(日) 22:02:40ID:78UKED7K
沖田で隆信が存命していたら九州の勢力図は変わっていただろうね〜
島津も当時はやばかったらしい。肥後へ北進出来なかったのは南関に龍造寺
家晴が居たし、有馬が泣きついてきたからね
・・・歴史の表舞台にはあまり出てこないけど、直茂と
家晴の確執は凄いよね。家晴はもっと評価されても良い人物なのに・・・
最近は旧勢力第一人者で出てくるようになったけど・・・
隆信は、油断したのね・・・もう九州制覇も夢では無くなってきてたから・・・
0854人間七七四年2010/03/29(月) 00:30:07ID:PGLebZ67
鍋島軍で九州四国中国地方まで統一してみた
0855人間七七四年2010/03/29(月) 09:29:21ID:SJo+ZaAx
>>852
それ今川義元だって同じじゃん。
総大将だもの、雑魚兵とは違う格好してるだろうし
よく時代劇とかでもあるみたいに、観念した隆信が
「この首を末代までの武功とするがよいわ」とか名乗ったんじゃ?
相手に誰だかわからないまま討たれたら、それこそ悲惨じゃん。雑魚兵の1人として殺されるわけで
0856人間七七四年2010/03/29(月) 09:48:45ID:yuXLs0d7
幕府が龍造寺の復権ではなく、鍋島への禅譲を選択した理由はわかっているの?
0857人間七七四年2010/03/29(月) 18:52:49ID:zX5FjViR
スネに傷をもってたから
0858人間七七四年2010/03/30(火) 11:11:30ID:4WHQnJ1c
>>856
家康(徳川)は秀頼(豊臣)が成人のち政権を返すとの約定を反故にしている。

万が一、伯庵の言い分を認めたら幕府の根幹に関わってくるし、
どんなに正論を述べても結論ありきで却下だろ
まー、一番迷惑だったのは幕府だろね。
しかし鍋島も寝耳に水で驚いただろな。
0859高伝2010/04/03(土) 00:17:30ID:dbk9+EKP
葉隠武士道の田代陣基は龍造寺じゃないかな?
0860高伝2010/04/03(土) 01:12:55ID:dbk9+EKP
高伝寺には前、猫の墓も奉られてた気がしたけど、違ったかな〜?
0861高伝2010/04/03(土) 10:10:48ID:dbk9+EKP
龍造寺家は鍋島家との関係性は割とよかったんじゃないかな〜?鍋島が当主になった後も龍造寺家は鍋島家に大事にされて来た気がする。
0862人間七七四年2010/04/03(土) 11:27:10ID:tFWCyWxv
鍋島は当主っていうより佐賀平野一帯の一番の顔役って感じなんだよな
実態は禅譲なんて仰々しいものじゃなくて
委員長を押し付けられた優等生みたいなもんだったんだろう
0863人間七七四年2010/04/05(月) 23:20:45ID:++16zVT9
>>803
803さんは私の親戚になるのでしょうか?
私の祖父は国太郎の孫です。
0864高伝2010/04/05(月) 23:54:53ID:e88HfmPh
龍造寺のどういう系統だったか忘れましたが一応末裔でした。末裔の方は高伝寺に行って下さい!何代もの龍造寺家の墓が奉られてます。歴史を感じられるお寺ですよ。鍋島家と並べて奉られてますが、すごいです。ちなみに大隈重信もそこで遊んでたそうです。
墓を見たら大切に奉って頂いて来たんだと私は感じましたよ。
0865人間七七四年2010/04/06(火) 00:03:37ID:BcEav8HT
熊本からフェリーで島原に旅行に行ってきた
観光案内所では沖田畷とか原城はまったくアピールせず
島原城と火災関係のところばかりすすめられた

貴重な観光資源があるのにわかってないよな
0866人間七七四年2010/04/06(火) 00:17:56ID:nHLqyGpU
>>863です。
さっそくにありがとうございます。
父方の親戚付き合いは全くなかったのですが、自分のルーツに興味が
ありました。
機会がありましたら高伝寺、訪れてみたいと思います。
0867高伝2010/04/07(水) 23:46:30ID:YvJP5zo6
家の御先祖に関してはいろいろ語り継がれてません。佐賀の乱の関係で分からなくなってしまったので。
たぶん、家のような、龍造寺の端くれの末裔の様に分からなくなっているところはまだまだあるでしょう。以前、大隈記念館を訪れた時に観光客の人も佐賀はまだまだ解明されてないとおっしゃってましたし。
0868人間七七四年2010/04/09(金) 00:02:00ID:plM5cvNY
高伝寺なんて幕末に整然と作った訳だけど
龍造寺の墓はそれまでどこにあったんだろかね

隆信の場合は泰龍寺→宗龍寺→高伝寺となってるけど
家兼とか政家などはそれまでどこのお寺に墓があったんだろか
0869人間七七四年2010/04/09(金) 00:50:38ID:uWo31RHq
泰龍寺は20年ほど前に住職が自殺したという噂を聞いたことあるのだが本当かね?
0870人間七七四年2010/04/09(金) 15:51:49ID:pJiERaSR
>>802
龍造寺一門が本家を見放して鍋島直茂を担いだというのが真相だよ。
佐賀藩では藩主の力が弱く、龍造寺一門四家が藩の実権を握っていた。
もっとも、龍造寺四家には鍋島から養子が入ったりするけど。
0871人間七七四年2010/04/09(金) 22:06:30ID:qE4MvI7D
>>870

> 龍造寺一門が本家を見放して鍋島直茂を担いだ


幕府の圧力もかなりあったのではないか?
0872ryu2010/04/09(金) 22:42:59ID:urCf8gR2
863さん
 国太郎からどう来る方でしょう。俊彦さん?
0873人間七七四年2010/04/10(土) 00:03:18ID:ccLM3DyW
0874人間七七四年2010/04/10(土) 00:11:39ID:ccLM3DyW
龍造寺家で鍋島家の家臣の系統はなんになるの?家系図(レプリカ)は見たけど親戚のは資料にない姓だけど。
0875人間七七四年2010/04/10(土) 00:24:56ID:h8F3TRHs
意味不明だよ。凡人にも理解可能な文句で願いたいな。
0876人間七七四年2010/04/10(土) 00:31:12ID:ccLM3DyW
鍋島の家臣で龍造寺の末裔は四家?
0877人間七七四年2010/04/10(土) 00:39:50ID:ccLM3DyW
資料に残る四家の姓とは全然違う姓。けど、大隈重信の手紙もあったらしいから。
0878人間七七四年2010/04/10(土) 00:43:08ID:h8F3TRHs
多久、武雄、諌早、村田が龍造寺四家
そのほか
胤家系−藤井、村上、三上、小山、北村
家和系−平尾、藤井
家種系−勝山
政家系−朝山
などが存在したらしいが殆ど自然消滅かな
0879人間七七四年2010/04/10(土) 00:59:36ID:h8F3TRHs
龍造寺四家は村田じゃなく須古だった

頼純系−松井もいた
0880人間七七四年2010/04/10(土) 01:01:17ID:ccLM3DyW
どれでもないな。佐賀藩のどこだったか?代官にもなってるから弘道館は行ってるよね。家臣の下っぱだろうけど。
0881人間七七四年2010/04/10(土) 01:10:37ID:ccLM3DyW
残念ながら、大隈重信の手紙は行方知れず。手書きだったら貴重だなんて最近知った。いろいろ話したがらなかったという事だから、知らないがいいという事なんだろう。
0882人間七七四年2010/04/10(土) 11:54:12ID:ccLM3DyW
胤家でした
0883人間七七四年2010/04/10(土) 12:52:49ID:iDOHC/bn
いまいちよくわからんのだが、龍造寺家晴の指揮の評価ってどう?
龍造寺の家督で紛争が起きた際に幕府からの呼び出しで、鍋島の支配を是認してるよねこの人。
柳川城籠城なんかは家晴の能力とは関係ないのかね?
九州一難攻不落とも言われる水濠の柳川城って関ヶ原後に押し寄せた鍋島相手に宗茂も籠城してるよね。
当時の柳川城を評価するべきなのか
指揮した鍋島や家晴や宗茂らを評価すべきなのか…
0884人間七七四年2010/04/10(土) 12:53:07ID:Xn07TPqJ
>>870

> 龍造寺一門が本家を見放して鍋島直茂を担いだ

理由は?
0885人間七七四年2010/04/10(土) 12:54:52ID:Xn07TPqJ
>>883

> 当時の柳川城を評価するべきなのか
> 指揮した鍋島や家晴や宗茂らを評価すべきなのか…


どちらも評価すべき。

いくら宗茂が名将でもショボイ城では防戦は不可能。
0886人間七七四年2010/04/10(土) 13:06:03ID:iDOHC/bn
いや誰が籠もっても
そこそこ守れる城かも知れんだろうが。
だから晴家の指揮能力の評価を聞きたいんだよ。
0887人間七七四年2010/04/10(土) 13:08:52ID:iDOHC/bn
すまん家晴ね。
蒲池氏が作ってから、田中の大改造までは柳川城ってそれほど変化ないのかね?
柳川城を参考に、有事には水没する仕様と言われるように佐賀城も大改造されたんかな。
0888人間七七四年2010/04/10(土) 13:18:30ID:Xn07TPqJ
>>886
> いや誰が籠もっても
> そこそこ守れる城かも知れんだろうが。


凡将では守れないが、それなりのレベルの将なら守れるという感じ。
0889人間七七四年2010/04/10(土) 13:19:52ID:Xn07TPqJ
有事には水没する仕様といえば、大宰府の水城は一度もそれをやらなかったのではないか?
0890人間七七四年2010/04/10(土) 14:43:19ID:h8F3TRHs
家晴の与力と云えば内田かな
内田は家晴が南関にいる時は大野を守備してるし、伊佐早の西郷氏を攻めた時は
援軍の大将として行ってるよね
0891人間七七四年2010/04/10(土) 16:26:54ID:iDOHC/bn
>>888
いやだから、家晴の指揮能力について聞いているんだが…
0892人間七七四年2010/04/10(土) 18:19:18ID:0Ea4ZdHO
>>891
家晴は有能でしょ。
柳川城に籠城して攻撃側を撃退したのは家晴だけだし、
道雪・高橋紹運を破ったのも大きい。
野戦では立花勢に連戦連敗だがうまく立ち回って
持久戦に持ち込んでいる。
>>871
幕府の圧力はなかったと思うよ。
政家は非常にアレな人物だった様だし。
直茂が執政になったのも龍造寺一門の意向だからね。
0893水色桔梗2010/04/10(土) 18:49:27ID:6x3W5TAW
個人的には家晴は有能な部類に入ると思いますが・・・
直茂是認したのは、あくまでも西肥前や佐賀の領民を守るためであり、
当時、やろうと思えば直茂排斥は簡単に出来た状況です。
でもそれをやると幕府はすぐにでも、ここぞとばかりに佐賀藩取り潰しにかかります。
それを熟知していた家晴は敢えて龍造寺一門の代表格として排斥を訴える者を説得した経緯があるとのことです。
無能(?)な政家に変わり、国政を任せられるのは直茂の他に家晴の名前も挙がっていたことは事実ですが京畿の情報に長けた直茂が選ばれたのです。直茂も家晴の尽力にはかなりの感謝感激状態だったそうですが・・・
やがて二人には大きな確執が生まれるのは歴史の知るところです。
0894人間七七四年2010/04/10(土) 19:30:49ID:iDOHC/bn
籠城しただけで別に妙策があったわけでもなく立花高橋を破ったとは言わないな。
撤退するまで要害を頼りに耐えたと言うべきだろ。
蒲池氏の時代から柳川城は要害と言われていたし、柳川城の蒲池攻めに失敗した隆信が騙し討ちして手に入れたわけだし。
家晴は野戦指揮能力は疑問符がつくし、鍋島に屈して、龍造寺宗家を売っただけじゃね?
家晴はヘタレなようにしか思えないんだが。
0895sage2010/04/10(土) 19:54:55ID:kb48Rb3V
>>872さん
863です。
特定されてしまうかもしれませんが、俊彦の流れです。
俊彦が私の父の祖父になります。
0896水色桔梗2010/04/10(土) 20:20:49ID:UfOGpWHD
柳川城は、凡将でも3年は持つといわれた要害ですね
確かに要害を頼りに耐えたのは間違いないと思います
鬼立花もダメダコリャと早々に引き上げ、運悪く高良山で病死した
こともある意味ラッキーだったのかもしれません
家晴は指揮能力では、朝鮮の役での戦いが高く評価されてますね
すでに戦国時代末期の日本では活躍の場が無かったのも事実のようです

また秀吉や当初の幕府は、お家騒動に因縁を付け、御家取り潰しで直轄領を
増やしていたため、それだけは避けたい佐賀の実情もあったようです
土地が欲しい秀吉が無能なマチャに官位授けたのもそれが狙いだったと言えます
0897人間七七四年2010/04/10(土) 20:25:37ID:p6uBsoqS
>>893

> 無能(?)な政家に変わり、国政を任せられるのは直茂の他に
家晴の名前も挙がっていたことは事実ですが京畿の情報に長けた直茂が選ばれたのです。


京畿の情報に長けたというより、徳川との関係が良かったということではないだろうか?
0898人間七七四年2010/04/10(土) 20:27:10ID:p6uBsoqS
家晴は篭城戦とか城攻めはそこそこやれるが
野戦が苦手だったのではないか?

(家康の逆パターン)
0899水色桔梗2010/04/10(土) 21:24:47ID:UfOGpWHD
直茂に先見性があったのは事実です
隆信にも京の秀吉との交流を勧めたのですが
隆信は軽く受け流した感じです
仕方なく直茂は独自で龍家のためにと秀吉との交流を
続けたのです その結果、秀吉の受けが良くなったのです
徳川も実際のところ九州の田舎大名の諸事情には疎く、秀吉路線で
出来上がった直茂国主論に傾いた感じですね

史実では家晴は突出した戦術家ではなく、バランスの取れた感じですね
野戦では、朝鮮にて明軍に囲まれた加藤清正を先陣切って助け出しています
また人の意見を聞かない暴れん坊清正に一度だけですが戦術を教授して
受け入れられ成功しています
加藤清正曰く「この俺様に戦振りを教授するなどお主が最初で最後であろうぞ」
と言わしめています まぁ創作の域もあるでしょうけど(笑)
0900人間七七四年2010/04/10(土) 22:47:30ID:iEFkAxeZ
>>899

> 隆信にも京の秀吉との交流を勧めたのですが
> 隆信は軽く受け流した感じです


仮に隆信が生きていたにしても
結局は小田原の北条氏みたいに
中央政権に滅ぼされた可能性もありそうですね。
0901水色桔梗2010/04/10(土) 22:58:32ID:ZlZ8M9cp
残念ながら(笑〜悲)全くその通りです
やはり中央には敵いません 
直茂でも秀吉、家康にはビクビクして日常を過ごしていたそうですから・・・
やはり名跡の出ではないという現実と主家を乗っ取った自責の念はあったようです
まぁ乗っ取ったというより周りから時代の風に乗らされてしまった
という解釈が正しいようですが・・・でも鍋島藩が明治まで続くのは
凄いことですね

隆信・直茂・家晴などが中央にいたら面白かったでしょうね
ある意味、隆信は九州の信長のような勢いでしたから
0902人間七七四年2010/04/11(日) 01:05:25ID:B0QmCXGx
この板て凄い。他の末裔の人達、自分のところしか知らないはずだから。まとめて本にしていいんじゃない?しかし、わかりにくい。村中だった?家は右筆とかだったりらしいけどそれは立場としたらいずらい感じ?
0903人間七七四年2010/04/11(日) 14:32:30ID:Ekhzox1X
>>894
立花勢は柳川城を落とせなかったばかりか
高良山に逃げ込んでる訳で。
柳川城の近所の城に引き上げて布陣したのとは異なる。
>>896
道雪は高良山で死んでない。
あなたが>>893で言っている
龍造寺家晴と鍋島直茂の確執って何?
0904人間七七四年2010/04/11(日) 14:47:59ID:xK1OXkHD
で、誰か>>869について答えられる者はおらんのかね?
0905人間七七四年2010/04/11(日) 15:48:53ID:JulLuz+U
>>903

> 立花勢は柳川城を落とせなかったばかりか


203高地みたいに甚大な被害を出す覚悟があれば落とせたと思う。
0906人間七七四年2010/04/11(日) 17:16:35ID:aGL4d1L0
>>903
高良山に「逃げ」こんだ…えっ?
攻められ、なんら策無く撤退をひたすら待っておきながら、
なぜかそんなに龍造寺側が優勢なら
なんで家晴は高良山を襲撃して道雪を討ちとらなかったんだよw
0907人間七七四年2010/04/11(日) 18:58:51ID:q1jCaPJ6
>>906

> なんで家晴は高良山を襲撃して道雪を討ちとらなかったんだよw


それは誘いのスキであって、要害を攻めるよりは
野戦に持ち込んだほうが勝てるだろうという考えではないか?
0908人間七七四年2010/04/12(月) 01:42:16ID:fSQ1zGpg
もう少し龍造寺が上手く立ち回っておけば
松浦郡も本領として安堵されたんじゃなかろうか
0909人間七七四年2010/04/12(月) 09:49:32ID:ZgBj7Trv
沖田畷で敗れた後、滅亡したわけではないのに
なぜか島津・大友の対決ばかりが目立つ
その間なにしてたの?
0910人間七七四年2010/04/12(月) 11:25:36ID:3kQrNTUS
秀吉の救援を待っていた
0911水色桔梗2010/04/12(月) 11:25:52ID:LjzuSWI8
あれ?そうでしたか・・・
道雪は高良山下の北野陣中で病没したとされる文献もあったものですから
それで高橋も戦意を失い筑後から去ってしまったと・・・
間違ってたら、申し訳ありません
本当のところはどうなんでしょう???
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。