福島の戦国大名について
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/26(月) 22:55:19ID:F73GKVU8白河結城、二階堂、猪苗代、二本松畠山、芦名……。
こいつらについて語ってみませんか?
あと久保に萌えるのもOK。
0408人間七七四年
2008/07/19(土) 22:57:55ID:rofuBPlu日本海側気候が目で目視出来るからな
会津と中通りを分ける峠の上を見上げると雲が中通りに入ると綺麗に消えるんだよね、不思議だ
0409人間七七四年
2008/07/21(月) 17:25:51ID:OOwZN2h00410人間七七四年
2008/07/21(月) 19:16:24ID:98pakFtI動画
7月23日宵祭
甲冑競馬
7月24日本祭
出陣式
神旗争奪戦12:00
場所:福島県南相馬市(原ノ町)
平将門の末裔でもある相馬氏が、隣国の大国伊達氏のための
軍事訓練が相馬野馬追である。国指定文化財。
地図&駐車場詳細↓
http://www6.ocn.ne.jp/~nomaoi/
0412人間七七四年
2008/08/09(土) 19:46:16ID:RITzBiic伊達晴宗&久保姫の末子。
この人の活躍っていうのを全く聞いた事がない。
また、「杉妻」というのは福島市のことで、ここは両親の隠居していた場所。
また直宗には子孫がいない。つまり、いいとしして嫁ももらわず、また養子にも行かず、業績もなくパパやママのスネをかじっていたということになる。
兄たちはそれぞれ名門を継ぎ、あるものは伊達を継いだ次兄・輝宗やその子政宗を助け、またあるものは強敵として立ちふさがった。
姉たちも、敵に嫁ぎ悲劇のヒロインとなったり、伊達成実を産んだりして活躍したのに、直宗はいったいなにをしたのかわからない・・・・。
0414人間七七四年
2008/08/15(金) 15:42:48ID:WIB5gufTなんだか複雑な気持ちになる情報だ
0415人間七七四年
2008/08/16(土) 22:49:28ID:iMsd8pne長男・岩城親隆・・・恐妻家(弟と似ている)
次男・伊達輝宗・・・恐妻家
三男・留守政景・・・実は兄弟でいちばんまともな真面目な人
四男・石川昭光・・・どたんばでねーちゃん裏切ってその城手に入れた腹黒い奴
五男・国分盛重・・・バカ
六男・伊達直宗・・・ニート
長女・阿南姫(二階堂夫人)・・滅びた二階堂に拘り、甥と弟に攻められたあわれな女城主。兄弟姉妹で一番プライドが高い。
次女・(伊達実元夫人)・・・子供たちの中でも最大級の功労者。成実を産んでくれたから。
三女・(小梁川夫人)・・純然たる家来に嫁いだので、詳細不明
四女・彦姫(芦名盛興、のち盛隆夫人)・・敵に嫁がされ、夫が死ぬとこんどは婿をとらされた。最初の夫ははとこ、あとの夫は甥。
しかし本人は伊達家の人間で、政宗が芦名を滅ぼすはずがないと防備を固めようと献策した穴澤俊光の意見を退ける。(桧原戦記にそうあった)
実際には彼女の病死を待ってからの芦名討伐。
五女・(佐竹義重夫人)・・実は伊達家のスパイで、人取り橋の戦いの時、本国が攻められたというニセ情報を流して佐竹を退却させたのは彼女だという説がある。
佐竹義宣・芦名義広の母。息子より甥が可愛いかったらしい。
こうしてみると長女以外の女子は,敵に嫁いでさえ伊達家のために尽力、また長女はもし男だったら、輝宗や親隆以上の活躍をしただろうと思われる女丈夫。
それに比べ男子は、政景を除きぱっとしない。
0416人間七七四年
2008/08/16(土) 22:52:46ID:Z3QErP2i0417人間七七四年
2008/08/17(日) 07:22:51ID:SjF5jiWGまた息子や家来たちの力を正しく評価して自分の果たしえなかったことを実現させたことにある。
政宗、小十郎、成実、遠藤基信らを見出して活躍させた。(鬼庭綱元は、べつに見出さなくとも自然に重用されたと思う)
つまり自分は恐妻家で戦下手でも、息子や家来たちならきっとできる、と信じていてそれを実行したこと。
強い部将ではなかったがよき父よき主君であった。
佐竹義重夫人は、ほかにも上遠野という武士が政宗を捕らえた時、義重にばれないうちに逃がしたことがあるらしい。
もし彼女がいなければ、伊達は滅亡するか、佐竹の傘下になってしまったかもしれない。鬼義重の本当の敵はかみさんだった。
0419人間七七四年
2008/08/18(月) 20:54:33ID:adW7cYzJ0420人間七七四年
2008/08/22(金) 04:47:09ID:+sjBogm90421人間七七四年
2008/08/23(土) 07:03:52ID:3vMr4kFlhttp://books.google.co.jp/books?id=71GY0Df2kxEC
この本にそれらしき記述があった
0422人間七七四年
2008/08/23(土) 10:33:56ID:/u8mBvC8政宗が佐竹に捕えられたなんて、見たことも聞いたこともない
もしそれが事実であるなら、絶対に有名な逸話となっていただろうし、
そもそも伊達の当主が敵に捕まって生きて帰れるはずもない
何がソースかと思ったらPHP文庫…
0423人間七七四年
2008/08/23(土) 16:22:41ID:CrebJ2XB違う本でないか。
0424人間七七四年
2008/08/24(日) 08:48:21ID:6SvSrilN捉えたのは別の本。
0425人間七七四年
2008/08/24(日) 13:23:45ID:EYjcxX0U小説の作り話とかその類なんだろ?
0426人間七七四年
2008/08/25(月) 18:37:17ID:1DIYaksH福島民報新聞社刊「武者たちの舞台」下巻188ページにあった。
逃がしたのは、東(佐竹)義久で、一説によると政宗の叔母である義重夫人懇願によると書いてあった。
上遠野某はもしかすると佐竹ではなく岩城家臣かもしれない(元来その苗字は岩城家臣のものだから)
0427人間七七四年
2008/08/25(月) 19:06:30ID:d1ymtVHa民話じゃねw
0428人間七七四年
2008/08/25(月) 20:29:34ID:vmPiHxL90429人間七七四年
2008/08/28(木) 19:52:49ID:9fZJKX8a0430人間七七四年
2008/08/29(金) 02:32:10ID:8O0IH6AG成実が伊達家で片倉に次ぐ地位で猛将というのもウソ。
立花宗茂や本多忠勝のように、一軍を率いて活躍した実績なし。
だいたい、成実のことを世間は知らない。
東藩史稿は、作並清亮により編集され、大正四年に刊行されました
伊達成実を英傑と紹介するある史書は、こいつ歴史書ではない。
伊達治家記録が、一般公開されたのは、明治以降です。
成実記なども、幕末の昌平坂学問所所蔵のようで、一般に流布していたものではない。
仙台藩人物一覧表でも、成実は下のほう。支倉、片倉、茂庭、鈴木、留守などのほうが上に書いてある。
おそらく、猛将不在の伊達家で、猛将と捏造されたんだろ。
出奔したさいに、上杉景勝や徳川家康が招こうとしたが断るとか逸話を捏造。
常山紀談、名将言行録に、成実名前なし。
伊達の出典が、ぜんぶ仙台藩で。一般の著名な史書に、ほとんど出てこない太閤記で政宗が悪態ついたくらい。
政宗を全国の人が、20年前に知らないのもムリない。
奥羽の覇王とか、独眼竜とかいう本も、明治以降の話し江戸時代にそんなこと書いてある史書なし。
仙台藩が、日記と称しているものも、江戸時代中期〜末期・明治初頭に作成・加筆したもの。
0431人間七七四年
2008/08/29(金) 02:55:53ID:bhFSpqX30432人間七七四年
2008/08/29(金) 03:35:54ID:ogzd62Yk守り固いという印象だな。成実は。
度胸が据わっていたんだろう。
0434人間七七四年
2008/08/31(日) 19:16:40ID:p6oClXL4成実は石川昭光に次ぐ一門2席で、伊達家全体ではナンバー3.以下亘理、白石、田手あたりが続き、
江戸時代になってから分家した岩出山や川崎、後から加わった岩城や白河が加わった。
片倉はそのはるか下。
石川昭光、実は伊達ナンバー2だったとは意外だ・・・・。
0435人間七七四年
2008/08/31(日) 19:22:18ID:p6oClXL4最終的には、石川、亘理(成実)、留守(水沢)、亘理(涌谷)、白石、岩城、田手、
岩出山、川崎、白河、三沢の順。片倉より偉い家が実はこんなにあった。
また、家老たる奉行はもっと下の家から選ばれることが多いのに、何故か片倉が唯一絶対の筆頭家老で伊達家ナンバー2だと思い込んでいる人があまりにも多い。
0436人間七七四年
2008/08/31(日) 19:26:55ID:AkpVdDD00437人間七七四年
2008/08/31(日) 20:04:42ID:CTA4QnNLなんで石川ごときがそんなに席次が上の方なんだ?
禄高も最終的に二万石超えてるし。
叔父である以外、他家に比べて何かアドバンテージ有ったっけ?
>>435
>何故か片倉が唯一絶対の筆頭家老で伊達家ナンバー2だと思い込んでいる人があまりにも多い
そのように書いてある通俗本があまりにも多すぎるからね。
0438人間七七四年
2008/08/31(日) 21:08:57ID:2uQ5i/sF片倉に継ぐ地位はウソって書いてあるのに何か問題あんの?
脳内で片倉に継ぐ地位「はウソ」←の部分を自分で都合よく削除したの?
意味わからないんだけど。
0439人間七七四年
2008/09/01(月) 01:55:22ID:OzBc7O/A江戸期に白石城を預かっていたというのもあるんでないかい?
石川昭光は確かに優遇されてるな。後年には彼の子孫が一関藩(田村家)主を継いだりしてるし
0440人間七七四年
2008/09/01(月) 02:23:02ID:7vzjouCf福島は、
伊達(福島市)
佐竹グループ(いわき(旧・平市))
葦名・蒲生(会津若松・郡山)
これの影響もあって統一されないまま進み、
いまだに仲が悪い部分もある。
会津はまた違うところに敵がいるが、
福島だけみるとこんな感じで仲が悪い。
会津若松と郡山も仲があんまりよくない。
誰かさんが統一しなかった弊害がここに出ている。
もしくは統一せんでもな。
伊達佐竹は血縁もあれど仲良く出来ただろうに。
0441人間七七四年
2008/09/01(月) 02:39:55ID:HG9aCgxh0442人間七七四年
2008/09/01(月) 02:47:10ID:7vzjouCf宮城県寄り!!!w
どこが近いとなれば、実は仙台なんだよね。
岩城も同じくらい遠いし、福島行くのも一苦労。
0443人間七七四年
2008/09/02(火) 06:57:30ID:ECqTNNUD自分だけ本領安堵で他はみんな改易されちゃったんだから
せめて家臣として丁重に遇しないと
まあ逆らう奴は逆らったが
0444人間七七四年
2008/09/02(火) 14:38:49ID:fKGuDll/石川たちには秀吉から参陣の命令が来なかったのか?
0445人間七七四年
2008/09/02(火) 19:19:56ID:g1R9ZT8E特に石川の場合は、二階堂残党が謀反を起こし、その鎮圧のため出陣できなかった。
結局石川昭光は二階堂残党(矢田野氏)の反乱を鎮圧できず、秀吉から改易され、主従7騎で夜逃げして政宗に助けられたらしい。
また、昭光から献上された馬を自分の名義で献上してしまったらしい。
その借りがあって昭光を優遇した。その結果、ナンバー2は自分と信じていた成実は、少し前まで敵だった昭光の下に置かれたことをうらみ、
政宗の元から去った。
・・・・しかし、のちに昭光(&小十郎、留守)の口ぞえで帰参・・・・
0447人間七七四年
2008/09/02(火) 21:54:58ID:g1R9ZT8E田村家はのちに大復活した。
(だが、伊達騒動&赤穂浪士に巻き込まれ・・・)
最後にはよりによって石川昭光の子孫にのっとられている。
それにしても成実のいない伊達弱い・・・・。というか昭光が弱いのか。
(当時昭光は病気だったという説もある。秀吉には病気を理由に参陣できないと言った。
病気のため十分な指揮が出来なかったのか、仮病を使って鎮圧しようとしたのかは今となっては謎。
ただ鎮圧が政宗の指令だったことと、鎮圧に失敗したのは事実)
二階堂残党如きを鎮圧できないとは・・・・。
0448人間七七四年
2008/09/02(火) 21:57:16ID:g1R9ZT8E佐竹から来た貞隆帰れと言いたい。もっとも貞隆にも岩城の血はちゃんと流れてはいるが・・・。
0449人間七七四年
2008/09/02(火) 22:20:16ID:joErNx+2伊達に帰順して以降の昭光はいい働きをしているのが何か興味深い。
石川家当主として強く出なければいけない立場とかあって、いろいろ大変
だったんだろうなあ。実家の禄を食むことになって寧ろすっきりとか。
0450人間七七四年
2008/09/02(火) 22:33:22ID:fKGuDll/「政宗が参加させなかった」と言ってる割に
「二階堂の残党鎮圧で参陣できなかった」とは
論理が矛盾しているのではないかい?
0451人間七七四年
2008/09/02(火) 23:54:14ID:srPzazbuだいたい、石川が石川家臣団の総意を代表して秀吉の前でどんな弁明を言い出すか政宗からしたらムチャクチャ怖いだろ。
0453人間七七四年
2008/09/03(水) 01:36:55ID:SAT+ybll0454人間七七四年
2008/09/03(水) 22:04:37ID:pBGtUuvy0455人間七七四年
2008/09/04(木) 21:15:16ID:9+aOGILs佐竹義昭の偏諱じゃないか?
0456人間七七四年
2008/09/05(金) 19:15:17ID:dar49z0z偽芦名、偽岩城、偽伊達まで作って・・・・。
0457人間七七四年
2008/09/09(火) 00:30:59ID:IMwlNUW3むしろ佐竹義昭のほうが時代が合わない(1565年に死亡)
足利義昭の将軍就任が1568年
石川昭光が石川家の養子になったのが同じく1568年
養子になったと同時に改名しただろうから箔をつけるために
就任したばかりの義昭から貰ったんだろう
義昭としても将軍としての権威を確認できるから嬉々としてやったんじゃないか
0458人間七七四年
2008/09/09(火) 05:32:54ID:GxCnwAbVそうか・・・でも東北唯一じゃないか?
0459人間七七四年
2008/09/09(火) 21:48:28ID:EF4nJZZX石川晴光の養子になったのが1568年なら確かに足利義昭の偏諱だと
得心できる。
0460人間七七四年
2008/09/09(火) 22:27:41ID:Jy1md2MZ後は伊達の他にあったっけ?
最上や大崎の「義」も偏諱なのか?
0461人間七七四年
2008/09/09(火) 22:29:44ID:Jy1md2MZ0462人間七七四年
2008/09/10(水) 00:27:31ID:LkFmiO740463人間七七四年
2008/09/10(水) 09:39:43ID:Wgus1tGE室町クオリティ的には田舎大名とは格が違いますよ
「義」を貰って当然
ついでに二本松も畠山家嫡流クオリティで義の字を貰えてたが・・・
0464人間七七四年
2008/09/10(水) 21:01:48ID:3VxrIBjg0465人間七七四年
2008/09/11(木) 20:39:46ID:h2iYssBK(後の兄弟姉妹は皆おとなしすぎる。多分岩城の血。)
0466人間七七四年
2008/09/12(金) 19:37:24ID:uL9kzFvG北条に勝てないから、弱者に襲い掛かった卑怯者である。
奥州は、偉大なる探題・伊達家の威光と濃密な血縁関係により、秩序が保たれていた。
それなのに、石川昭光を居城から追い出して無理矢理従えたり、芦名、岩城に無理矢理容姿を押し付けて乗っ取ったりした。
関東の人間は奥州に手出し口出しはしないで欲しいものだった。
須賀川の愚かな女城主を唆し伊達に逆らわせたのも義重だ。
血筋から言って、芦名は小次郎、二階堂は直宗が継ぐべきだった。
そうすれば小次郎は死なないで済んだし、芦名も二階堂も滅びずに済んだのだ。
小次郎を殺したのも義重なのだ。
それに、探題・政宗公が奥州に覇を唱え、諸将を従えることはなんら問題ないが、義重が北上したのは単なる邪悪な侵略行為に過ぎない。
0467人間七七四年
2008/09/12(金) 20:26:32ID:eff/RMJt自分の部下をイジメ抜いて、功臣の妻を妊娠させたり、投身自殺させたり、幽閉させたり、出奔しまくりのDQN大名。
なんと国分盛重まで佐竹へ保護を求めて逃げ出した。
義重の妻も葦名の正室も二階堂の正室もみんな叔母でありながらDQN政宗は親族に刃を向けて親伊達派だった彼らを家中から孤立させたアホ。
0468人間七七四年
2008/09/12(金) 22:01:51ID:uL9kzFvG偉大な足利将軍がそう決めたのだ。将軍の命令は天皇の命令でもある。
逆らったものが討伐されるのは当然のことだろう。
芦名、佐竹の夫人は確かに気の毒だが須賀川の人は重臣たちの反対を押し切って伊達に逆らっている。
(彼女の場合、伊達が憎いのではなく、田村が憎かったという説もあるのだが・・・)
だから茨城の佐竹に唆されて逆らうほうが間違っているのであり、探題の意思は絶対なのだ。
逆に、伯父さんである最上義光は、羽州探題であり、出羽は陸奥ではないので従う必要はなく、その地位は全く対等である。
常陸のみの守護に過ぎない佐竹如きに、管領と同格の伊達が風下に立つわけには行かない。
0469人間七七四年
2008/09/12(金) 22:05:26ID:uL9kzFvG管領家にも繋がる上杉家を乗っ取るチャンスを潰し、最上・相馬などの台頭を許した。
もし上杉継承が成功していれば、長野県以北が全て伊達のものになっていたはずだ。
0470人間七七四年
2008/09/12(金) 22:21:21ID:eff/RMJt佐竹は出張してきただけで領土的野心はなかったんだが。
つか晴宗が米沢に拠点を移すと同時に知行を整理再交付を通じて家臣団を統制し主従関係を強化した名君なんだが…。
伊達の探題就任はホントかどうか怪しいし。
政宗も秀吉に父の代から探題を任されてるって言ってるから思いっきり食い違ってるし。
仙台で印刷されたもの見ても仕方がないし、裏書き御免の書状原本が見れないし。
0471人間七七四年
2008/09/15(月) 20:19:05ID:zm5c/ZjX0472人間七七四年
2008/09/15(月) 23:51:45ID:1xOg4frh0473人間七七四年
2008/09/26(金) 14:31:12ID:2BzZaqjJ0474人間七七四年
2008/09/26(金) 23:17:12ID:tfyYMlnq0475人間七七四年
2008/09/27(土) 13:36:41ID:GyT4IldI0476人間七七四年
2008/09/28(日) 11:12:40ID:p+OTFjU+0477人間七七四年
2008/09/28(日) 12:18:22ID:gRkCeTTf若松は知ってるけど、福島の由来について詳しく。
0478人間七七四年
2008/10/07(火) 14:21:50ID:bUGP0aBd0479人間七七四年
2008/10/09(木) 23:58:51ID:7l5IqVQc福島県
福島の古称は杉妻(すぎのめ)。蒲生氏の家臣の木村氏が、杉妻城に入城した際、縁起のいい
福島城と改めたのが地名の起こりだとか。
ttp://www12.canvas.ne.jp/taisi_i/kenmei.html
0480人間七七四年
2008/10/16(木) 14:10:47ID:qGU38Xci0481人間七七四年
2008/10/18(土) 04:19:14ID:BcNkfVEDhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%B8%82
0482人間七七四年
2008/10/25(土) 14:26:01ID:FikgCTX8なるほどね
0483人間七七四年
2008/11/05(水) 15:17:00ID:ODERcfc00484人間七七四年
2008/11/15(土) 14:21:22ID:WAyMHlWn0485人間七七四年
2008/11/25(火) 15:20:05ID:xhkOKvmU0486人間七七四年
2008/12/05(金) 15:08:32ID:BNtOmfPF0487人間七七四年
2008/12/15(月) 15:49:36ID:vAyVkits観光地なんですな。
0488人間七七四年
2008/12/25(木) 15:30:23ID:ecn0GHgs0489人間七七四年
2008/12/28(日) 13:24:23ID:gKA2JykV0490人間七七四年
2008/12/28(日) 14:53:08ID:pHrDldL8信夫山を盆地に浮かぶ島と見立てて、
吾妻山から毎年、強風が吹き付けることから、ふくしまとなった。
吹くを福にしたのは、きっと縁起のいい字に変えたのだろう
0491人間七七四年
2008/12/28(日) 16:37:55ID:4Jfibr9A0492人間七七四年
2009/01/06(火) 17:39:10ID:NGSrGCk40493人間七七四年
2009/01/07(水) 03:26:05ID:6E2KQ0Hx田村とか二本松畠山もあの辺りだっけ
0494人間七七四年
2009/01/09(金) 23:16:43ID:U2g0q2Rh輝宗の幼少時代までは伊達氏も福島県伊達市を本拠してた
伊達政宗が太閤秀吉公に国替を命じられるまでは今の伊達市、福島市も本領
よって伊達氏も福島の戦国大名と言ってよい
0495人間七七四年
2009/01/11(日) 17:07:17ID:FXA6o1Ap0496人間七七四年
2009/01/11(日) 20:12:17ID:CA3hMbtK0497人間七七四年
2009/01/12(月) 07:26:21ID:247A8++Oつ舟尾昭直
0498人間七七四年
2009/01/12(月) 11:40:21ID:fJSKbZkl0499人間七七四年
2009/01/12(月) 14:53:12ID:bbB/zvvM【陸奥】相馬氏を語る【下総】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1211757850/
0500人間七七四年
2009/01/13(火) 05:30:02ID:ihy/O3qU県民だというのにちんぷんかんぷんなんだぜ
でも歴史っておもしろいな〜興味がわいてきたんだぜ・・!
0501人間七七四年
2009/01/14(水) 11:30:05ID:NqeT6Bq6葦名支流の猪苗代氏とかさ。
田村隷属下の石川弾正なんかもいるね。
0502人間七七四年
2009/01/15(木) 07:33:37ID:umMqg9SR政宗の田村介入や支援が他の諸大名との闘いの導火線の様な気がする
0503人間七七四年
2009/01/15(木) 10:36:37ID:xTAEpp6s0504人間七七四年
2009/01/15(木) 10:39:02ID:p2wGbCQ5散々に佐竹や石川や葦名や二階堂に折檻され籠城で凌いでる。さらに北にいる政宗はほとんど助けてくれないし。
政宗が家督継承するなり先代が暗殺された葦名の後継に弟を送り込むのに失敗した挙げ句に
葦名侵攻して敗北→大内の離反を招いた。
その大内を支援したのが二本松畠山氏。
二本松籠城のための物資を運び込む為に葦名の求めに応じて佐竹が北上。
物資運び込みに成功し、当主が死んだ二本松のガキの城が落ちず、
惣無事令が奥羽に伝わってきた為に相馬が斡旋に乗り出し、二本松開城。
その後、田村も当主が死んだ為に政宗が田村侵略を開始。
まー政宗の南下政策で大内や畠山の次のターゲットに田村が狙われたんだな。
そしたら政宗が絶対殺す宣言してた大内が再び暴れ出して
政宗の手に負えなくなって、領土割譲と政宗自筆の起証文を出して低姿勢で大内に仲間になってくれるようにお願いするハメに。
0505人間七七四年
2009/01/15(木) 16:04:08ID:SWyi5VvV会津盆地は攻められ易く、守り難い。
伊達進攻と官軍がいい教訓。
0506人間七七四年
2009/01/15(木) 18:57:28ID:Dw+UO01p伊達も芦名も佐竹も定綱兄弟に踊らされたようなもんだよ
田村や畠山が潰れたのも定綱が巻き込んだのが原因だし
0507人間七七四年
2009/01/15(木) 19:20:23ID:Dw+UO01p伊達の時は内部崩壊して招き入れてしまい
官軍の時は圧倒的戦力差でタコ殴りにされたわけだから
特別会津の土地が悪いわけではないと思う
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています