剣豪将軍足利義輝
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/17(土) 23:01:19ID:TYNKUzhf0488人間七七四年
2011/02/13(日) 09:24:25ID:VOWK5DrI0489人間七七四年
2011/02/13(日) 11:08:43ID:73pLlR0w晩年、NHKクオリティで真田十勇士として復活!なら最後は盛り上がる!
ある程度のブーイングは覚悟しなきゃだがw
0490人間七七四年
2011/02/14(月) 01:18:34ID:n//9V5gq0491人間七七四年
2011/02/14(月) 05:39:32ID:SXqTZfTkちょうど壮年期だったこともあるんだろうけど、めちゃくちゃ強いよね。
0492人間七七四年
2011/02/14(月) 08:32:15ID:vTiGpOAu0493人間七七四年
2011/02/14(月) 08:44:22ID:9VgmxoAW0494人間七七四年
2011/02/14(月) 16:26:05ID:6JeTpGn3名刀の何本かはここから他の家に散ってるらしいし
0495人間七七四年
2011/02/14(月) 18:56:02ID:KrrMeeCi稀代の刀剣鑑定家でもあったため天下五剣とか
雑兵共にパクられることなく保護されたらしいね
0496人間七七四年
2011/02/14(月) 19:47:38ID:6JeTpGn3他の3本は振るわれたか不明だが
数珠丸だけは日蓮の遺品で寺保管だから持ってなかったんだっけ?
0497人間七七四年
2011/02/14(月) 20:51:31ID:sjq2dLTQ0498人間七七四年
2011/02/14(月) 23:54:56ID:9VgmxoAW鋭卒(精鋭な兵)、囲師(囲まれた兵)、窮寇(窮地に陥った兵)を同時に満たしてる
一方の三好松永方の兵(に限った話でもないが)は本音じゃ五体満足で帰りたかっただろう
0499人間七七四年
2011/02/15(火) 20:58:50ID:A52hg5X70501人間七七四年
2011/02/17(木) 09:05:47ID:QrKujF4u0502人間七七四年
2011/02/23(水) 01:29:07.13ID:Ot3ILrn/0503人間七七四年
2011/02/23(水) 17:31:11.87ID:cf3mi4/Fで、後にその名刀を秀吉に献上したんだよなw
室町幕府崩壊前後から大坂の陣までの間の消息がよく分からない三好政康だが
どうやら秀吉時代から豊臣家に仕えてたみたいだ
0504人間七七四年
2011/02/23(水) 23:44:53.68ID:a92vH+fC三好政康は三好政勝と同一人物の可能性が高まってまいりました。
0505人間七七四年
2011/02/24(木) 00:15:57.28ID:KH9OHe4c大坂の陣で登場したっていう話の出典ってなんだろうな。
そこそこ以上の信憑性のある史料にある話なのかな。
>>504
三好為三=政勝といわれていたのが、花押の一致から政勝=政生=三好下野守(=釣竿斎宗渭、政康)だと
いう話だっけ。天野氏の書籍で指摘されてたな。
天野氏は宗渭を永禄12年に阿波で没したとしているね(フロイス日本史でも「奇禍にあって悲惨な死」を遂げたとあるけど)。
0506人間七七四年
2011/03/26(土) 18:49:23.79ID:36c6609K伊勢氏や高氏や一色氏や上野氏や大館氏や松田氏や飯尾氏などなどがいて、
さらに宗氏や島津氏らも財政支援しており
そう簡単に将軍の首をすげ替えるのが難しくなっていたから三好&松永は暗殺の暴挙に出たわけだ。
0507人間七七四年
2011/03/29(火) 19:36:27.56ID:akHjL4g2信長も「あの方ならやれるかも」とか思う描写あるし
0509人間七七四年
2011/06/09(木) 21:40:38.31ID:3R8x3WIx万の軍勢相手に3時間持たしてんのな
義輝側死者は53人で名前出てるけど、寺にいた弟とか女子供含めてだから実際戦闘したのはその半分くらいか
しかも三好・松永方数十人死んだり手負いになったりとかw
「万いるから多分楽だろ。今日の夕飯どうすっかな」
とか思ってたであろう前線の足軽とかどんな恐怖だったんだろうか
0510人間七七四年
2011/06/10(金) 00:10:14.41ID:oaNnYRm3殺らなきゃ確実に殺られるって思いの義輝方とは士気がまるで違う
0511人間七七四年
2011/06/10(金) 06:02:48.32ID:8lsYOl2Y義輝の御供衆って達者なのが多かったんかね
それともやっぱ義輝が切りまくったのか
0512人間七七四年
2011/06/11(土) 11:10:47.33ID:ftGeoM/Hまあ師匠2人だとそもそもあの状況を避けるんだろうが
0513人間七七四年
2011/06/21(火) 13:24:41.05ID:IsVLFqR9足利 足利 足利 足利
将軍で足利 ふたりは 足利
0514人間七七四年
2011/07/02(土) 20:55:31.54ID:cmScJyzYBS時代劇塚原卜伝製作決定とのことだが公方様は誰がやるんだろうか?
0516人間七七四年
2011/07/02(土) 22:22:51.27ID:ujxkc4lw0517人間七七四年
2011/07/02(土) 23:55:27.51ID:t4+ewdCV永禄の変やってほしいなあ
そん時はどこにいたんだっけ、塚原師匠
上泉師匠は柳生にいたみたいだけど
0519人間七七四年
2011/07/03(日) 05:21:34.87ID:mbVyxk7H0520人間七七四年
2011/07/03(日) 13:59:24.64ID:ZigRrlq1最初のクライマックス
0521人間七七四年
2011/07/03(日) 18:28:07.46ID:WlqEVa+D0522人間七七四年
2011/09/16(金) 20:37:31.90ID:oJyoXN/l読んだ人いる?
webの予告だけは見たけど、卜伝の俗っぽいキャラも良さそうだ
0523人間七七四年
2011/09/17(土) 13:39:21.15ID:8Kmf3+Jwそういやそれの公式ツイッターで「若手編集が義輝特集号出したいって言ってたけどそいつのキャパオーバーなんで没った」
って話があったね
0524人間七七四年
2011/09/17(土) 15:04:33.37ID:+5LVXMQx勿体無い没話だ…特集組んでほしかったな いつかやってもらいたいもんだ
今日雑誌買って読んだよ 義輝さんの半生の話だったけど良かった
そして最後もきっちり書いてくれて泣けた…
もっとページ増やして、じっくり書いてほしいと思ったわ
0525人間七七四年
2011/09/20(火) 21:12:44.24ID:lugqx3l9>>522の歴史魂に主要キャスト載ってたけど、将軍は書かれてないな
でも将軍家を支える大内家の家老として平賀丹後守が書いてあるから、出てくる可能性は高い
0526人間七七四年
2011/09/25(日) 19:15:17.65ID:3HP3dHWx将軍が2話で出るみたいだけど義伊だった
0527人間七七四年
2011/09/29(木) 09:31:40.43ID:91o+Qqcu酒呑童子の首を斬ったとされる童子切安綱だったんだよな
0528人間七七四年
2011/09/29(木) 11:44:19.80ID:h/wOhr0G0529人間七七四年
2011/09/30(金) 00:01:09.74ID:Xckhmfj7小説ネタってのはどうか勘弁してほしい。
0530人間七七四年
2011/10/01(土) 17:54:51.05ID:vdTiu9erそしてまた同じ様に反乱軍に斬り込んで行く。
鬼丸國綱の刃がこぼれると大包平、大包平の刃がこぼれると九字兼定、その後は朝嵐勝光、綾小路定利などなどの名刀が本来の職務を遂行させそして去って行ったのでした。
「公方様御前に利剣をあまた立てられ、度々とりかへ切り崩させ給う御勢に恐怖して、近付き申す者なし」
と当時の記録に残された位でした。
反乱軍にとって永遠に続くかと思われた恐怖は、簡単な理由で終わりを迎えます。
全ての刀が使われてしまい、義輝の腰に差さっている童子切安綱のみとなったのでした。
「童子切安綱が斬れなくなれば全て終わる…」
反乱軍はそう思ったに違いないのですが、義輝は童子切安綱の鯉口を切らなかったのです。
そして、鎧を脱ぎ出し、最初に座っていた床几の上に置くと表書院から奥へと進みだしたのでした。
この時、逃げ出していた松永久秀が鉄砲隊を連れて戻ってきて義輝に向けて発砲。
しかし、当らなかったと伝えられています。
義輝がそのまま奥に進み、奥の間へ足を踏み入れた時、戸の脇に隠れていた池田小三郎に足を払われます。
不意の事で義輝が転んだ上に、小三郎は障子を倒し掛けてその上から鑓を突き立てて止めを刺したのです。
足利義輝、享年30歳
0531人間七七四年
2011/10/01(土) 18:00:06.09ID:vdTiu9er義輝は己の体力が及ぶ限りに敵の手勢を斬り、あるいは刺すなど獅子奮迅の働きを見せ、刀の刃がが血脂で凝り固まるとそれを放り出して邸内にとって返し、新たな1本を抜いてはまた邸外へと舞い戻っていきます。
松永・三好の軍勢も義輝の凄まじい剣腕を恐れ、業を煮やすと、襖と障子を盾にして義輝を取り囲み、そうして四方から義輝を押し包み、背後に控えていた兵士が槍で義輝の臑を払い、義輝がうつ伏せに転んだところに無数の襖と障子で義輝を覆いつくしました。
動きを封じられた義輝はその襖、障子越しに何度もめった刺しにされて遂に絶命します。義輝が最期に手にしていたのは、源頼光が大江山の酒呑童子を退治したといわれている太刀、童子切安綱でした。
0532人間七七四年
2011/10/01(土) 21:15:36.57ID:8TY2u7LJ0533人間七七四年
2011/10/02(日) 09:59:36.04ID:lOYUDStY0534人間七七四年
2011/10/02(日) 11:28:58.78ID:zUgWGIOR0535人間七七四年
2011/10/02(日) 12:42:24.68ID:jJXvuh5t刀の達人一人くらい弓と矢でも殺せるし、もっと人数を揃えれば槍を投げるって手もある。
まあ、伝説になるくらいには強い人だってのは間違いないんだろうけど
金や名声で免許皆伝を貰ったなんて陰口が
武道の価値が下がった現代でもあるんだから
当時はザラだったんじゃね
0536人間七七四年
2011/10/02(日) 16:31:54.40ID:xU6aqTRgそれができないように義輝が誘導してた可能性は捨てきれない
(背後に敵がいないと思われる狭い廊下で戦うなど)
0537人間七七四年
2011/10/02(日) 17:05:07.28ID:uHes0Hqaやり投げって、流石に…
0538人間七七四年
2011/10/02(日) 17:35:23.99ID:BAOI441Aよほど強かったんだなあ義輝 誰か2時間ドラマ作ってほしい
0539人間七七四年
2011/10/02(日) 18:24:10.78ID:SPc7iP2S0540人間七七四年
2011/10/02(日) 20:15:52.56ID:BAOI441A0541人間七七四年
2011/10/02(日) 20:32:31.93ID:lOYUDStY早雲出す辺り有名人はバンバン出す方向だろう。公方様は誰がやるのか?
>>535
宗矩の書状にこうやって名前が出る辺り、腕の方も武芸者の間で
知られていたんじゃないのかな?
『雲林院文書』「正月廿四日 柳生宗矩自筆書状」
・親ほくてん(卜伝)弟子ニて、於上方ハ覚(光)源院様・伊勢国司、
此親以上ニ五六人ならてハ無之候
0542人間七七四年
2011/10/02(日) 20:36:27.32ID:ETS2WN/A0543人間七七四年
2011/10/02(日) 20:57:04.87ID:sYA/zF7Nそもそも将軍殺しに走らないんじゃね?
0544人間七七四年
2011/10/02(日) 21:23:33.58ID:xU6aqTRg機動性を損なうから攻め手は刀で戦ったと想像してみる
0545人間七七四年
2011/10/02(日) 21:28:26.67ID:lOYUDStY犬槍って実際どれほど忌まれていたんだろうね。
うろ覚えだけど『三河物語』で双方槍を投げあったとか書いてなかったっけ?
0546人間七七四年
2011/10/02(日) 21:58:53.97ID:SPc7iP2S0547人間七七四年
2011/10/02(日) 23:58:45.54ID:uHes0Hqaいや貴人の殺し方に拘るのは、変な殺し方したら恨み度アップで呪われかねないからだろ?
別に貴種に対する敬意として殺し方に拘ってるワケでないと思うぞ
日本人って元々はかなり利己的な考え方で儀礼とか宗教とかを捉える民族だろ
0548人間七七四年
2011/10/03(月) 00:51:05.29ID:tj24uOZI解説には戦術の一つとある。別のところでは槍を「投突き」にするところもあった。
戦国人にとってはさほどのタブーでもなかったんじゃないのかな?
投げ槍が犬槍というのは文献的にはいつくらいに遡れるんだろう?
0549人間七七四年
2011/10/03(月) 13:12:33.26ID:D+mzYZx3最後に手に握っていたかどうかは分からんな
以下Wikiより
足利将軍家から豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、松平忠直に継承され、
越前松平家の高田藩から津山藩に継承された。
津山松平家では、この童子切と稲葉郷、石田正宗の3振の名刀を家宝として伝えた。
明治に入って後も津山松平家の家宝として継承され、昭和8年1月23日付で
子爵松平康春の所有名義で国宝保存法に基づく国宝
(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されている。
文化財保護法に基づく国宝に指定されたのは1951年(昭和26年)である。
太平洋戦争終戦後、津山松平家から手放され、個人所蔵家の所有となった。
1962年(昭和37年)に文化財保護委員会(文化庁の前身)によって買い上げられ、
現在は東京国立博物館に所蔵されている。[2]
0550人間七七四年
2011/10/03(月) 17:15:56.02ID:alvArAxp原作読んだ事あるけど、義輝出てたかな?
最初の廻国修行で京都に来たのは10代将軍義稙のときで
12代の義晴すら出て来なかったような
物語自体は、卜伝が一つの太刀の伝授者を求めて
3度目の廻国修行に出る所で終わってたから、
その後のオリジナル展開が無いと義輝は出て来れないな
0551人間七七四年
2011/10/04(火) 15:08:50.06ID:1TmXsP6+0552人間七七四年
2011/10/04(火) 17:35:42.36ID:2TVBfA9Qそれは石器時代のことだなw
でも槍が手持ちで突く専門になっても先祖帰り的に投げ槍に応用するのだって
ありだろ。
0553人間七七四年
2011/10/04(火) 17:42:44.80ID:qTsS1wOt有効にやれるなら投げるのは当然ありだろう
0554人間七七四年
2011/10/04(火) 20:57:21.79ID:2TVBfA9Q0555人間七七四年
2011/10/05(水) 12:59:21.12ID:j4LSNclD投げ専用に作られたわけではない槍を投げて威力が出るのかどうか
籠城で槍を投げるって所から思いついたが
犬槍って攻城側からの罵声が起源だったとかないよな
0556人間七七四年
2011/10/05(水) 16:50:20.73ID:uQ92wdARほとんどの槍は投擲には適さない物が多いが、投擲に適している物なら十分な威力を期待できる。
その射程距離は低くて約15mから一番長い物で約90mにもなるが(同じ槍でも個人差でバラつきが大きく異なる)、次の槍を投げるまでに時間が掛かる上に、弓矢などより射程が短いため使い勝手が悪く、
また、持ち運びが困難であるなど、運用上の問題点は多く、その上相手側に再利用され易いと言う(再利用出来ないように刺さると自壊する物を製作する程の)問題もあった。
それでも古代に於いては重要な戦術だったが(代表例としては、ローマ軍団兵の主要装備の一つであったピルムが挙げられる)、
弓矢などの射撃用武器が発達していくなかで、次第に廃れていった(投槍器等の発明や投槍自体にも様々な改良も施されたが、槍の中では弓矢や投石などの射出武器ほどの性能は得られず、実用的な運用法も確立出来なかった)。
その為、槍は近距離・中距離戦重視の武器として発展した歴史があり、今ではやり投げと言う競技だけが残る。
作法的な事より非効率の方で忌まれたんじゃ?
本当に有効な手段なら忌まれる必要がないし、もっと根付いてると思う
使うとしたら猫だまし的な奇襲に使うくらいか
義輝の話にしても、ただでさえ近づけないのにリーチのある槍を失う様な事はやらないんじゃないか?
0557人間七七四年
2011/10/05(水) 17:43:04.02ID:Q1r7Q49T0558人間七七四年
2011/10/05(水) 20:25:31.95ID:7vWG4njb日本では聞かないしね。
高野佐三郎が腕に覚えのある明治の元勲同士が槍で試合をやったときの
決まり手の一つが投げ突きだったとか書いてたから、裏技程度にはあったのかもね。
0559人間七七四年
2011/10/05(水) 22:00:40.94ID:swPVXaMS槍一本のコストが日本には耐えられ無かったんじゃないかと思うんだが。
例えば、人一人に当てるのに何本必要か?
戦争で使う場合、相手方の前線を崩すのに何本必要か?
一本作るのに、仮に竹槍としても、矢なら何本作れるか?
そういう発想と、戦争は経済活動の一種くらいにしか考えてない
欧州どころか中国よりも軟弱な戦争観しか持たない国だとしたら
槍を投げるなんて無茶な発想は持てなかったと思う。
0560人間七七四年
2011/10/05(水) 22:48:10.55ID:IBKv47BE>欧州どころか中国よりも軟弱な戦争観しか持たない国だとしたら
軟弱っていうか、それ真理じゃね?
0561人間七七四年
2011/10/05(水) 23:12:41.45ID:swPVXaMS何が真理かは知らんが
経済活動の一環と見るには、社会が負担するコストが大き過ぎるし
殲滅戦が大好きなイギリスひいてはアメリカが大手を振ってる時代からしたら
軟弱な戦争は真理じゃないんじゃね?
硬派な戦争をやってる国の方が科学も発展したっぽいし
0562人間七七四年
2011/10/06(木) 00:00:54.14ID:3ySMMEPaそんな大げさなものじゃないよ。それに鉄砲の上陸から瞬く間に
大量生産の体制を整える戦国日本の経済力はそこまで脆弱じゃないだろ。
0563人間七七四年
2011/10/06(木) 12:22:52.86ID:3GS6fSgN外国の槍と戦争観の話題は脱線しすぎじゃね?
0564人間七七四年
2011/10/06(木) 12:30:54.03ID:GlSzcE3Whttp://www.youtube.com/watch?v=fkN6C1ur1t8
投げ槍の威力は凄まじいよ
御覧の通り巨大なアフリカ象や象ですら倒せる
0565人間七七四年
2011/10/06(木) 13:34:47.55ID:W4gcttJ8盾・弩などは何故日本で普及しなかったのか 4
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1242040799/
0566人間七七四年
2011/10/07(金) 12:27:32.46ID:CMHfLrrV槍や弓矢は外へ置いていくなんていうことはあったのだろうか
こういうのって当時の人は常識だと思ってるから
かえって史料に残りにいのかも
永禄の変の場合は刀じゃ反義輝の兵が死ぬばかりだから
結局置いてきた槍を取ってきて一斉攻撃してやっと討ったとか勝手に想像
0567人間七七四年
2011/10/07(金) 15:31:59.21ID:1g5VS36Oほとんどが抜き身の刀だな。
http://history.harikonotora.net/src/200-61.jpg
0568人間七七四年
2011/10/20(木) 15:06:24.54ID:H3DfHpsN足利義輝最期の奮戦シーンあったわ
http://www.youtube.com/watch?v=CcFq1xDaVd8
21:00〜
0569人間七七四年
2011/10/20(木) 21:00:10.28ID:uCRjZZIH0570人間七七四年
2011/10/23(日) 16:02:16.51ID:AhrzuxIs5,6人斬る→鉄砲隊に狙われる→護衛兵達が身を呈して盾になる
→敵の撃ち方が止んだ直後に敵中に切り込んでいく→袈裟切り、胴で二人を斬る
→もう一人上段で斬った後に囲まれる→上段で斬りかかるが太刀が折れる
→左フックで殴り倒す→「太刀を!」と叫んだ直後に飛んできた弓矢が右脇腹、左肩に刺さる
→動きが止まって背後から肩を斬られる→脇腹の矢を引き抜いて斬った敵の首に刺す
→太刀を奪い取った瞬間に2,3人にブスブスと刺される→鉄砲で左胸を撃ち抜かれる
→倒れる
お馴染みの名刀コレクション使い捨てが無いのは残念だが見応えあるな
0571人間七七四年
2011/10/29(土) 23:59:40.91ID:Zz+6mquh義輝の代までは朽木・若狭武田の領地が将軍家の退路になってたとすると
義昭の代に朽木家が織田へなびいたことで将軍家は貴重な退路を失い
幕府滅亡に繋がる一因になったということになる?
0572死
2011/12/21(水) 01:19:32.72ID:evJOzBqQこの人の暗殺がもっとも惜しまれるなー
0573人間七七四年
2011/12/22(木) 07:38:25.95ID:lzufbdZnこんな鎧着てなかったでしょ。
動きにくくなるし。
あと、刀を全部あっちこっちに配置しといて、斬っては捨て、斬っては捨て、の繰り返し。
こんだけ多勢なのに松永久秀がビクビクしてたのは、もしかしたら負けるかもしれないっていう不安もあったから。
それだけ、義輝の強さは当時としては凄まじかった。
当時30歳、脂乗ってきてちょうど身体的にも一番強い時期だろ。
現場は『シグルイ』みたいなリアル地獄絵図だったはず。
でももし暗殺されなかったら、義輝は一生この鬼神ぶりを見せつけることなく終わってたかもよ。
それに、もうあそこまで弱体化してたらもはや幕府復権なんか無理だったろ。
もうさんざん逃げたりして放浪の人生だったから、最期に自分の剣技を見せつけて散ろうってことだったんじゃね。
それにしてもまた大河逃したな。
何でだ。
絶対大河向けだろ。
一般的知名度の低さか。
0574人間七七四年
2011/12/22(木) 12:33:41.53ID:YRGEhggw0575人間七七四年
2011/12/22(木) 13:14:22.28ID:dsCsNUBe0577人間七七四年
2011/12/22(木) 23:13:17.25ID:d0Xt8Z5h一応「調停役」としての立場は出来て来てた様に思う。
後は臣下の例をとってくれる武力があれば、ってとこだったけど、信長さんはまあアレだし、謙信さんは北から来てくれないし。
0578人間七七四年
2011/12/23(金) 00:26:10.43ID:ZICUOQbZ0579人間七七四年
2011/12/23(金) 17:30:38.01ID:ZICUOQbZ後に義輝と信長が主導権争いする可能性も含めて
0580死
2011/12/23(金) 20:32:16.70ID:bSLuduIW史実通りに対立したんじゃないかなゆくゆくわ
0582人間七七四年
2011/12/27(火) 15:46:56.15ID:8vcE8ALL・天皇125代のうち京都で崩御した天皇は半数を超える、特に若くして崩御した例では京都が突出している
・歴代摂政の大半が京都で死んでいる
・歴代関白のうち京都以外の地で死んだのは豊臣秀次などほんの一握りしかいない
・室町幕府将軍のうち9名が京都で死んでいる
・紫式部、清少納言、吉田兼好、織田信長、石田三成、長曽我部盛親、芹沢鴨、坂本龍馬…京都で死んだ有名人は数多い
・今川義元、武田信玄は上洛中に急死している
0583人間七七四年
2011/12/27(火) 17:48:57.36ID:40pxgbUa暇つぶしになる。
0584人間七七四年
2011/12/27(火) 23:56:52.69ID:67GKQVQnそりゃ光源院様も野心家だからな。
三好長慶とか何度暗殺団送り込まれてるんだw
0585人間七七四年
2011/12/29(木) 12:34:11.85ID:QGrAHVKR「また、長慶はたびたび暗殺未遂事件に遭遇しているが、義輝の差し金であったとされる。」
「遊佐長教は天文20年(1550年)、三好家の台頭を疎んじた将軍足利義輝によるものとされる暗殺の犠牲者となってしまう。」
とは書いてはあるもののその「される」という出典はどこにあるんだろう。
確か今谷明氏の『戦国三好一族』で、
筒井順昭の病死、遊佐長教の斬殺、三好長慶の伊勢貞孝邸での斬殺未遂について、
これらに将軍家が関与していた可能性もあるかもしれないと書かれていたものが、
その後、一人歩きして出典も書かれないままに、
将軍個人のプランニングとして尾ひれがついたもののような気がする。
天文19年〜20年に発生したこれらの事件を将軍が一人でやり遂げたとするのは、
可能性として、否定はできないものの、
細川晴元らの生きている当時、将軍が主導的に動くには、
まだ少し年齢が若すぎるようにも思う。
個人的には、暗殺のスペシャリストとしての将軍像に惹かれもするし、
もし十四、五歳でそれをやり遂げたのなら相当なものだとも思うし、
もしかしたら当時の史料などにも記述された有名な話なのかもしれないが。
0586人間七七四年
2011/12/29(木) 19:15:03.84ID:GBWlmX5h0587人間七七四年
2011/12/29(木) 21:39:18.71ID:O4T4aPzKすぐに公家の日記に書かれて、
しばらく公方の仕業だと噂されたのは、
ちゃんと一次史料に書いてある。
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