剣豪将軍足利義輝
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/17(土) 23:01:19ID:TYNKUzhf0002名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/17(土) 23:52:08ID:V/McvADb0003名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/18(日) 02:18:03ID:B8hfOE9F0004名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/18(日) 02:21:59ID:B8hfOE9F0005名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/18(日) 03:16:57ID:P0rj6cC8史料によると実際に襲ったのが三好三人衆と松永久通ってやつだろう。
ただ、倅が参加してるところから察するに、うらに久秀がいた可能性は大だろ
0006名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/19(月) 00:03:35ID:e/gmIKI90007名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/19(月) 13:22:06ID:x4WNi2v6両方の道を究め、近々足利流を創設する予定だったs(ry
0008名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/20(火) 22:20:47ID:nlCxe46N義輝は最期で随分イメージ的に得してる。
0009名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/20(火) 23:24:10ID:C/nPrs4w0010名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/21(水) 22:12:08ID:cAIqisBX0011名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/21(水) 22:22:06ID:nLTRs3vy逆に言えば実戦派の中・下級クラスの武士にはあんまり縁が無く、不用と笑う雰囲気すらあったそうだ
0012名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/22(木) 13:20:03ID:g7sJtVM+0013名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/22(木) 22:56:20ID:c4rwt2490014名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/23(金) 01:24:05ID:AywtzDxo足利将軍家は殺されすぎ、廃嫡、都落ちしすぎ
0015名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/23(金) 16:48:02ID:qTHjeON7因果応報かな
徳川の世ではありえない話になるが
0016名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/23(金) 23:06:38ID:KRB4HDM20017名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/23(金) 23:29:48ID:XPOv2piB0018名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/23(金) 23:35:58ID:AywtzDxo寺に首投げ込まれた奴が
0019名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/24(土) 21:35:01ID:RRkh3DAO0020名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/24(土) 21:38:00ID:r+oq5bmnあと長慶の岳父の遊佐長教暗殺にも疑いがある
0021名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/28(水) 04:00:45ID:VOjyosrvある時、天皇をこえんばかりの権勢と実力をそなえ、
またある時はスパスパ将軍位の首を変えられ、命までとられてるんだからな。
0022名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/28(水) 07:16:04ID:DTSdoVrv剣豪女将軍足利義輝たんを長慶・久秀と共に犯し倒すスレ(1001)とか……ハァハァ
0023名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/28(水) 23:47:27ID:MYjtp91h0024名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/29(木) 01:24:43ID:YdbREgTm0025名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/30(金) 13:04:19ID:HXFA/hp/松永弾正談。
0026名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/30(金) 14:46:31ID:dKTx3H7+さすが久秀
リアリストだな
0027名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/30(金) 16:18:46ID:sFtt8oAaそれなんて小説?
0028名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/30(金) 22:51:54ID:cQIY66pw0029名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/03(月) 11:28:52ID:Mo3RVXQb─‐────────────‐────────‐∧_∧ ───‐──―──‐
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「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
0030名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/03(月) 22:07:08ID:R4OapW8tこれって辞世の句なの?
0031名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/04(火) 12:31:26ID:M2blNTgZ0032名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/04(火) 12:58:56ID:3Xi8BDOkそう
義輝のね
0033名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/05(水) 00:03:41ID:PHK4fw2a0034名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/05(水) 01:09:08ID:aeth3ZES0035名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/06(木) 01:42:21ID:lAJ4FBIG0036名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/06(木) 15:57:43ID:tf39Nwiy0037名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/06(木) 18:38:12ID:SlQcQM8n0038名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/07(金) 11:00:30ID:SVkJep+d0039名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/07(金) 14:00:45ID:TGNVYdBZ0040名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/07(金) 16:39:26ID:4/7hER/w二条室町第に押し寄せた大軍を前に斬り死にの覚悟を決め、
愛蔵の名刀を幾振りか畳に突き立て、斬っては新刀に取り替え阿修羅のように剣を振るい、
もはやこれまでと覚悟した義輝はいったん奥に走り込んで、
「五月雨は露か涙かほととぎすわが名を遂げん雲の上まで」と辞世の句をしたためて
から、再びとって返そうとすところを、襖の陰から池田丹後守に槍でいきなり足を払われ転倒し、
何枚も襖をかけられて突き殺された。義輝30歳であった。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/12(水) 23:04:26ID:TOfKt/Mw0042:名無しさん@お腹いっぱい
2006/07/15(土) 02:59:59ID:L295vzrQ0043名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/15(土) 11:27:18ID:fytpLt6P0044名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/16(日) 16:37:02ID:7VAzonke毒殺よりマシ
0045名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 05:34:51ID:IA42Wziqそうでない戦人には差があるんだろうか
氏真や朝倉の大将も習ってたみたいだけどそれを実践した記録ってあった?
0046名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 07:53:40ID:albKgtf40047名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 09:28:39ID:R1zlo5Y70048名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 10:45:41ID:8Nm4jJynもう少し幕府の権力がある時代に生まれてたらもっと活躍したかも知れんね
0049名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/17(月) 12:28:16ID:n7WFX9Li育ったらしい
0050名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 01:08:21ID:81Xj5J1jそんな義輝に忠義を示したのが遥か越後の上杉謙信くらいしか居ないてのが寂しいな。
謙信がいると三好とかが大人しくなるが、居なくなると暴れ放題、
「足利将軍家」の危機と常に緊迫した状況にいた現実で義輝は精一杯もがいて戦ったんだな。
0051名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 08:58:15ID:K1G3R+oXまあ、だからって権勢くれてやるとは思ってなかっただろうが
0052名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/18(火) 15:26:56ID:Fio7aWUO尾池玄蕃ですか
西山義辰は義晴の四男ともありますが・・・
0053名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 10:09:17ID:cSc3oDYXあと初歩的な質問で申し訳ないんだけどさ
どうして義輝に改名したの?
0054名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 12:23:08ID:jvIuheZP名前を変えるのが流行ってたから
0055名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/20(木) 14:47:06ID:9OYjOJEo天文二十三年(1554)だよね、義藤から義輝への改名
前年長慶に敗れて、近江朽木に逃れてるから、
心機一転とか、そこらじゃないかな
0056名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 22:46:36ID:U0PBSwnL足利将軍家十三代義輝の子。諱は義辰、道鑑と号す。生没年不明。「全讃史」は玄蕃誕生の経緯を
次のように紹介している。「永禄八年松永弾正久通将軍義輝公を戮す。時に元妃烏丸氏方に娠めり。
近臣小早川外記、吉川斎宮、元妃を奉じて遁れ来り。尾池玄番光永(通称・嘉兵衛)の家に匿る。
数日にして義辰を生む。遂に御池を冒し、光永の嗣となす」
尾池氏は平頼盛の後胤とされるが頼盛の母を池禅尼と云う、この事から世の人々は頼盛の事を「池
殿」と称し、その子孫は「尾池」をもって氏とした。讃岐横井に采地二千貫を得横井城を築いた。
玄蕃は晩年讃岐にあって生駒家の庇護を受けたが、息西山右京が細川家に千石で召抱えられた。後
玄蕃も肥後入国、寛永十九年正月宮本武蔵と共に奥書院で藩主忠利に謁し杯を交わしたりしている。
又、一説ある。天文二十年(1551年)将軍義輝は三好長慶の謀反に会い、近江の朽木谷に逃
れる、その時に出来た子が玄蕃とされる。義輝は永禄八年(1565年)三好・松永の軍勢に襲撃
され自刃するが、浅井長政に預けられていた玄蕃は難を逃れる。長政が織田信長に滅ぼされた際、
三河の徳川家康の元へ落ち延び、後尾池光永の許に逃れ養子となったとされる。
はじめ足利左近、小池茂左衛門など称した。子孫は西山氏を名乗り、比着座同列定席の家格にて明
治にいたった。
0057名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 22:47:40ID:U0PBSwnL出自
父は足利義輝。母は愛妾の小侍従(義輝と同日に殺される)とも元妃烏丸氏とも、名の伝わらぬ侍女ともいわれるが定かではない(烏丸氏が元妃(正妻)とあるが、義輝の正妻は近衛氏であり、この伝承は少々疑わしい)。
0058名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 22:50:05ID:U0PBSwnL小侍従を母として
小侍従を母として生まれた玄蕃は幼名を宮千代丸といった。
永禄八(1565)年五月十九日、義輝と小侍従が三好・松永勢に
よって殺されたとき、二歳だった宮千代丸は近江高島郡日爪
城主尾池伊賀守のもとで育てられていたため難を逃れる。
以後、浅井長政の庇護を受けていたが、天正元(1573)年に
浅井家は滅んでしまう。そして宮千代丸は長政の子、万福丸かと
疑われて信長の前に引き出される。しかし信長が「万福丸」と
呼んだときは何も答えず、「宮千代丸」と呼んだとき初めて返事を
したので、疑いが晴れたという。それからは家康のもとに落ち延び、
のちには讃岐生駒家のもとにいた。
0059名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 22:51:11ID:U0PBSwnL義輝が殺されたとき、烏丸氏は将軍近臣の小早川外記と吉川斎宮によって
讃岐横井城の尾池玄蕃光永のもとに落ち延びる。すでに身重であった烏丸氏は
数日して男子を生んだ。これが玄蕃である。玄蕃は光永の嗣子となり尾池を称した。
天正十(1582)年十一月、仙石秀久の家臣、上杉伊賀太郎が数百騎を率いて横井城を攻撃するが
玄蕃によって撃退され、伊賀太郎は討死した。のち生駒氏が讃岐の領主となると、千石をもって玄蕃を招いた。
侍女某を母として
義輝が殺されてしばらくのち、義輝の子を身ごもっていた侍女某は
男子を生む。これが玄蕃である。
そして義輝の家臣であった尾池帯刀は玄蕃を連れて讃岐に逃れた。
のち生駒家に仕えた帯刀は玄蕃を嗣子とした。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 22:51:44ID:U0PBSwnL生駒家で千石を領していた玄蕃は、のち知行を二分して長男伝右衛門と二男藤左衛門にそれぞれ与えたという話がある。また生駒家の重臣、前野助左衛門によって四百石召し上げられたという話もある。「生駒高俊分限帳」には
五百石 尾池藤左衛門
六百五石四斗 内五石四斗私田 尾池内蔵助
とあるという。尾池内蔵助(時期から考えて長男伝右衛門か)が領する六百石は当初の千石から四百石減じられた後の知行で、尾池藤左衛門の五百石は別に与えられたものか。
あるとき細川忠利(熊本初代藩主)は玄蕃のことを知り、玄蕃および一族を熊本に招いて客分とした。寛永十九(1642)年七月二十五日没。
0061名無しさん@お腹いっぱい。
2006/07/22(土) 22:52:27ID:U0PBSwnL足利義輝の子、義辰の説明
0062名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 07:13:16ID:G+35z3H6紛争各地の調停や、長尾景虎や織田信長への謁見を許したりとか。
0063名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/03(木) 14:39:30ID:ZZeon/Lu0064名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/04(金) 15:01:44ID:EPr7+mWzただ将軍は義材以来、京にいたりいなかったり
自然と朝廷と諸国大名の、直接交渉が始まった
これには朝廷の懐が非常に厳しいことも、関連してるが
0065名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/11(金) 16:14:11ID:nnFNLocGともに近江に落ちながら、京に復帰してるから
まあ義材ってツワモノもいるけどね
0066名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/13(日) 09:25:28ID:nkG9sWPz0067名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/13(日) 14:05:20ID:9JURzeVT大永元年(1521) 義稙が細川高国と不和、淡路に去る、高国の擁立により義晴が将軍に
大永七年(1527) 細川晴元が足利義維を擁立し、堺に拠る
同年 高国、三好元長や柳本賢治らに敗れ、義晴と近江へ逃亡、六角が庇護
享禄四年(1531) 高国が三好元長らに天王寺で敗れ、尼崎で自害
天文元年(1532) 晴元一向一揆の力で三好元長を敗死させ、近江より義晴を迎える
天文十六年(1547) 義晴が晴元と対立、義晴敗れ近江に逃れるが、同年和解し京に復帰
天文十八年(1549) 三好長慶に敗れ、義晴、晴元近江へ逃れ、六角を頼る
天文十九年(1550) 義晴近江穴太で病没
こんなとこかな?
0068名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/19(土) 03:52:05ID:2m3gbni20069名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 13:03:58ID:jpw8kXTp0070名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/20(日) 18:18:03ID:nZ4vDkZDそれだけ三好長慶が優しかっただけじゃないの。
死んだら速攻で殺されるし。
0071名無しさん@お腹いっぱい。
2006/08/22(火) 00:36:22ID:CDS3HIOS■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています