真田幸隆・昌幸・信繁・信幸を語るスレ
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
2006/06/11(日) 22:01:41ID:q8wDMrw00603人間七七四年
2007/07/17(火) 22:06:45ID:MQRUJy4k信繁の母は山手殿が定説。ただし異説もある。
0604人間七七四年
2007/07/17(火) 23:18:00ID:Fr6iip+a>>603
実子である方が定説なのは勉強になりました。
此れからも史実について本スレにて勉強させて頂きまする。
0605人間七七四年
2007/07/20(金) 17:36:24ID:KdiwdrcM0607人間七七四年
2007/07/20(金) 20:42:24ID:jgqjYrdn真田太平記ではそうなっているけど、根拠はわからない。
「○○の史料に書かれていた」という記述は、一度も読んだことがないし。
単なる俗説か、誰かの創作じゃないのかな。
0608人間七七四年
2007/07/21(土) 04:25:16ID:ppGEM9QH真田十勇士が忍者衆だからマジカッコイイ
0609人間七七四年
2007/07/21(土) 10:40:07ID:w8ujknWfちと違う気が。あくまで嘘なんだが、リアルっぽさが基本でしょう。
0610人間七七四年
2007/07/21(土) 21:43:13ID:a5bpvumc0611人間七七四年
2007/07/22(日) 11:22:04ID:kOFoQEJe0612人間七七四年
2007/07/22(日) 19:14:53ID:2uqhlfFO信綱を主君として
昌輝を猛将に
武藤喜兵衛(昌幸だがあえてこうかく)を軍師にして
を三本の矢の如く真田家を盛り立てていこうと
ビジョンがあったんだろうな。
昌幸の知略を見抜いたからこそ、武田家に人質としてわたし、
そこで親友の山本勘助に軍略を学んだと思われ。
真田太平記に信之が父・昌幸を語ってるが
”父は戦場を読む事に関しては(忍びを使って)抜群だが、
ゆえに時勢の流れを読むのが疎い”と称してた。
幸隆も昌幸は政治家ではなく軍師としてのビジョンしか
なかったからそれもやむえないが。
0613人間七七四年
2007/07/22(日) 19:21:14ID:2uqhlfFO(勝頼も主君としての評価はイマイチだが、猛将としての
評価が個人的には強いし)猛将への憧れが強く
息子に信玄の亡き弟の名をつけて、信之を主君として
信繁は猛将として育て感がある。
で信繁自信も山県昌景に憧れの念を抱いて赤備えにしたし
0614人間七七四年
2007/07/22(日) 19:49:35ID:XR99JKDa勘助の存在さえ怪しいのに、断言するのは如何なモノ? すごく主観
入ってるし。
0615人間七七四年
2007/07/22(日) 20:30:45ID:HYZ5WFmp勘助は存在する、架空の人物ではない。
昌幸の軍略は信玄の眼とまでいわれるくらいだしな。
幸隆に調略は素晴らしいがそこまでの軍略はない。
0616人間七七四年
2007/07/22(日) 21:40:06ID:Q9VTT21A0617人間七七四年
2007/07/23(月) 01:53:41ID:vY0kl1ZKああ、いつもそこ訂正メンドクサイんだよな。いるのはいたよ。
だから大河で扱われてるような、そんな重要なポジションだったかは
疑問、というのは常識。
0618人間七七四年
2007/07/23(月) 03:55:21ID:JsrjMgOI武田への思い入れはあったんだろうけどな。
0619人間七七四年
2007/07/23(月) 18:04:32ID:7TFotPXHんで、武田の代表的な謀臣ポジションが欲しかった後世の史家や小説家が
「軍師」や「忍者」の勘助を作ったと。
0620人間七七四年
2007/07/23(月) 22:38:11ID:Lehk2iqG武田軍は無謀にも特攻、全部鉄砲で死亡。
はたまた酷いのになると1万5千で上洛とかあって)
情報がいろいろ錯綜してるけど
昌輝が織田の柵を1つ突破したが、銃などで討死に
で、撤退命令により、信長軍の執拗な追撃にあい、勝頼をかばって信綱討死に
昌幸は説1・軍師のような立場なので勝頼の側にいたから助かった。
説2・病気ということで長篠には参戦してない。
説3・説2の追加だが、武藤家からは誰もでないのは申し訳ないから
9歳の信幸が代わりに参戦。(当然、後方待機で助かった)
ようは足利高氏が新田の鎌倉攻めのさいに息子を形だけでも
(新田だけに手柄を独占させないため)参戦させたような感じで。
で、いいのかな?俺の読んでる資料のほとんどが
武田騎馬隊が無謀な・・・とか3段討ちで壊滅とか・・・ばっかだから。
0621人間七七四年
2007/07/24(火) 06:33:35ID:nF8YM31a現在、歴史マニア(まぁ、戦国ヲタとは言わない)の間ではどう云う展開が一番有力なんですかね?
0622人間七七四年
2007/07/24(火) 12:03:41ID:uL1tussM普通に考えれば真田と無関係に勝頼の傍にいた、だろう。
その立場が軍師だったのか単に馬廻みたいなものだったのかはともかく。
0623人間七七四年
2007/07/24(火) 22:39:52ID:2a3bmHWB0624人間七七四年
2007/07/25(水) 17:09:07ID:VpIbsZlM0625人間七七四年
2007/07/25(水) 17:50:04ID:0cLEGpok0627人間七七四年
2007/07/25(水) 20:20:18ID:9DtsMwIB信綱の子が信興、昌輝の子が信正だっけ。
信正は越前松平家に仕えたらしいが信興の家系はその後どうなったのか史料はないのかな?
0628人間七七四年
2007/07/25(水) 23:31:10ID:OQC5TcScそう
信綱の子の信興、信光に関しては検索しても引っかからない
生没年は出てくるけど事実なら二人共大阪夏の陣の後も10年以上生きてる
昌幸の弟二人も徳川旗本、帰農と去就がはっきり出てくるのにね
0629人間七七四年
2007/07/26(木) 17:30:37ID:RaL+ypea“渡鬼”か!!!
0630名無しさん@そうだ選挙に行こう
2007/07/29(日) 18:05:15ID:wbN7XNkz初めて“真・大”見た時は村松様などと云う姉君がいたなんて全くわからなかったし。
0631人間七七四年
2007/08/01(水) 00:06:20ID:Q0cMP+AK第二次は昌幸が凄いってよりも秀忠がアホなだけな気がする。
第一次は徳川軍を撃退したけど、更なる援軍等がくる可能性があったからね。
(家康が病に倒れて、何とか和睦に持ち込めたが)
第二次の昌幸の目的は時間稼ぎで、秀忠としても上田城を落す
必要性はないし(前回、失敗したことを考えれば)5000程度の押さえを置いて
素通りすればいいのに。なんでなんだろうね?
(しかも第二次の方が評価されてるのが気に食わない)
0632人間七七四年
2007/08/01(水) 00:53:04ID:NfdDHKqx2次で無理に攻め続けた理由は、色々いわれてるけどなぁ。
軽く捻り潰せると手を出して、そのまま負けっ放しでは、引くに引けなくなっちゃったんじゃないの。
0633人間七七四年
2007/08/01(水) 00:56:06ID:/bgMCi7V第二次上田合戦での失敗の原因となった牧野康成だが、家康の死後に破格の栄転をしてる。
ウィキペディアで「牧野康成」を検索してみてね。
第二次が評価されるのは、第一次みたいに上杉の後詰が無かったからかな?
あと兵力の差?
0634人間七七四年
2007/08/01(水) 00:58:17ID:73Biwdgn真田を潰していれば遅参しても言い訳にはなるからな
0635人間七七四年
2007/08/01(水) 01:02:19ID:HjMvRhHXお父さんの軍隊が酷い目にあってるし、
(信幸がどうこういえないのは仕方ないとしても)
本多正信や榊原康政のような立派な家臣がいたんだし。
(そもそも第一の優先事項は家康との合流なわけで)
第一次はもしもあのまま続いてたら真田は間違いなく負けてた。
(家康の病もだけど)上田城ができてまもなくて城の装備も二次の
頃と比べてしょぼかった。(実際にみたけど、上田城は平城ながら
小城だしな)
0636人間七七四年
2007/08/01(水) 01:04:36ID:1Nhnwa9M天下分け目の決戦で、結果3万8千もの大軍を関ヶ原に集結させなかったん
だから凄いのは凄いでしょ。秀忠がアホだとしても。
2・3千の領主相手に3万8千の大軍が取り巻いたら、普通しょんべんちびりまっせ。
0637人間七七四年
2007/08/01(水) 01:09:11ID:HjMvRhHXでも伊勢の諸大名や京極高次もそうやって西軍に抵抗して
(関ケ原への着陣に)影響を及ぼしたわけだが。
(特に京極高次に関しては、真田親子並に役割を果たしたわけだが)
第一次・・・負けたら真田は一貫の終わり
第二次・・・負けても信幸がいるし、何より負けてなんぼ遅延させてもうけもん。
この差は大きい。
0638人間七七四年
2007/08/01(水) 01:15:44ID:1Nhnwa9M第二次上田が評価に値しない、ただ秀忠がアホなだけって言い方は違うんじゃないか。
もちろん信之がいてもね。
0639人間七七四年
2007/08/01(水) 01:28:43ID:ZAaxTWNd第二次のが評価されるのは当然でしょ。結果的に、史上最大規模の
戦に、多くの徳川勢を間に合わせなくしたんだから。歴史に与えた
影響も込の話。
0640人間七七四年
2007/08/01(水) 01:31:35ID:HjMvRhHX兵が2・3千くらいしかいないんだから1万残しておいて先行しても
なんら問題ない。
少なくとも上記の二人は上田攻めには反対してたし、(目標はあくまで
東軍の豊臣隊と徳川本体との合流)
それに最初の”出て行く準備をするから三日猶予くれ”で騙された
時点で(というかその時点で1万残して残りは西へ行けばいいわけだし)
彼らの目的は明らかでそこで怒ってること自体が問題かと。
昌幸のモチベーションも1次は”まけるだろうなー”で
2次は”真田の軍略を見せてやる”と勝機は明らかに二次の方が高かったようだし。
0641人間七七四年
2007/08/01(水) 01:41:13ID:1Nhnwa9Mそんな評価できないかな。
当たり前のことができない秀忠=アホってな論調なんだろうけど、
当たり前のことをさせなかった、その結果天下分け目の戦に4万近い軍を
合流させなかった。 ってのは評価に値しないか?
言いたいことは分かるけどね。 あれでしょそんな感じだと幸村とかも
評価に値しないでしょ?
0642人間七七四年
2007/08/01(水) 02:47:35ID:NfdDHKqx兵力温存のため〜という説はあるけど、実益が少ないんだよな。
そもそも、小早川が寝返らなければ危なかった情勢で、そんな余裕はないし。
双方、兵力削ったところで、本隊投入を狙ってたってわけにもいかない。その前に家康が討死の可能性がある。
結局、勝ちはしたものの、活躍した外様連中に領土を分配しなくてはならなかったわけだし。
0643人間七七四年
2007/08/01(水) 09:51:35ID:Wh/z/DVHまぁ、天下分け目の大戦絡みなんだから当然ですな。
“その時、歴史〜”クオリティではありますが、秀忠遅参の影響は結局幕末に於いて徳川を滅ぼした…ってのは面白かったッス
0644人間七七四年
2007/08/01(水) 12:03:58ID:wmsSPDEQ0645人間七七四年
2007/08/01(水) 12:27:19ID:qkgwPTvq0646人間七七四年
2007/08/01(水) 12:47:36ID:BOGwSwN3その方針変更の伝令が天候不順で遅れた
あと秀秋は当日じゃなくてもっと前から東軍として動いてるんだから
家康は関が原に行ったんだし
0647人間七七四年
2007/08/01(水) 14:07:14ID:qkgwPTvq本来の目的、は(それが何にしろ)別にあったと思っても不自然じゃなかろう。
0648人間七七四年
2007/08/01(水) 14:41:14ID:BOGwSwN3先発の家康隊ものらりくらりと行軍してたし
この役は大垣やもっと大きな城かで時間のかかるものになる可能性だったあったけど
突発的な始まり方で、しかも半日で東軍が圧勝するという結果と
その方針変更を伝える伝令が悪天候で遅れたことが重なったのとが秀忠遅参には大きいってこと
小牧の役や、大阪の役からしたら数日の遅れなんて罰は受けるだろうがたいしたこと無いし
そもそも史実の秀忠遅参も不自然に罰が軽い
0649人間七七四年
2007/08/01(水) 21:29:43ID:dG+BO+8i第一次は一万足らずだけど。
でもよく見たらだいぶ違う。第一次のメンツは徳川の精鋭だし
(これが敗れても家康が病気をしなければ2万くらいの兵を
率いて上田に攻め込んだのは間違いない。それに沼田には
北条軍数万いたし)
でも第二次は3万いたけど、メンツがいわゆる2世武将が目立ったし。
あと上田城は平城だから攻め込む場合は3万いっぺんに入るのは
不可能だし。(街もそんな地形だし)せいぜい数千が攻め込んでなんぼ。
で先駆けがやられれば大軍なので後方の兵は浮き足立って混乱する
だろうな。で第一次はそれこそいくさ場を経験してきた生っ粋の徳川軍
だけど、第二次は豊臣の大平を経験して(人によってはいくさ知らずも)
統率もそんなにいいとはいえないし。
0650人間七七四年
2007/08/01(水) 21:36:29ID:LcLj51+c0651人間七七四年
2007/08/02(木) 02:41:36ID:NXYiydLn三成の腹痛も治まってたろうしw
0652人間七七四年
2007/08/03(金) 00:26:32ID:c91WNXvlだし。手柄配分で家康はラクになったろうけど。
0653人間七七四年
2007/08/06(月) 00:50:53ID:Ho28vmLa0654人間七七四年
2007/08/06(月) 15:06:38ID:n0+J3h/j西南戦争で官軍の会津抜刀隊の活躍にも因がある。
ちょっと違うかw
0655人間七七四年
2007/08/06(月) 21:37:51ID:wlBs8UJP0656人間七七四年
2007/08/07(火) 15:10:31ID:awA05W3Uhttp://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/column/tahara/070719_20th/index.html
まったく、スレ違いになって恐縮だけど、
こういったことも時代を越えて考えさせられる。
誰が正義で誰が悪か? 複眼で見ないと、イメージだけでは判断を誤る。
0657人間七七四年
2007/08/07(火) 15:20:47ID:jjtlvawt0658人間七七四年
2007/08/09(木) 10:35:41ID:nhqsvTyo0659人間七七四年
2007/08/09(木) 21:51:51ID:6Z2mutpIその実家にある変なタブー。
「あんこ餅を作ってはいけない」
なんでも先祖の幸村はあんこ餅をつくっている最中に殺された
という言い伝えがあるからだそうです・・・・
聞いたときは吹いたよw
0660人間七七四年
2007/08/09(木) 21:52:33ID:v78Ygz1O0661人間七七四年
2007/08/09(木) 22:14:25ID:CEz7cW4B0662人間七七四年
2007/08/09(木) 22:17:23ID:v78Ygz1O1、落ち武者狩りから逃れるためになんたらかんたら
2、落とし種だからなんたらかんたら
3、お家騒動がなんたらかんたら
0663人間七七四年
2007/08/10(金) 13:25:11ID:14rSRdBUなんだったんだろうな
もっとも、大阪夏の陣の状況からの大逆転は無理か
0664人間七七四年
2007/08/10(金) 15:00:47ID:bPK1xJNyhttp://news.goo.ne.jp/article/jiji/nation/trial/jiji-09X789.html
0665人間七七四年
2007/08/10(金) 19:16:12ID:hsxJAQgi0666人間七七四年
2007/08/11(土) 04:24:06ID:zyLj90+1しかも、お互い様だろ
0667人間七七四年
2007/08/11(土) 08:42:59ID:fGO8Rr8z彼は真田家の重臣でしょ?
上田にも矢沢城址が残ってるしね。
0668人間七七四年
2007/08/11(土) 10:38:30ID:rI9n6R7y0669こんな名無しでは、どうしようもないよ。
2007/08/11(土) 11:09:39ID:fGO8Rr8z0670人間七七四年
2007/08/11(土) 12:11:02ID:Y0vk7gPv無理だな。関が原で西軍が勝つ、しかなかった。あそこが真田に
とっても分け目の戦い。信繁の武勇はあっぱれだけど、もう
体制挽回とかじゃなくて、名誉だけじゃね?
0671人間七七四年
2007/08/12(日) 00:51:39ID:wn7MutNK秀忠軍撃破後、甲斐・信濃に一気に侵攻。周辺勢力も従えて関ヶ原で疲弊した東軍を
西軍と挟撃撃破。 といった黒田官兵衛方式では。 官兵衛は単独撃破か。
0672人間七七四年
2007/08/12(日) 00:55:50ID:q/S/xsnd黒田如水の方策は関ヶ原が一日以上続いた場合の成功したかもしれない。
だけど信濃から関ヶ原なんてすぐだから無理。
0673人間七七四年
2007/08/12(日) 00:58:31ID:wn7MutNK0674人間七七四年
2007/08/12(日) 01:17:44ID:hexkf+jm0675人間七七四年
2007/08/12(日) 01:23:54ID:QHJK4t2kガチで3万は別に真田じゃなくても無理だわ
幸村みたいにバンザイアタックで”惜しかった”って評価がせいぜい
0676人間七七四年
2007/08/12(日) 01:31:49ID:wn7MutNK長篠で確立された、鉄砲の戦術的優位性をも覆すほど意義深いものらしい。
0677人間七七四年
2007/08/12(日) 04:34:52ID:bfC9uJFQありえないんだから戦術的に意義深いとは言いがたいと思う。
後世にそれを常態的に利用・応用しうる環境が整えられないのなら、
「地震のときに思わず巨大な箪笥を抱えて走り出した」というような、
火事場の糞力的な事例の域を出ない。
0678人間七七四年
2007/08/12(日) 21:37:47ID:Bg4+Qgdv0679人間七七四年
2007/08/13(月) 06:42:47ID:xMOTvK2sいや、天王寺だけでなくその他の合戦での鉄砲装備率も徳川方は高い。
伊達政宗は3,500丁装備してるが、騎馬鉄砲の存在はともかくとして、槍ブスマなんて
古典的な技で撃退してるとこは注目に値する。
0680人間七七四年
2007/08/13(月) 09:01:09ID:kqg7k6FPまだこんなこと信じてるヤツがいるのかよ
0681人間七七四年
2007/08/13(月) 11:34:36ID:wk87HKrS確かに鉄砲なんてたいして役に立たないよな。
幸村の鬼神の働きみればな。
0682人間七七四年
2007/08/13(月) 11:47:20ID:Zb3mV8gA0683こんな名無しでは、どうしようもないよ。
2007/08/14(火) 22:16:14ID:uOJwUte8大河ドラマのように全体の流れはともかく、詳細の部分に至ってはどこまでが事実かなんて
誰もわかりはしない。
もちろん残された資料や発掘調査などから精度は高くはなっているものの、それでもやはり
想像の域を出ないことには間違いないだろう。
例えばテレビ・ラジオ・ネットなど、情報収集の手段は今までにないほど充実した現代でさえ
我々は自身が生きている現在の世の中で起きている出来事をどれだけ正確に把握できてるだろうか?
それを考えると、信憑性の高い資料が皆無に近い歴史は想像の産物と言っても過言ではないだろう。
それゆえ、誰がどのような見解をしてもまた許されるともいえる。
0684人間七七四年
2007/08/15(水) 04:15:50ID:0N8GUSjN0686人間七七四年
2007/08/16(木) 09:01:10ID:LXw5gUCk家残したから上だってよ。
家なんて残したやつは、それこそ星の数ほどいるってのによまったく。
武名を高める、名を残すことの難しさがどれほどか分かってねー奴たまんねーよな
ほんとに。 昌幸・幸村がいるから信之なんてマイナーが取り上げられてる
現実に気づけよ自称玄人が!””
0687マンキョ
2007/08/16(木) 10:15:51ID:Df0ukaVUそろそろ現実と向き合おう
0688人間七七四年
2007/08/16(木) 14:01:10ID:e1B7P4Bw>>683
自分もそんな風に考えております。
0689人間七七四年
2007/08/16(木) 19:38:57ID:SZJpx5EQその部分は、昌幸のどちらが勝っても家を残すための手法なわけで。
とはいえ、その後の外様大名にもかかわらず、存続させたのは信之の評価点。
0691人間七七四年
2007/08/16(木) 21:33:01ID:oq1axwlQある本に書いてあったが、そこを治めてた
生駒家も奇しくも関ヶ原で親が西軍、
嫡男が東軍と分かれてたんだよな。
何か関係あるのかな
0692人間七七四年
2007/08/16(木) 22:04:26ID:SZJpx5EQ0693人間七七四年
2007/08/16(木) 23:18:42ID:oq1axwlQ木下藤吉郎(豊臣秀吉)に従い各地を転戦する。
天正15年 讃岐国17万石の領主となる。
天正16年 高松城を築城。城下町を建設し、高松と命名する。
寺社に多くの寄進をし、寺社の保護を図る。
豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)に従軍、波引車を家紋とする故事が伝えられる。
関ヶ原の戦いでは西軍に属する。
戦後罪を謝し高野山にのぼる。
高松にて死去。
昌幸と同じような立場だけど高松に帰れたんだね。
高野山管轄の九度山の真田家と何か交流が
あったかも知れない。高野山の開祖の空海が
香川出身なのでそっちの線かもしれない。
大阪城から薩摩に逃げるより香川に逃げる方
が格段に簡単だろう。
0694人間七七四年
2007/08/17(金) 11:28:46ID:VhjHd5so0695人間七七四年
2007/08/18(土) 22:22:28ID:RhiEe3Fb0696人間七七四年
2007/08/19(日) 09:14:33ID:wohvKOgyというよりも知らんよ
どんな香具師?
0697人間七七四年
2007/08/19(日) 09:56:03ID:k/BEnRqk0698人間七七四年
2007/08/19(日) 09:59:32ID:UvUOlxypそれは島津も認めてる。
真田家こそが戦国のブランド。
0699人間七七四年
2007/08/19(日) 10:34:57ID:fMVytZlN0700人間七七四年
2007/08/19(日) 17:04:18ID:d0Wc/UK9家康から、信濃10万石の誘いを
蹴ってるし、夏の陣では、真赤な装束で
挑み、徳川本陣突入。
壮絶な戦いの果て、討ち死。
家康もこの時ばかりは、覚悟を決めたほどに。
2回だけの合戦は、勿体無い…。
0701人間七七四年
2007/08/19(日) 17:21:44ID:bh7vfIdV0702人間七七四年
2007/08/19(日) 21:07:09ID:wohvKOgy誰?
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