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本能寺の変

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0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/06/11(日) 02:58:36ID:0SeOl0eW
語れ
0461名無しさん@お腹いっぱい。2007/11/26(月) 18:19:32ID:a2d1qhGO
>>460
今は怨恨より、四国政策の転換に立場を失った光秀が反乱に立った、ってのが主流だね。
まあこれも大きく言えば怨恨説の一つかもしれないが。
0462サイコメトリー2007/11/26(月) 18:33:12ID:q3n1vKzG

>>461
仰るとおり、四国政策も一因ですね。一番大きな怨恨理由は光秀自領の坂本地区召し上げと思ってます。

0463人間七七四年2007/11/26(月) 18:53:18ID:pxTPbOMd
坂本召上げなど理由にならないと思うが
同じような領地替えされてる武将は結構いるんじゃない?
蒲生なんて与えられた土地はまだ敵勢力で旧領地に入る事すら叶わず、しかも百姓連れて行くなと言われてるようだし。
これは秀吉の指示だが
0464人間七七四年2007/11/26(月) 18:58:26ID:idmdDhqm
>>459
関わってたのに、何で信忠が死んでるの?

>>462
柴田のケースでは、新領・越前の経営が安定するまで近江の所領は収公されていない。
播磨や但馬を切り取った羽柴に至っては、長浜の所領は安堵されたまま。

よって、近江坂本の召し上げは後世の創作。
0465にゃんこ2007/11/26(月) 21:21:53ID:saL19aFe
460>

それって、有力説じゃなくて、魅力有る新説ってとこでしょ。
主流は野望説だろ。
そもそも、秀吉のハッタリ「大返し」が成功しなければ、光秀が細川氏に書いた
ように、50〜100日で畿内を抑えて、最大の戦国大名になれただろうから。
まあ、恩義も怨恨もあったとは思うが、勝ち残る見通しも無く、兵を挙げるほど
無能な人間ではないし、まして、朝廷のために犠牲になるような、近代の青白い
インテリでもない。野望ある老熟した武将が、一瞬のチャンスに賭けたのさ。
しかし、この時の秀吉とその幕僚が優秀過ぎた。
0466人間七七四年2007/11/26(月) 21:52:15ID:zsUUDa+c
秀吉の大返しがなくとも、畿内掌握はかなり難しいと思うが。最大の味方であるはずの
細川も筒井も秀吉の動きに関わり無く明智から離脱を図っているのがその証拠。

まあ山城と近江くらいは掌握できただろうと思うが、そこから先がかなり難しくなる。
主を失った美濃を攻めようとすれば山城丹波が危険。伊勢の信雄の存在(軍事力だけは
ある)も無視はできない。史実では結果的に大坂の信孝軍が崩壊したから救われたが、
これは光秀による策略などではなくまったくの僥倖。
0467サイコメトリー2007/11/27(火) 09:25:09ID:QZQJCgdF

野望説が強くなって来ましたので、また一言出します。
>>465の言う通り、自分も光秀は老練な武将だと思います。その老練な光秀が突発的チャンス到来!と
考えたとは思えませんし、前後策を考慮せず野望だけをあらわにするでしょうか? 自分は以前から
戦国武将は皆、天下を夢見て常に野望を抱いているとの考えに疑問を持ってます。だってそうじゃない人もいますよ〜。

>>464 仰る通りです。光秀も実際には坂本等を召上げられてはいません。しかしながら、移領の話を
され困った話をしたとの重臣の手紙が残っています。つまり、信長の勢力拡大と共に所領が多くなり、
多くなれば、多くなるほど家臣団への移領や移封はあたり前になってきます。秀吉しかり家康しかりです。

光秀は当時の有力武将の中で初めて、信長からその言を受け困惑したハズです。光秀の自領対する気持ちは
彼が領した可児地区や亀山地区の地祭の名残を見れば明らかです。今回の話はあくまで怨恨の一因ですが・・。
0468人間七七四年2007/11/27(火) 12:28:00ID:A9M780cI
>>467
>移領の話をされ困った話をしたとの重臣の手紙が残っています。

文書名を教えて下され。
文書が紹介されてる本でも結構です。
0469サイコメトリー2007/11/27(火) 14:20:17ID:QZQJCgdF
>>468
今は自宅ではないので帰って探して追カキしますが、大正時代に書かれた赤色の”本能寺の変”の研究所です。
著者名と資料文献調べますね。所領移動の話の発端は明智軍記だと聞いてます。
0470にゃんこ2007/11/27(火) 23:45:35ID:3R7QGNVe
466>

いや、筒井は兵の一部(本軍ではないが)を光秀の要請に従って、河内へ出兵
させています。秀吉が早く返って来なければ、いずれ、雪崩現象だったでしょう。
多くの畿内の国人・地侍が、「信長が殺された」と、いう報が届いて、その真偽を
確かめるまでに、秀吉が「信長は生きている」「秀吉軍が返って来た。」との
報を達したんですよ。

>大坂の信孝軍が崩壊したから救われたが、これは光秀による策略などではなくまったくの僥倖。

 信長が殺されたからですよ。甲斐の川尻も配下の国人の蜂起に会ってますし、
滝川の軍も、北条家の圧力で瓦解。そもそも、信長あっての与力ですから。
0471にゃんこ2007/11/28(水) 00:00:08ID:4fgiLoh6
>467
>天下を夢見て常に野望を抱いているとの考えに疑問を持ってます。

天下を夢見ているかどうか、イエスかノーかの二者択一ではありませんよ、人間の心理は。
「時おり、天下を夢見ている時もある」「70%成功の確率なら賭ける」「30%でも・・・」等々
人間の欲望は、二者択一ではありません。私だって、100%首相になれるなら、賭けますよ。(笑)
この時の光秀には、勝算が見えたのでしょう。だから、賭けた。確かに、織田家も戦国大名らしい
弱点(諸侯の同盟政権でしかない)を抱えてますから、信長を殺せば、政権が瓦解する可能性は大
です。実際に、四国渡海軍は分裂、滝川軍は北条家の圧力で瓦解、川尻軍は寄騎の反乱。
直轄・譜代の僅少な秀吉軍など、制度的には極めて脆弱でした。配下の寄騎の一部のサボタージュ
で瓦解してたでしょう。僅か数日間で心理的に寄騎を被官化し、戦国大名として自立した秀吉の
この時の政治力は凄いと思います。


0472人間七七四年2007/11/28(水) 05:56:06ID:btYbOulg
明智軍記って光秀善人、信長悪人を世に流す為に作られた
創作話の多い書物じゃないか
所領移動の出元が明智軍記って時点で信憑性が低い
0473サイコメトリー2007/11/28(水) 10:03:35ID:k7JqE68A
>>471
仰るとおりですね。二択という意味ではなかったのですが稚拙な文面でした・・。
持論のなのですが、1582年・信長による天下統一はなっていなかったものの存命であれば数年の内に
統一されたハズです。つまり1582年の時点で信長の勢力は揺ぎ無い所まで来ていた、その時点で博識派
の光秀が70%や80%確立で自分が信長に取って変わり覇者となろうと考えますでしょうか?光秀の心理
は1578年に叛旗を翻した荒木村重との類似性を感じます。
>>472
信長公記も明智軍記もその内容がすべて信憑性が高いものではないと認識していますが、すべてが虚偽
だとも思いません。当時の書物には必ず何らかのベクトルが掛かっています。ですからより多くの文献
内容を検分し一級資料と見極める事が歴史学の基本ではないかな?低脳の自分が偉そうに言ってスイマセン。
0474人間七七四年2007/11/28(水) 10:08:34ID:M+OSHUq2
信長公記と明智軍記を同列にする人を初めて見た
0475人間七七四年2007/11/28(水) 13:17:21ID:GydhBYSp
>>473
太田牛の「信長公記」と小瀬甫庵の「信長記」を混同してないか?
「信長記」と「明智軍記」が同レベルってなら、分かるけど。
0476サイコメトリー2007/11/28(水) 15:12:09ID:k7JqE68A
>>474>>475
自分は信長公記と明智軍記を同列、同レベルだとは言ってませんし、思ってもいません。
信長公記は一級史料なのに比べ明智軍記はそれこそベクトルが多く含まれた粗悪史料との認識は有ります。

しかしながら歴史探求の面白さは、様々な文献内容を見聞きし、比較対照し、当時の歴史に触れ、楽しさを
見出す所だと自分は思ってます。>>474>>475さんはどの辺りに楽しさを感じてるのですか?
0477人間七七四年2007/11/28(水) 16:20:27ID:GydhBYSp
>>476
>自分は信長公記と明智軍記を同列、同レベルだとは言ってませんし、思ってもいません。

そうなら>>473みたいな文脈的に誤解されるような書き方は控えた方がよい。
少しでも間違いがある公記と、少しでも正しいことがある明智軍記は等価のような書き方をしているではないか?
0478サイコメトリー2007/11/28(水) 17:26:43ID:k7JqE68A
>>477
仰る通りです。誤解をうむ書き方でした。スイマセン。授業を受けている様だ・・。
他の方もその様な見方なのでしょうか・・?それはそれとして、>>477さんの自説を教えて下さい。
0479にゃんこ2007/11/28(水) 19:36:47ID:4fgiLoh6
「結果的には、秀吉に簒奪された」という事実が、織田政権の脆弱性を証明している
と思いますよ。織田政権は、直轄領が恐らく後の江戸幕府よりもずっと少ない、
信長の個人的力量に依った政権でした。
0480人間七七四年2007/11/28(水) 21:23:18ID:p/9MRVvP
どんな政権だって、主催者とその後継者でナンバー2と、その周囲を固める官僚陣を
一挙に失えば即崩壊するだろう。織田に限らず豊臣だって徳川だって。
0481人間七七四年2007/11/28(水) 22:16:21ID:GydhBYSp
>>478
>自説

光秀単独&利三が積極的に関与:非計画的だと思う。
利三が絡んでるのは、長宗我部との関係で。
0482人間七七四年2007/11/29(木) 11:24:21ID:WeH5kHN5
↑ 斎藤利三が積極的に関与するのは、当たり前でしょ。
0483人間七七四年2007/11/29(木) 11:54:15ID:LWpEKRPZ
斎藤利三が絡んでるのは長宗我部というのは素人
玄人なら幕臣の石谷氏との関係でという
0484人間七七四年2007/11/29(木) 13:01:06ID:ur5xcPm1
>>482
俗書では謀反に反対したとか、
反対されるのを恐れて丹波を出てから光秀が謀反を打ち明けたとかあるね。

>>483
幕臣と言っても、旧幕府再興とかは無関係だろうな。
毛利家の庇護下の足利義昭は謀反計画を知らされてなかったし。
0485人間七七四年2007/11/29(木) 13:05:04ID:WeH5kHN5
幕臣??
0486人間七七四年2007/11/29(木) 16:06:06ID:WeH5kHN5
1582年の時点で幕臣って。おかしくね?
0487にゃんこ2007/11/29(木) 21:06:53ID:JtCZmw6N
480>

官僚?誰、それ?

この時代に官僚と言えば、直轄領の代官であり、本能寺なんかにいない。
森蘭丸なんてのは、秘書みたいなもので、官僚ではない。
ついでに、石田三成を秀吉政権の官僚と見る「小説家」が多いが、間違い。
三成は、歴とした大名である。自営業者(領主)である。政治家であって官僚ではない。
0488人間七七四年2007/11/29(木) 22:46:32ID:sF8bBijP
そこまで読めてるなら、「官僚」→「秘書」に読み変えてやればいいのに。
0489サイコメトリー2007/11/30(金) 09:02:10ID:Q3mpuLYJ

話を元に戻します。
義昭や公方が策を弄して、信長をハメて本能寺が・・なんてのは机上の空論だと思うな。
恨んでいた事は間違いないだろうがけど、彼にそこまでの力はないよ。
室町幕府の権威なんて、1582年当時、畿内では完全に地に落ちていたと思われますが。どうだろう?
0490中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62 2007/11/30(金) 17:49:14ID:nxHiJ8HH
まぁ、単なる間違いだと思いますが
一応指摘しておきますね
公方=足利義昭(畿内では)ですよ
0491サイコメトリー2007/12/03(月) 08:46:25ID:k8J+Im3e
>>490
そうなのですか?自分の認識は旧室町幕府将軍家の事を公方と理解してました。
ご指摘ありがとうございます。
0492人間七七四年2007/12/03(月) 12:06:47ID:z48iQGH3
権威は欲しいだろ。
力だけではただの反乱軍に過ぎないのだから。
つまり光秀は津田信澄を頂くとか
義昭を立てるとか何もなく大義名分に欠けていた。
もし、それがあれば細川だって光秀と同調していたかもしれない。
0493サイコメトリー2007/12/03(月) 13:00:21ID:k8J+Im3e
>>492
だからこそ本能寺の変は光秀の突発的な行動だと思ってます。
大義名分を重んじない光秀ではないハズですから。

現代的な考えで恐縮ですが、細川父子や筒井家等、賢い選択はしたとは思います。
でも自分的には光秀に従わない筒井順慶の元を出奔した島左近の心意気こそが好きだな。
0494人間七七四年2007/12/03(月) 14:13:52ID:ogBpUdXO
>>492
>もし、それがあれば細川だって光秀と同調していたかもしれない。

それは典型的な現代の価値観。
戦国時代では勝つ方に付くことはあっても、大義名分に釣られるお人好しは少ない。
イデオロギーではなかなか人は動きません。

過去に義昭を奉じた信長が都で歓迎されたのも強かったからで、
戦で負けていれば義昭は偽公方扱いされて終わっていたはず。
0495人間七七四年2007/12/21(金) 08:44:13ID:rlbWHjOx
勝てる可能性が無い大義名分なんて、戦国の世では紙くず。
0496現代に顕われた織田信長の霊2008/02/02(土) 13:34:36ID:0YhcvHSC
http://www14.atwiki.jp/415mattari/
篩いの目は日毎、確実に大きくなっている。私から民衆に知らせられるのも、この形が精一杯。
今の世界に蔓延する仕掛けをあらゆる論争の中に仕込んだ。皆々御苦労であった。全て保存しなさい。
小さな一言にも意味がこもっている。各自で読み解いてもらうしかない。
私はミノオワリの魂。ミノオワリは美濃尾張ではない。
言霊を読み解きなさい。一人でも多く。この者はイチリンの仕組。

皆よく聞きなさい。この星は自浄作用に動き出し始めている。
風邪もひき始めならば軽い養生で治せるが、病状が進むとどうなるか考えてみなさい。
発熱や悪寒はなぜ出るのか考えてみなさい。
無駄に恐れおののいている場合ではない。もう目を覚ましなさい。次元上昇などと寝ぼけたことを言っている場合ではない。
人が思っているような神など存在しない。よく現実に目を向けて、人間としてできる事をいますぐ実行しなさい。
祝詞だ祈りだ瞑想だと非現実的な事ばかりに目を向けるのはもう止めなさい。

現実に今を生きて動いて、とにかく有効手段として自然環境を蘇らせるしか道が無い事に気付きなさい。
人間が自然にしたことが人間に返ってくるだけなのだから、天変地異などと呼んで自分ばかり生き残りたがっている場合ではないぞ。
人間が人間の為だけにした事によって、人間以外の獣、草木、虫達、みんな道連れになるのだぞ。

不思議ぶったまやかしの霊的世界から離れなさい。
神はお前達が思っているような霊的存在ではない。神と呼ぶものは生命の摂理、自然や宇宙の法則そのものを指す。
人が思っているような神は霊、それも大半はまともではない霊だ。今降りている神示も殆どまやかし。マコトは一部だぞ。
火水、艮はマコト。だが艮の器はおかげをおとしたぞ。ハナサクモノは偽物だぞ。日月地は鏡だぞ。片方は虚、うつし間違えるなよ。
私は神霊の一人。クニトコタチ、スサナルの直下、アマカケルタケイサオ。人であった最後の名は織田信長。
人が幻想を抱いてきた、無い神も無い霊も本当に無くなる時がやってきた。
0497人間七七四年2008/02/02(土) 14:13:07ID:kUuCAfAw
犯人は朝廷である。
0498人間七七四年2008/02/02(土) 15:49:05ID:x3Ja2i1O
だから、なんで朝廷が光秀を動かせると言うんだよw
0499人間七七四年2008/02/04(月) 17:53:36ID:FZyJCkQm
光秀を動かしたのは、朝廷(天皇では無く公家衆)
信長が正親町帝に退位をせまってずっとギリギリの駆け引きをしていた。
信長は頑固な帝に退位してもらって親王に即位させ傀儡にしたかった。
最後に退位を迫った際の逃げ口上が今年は陰陽道で金神にあたり縁起が悪いので
引き伸ばした。さらに信長の真意をはかるため三職推任したが返答を得れず、
このままでは来年には本当に信長の意によって退位させられ、天皇家が傀儡に
なってしまう事を恐れた公家衆(近衛等)が光秀に密勅を出し変を起こさせたのである。
0500人間七七四年2008/02/04(月) 18:30:32ID:nV35G+YN
>>499
その説には光秀にどんなメリットがあるの?
0501人間七七四年2008/02/04(月) 19:17:45ID:mVqBiFwI
朝廷なんぞという虚に等しい存在からの命令を、なによりも優先するような
物好きは、日本の歴史にはほとんどいないぞ。

光秀は戦国期の武士で、しかも浪人から成りあがった実力派。
その過程で足利将軍さえ見放している。

朝廷に対してだけ忠誠であったと主張するのは説得力がない。
0502名無しさん@お腹いっぱい。2008/02/04(月) 20:41:31ID:n8Zz2G4V
まあ飛躍に飛躍を重ねれば、どんな結論でも自由に導き出せるからな。
ちなみに俺は「本能寺朝廷陰謀説」は、「本能寺宇宙人陰謀説」と同じくらいの説得力が有ると思うぞ!
0503人間七七四年2008/02/05(火) 01:18:24ID:fERp2703
http://www.google.com/gwt/n?u=http%3A%2F%2Fhomepage1.nifty.com%2Ftakasi_okubo%2F%3F_gwt_pg%3D2&hl=ja&mrestrict=xhtmlchtml&inlang=ja&client=ms-kddi-jp&q=%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89%E7%9C%9F%E7%9B%B8&channel=main
0504人間七七四年2008/02/05(火) 01:42:20ID:GdyciB9z
>>499
そういう説の前提はいつも光秀=旧来秩序を守る律儀者なんだけど、
実際はどうだろう?
義昭を見捨てたりする所を見るとそれほど旧来秩序を重視してない。
佐久間を追い落としてその後釜に座ったし、むしろ松永に近い謀将タイプ。
自分に実利がなければそこまでするとは思えない。
0505人間七七四年2008/02/05(火) 02:08:51ID:gP7uoWZ8
>>504
その手の人物像は、信長との対比で作られた虚像。
0506名無しさん@お腹いっぱい。2008/02/05(火) 02:29:09ID:o1fE/JnN
だいたい信長も別に革新的な人間じゃ無いしな。
0507人間七七四年2008/02/05(火) 23:57:16ID:LCHE+rQR
信長への不満もあっただろう
今後の不安もあっただろう
天下への野望もあっただろう
ただそれらは充分に我慢の範囲内だった

でも「信長の周囲が空っぽ、反撃できそうな奴もいない」
って思いついた瞬間に弾けちゃったんじゃないか
0508人間七七四年2008/02/06(水) 15:06:48ID:mZLqN0mb
光秀のメリットは、、、
・当初は丹波から山陰道を切り取って行く予定であったが、思いのほか丹波制圧に
 手間取り、その間に秀吉に先取りされてしまい完全に出し抜かれてしまった。
 さらに、その後の統一事業を予想すると中国地方・秀吉、四国は信孝・長秀・三好、
 九州征伐の際は、この両軍団が主力となる。東海道・家康、関東・一益、北陸・勝家、
 北条征伐には家康・一益・信忠、上杉征伐は勝家で事足りる。光秀には何もない、、、
 そこへ信長父子が無防備で京にやってくる。信長1人なら実行しなかったが跡継ぎまで
 ノコノコやってきた、父子共々屠れば未来はひらける。まだあるけどこれでどう??
0509サイコメトリー2008/02/06(水) 16:17:28ID:m7/3VELC
>>508
光秀は将来を悲観して本能寺へと踏み切ったって事?
0510人間七七四年2008/02/06(水) 16:56:51ID:mZLqN0mb
悲観はしていたが、謀反実行など思いも寄らなかった。
光秀は一国一城レベルでは有能だが、天下を治めるには凡将すぎた。
本当に以前から謀反を計画していたなら、絶対に家康を抹殺する準備を整えるはずだし
機密漏洩を考えたとしても必ず細川・筒井には密使を送り知らせていた筈である。
以上を踏まえてやはり光秀は衝動的・突発的に無思慮に謀反を起こした。
謀反を起こさせたのは朝廷(公家衆)、先にも述べたが天皇以下が勝手に密勅を出した。
密勅の内容は、「朝敵信長父子を倒せば征夷大将軍に任命する」といった内容であった。
0511人間七七四年2008/02/06(水) 17:10:00ID:B7Pob6cU
>>508
>跡継ぎまでノコノコやってきた、

居場所を知ってたなら、本能寺と同時に妙覚寺も攻めるだろ?

>謀反を起こさせたのは朝廷(公家衆)、先にも述べたが天皇以下が勝手に密勅を出した。
>密勅の内容は、「朝敵信長父子を倒せば征夷大将軍に任命する」といった内容であった。

謀反後、他氏を引き込む書状には一切、朝廷や帝、征夷大将軍のことは書いてないよw
絵に描いたモチに釣られるほど、光秀はバカじゃないです。
0512人間七七四年2008/02/06(水) 17:14:17ID:gwTK4+5M
トンデモな発想!

北陸…柴田勝家vs上杉景勝
中国…羽柴秀吉vs毛利輝元
関東…滝川一益・河尻秀隆vs北条氏政
四国…丹羽長秀・蜂屋頼隆vs長曾我部元親

東海…明智光秀vs徳川家康

本能寺の変の時、明智軍は徳川家康を討ちに行くとか囁かれていたし。
徳川家康を誘いだしたのは織田信長ということで。
羽柴秀吉もこの計画を知っていたので高松城からの大返しが成功する。

しかし、明智光秀は徳川家康と手を組み家康を逃がす。(伊賀越え)
明智光秀はその鉾先を本能寺へと向け織田信長を討ち果たす。
その後、明智光秀は徳川家康の援軍を待つものの山崎合戦で敗北する。

こういう見方も面白いのではないかえ?


0513人間七七四年2008/02/06(水) 17:33:47ID:B7Pob6cU
>>512
>羽柴秀吉もこの計画を知っていたので高松城からの大返しが成功する。

準備してたわりには、山崎で戦った主力は摂津にた連中だな。
羽柴家所属の兵は、ほとんど脱落していたと見た方が良い。
0514人間七七四年2008/02/06(水) 18:06:03ID:cV4s3Tb9
なんかよっぽど屈辱的ななんかがあったのかね。

それか内応してた他将にはめられたか裏切られたか使われたか日和られたか…
0515人間七七四年2008/02/06(水) 21:57:25ID:gwTK4+5M
>>513
こんな方向でどう?

羽柴軍の全軍が京に向けてという訳にはいかないから、
備前や播磨に毛利軍に対しての軍勢を残す。
(山崎合戦が長期化した時の保険として)

実行日までは秀吉も情報がつかめていなかったから、
急遽の行軍についていけず脱落者も少なくはない。
(多少の脱落は西への備えとして合流させる)

池田・中川・高山(摂津衆)が前線に出たのは、
明智光秀との関わりを否定するための率先行動。
(前線に加藤・中村・堀らも投入)

神戸・丹羽・蜂屋は後方で予備軍。
(戦功を与えないために行動抑制と有事の予備軍)

羽柴秀吉が摂津衆を取り込むために必死だったのは、
敵軍に合流させないことと、自軍の兵力補強は絶対。


0516人間七七四年2008/02/06(水) 22:11:07ID:b6TUfAPC
摂津ばかりに話がいくが変後、岡山、兵庫の土豪連の再調略もしっかりやってるんだよな、羽柴氏。
毛利休戦直後に兵移動のスムーズな道路安全と糧食の補給で土豪・夜寒氏にすっごく感謝してるよ!なんて感謝状も送ってるし。
混乱の中、キチンとした対処をしている羽柴秀吉はやっぱ優秀な人。
0517人間七七四年2008/02/07(木) 10:19:03ID:I73lXeuy
>>516
秀吉は苦労人だから人の心を掴むのが上手だったんでしょうね。(良くも悪くも)


0518人間七七四年2008/02/08(金) 11:17:56ID:V9F1rj1T
510の続き、、、
密勅の内容は非公式、将軍宣下はされていない。
詳細は、「信長父子抹殺後、京周辺の安定・外敵を駆逐すれば宣下する」といった内容。
非公式を裏付ける証拠が光秀に対しての伝奏が公人(公家衆)ではなく、民間人の
吉田兼和を採用した事。それまでの伝奏は全て公人もしくは女官であった。
光秀が朝廷や寺社に金をばら撒いたのはその返礼のためである。
正親町帝も密勅に気付いていたが黙認、本当に光秀が情勢を安定させれば宣下して良い
と考えていた。しかしあっさり敗退し横死したため朝廷が慌てて証拠を消して回った。
変に関しての記物が少ないのもそのせいだし、「兼見卿記」に関しても変の部分だけ
破られているのはそのためである。
0519人間七七四年2008/02/08(金) 14:02:51ID:ynMgaej+
こんな空手形に釣られるほど、光秀は耄碌していたのか?w

>>518
あなたでも気づくことを当時の人は何で気づかなかったんだろ?
陰謀が露見すれば、非公式でも当然処罰が下るだろうに。
しかし証拠が消されたってのは、本当に便利な言葉だねw
0520人間七七四年2008/02/11(月) 23:16:59ID:FRwnClNe
黒幕説は、書物に云々書いてあるって言っても、後でなんとでも理由付けは可能。ノストラダムスの予言書の類と変わらないよ。
0521人間七七四年2008/02/12(火) 16:44:18ID:hue4U1fv
秀吉は謀反の可能性を知っていたのでは?光秀本人から悩み相談みたいな感じで聞かされて。
で、光秀の近辺を監視してた。
そしたら、本当に光秀の奴やりやがった!ってことで大慌てで引き返した。
0522名無しさん@お腹いっぱい。2008/02/12(火) 17:16:39ID:I428IPkV
そんなホイホイ連絡の取れる状況じゃねえよ。
だいたい悩み相談って。学生か!
0523人間七七四年2008/02/12(火) 17:22:42ID:hue4U1fv
ニュアンス的に書いただけなんだけど。
0524名無しさん@お腹いっぱい。2008/02/12(火) 17:36:17ID:I428IPkV
ニュアンスだろうが何だろうが、京都と備中の物理的な距離と当時の通信体制、
そして目的のはっきりしない物にたいする監視と言うものの無意味さ(だいたいどうやって
「監視」するんだよ)ってものを少しでも考えれ。

だいたい監視と言うものが仮に可能だったとして、その情報が伝わった所で秀吉は毛利と交戦中なんだぞ?
秀吉が信長すらだまくらかして毛利と八百長の戦争やってたって言うのなら別だが、そうでない以上
情報が伝わった所でそれを効果的に使う事が出来る状態であった、と言う可能性は限りなく低い。
本能寺の時丁度毛利と講和交渉に入っていたのは、はっきり言うが「運がよかった」だけだ。

0525人間七七四年2008/02/12(火) 19:07:07ID:hue4U1fv
監視と言う書き方が不服なら諜報とでも書けばいいのかな?光秀謀反って可能性が秀吉の頭の片隅にでもあって、念のために間者を潜り込ませてた。
で、事が起こり間者から報告が入って秀吉ショック、って流れじゃないかという意味だったんだけど。
毛利と八百長の戦とか想像力が豊かですね。
0526名無しさん@お腹いっぱい。2008/02/12(火) 19:17:33ID:I428IPkV
>>525
いやいや、想像力豊なのは君のほうだw

俺は終始一貫して、君の言う事は空想にしても「現実味が無いよ」ってことを指摘しているだけなんだが。
0527人間七七四年2008/02/12(火) 19:26:12ID:hue4U1fv
はいはい、参りました。過去の出来事に対しての他人の考えを、空想だと断言できる人にはかないません。
0528名無しさん@お腹いっぱい。2008/02/12(火) 19:35:24ID:I428IPkV
いいか?具体的な資料も伝承も実地調査も無しに、過去の出来事を脳内だけで推測する作業は
「空想」と呼ぶのだ。
0529人間七七四年2008/02/12(火) 19:43:51ID:OQZCsEiL
仮に秀吉が光秀の悩みなり叛意なりに気付いていたとしたら、彼がまずやることは
光秀の周辺を探ることでなくて信長にチクることだ。

史実では光秀の謀反は成功したが、もし失敗していたら当然調査は行われるはずで、
そのときに万が一秀吉が感づいていたということが知られたら、何故知っていながら
黙っていたのかと秀吉の立場が悪くなる。下手すれば与党と看做されかねない。
0530人間七七四年2008/02/12(火) 21:08:06ID:VUxr19la
521&522
このスレの活性化に身をもって貢献したのでエライ!


0531人間七七四年2008/02/12(火) 21:33:00ID:Cjzzqwnj
>>528

偉く自身満々に言い切っているが、
オマエが語っているその内容も、現存する資料からの「空想」でしかないぞ。

歴史なんて言うのは、「〜だろう」の寄せ集めだと思うぞ。あくまでも予想でしかない。
だから、新しい資料が見つかったりしたら歴史も変わる。
例えば、オレが習った鎌倉幕府は1192年だったけど、今は違うんだろ?
そういう事たと思う。
人の空想を完全否定できるほど、当時から長生きして、尚且つ、本能寺当事者だと言うのなら謝る。
0532名無しさん@お腹いっぱい。2008/02/12(火) 21:42:28ID:I428IPkV
>>531
じゃあ資料が出てから言えよw 鎌倉時代の成立年が変わったのは新資料の発見とそれへの精緻な
学問的考察によってだ。思い付きをべらべらくっちゃべっている間に変わったのではない。

さっきも書いたがなんの資料にも基づかずあーだこーだ言うのは妄想空想というのだw
0533人間七七四年2008/02/12(火) 21:53:43ID:VUxr19la
>>531
地球から426〜430光年ぐらい離れた宙域から地球を観測している人も解るかもしれない。


0534人間七七四年2008/02/12(火) 22:39:42ID:WeJqz0f9
本能寺の変に関する秀吉の関与に付いては、すべて後付けだよ。秀吉が山崎で勝てたのも彼の策略や戦略が凄かったのではなく、光秀側に他武将が就かなかったからにすぎない。
細川父子がもし光秀側についていたら、筒井・高山・中川も連鎖的に光秀吉側についてたのではなかろうか。
0535人間七七四年2008/02/12(火) 22:51:10ID:zBq2+Okv
>>531
歴史とは現存する資料を根拠に断片だった記述をまとめあげるもの。
現存する資料がすべて。現存しない、出てない資料のことをいくら言っても無駄の妄想。
可能性とかいくら言っても意味がない。
資料が出てくる可能性だけで歴史語れるなら、どんなトンデモ論も成立する。

たとえば「信長は実は現代人だ、実証する資料がまだ出てないから
誰もオレを否定する根拠はなにもない」と言い張ればただのアホ。
0536人間七七四年2008/02/12(火) 23:07:34ID:Cjzzqwnj
>>535
0537人間七七四年2008/02/12(火) 23:23:15ID:Cjzzqwnj
>>535

そうだね。
オマエの言う事も分かるから、否定はしないよ。

オマエは、歴史に「真実」を求める。
オレは、歴史に「ロマン(いろんな可能性)」を求める。

根本的に考え方が違う。
これでFA。
0538人間七七四年2008/02/13(水) 00:07:07ID:SmkICu7X
学術的なのも必要だと思うけど、2chだしもっと自由にやってもよいのでは?
ここで学術的に緻密な考察して年表とか公式に変わるの?
0539人間七七四年2008/02/13(水) 04:17:35ID:MOYp8zlB
まぁ戦国時代だから、
家臣に討たれるのもありだよね。
0540名無しさん@お腹いっぱい。2008/02/13(水) 05:39:56ID:4dEKWabl
自由にするなら自由にするなりの「ルール」が無いとね。
ただの妄想垂れ流しならそれは自由ではなく「野放図」になってしまう。

例えば上の秀吉関与説ならば、「それが可能か不可能か」なら議論として成立するが、
「史実として許容できるかどうか」と言う話になるともう話にならない。

自分の考えを語る場合は、それなりの「語り方」でやらないと、話も膨らまないしつまらないよ。
0541人間七七四年2008/02/13(水) 07:12:16ID:dDEiISHU
>>538
せめて事実を元に話をしないとな。
いくら2chでもソースが必要だろうし、あんまりにも事実無根の話をされたら脳内乙だし。
別に学会発表並みにカチンコチンにやれとは言ってない。
一応歴史板だから、なにかのIFを語るとき現存する事実を元に推測してくれ。

脳内ソースじゃ話にならない。
0542人間七七四年2008/02/13(水) 12:51:21ID:CosieT65
http://www14.atwiki.jp/415mattari/pages/25.html
まずは、必ずしも書物が完全に真実を書いているかどうかは定かではない、
史実=真実とは限らない、という認識がないと、
全く理解するのが難しい状態になってしまいます。
この現代においても、本当に本当の事がそのまま報道されているとは限りません。
兄は、史実の殆ど九割は、捻じ曲げられた情報と、
芸能ゴシップのような無い事だらけの人物評だから、そのまま鵜呑みにしてはいけない、
いつも見極められる目を養いなさい…という意味の事を、情報に惑わされがちであった頃、
よく繰り返し言っていました。

↑史実厨の皆さん、これを読みなされ。
0543人間七七四年2008/02/13(水) 13:02:18ID:gavKmFDw
たしかに資料は人によって解釈の仕方が変わるし、同じ時代に生きる人でも解釈が違う。
だからって屁理屈こねて史実を信用するなとか妄想を垂れ流していいわけないだろう。
戦国時代板だし、最低限史実を元に話をしないとファンタジー板になってしまう。
スレタイも史実の「本能寺の変」なのに史実はねじられたというのならまず出発点から間違ってる。
どうしても妄想垂れ流したいなら戦国板ではなくファンタジー板行くか、
【妄想オッケー】本能寺の変【史実無視】のスレを建てればいいじゃん。
0544人間七七四年2008/02/13(水) 18:14:53ID:Me2JkJox
http://ikebukuro.cool.ne.jp/ok20/oz/hu18.html
0545人間七七四年2008/03/01(土) 19:03:51ID:b5Kc3NKE
さあ泥仕合を始めようか

ゲームジャーナル15号「本能寺への道」
http://www.gamejournal.net/bknmbr/gj15/gj15.html
プレイヤーは織田軍団配下の武将として支配エリアの拡大を図る。
反信長方の大名については、例えば明智プレイヤーは上杉・北条・本願寺を、徳川プレイヤーは毛利と本願寺を指揮する、という形でお互いの邪魔をしあうことになる。
信長は本隊と共に京に鎮座ましましており、動くことはない。
プレーはカードを5枚ずつ配り、支配エリアの多い順に行動していく。
そのプレイヤー陣営にいる武将の策略値(イベントによる増減あり)によっては、カードをイベントとして使用できない場合もある。
強力なカードは陣営の策略値が「3」でないと使えない。
気になる勝利条件は、最も支配エリアの多いプレイヤーが見事後継者の地位を確保する、というオーソドックスなもの。
但し、その際にご主人様である信長公がご存命だと、4人全員の敗北となってしまう。
反旗を翻すと他の3人を敵に回すことにもなるが、謀反プレイヤーはプレイの順番決定時に割り込みをかける特典が得られる。
敵は本能寺にあり! 君は本能寺の後を無事、生き延びることができるか?
0546名無しさん@お腹いっぱい。2008/03/03(月) 14:32:23ID:Nisgk/6C
“信長御殿”簡素だった 「本能寺の変」の舞台で新説

 「本能寺の変」(1582年)のおり、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な
専用御殿だったいう新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。
昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と
判断した。予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。テレビドラマで
繰り返し放送される、大きな本堂前で奮戦する信長は虚像とわかった。

 新説は日文研が近く発行する論文集『王権と都市』に「信長の本能寺“御殿”について」として発表される。

 本能寺は現在、京都市役所の南にあるが、「変」当時は、約1キロ南西の中京区六角通と蛸薬師通、
西洞院通と油小路通に囲まれた約120メートル四方の地を境内としていた。

 発掘調査は昨年夏、住宅建設のため2カ所で実施され、東側の調査地からはL字形の堀(幅約6メートル、
深さ約1メートル)や焼けた痕跡のある「■(能の異体字)」の文字瓦などが見つかった。西側調査地から
は、建物跡などは出なかった。この結果、東側の堀は西に延びず、約40メートル四方の建物を囲むものとわかった。

 信長の生涯を記した『信長公記(しんちょうこうき)』によると、信長は「変」の2年前にあたる天正8(1580)年2月、
京都での宿舎を妙覚寺から本能寺に移すことを決め、所司代の村井貞勝に普請を命じた。

 本能寺を始めとする日蓮宗寺院は、「天文法華(てんぶんほっけ)の乱」(1536年)をきっかけに
京都から追放されたのが許され戻ってきたばかりで、本能寺も「信長軍に占拠され、寺僧はすべて
追放されていた」とする意見も出されていた。

 今谷教授は当時の文献を詳しく調べたが、本能寺が他所に移転した形跡はなく、境内東北隅の堀に
囲まれた中に、信長の宿舎となる御殿が建っていたと結論付けた。具体的には「ほぼ同時代に建てられた
園城寺勧学院(かんがくいん)や同光浄院(こうじょういん)(大津市、いずれも国宝)のような規模の小さい
住宅用御殿が建っていた」とみている。

 権力者の京都での御殿としては、豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)や徳川家康の二条城などが有名。
これら本格的城郭に比べ、信長が簡素な建物しか造らなかった理由について、今谷教授は本能寺御殿を
建て始めるころ、大坂本願寺が落城寸前で、毛利攻めのため大坂へ本拠を移そうと意図していたと推測している。



 小島道裕・国立歴史民俗博物館准教授(日本中近世史)の話 「信長が本拠を安土から大坂に移そうとしていたのは、
後継者の秀吉が大坂城を築いたことからも可能性が高い。京都については、あくまで臨時の宿舎なので、小規模だったのだろう。
興味深い説と思う」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080303/acd0803031411005-n1.htm
0547人間七七四年2008/03/04(火) 10:55:32ID:fceKXNB/
むう、余計謎が深まった。
0548人間七七四年2008/03/05(水) 01:04:12ID:WFUHNHht
光秀はなんで天王山おさえられんかったんかのう。
秀吉の行動速度が予想guyだったにしても
現在位置の情報収集はやってたと思うんだが。
0549人間七七四年2008/03/05(水) 02:19:26ID:+a02z/Dq
情報収集はしても兵力の配置転換が間に合わなかったんじゃない?
0550名無しさん@お腹いっぱい。2008/03/05(水) 02:56:57ID:1l3rMtL5
だいたい光秀も戦略上、かなり戦線を広げちゃってた訳で。
0551人間七七四年2008/03/08(土) 13:21:03ID:zLkm0iaH
>>548
学研の歴史群像シリーズの何かで、
もしも光秀が天王山をしっかり押さえたなら、秀吉も迂闊には攻められず、
かといって光秀も主力を引いても守りきれるほど有利にはならないから、
秀吉・光秀両軍主力がそこでしばらくにらみ合うことになる。
そうすると、柴田や徳川といった他の勢力も光秀の背後を突こうとするので、
光秀勢としては挟み撃ちになり敗北必死だった。という推測が書かれていた。

つまり、光秀軍としては挟み撃ちになるのを回避するいためには、
短期間で秀吉勢を撃破しなくてはならず、
そのためにはあえて天王山を取らせて秀吉軍をおびき寄せた方がよかったのだ。と。

所詮ただの推測だろうけど、それなりに説得力はあると思う。
0552人間七七四年2008/03/08(土) 20:29:22ID:5YkPWQKJ
>>548
兵数不足。近江への抑えも残しておく必要があったし。
0553人間七七四年2008/03/08(土) 21:48:39ID:eUGQ92Yj
細川軍と筒井軍が光秀側に就かなかった事が最大のポイントかな。
0554人間七七四年2008/03/08(土) 21:53:58ID:ONmeEyyg
兵は勢い
0555人間七七四年2008/03/08(土) 22:37:53ID:U4rZt33d
戦いは数ですよ
0556人間七七四年2008/03/08(土) 22:57:29ID:Me1oMP+C
指揮官の質にもよる。
ところで、本能寺の変直後の京都の様子はイエズス会の宣教師の報告書
に残っているが、相当阿鼻叫喚だったようだね。
0557名無しさん@お腹いっぱい。2008/03/09(日) 01:36:55ID:nDgLC+PQ
【ぶっちゃけインタビュー】「本能寺の変」にメス 今谷明・国際日本文化研究センター教授

 「本能寺の変」(1582年)は、日本史の中でも最大の謎といえる事件のひとつです。本能寺の旧境内地は京都の中心街
(中京区蛸薬師通西洞院付近)の地下に眠っているのですが、今回初めて発掘調査のメスが入りました。織田信長の時代の
石垣や、「能」が浮き彫りされた瓦を目にしたときは、さすがに興奮しました。

 これを機に、改めて当時の文献を調べ直し、発掘成果がもつ意味を考えてみました。産経新聞の3日夕刊付1面に載った
「信長の本能寺御殿は、意外と簡素だった」というのが結論。本能寺の本堂に立ち、槍(やり)や刀で奮戦し、やがて火中に
消えてゆくというドラマの情景は間違いだとわかりました。

 御殿の規模は、およそ40メートル四方。園城寺(三井寺、大津市)に現存する勧学院客殿か光浄院客殿(いずれも国宝)と
似たような規模の建物だと想定できました。彼の跡を継いだ豊臣秀吉の聚楽第(じゆらくだい)や徳川家康の二条城などの
城郭に比べると、意外なほどの貧弱さです。

 こんな施設に、わずか20〜30人の小姓を連れ泊まっていたのですから、明智光秀の1万を超える大軍に攻められては、
防ぎようもなかった。彼ほどの権力者がなぜ、こんな油断をしてしまったか。考えられないことですね。

   *    *

 逆に、光秀の動機は、はっきりしていました。「今なら、天下が取れる」という判断でしょう。柴田勝家は遠い北陸で上杉景勝と
戦っていたし、羽柴秀吉は備中(岡山県)で毛利氏と対陣、滝川一益は上野(群馬)…と、織田軍団の主戦力は各地に散っており、
畿内で大軍を動かせるのは自分だけという、絶好の状況でした。

 自分に対する信長の仕打ちをうらんだとか、背後に黒幕がいたとか、珍説・奇説まで含めいろいろな説があります。でもやっぱり、
戦国武将らしく、転がり込んできたチャンスに食らいついたんだと思いますね。

 信長は、裏切られるとはつゆほども思ってなかったのです。ここが不思議なところで、それまでにも松永久秀や荒木村重に叛(そむ)かれ、
大変な目に遭っているにもかかわらずです。彼ほどの人物であっても、人を見る目がなかったというしかないですね。

 歴史に「if(もしも)」は禁句ですが、信長があのまま生きていたなら、日本の歴史はどうなっていたでしょう。私は、信長は安土から大坂に
拠点を移し、毛利攻めが一段落したあと、征夷大将軍となって幕府を開いたと推測しています。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080308/acd0803082208013-n1.htm
0558人間七七四年2008/03/09(日) 02:47:36ID:ywOKQjoS
>>557
今谷御大は、信長本人が将軍になるとお考えなのか?
0559人間七七四年2008/03/09(日) 11:10:07ID:2RwVZAit
信長が安土を築いた時点で信長の建設は終了している。家督も信忠に相続させているから将軍職というのも信長自身がなるのではなく信忠に背負わせるものと思う。
信長はフィクサーとして裏舞台で活動する事だろう。
拠点を大坂に移す、とおっしゃるが精魂込めて作った新世界:安土こそ信長の理想郷。大坂には代官所か奉行所を置く程度で大々的土木建築しないと思う。
人間五十年、信長の人生観とするならば寿命期だから安土以上の拠点は望むまい。
0560人間七七四年2008/03/09(日) 12:24:11ID:DQiAQmfh
安土城は無理矢理建てたから、
住居に向いてなく、見た目は派手だったけど、
ゆらゆら揺れて住めるものじゃ無かった。
だからいろいろ泊まり歩いて、
何処に住むか考えていたんだろ。
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