関東の被差別部落 その2
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0049名無しさん@お腹いっぱい。
2007/11/26(月) 23:55:44ID:zt5Jj6Zz0その財力は、巷間旗本や大名と比較され、格式は一万石、しかしその財力は大名並の五万石であると言われていました。
浅草の弾左衛門の屋敷一帯は、浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であり、
周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていました。
屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち、300から400人の役人家族が暮らす住宅もあったそうです。
弾左衛門は配下の被差別民の裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられました。
明治維新後にいわゆる「解放令」が太政官布告として発令され、「穢多・非人という賤称を廃止する」ことになりましたが、
それと同時に斃牛馬処理権により皮革を集約して加工し独占販売する権利も失ってしまいました。
そこで、最後の弾左衛門・弾直樹は、中世以来自分たちの生業であった皮革産業を、『近代工業』として育てあげようと考え、
個人で外国人技師を招聘し、皮革技術の伝習所を作り、靴工場を設立したそうです。
そのために彼は膨大な私財を投資しました。
江戸時代、三井と並ぶ江戸第一の大富豪と言われた弾左衛門家の財産は、この投資のためにほとんど使い果たされてしまうほどだったそうです。
結局は、皮を集約できるという権限を奪われたことが決めてとなって、最後の弾左衛門・弾直樹の靴工場は経営的に破綻してしまったそうです。
しかし、弾直樹が近代日本皮革産業の創設者の一人であったことは間違いのない事実です。
そして、彼ら先人たちの下で培われた技術が、その後も浅草周辺を中心として引き継がれ、
日本の近代産業の一翼を担うかたちで、靴や鞄の産業、皮革産業が発展してきたということだそうです。
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