>>128-131
ことばの意味定義や比喩表現の妥当性の検証で問題があったとしても
それは書き手の言語表現能力の修練不足や不注意によるものなので
まぁ、許されよ。2ちゃんの良さはそこに目をつぶるのがデフォだという
ところw。なんて。

それでも、「睡眠中の私はどこにいるのか」という問題は、「私」という語
の用語法として定まっていない。というところが着目点であることは確か
なことだろう。その意味では「生まれる前の私」「死後の私」というのも所
在が不明、わからな〜い。という点で同様の問題を提供する。

「睡眠中の私」は「生ある私」の特種モードであるが、同様な特種モード
としては、先に挙げた「認知症進行中の私」だけでなく「性的興奮状態の
私」「性的エクスタシー(射精)状態の私」「分裂症な私」「ドラッグでラリっ
た私」「物心つくまえの私」「高熱に浮かされている私」「泥酔状態の私」
「喧嘩で興奮状態の私」等々幾通りもあると思われる。条件分けした上
でなお、「同じ私」をそこに見いだし得るか。生きている私は国籍・戸籍
住民票で分類され、責任能力が認定され得る限り法的には同一主体と
みなされるだろうが、この点では「睡眠中の私」は責任能力は問われな
いだろうから例外かもしれない。

語法論的に「生まれる前の私」「死後の私」の「私の存在」と「生きている
私」の「私の存在」は区別されるべきだが、ある程度分かっていることと
全くわからないことは区別しようもないので、「神の権威」でも持ち出さない
限り解は見いだし得ない。たぶん謎は謎のまま終焉にいたるのではない
か。生死を超えて生きたいと願う心は癒されないまま終わるのではないか。
形而上的存在だったらいいけどね。噂によれば「阿弥陀如来が極楽浄土へ
導く」というのも仏法の方便(人を癒し助けるなら嘘もオーケー:ポアに類似)
という節もあるらしいので。