一時的な小さな死:「睡眠」とは何か?
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0127考える名無しさん
2007/01/13(土) 13:48:07「死をBig Sleepと表現しているのが面白い」と植草甚一が大昔に書いていたのが
念頭にあり、であれば対偶表現として、「睡眠は小さな死」と表現できるだろう。
(日本)仏教式の葬式では通夜・本葬があり、坊さん曰く、通夜はもはや死者は生き
返らないことを確認する儀式なのだと。転生はあっても覚めない眠りが仏教の死?
基督教では死者は最後の審判の日に全て蘇り神の審判を受けるのだ。と言われて
いるが、死者にとって審判の日までの眠りは「停止した時間」であろう。死ねば
100億年経過していようが1兆年経過していようが即目覚め審判が始まる(のだろうか)。
生死を超えて生きうる可能性への希求を、睡眠中の「夢」を「啓示」として理解したいと
する衝動の中に見ることができるだろう。「夢」は脳がスタンバイモード時に行う
ガベッヂコレクション、デフラグ処理(置かれた状況に対する補償処理)に過ぎないと
しても、そういう仕様が実現されているのは実に不思議なことだ。
自意識はある条件の範囲内でしか機能しない。認知症の老人が身内にいれば嫌でも
自意識の崩壊過程を肉眼で直視させられる。自意識の強度は記憶力の強度だと気づ
かされる。認知症はその進行に従って記憶がズタズタに寸断され喪失していく過程だ。
「私」はその過程で崩壊する。家族を見失い自身を見失ってもなお、母言語理解は中枢
近くなので長らえる。しかし排泄禁忌機能が失われ食の食べ分け機能が失われるころ
最後は言葉も音に解体される。その時「私」はどこにいるのだろう。睡眠中の「私」同様
なのか。「停止中の私」。
生死を超えて生きうる可能性への希求を「私」を形而上的な存在として私は存在する。
と主張したい人々が数多くいる。この名無しもその一人ではあるが、どうもそうでもない
のかもしれない。と薄々感じつつ、今日もお笑い番組で笑い倒れていたりするw。
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