筧克彦博士を越える学者は出てないですね。
 明治時代の学界通の本(『学界文壇時代之新人』明治四一年)なんか見てると、抽象度が高すぎて学生は誰も理解できない講義内容、意味不明の図はこのころからあったみたいですね。確か当時は行政法第二部の担当で、古神道研究はまだしてないはず。
 美濃部達吉博士の同期だけど、美濃部博士の論文、エッセイにも高い頻度で引用・言及されている。彼にとって「学友」の筆頭は立博士でなく筧博士みたいですね。

 その美濃部博士も筧博士の学説を完全には理解できなかったみたいですが。多分、ちゃんと理解できたのは政治学者の矢部貞治くらいでしょうね。矢部の筧批判を読むと、美濃部博士が如何に筧学説を理解していないか分かる。

 ちなみに、筧博士は四年間留学しています。普通は三年間ですが、官費を節約したらしいですね。他にも小野塚喜平次博士もその例ですが。ものにならない俳句を詠んでいた美濃部博士とは矢張り格が一つ違うように思います。