>>89 乱暴にいうと"見えないもの"=混沌としたもの、って事なのかもね。そして

> 見る像に至らないもの
> 見てその形を説明するだけ無駄なこと

と、評価されるものであると。でも「強いAI」には寧ろそれが必要と思う。

僕が>>87で言ったのを補足したいんだけど、例えば定食屋で別々の客が4人いて
A(朝からカツ丼食べようと思ってたので)        「カツ丼」
B(メニューの写真みたらカツ丼が一番食欲をそそったので)「カツ丼」
C(天丼より100円安かったので)             「カツ丼」
D(いつもの日課なので) 「おねえちゃん、いつものやつ(=カツ丼)」

店員にとっては何の注文(記号)か、の単位より仔細な事(左の括弧)はどうでもいい。
記号(メニュー)接地以下の事は"見えないもの"だし"見ないもの"。価値を感じない。
客ABCDにとっても記号(メニュー)以下の事はいちいち伝えない、言葉にしない。
でもだからといって記号接地以下の事を無視したら、「強いAI」に期待する「気分
やシュチェーションで選択が変わるような生物的・非線形的広がり」が持てないと思う。

例えば一週間後、客自身にとって、カツ丼を食べたことを憶えていたとしても、括弧内
の理由(カツ丼を選んだプロセス)までは忘れて"見えなく"なっていたりする。
でも、その行動や思考を行う上ではその"見えないもの"は、必須だったのだと思う。
 逆に「カツ丼」とシグナルを送っ(記号接地させ)た事自体は、個々の思考・行動の
選択の中での只の1action(結果)という価値しかないと思う。
つまり言葉・記号接地はAI本体にとって最重要ではなく、"見えないもの"を認識・思考
の材料に取り入れる事や"何を見るか見ないか選ぶこと"(56氏)がより重要だと思うよ。