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 はじめの方に

┃そうした「情報」はオブジェクティブなものであって主体を要しない、
┃ということも理解した。

という部分がある。これは、オレの考えについておまえが理解してる内容だ。

 その十数行あとに

┃そうであれば、はじめから「情報とは受領主体を要するモノのありようだ」
┃としたほうが簡明で、

とでてくる。これも上とおなじく、オレの考えについておまえが理解してる内容だ。

 このふたつの部分には、まったく正反対の、くいちがう内容がふくまれている。ここは、
オレの考えを実は根っから理解できていないんじゃないかという疑問をおまえにたいして
おぼえる理由のひとつだよ。

          *

┃主体を経由するとき、情報は「表現」に化体するということだよね。

この部分も、わかったような気でいるだけで、
実は全然わかってないということをしめしているんじゃないかというふうに読める。

 月のうらがわ自体にそなわる「しりうるもの」が、どうやって「主体を経由」するの?
それが「主体を経由」してしまったら、月のうらがわ自体にそなわる「それ」は、
その時点で月の裏がわという場所をはなれて、宇宙飛行士の頭になかにスッポリおさまってるってことなの?
そして、おさまったそれが、そのつぎに「『表現』に化体する」ってことなの?
話が全然なりたたないように読めるんだけど。

          *

 オレは「定義すること」自体が「タマネギの皮をむいていく作業」だといったんだよ。
だから、もしその作業がムダでイヤだというなら、定義するということをやめるべきなんだよ。
それがオレのいったことだよ。

 およそ定義という知的作業はすべてそういうものと考えていいとおもうよ。だから、
定義にとりかかるまえから「そういうもの」と明確に自覚してやらなければ……と書いたんだよ。
そうでなければ「定義すること」なんて(アタマの体操でなければ)徒労におわるとおもうよ。

 情報というものの「あつかいを簡便にしたい」という目的が最初からあるんなら、
「情報とはなにか」を考えるのではなくて、逆に、「あつかいがやっかいになりそうな意味」
を情報という用語からどんどん追放していくという知的作業の方をやるべきだとおもうよ。

 そうでないなら、「情報とはなにか」をかんがえていった末にえられた結論が、
もし「あつかいが簡便でないもの」ということにおちついてしまったら、そのときおまえはどうするの?
それきり情報のことはわすれてしまうの? すくなくともその書きこみをよむかぎり、
おまえのやろうとしていることは、そういう行為のようにおもえるんだけど……

 ある情報にどんな意味があるかは、「情報とはなにか」という話はまるきり無関係だよ。
ある価値体系のどこにその情報が位置づけられるかっていうのが、その情報に「どんな意味があるか」
ってことだろ。情報の話ではなくて、その価値体系の側の話になっちゃってる。

 もしも「まず価値体系ありき」って話なら、さっきもかいたけど、「情報とはなにか」を考えるのではなく、
その価値体系にあわせて情報という用語の側を恣意的にいじる作業の方をやるべきなんだよ。
その作業も「定義すること」のうちだとおもうよ。