>>JLQ.DLLMQg

本題である>>85に絞ってレスするので・・・

あなたの情報の定義が「モノ側に備わる知りうるもの」等であることはわかったし、
そうした「情報」はオブジェクティブなものであって主体を要しない、ということも理解した。
主体を経由するとき、情報は「表現」に化体するということだよね。

俺はそもそもこのスレの趣旨である「情報の定義」を考えるにあたって、
前のほう(どこだか忘れた)で誰かが書いていた「定義することによって情報というものを
扱うことが簡便になる」ということをかなり意識した。確かにその通りだと思うから。
それはあなたが言うように「タマネギの芯を発見する」作業がこのスレの趣旨ではない、と考えるから。
タマネギをむくことによって情報というものを扱うことが容易にならなくてはならない、と思うから。

そのことを前提に考えると、あなたの考えるように情報を定義したときに、
「情報とはそこにあるものである」としかならないように思えてしまう。
つまり、結局はなんの定義もしていないのと等しいのではないか、と。
もっといえば、その情報がどういう意味を持つのかは、あなたの定義・説によっても
表現されて主体を経由するまでは確定しないということになるのではないかと。

そうであれば、はじめから「情報とは受領主体を要するモノのありようだ」としたほうが簡明で、
かつ「じゃどういうありようがどういう主体においてどういう情報となるの?」というふうに
その後の議論の発展に資するのではないか、と思えてしまう。
その点、どうだろう?

あと、科学的事実というのは科学的作法を踏まえた事実というくらいの意。
これは別に俺の「脳内定義」ではないよ。