この場合「脳を介した精神の活動」に相当するのは知覚・認識・感知なのだから、
上のとおりでいいのだよ。情報はココロの側にはないもので、客体の側にそなわるものだからこそ、
各人でその認識・知覚に差がうまれる。

おまえのたとえでいえば、この板にそなわるものが「情報」だ。
閲覧することが「認識」「知覚」「感知」にあたる。

もし情報がヒトのココロの側にそなわっているものであれば、
ヒトのココロの基本的な構造などは古今東西をとわず同一であることがすでに判明しているのだから、
認識や知覚の差が人それぞれにうまれることもないことになり、事実とつじつまがあわなくなる。

情報はソトにあるものであり、モノにそなわるものである。
そして同時に、ココロのあらわれの一切を「表現」と定義してみたのだよ。
表現はツヅリ・シャベリをとわずコトバでも、みぶり・てぶりでも、芸術作品でもかまわない。
ようするに「こころのあらわれ」だよ。くりかえしになるが、この表現というものも情報のうちだ。
(しかし情報はかならずしも表現ということにはならない。)

このように定義すると、いろんなことがほとんどピッタリおさまりそうなんだよ。

オレが70でかいたことは、「情報はココロかモノか」という問題意識と、
「情報と表現」という問題意識のふたつにふれたものだよ。

それと、話がかみあうならどこまでもつきあうが、
そうでなければお相手できないことをあらかじめことわっておく。