◆相川七瀬、紆余曲折の20年「沈んだ時期が10年続いた」

デビュー20周年を迎えた相川七瀬が、織田哲郎の楽曲をカバーしたアルバム『TREASUREBOX』を発売。
デビュー曲「夢見る少女じゃいられない」が大ヒットし、いきなり栄光を掴んだからこそ
アーティストとして悩んだ日々もあったが、結婚・出産を経て復帰し、現在はバラエティ番組などでも活躍。
サウンド同様、ロックな波瀾万丈のアーティスト人生について相川が語った。

◆このままじゃおかしくなる!って…

――相川さんはデビュー曲「夢見る少女じゃいられない」で、いきなり大ブレイクを果たしました。
その後、20年間の中で“相川七瀬”を辞めたいと思ったことはありましたか?

【相川】ありました。私の場合、このままだと自分はおかしくなるなって時期がちょうど結婚のタイミングでした。
それがなかったら、多分、心が折れていたと思います。でもそこで強制終了のように息子が生まれて、
本当に自分が欲しかったもの、例えば落ち着いた生活や自分と向き合う時間、そういうものをあの瞬間に
仕事と引き換えに手に入れました。それはすごく難しいことで、あの時期は仕事を手放さければ得られなかった。
だから重い決断だったけど、人間としての自分を考えると、方向転換ができて良かったなと思います。
ただ、そこからは浮いたぶんだけ沈んだ時間っていうのが10年ぐらい続きました。

――10年も?
【相川】長かったけど、今思えばすごく貴重な時間でした。自我と戦ってきた10年だったし、
足りないものを補って来た10年でした。自分は何のために歌を歌い続けていくんだ? みたいな、
歌手としての在り方がわからなくる時期もありました。次男が生まれたあと体調を壊したり、
声が出なくなったりして、思うように自分をコントロールできないことが心身ともに辛くなっていたんです。
でもその時期に今はライフワークになっているモノを書くことのベースとなった、心理学を学べたのは大きかった。
どんなに沈んでも心のバランスを崩さずにいられたのは、セラピストとして勉強して活動したり、
自分の感情に巻き込まれないトレーニングをひたすらやっていたからだと思います。

――そうやって心身のバランスを取り戻していくなかで、改めて音楽とも向き合っていった?
【相川】そうですね。そこは次男の存在も大きくて。私が音楽と離れていたかった時期にも、
“相川七瀬”のライブDVDを次男が家で観ていたりするんですよ。
私は観たくないし、聴きたくないのにと思っているのに(笑)。でもいやいやながら観ていると
だんだん「結構、いいステージだったな」って思えるようになってきて(笑)。
自分が勝手に思い込んでいた過去は決して、悪いものなんかじゃなかったって素直に観られるようになった。
今思うと、それがリハビリだったんでしょうね。彼のおかげで音楽をしている自分と向き合いたいなって
思えた気がします。さらにその頃、東日本大震災があって、それをきっかけに私の音楽への取り組み方が
まったく変わりました。

――すごいタイミングですね。
【相川】 そう。本当に震災のタイミングでスイッチが切り替わった。それまでは昔の曲を歌うのは
キツいと思いながらステージに立っていたこともあったけど、これが最後かもしれない、
明日はないかもしれないと考えたら、昔の曲であれ何であれ喜んで聴いてくれる拍手してくれる人がいるなら、
歌いたいと。そうしたら、こだわりとか執着がみたいなものがふっとなくなって。
何より私自身が歌っていて幸せだってことに気づいたんです。
ここに辿り着くまでは随分長い道のりでしたけどね(笑)。

※記事を一部引用しました。全文はリンク先でどうぞ。

http://amd.c.yimg.jp/im_siggmFRcxwC.RcyGt7wF6rXo.w---x600-y900-q90/amd/20151030-00000360-oric-000-1-view.jpg

オリコン 2015年11月1日(日)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151030-00000360-oric-ent