邪馬台国畿内説 Part241 [無断転載禁止]©5ch.net
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00011 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:23:14.17もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1497445234/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
すなはち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である
00021 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:25:06.24前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
(続く)
00031 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:25:16.67纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
すなはち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
すなはち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
すなはち布留0期にあるとみることが出来よう
00041 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:25:38.82その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
すなはち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確なかたちで、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう
00051 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:25:59.28纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
すなはち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
2世紀末の大乱期、中国製威信財の入手ルートが途絶して列島における旧世界の秩序が崩壊した後、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避する目的で、この地に新たな秩序の中枢が構築された
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である
00061 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:26:17.92南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編を促した
弥生社会の終焉に向けて変質を強いていた気候変動の総決算である
00071 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:28:32.75これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型並びに楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
(この項続く)
00081 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:29:50.30方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
(この項続く)
00091 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:30:54.04高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である
0010日本@名無史さん
2017/06/17(土) 11:31:25.520011日本@名無史さん
2017/06/17(土) 11:31:49.0000121 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:32:08.023世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
(続く)
0013日本@名無史さん
2017/06/17(土) 11:32:38.7800141 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:32:50.29北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である
0015日本@名無史さん
2017/06/17(土) 11:33:06.5700161 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:33:15.88日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない
0017日本@名無史さん
2017/06/17(土) 11:33:21.0700181 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:33:34.91●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
(この項続く)
00191 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:33:56.22●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
00201 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:34:28.14(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
00211 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:34:49.07===========================================
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない
00221 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:35:21.96◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が近畿産であることは鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある
00231 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:35:40.70Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡が邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある
00241 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:36:05.61Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している
00251 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:36:25.98Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する
00261 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:37:38.83Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される
00271 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:37:58.73Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない
00281 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:38:46.14Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、すなはち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である
00291 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:39:07.91Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない
00301 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:39:29.47Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない
00311 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:39:48.50Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀には目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである
00321 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:40:55.42Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない
00331 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:41:15.12Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く)
00341 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:41:43.59A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)と土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない
00351 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:42:06.76Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:方形のものの大きさを「径」で表現することはないので、「径百余歩」と形容された卑弥呼の冢は方型ではありえない
よって平原一号墓、祇園山古墳などが除外される
しかし「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による
00361 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:42:29.88Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない
00371 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:42:49.59Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい
00381 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:43:06.94Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い
00391 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:43:25.98Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(3世紀末葉)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例しかなく、品質的にも低い
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える
00401 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:43:50.25Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い
00411 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:44:06.04Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く)
00421 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:44:25.35A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである
00431 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:44:44.27Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
00441 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:45:03.49Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された(馬淵WL領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
同様の状況が荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
いづれも古墳時代の倭鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう
00451 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:46:29.82Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる
00461 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:47:29.78Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない
00471 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:47:51.43Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう
00481 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:48:10.29Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)であるが、諸本とも治と冶の混用が多い
「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしい
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す
00491 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:48:25.84Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く)
00501 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:48:50.96A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう
00511 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:49:12.97Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)が、これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている
00521 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:49:32.41Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)並びに庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する
00531 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:49:50.40Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する
00541 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:50:14.76Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果である可能性が認められる
倭人が上献した絳青縑(FAQ29参照)も重要である
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない
00551 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:50:37.16Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と素手の消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
00561 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:51:19.79★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】ありません
00571 ◆q8leUXpsw.
2017/06/17(土) 11:53:16.190058日本@名無史さん
2017/06/17(土) 11:57:07.36>百襲姫の次の天皇が崇神だから、崇神は3C中頃の天皇だろ。 崇神は早々と下ろされて、崇神の娘の台与がその次の天皇。
266年に台与が晋に朝貢してるから、崇神が天皇だった期間は18年もないよ。<
「台与」なんていないし、
壹與なら、「南≠東」だから、筑紫の女王だよ。
0060日本@名無史さん
2017/06/17(土) 12:07:29.77>(1 ◆q8leUXpsw)そう考えることに根拠がない、という点に問題があるとは思わないのでしょうか<
漢文でも全ての言語でも、
説明は、原則として「古い出来事から順番に順次式に説明するものだ」、
という人類の常識が判っていない、
という事が判っておられないんでしょうか?。
0062日本@名無史さん
2017/06/17(土) 12:46:18.02◎纒向が外部勢力の侵入(卑弥呼を共立する勢力によるヤマトの地の制圧)によって、営みが開始されたこと。
◎纒向は2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した『大集落』、卑弥呼がいたと推測される居館エリア以外は万単位の民が集住していたこと。(農業ではなく土木作業に従事した兵と奴婢)
を認めていないことだな。
纒向の土木作業に周辺の集落から通勤は、あり得ない。
一番近い纒向の南の芝遺跡も2世紀末に纒向と入れ替わるように消退するしね。芝遺跡から纒向に人々が徴用されたのかもね。
0064日本@名無史さん
2017/06/17(土) 12:53:09.46女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、宮崎日向を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
0065日本@名無史さん
2017/06/17(土) 12:59:09.703世紀半ば以降(魏志倭人伝当時以降)、一大率と宮崎日向の投馬国や豊の勢力の関係はどうなったか?対立はあったのか?等々調べる方が有意義だよ。
九州の統一はどのように進んだのか?西都原古墳群の辺りに人々が集められていたが、どういう目的があったのか?とかもね。
0066日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:02:14.18邪馬台国も狗奴国も九州の国
女王が住むところまで12,000里
投馬国は宮崎南部、鹿児島、女王国ではない
0067日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:02:56.81>卑弥呼が今の天皇に続く血統なら記紀に記録のある神功皇后のことだろう。<
卑弥呼が今の天皇に続く血統ならば、記紀は卑弥呼とはっきり書く。
書かれていない事が、卑弥呼が今の天皇に続く血統ではない証拠。
0068日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:04:26.84北部九州倭国と畿内ヤマトに分かれて対立した
0069日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:10:46.16>(1 ◆q8leUXpsw.) 記紀の王統譜を史実と考えていないので矛盾はありません<
記紀であれ、後代史書の内容解釈説明であれ、
(必ずしも100%完全✖ではなく) 、半分×書なのであり
「史実」である部分も、「史実ではない部分」の、両方が存在する事が実態です。
だから、「全部否定抹殺する」のは、まともな頭の構造ではなく、一種の分裂幻覚妄想です。
0070日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:18:18.29>大和説だと何か都合悪いの? 俺は邪馬台国はそのまんま大和国だと思ってるけど。
そのまんまだよ。 なに難しく考えてるんですか。 そのまんまでイイんです。「<
「邪馬台国」なんて史料事実にはないから、都合が悪いのだし、
「大和国」では、「南→東」の嘘つきダマシになるから、そのままでよくないんです。
0071日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:23:55.96>(1 ◆q8leUXpsw.) 確かに今日の九州説は惨状というべきでしょう <
確かに今日の大和説者らやスレ主は、
「南≠東」という事への反論も全く出来なくなったままですから、
惨状というべきでしょう。
0072日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:24:57.150073日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:25:18.020074日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:25:41.360075日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:30:36.76>(1 ◆q8leUXpsw.)事実を踏まえた畿内説の展開を心がけています<
嘘を付くな。
スレ主も、始めから「南」という史料事実を否定抹殺した説を展開しているではないか。
0076日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:38:11.69>>箸墓は、那珂八幡古墳の模倣だよ<
>(1 ◆q8leUXpsw. ) 流石にそれはありません 築造企画が違います<
久住論であり、
「築造企画」の類似だけではなく、
那珂八幡との「どちらがどちらを模倣した事になるのか?」の論理の話だ。
0077日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:42:33.48>(1 ◆q8leUXpsw.)
>>ここで、この投稿子は、(箸墓に対して)「共立」という文言をこっそり使って、<
>いえ、公開しています 共立が史実であるという物的証拠になることでしょう <
箸墓の状態に、「共立」を断定出来る根拠などないよ。
0078日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:45:26.530079日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:47:56.130080日本@名無史さん
2017/06/17(土) 13:59:10.75>昔から那珂八幡古墳と 箸墓古墳の類似性は言われていた。
那珂八幡古墳が、畿内から九州を支配した 根拠とみなす人もいたね。
最近は那珂八幡のほうが古いと 言う人もいるようだ。
自分は文化は多少共通してるとしても 別の勢力だと推測するけどね。<
那珂八幡古墳は、庄内と陶質土器と布留の混合古地域の古墳。
箸墓の表面からは「布留」だけの単独の時期以後。
また、発展期での同じセレモニーは、後になる程、
(前よりは立派にしなければ)という思考で、
内実的にも量的にも、「何でも豪華で大きくて多くなっていればよい」として、
発展的になってしまい勝ちなもの。
0081日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:16:51.08斎祀 アッシュ・クリムゾン?
0082日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:18:02.50TB〜UB期には、「畿内型」とは言い難い前方後円(方)墳群が存在する。
一部は「纒向型」としてよい古墳もある(徳重本村2号墳、下原古墳など)。
しかし墳形比率2:1の纒向型の定義から外れた、
むしろ那珂八幡と同じ8:5とすべきものが多い(権現、山ノ鼻2号、光正寺、赤坂、御道具山などの各古墳)。
また津古生掛古墳や双水柴山2号墳のように後円部径がいびつに大きい変則的なものがある。
また、くびれ部の屈曲が曖昧なものが多く(「連結部」の存在)、UC期頃までの主要な前方後円墳に継承される
(纒向諸古墳のくびれ部は明確に屈曲するようであるが、それとは異なる)。
那珂八幡を起点とする北部九州の在地的前方後円墳が(その創出にあたっての「纒向型」の影響の蓋然性は否定しない)、
UB期以降「畿内型」、あるいは「定型化した」前方後円墳の影響によって変質してゆく
(段築・葺石、竪穴式石室、三角縁神獣鏡などの導入)というのがより妥当である。 久住2002
0083日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:19:13.72>(1 ◆q8leUXpsw).平原1号築造年代の主たる根拠が、周溝出土の土器であることは、テンプレで述べた通りですが、<
それは、平原のどの墓の周溝なんですか?。
また周溝出土では、後代の破損などでの使い捨ての可能性もあり、1号墳自身の年代論拠になり難いし、
何よりも、土器での絶対年代決定は、(土器に年代が刻まれてでもいなければ、殆ど不可能でしょ?。
>鏡の鉛同位体分析の結果からも2世紀の製品でしょう <
鉛同位体分析では、古い青銅材料や、使用済みの銅器や鏡の再利用も有り得るから、
2世紀以後と言う位しか判らないし、
また、その鏡は、(ホウ製ではなく)中国製で、中国の2世紀の製造である、と判っているんんですか?。
0084日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:19:58.63まぁ、どちらにしても箸墓は卑弥呼の後の墓。
布留0は楽浪土器が激減する時期だし、箸墓が卑弥呼だったら、倭人伝の内容と矛盾するからね。
つまり、卑弥呼の墓は庄内0より前の庄内期の墓となる。
次の候補が出るまで議論しても意味ないかもね。
0085日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:20:17.61『ポケモン 英語版 主人公』
0086日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:23:35.89『聖化 日神 日霊 津』
0087日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:26:47.10すがのが何やら、かんのくん〜と言っていたけど、
空耳のような感じで、そのように聞こえた
なぜかkpopのスレ
0088日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:29:01.05>(スレ主)定型化以前の纒向型バリエーションの範囲内でしょう <
那珂八幡古墳が、「定型化以前の纒向型バリエーション」である、というの?。
0091日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:36:37.650092日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:37:59.810093日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:38:21.050094日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:38:59.000095日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:43:38.26>(スレ主)これが誤りであることは、テンプレに詳しく述べているので、読んで下さい<
こりゃ駄目だね。
スレ主は、議論相手に「長い記載の中から探せ」と命令するし、
相変わらず、「前レスや問題点を書かずに、返事だけを書いた投稿」ばかりするから、
何の話なのか?も探さないと判らないし、
うっかり探し間違えたら、今度はそれをネタにして誹謗してくる!。
・・・・サギシらに特徴的な投稿態度。
0096日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:49:23.49>不十分だという理由は?<
これだけでは意味不明ですから、前の議論や論点を書いて下さい。
>具体的に述べて下さい <
探せば、時間がかかってばかりで、目もまた悪くしますから、
何の話なのか?が直ぐに判るように、して下さい。
>宴酣ですが、私はそろそろ落ちますので <
これも意味不明です。
0097日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:49:35.14ピュンだ、ピョンだと言っていて、
泣いているような演技(ジェスチャー?)をしていたり
老婆の言っていた、雨が降ってきて、ピュンだ、ピョンだ
みたいな話
0098日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:49:49.770099日本@名無史さん
2017/06/17(土) 14:59:36.11>スレ主は、議論相手に「長い記載の中から探せ」と命令するし、
典型的な詐欺師の話術ですね。
テンプレ全体が詐欺師の論調ですけどね。
0100日本@名無史さん
2017/06/17(土) 15:00:44.02みたいなくだらん書き込みしかできないのが無能のスレ主
0101日本@名無史さん
2017/06/17(土) 15:00:59.77ハタさん・・・何やら〜、
という謎の書き込みがあったり
そのスレッドの話だよ
0102スレ主さんよ
2017/06/17(土) 15:04:56.59南を東にするのには材料が、少なすぎますな。これだけでいいの?
161 ◆q8leUXpsw. 2017/06/14(水) 22:06:07.87
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す ・・・・・・・・
0103日本@名無史さん
2017/06/17(土) 15:17:10.88>九州説を唱える人は、 3世紀半ば以降(魏志倭人伝当時以降)、
一大率と宮崎日向の投馬国や豊の勢力の関係はどうなったか?対立はあったのか?
等々調べる方が有意義だよ。<
一大率の伊都国も、宮崎日向の?投馬国も、宇佐などの豊の勢力も、倭国の別種の旧小国の大和も、
天孫族系の伊都国の阿毎氏系の国であり、
卑弥呼の姫氏系の国ではなかったんだろう、という理解だよ。
つまり、元の東テイ國は、天孫族の阿毎氏のウガヤフキアエズの頃から、
阿毎氏系が中心になった勢力に、取って代わられた。
>九州の統一はどのように進んだのか?<
九州の統一史はその順番は、古田第3書などで、分析してあった、と思うよ。
>西都原古墳群の辺りに人々が集められていたが、どういう目的があったのか?とかもね。<
勿論、元の東テイ人の本拠地は、薩摩の(縄文から?の)上野原遺跡であり、
大和軍も含めた阿毎氏系は、宮崎を拠点にして、投馬國を建てた、と思うよ。
0104日本@名無史さん
2017/06/17(土) 15:42:43.36そのアニメのような話をしていた
雨が降ってきて、傘を差して・・・
何の話なんだろう
0105日本@名無史さん
2017/06/17(土) 15:45:02.31はやく自首しろよ
0106日本@名無史さん
2017/06/17(土) 16:01:13.77>九州の初期前方後円墳の実態
TB〜UB期には、「畿内型」とは言い難い前方後円(方)墳群が存在する。
一部は「纒向型」としてよい古墳もある(徳重本村2号墳、下原古墳など)。
しかし墳形比率2:1の纒向型の定義から外れた、 むしろ那珂八幡と同じ8:5とすべきものが多い(権現、山ノ鼻2号、光正寺、赤坂、御道具山などの各古墳)。
また津古生掛古墳や双水柴山2号墳のように後円部径がいびつに大きい変則的なものがある。
また、くびれ部の屈曲が曖昧なものが多く(「連結部」の存在)、UC期頃までの主要な前方後円墳に継承される
(纒向諸古墳のくびれ部は明確に屈曲するようであるが、それとは異なる)。
那珂八幡を起点とする北部九州の在地的前方後円墳が(その創出にあたっての「纒向型」の影響の蓋然性は否定しない)、
UB期以降「畿内型」、あるいは「定型化した」前方後円墳の影響によって変質してゆく
(段築・葺石、竪穴式石室、三角縁神獣鏡などの導入)というのがより妥当である。 久住2002 <
ほら、久住は、
筑紫の、(庄内や陶質土器や布留時期の)那珂八幡古墳などを「TB〜UB期」としており、
「纒向型」を UB期以降「畿内型」あるいは「定型化した」前方後円墳とか、「UC期頃まで」
として区別している。
勿論、定型化の嚆矢である箸墓には触れないで、初期の大和古墳群との対比論にすり替えている。
また、久宝寺で庄内と伽耶の陶質土器との「共存」があって、布留はなかったのであるから、
庄内が無くて布留以後である箸墓は、当然庄内と陶質土器と布留の混合地の那珂八幡よりは、新しい事になる。
久住がいくら、
「その創出にあたっての「纒向型」の影響の蓋然性は否定しない」
なんて曖昧な言葉を使って匂わせた事が、
逆に、箸墓が、那珂八幡などを後から模倣進化させたものであった事をしめす。
0107日本@名無史さん
2017/06/17(土) 16:34:55.03>また、久宝寺で庄内と伽耶の陶質土器との「共存」があって、布留はなかったのであるから、
またzarakokuがニセ情報を流しているな
0108日本@名無史さん
2017/06/17(土) 16:42:22.60>畿内説の場合水行10日って日本海ルートと瀬戸内ルートどっち想定してんの?<
日本海ルートと瀬戸内ルートの、どっちを想定しても、
「南≠東」に引っかかるから、どっちも✖なの。
0110日本@名無史さん
2017/06/17(土) 16:50:17.61>>また、久宝寺で庄内と伽耶の陶質土器との「共存」があって、布留はなかったのであるから、<
>またzarakokuがニセ情報を流しているな<
私が見た久宝寺の、庄内と伽耶の陶質土器との「共存」場所の説明には、
布留の存在記載はなかった。
0111日本@名無史さん
2017/06/17(土) 17:14:04.61見たとは
どこで何を見たの?
0112日本@名無史さん
2017/06/17(土) 17:28:11.79おまえが見たのは河内の米田編年だろハゲ。
大和の布留0古が河内では庄内V
大和の布留0新が河内では庄内W
大和の布留1が河内では庄内X
アホwwwww
0115日本@名無史さん
2017/06/17(土) 17:33:19.57もし被害者が出るなら犯罪だよね。
0116日本@名無史さん
2017/06/17(土) 17:34:47.65近くの別の遺跡から出てるのを詐欺ダマシしてるんだね
0117日本@名無史さん
2017/06/17(土) 17:45:24.49「久宝寺遺跡と一連の大阪市平野区・加美遺跡1号方形周溝墓出土の短頸壺(図26)〔田中1996〕については議論も多いが、
陶質土器としてよかろう。庄内式期IIIに並行するという〔米田・奥田1996〕」。
つまり大和での布留0(古)。
わかったかズラ国。
おまえもう消えろ。
0118日本@名無史さん
2017/06/17(土) 18:12:09.27那珂八幡古墳は周りに一辺20m前後の大型のものを含む方形周溝墓群に囲まれ ている点が箸墓の立地と異なる。
外来系土器の搬入は多く,山陰系の甕・壺・注口壺,吉備系の甕・ 高杯,北四国系の壷,
防長系の壺,東海系の壷,庄内大和型発などがある。
朝鮮半島系土器も多く, 瓦質・陶質土器が出土している(久住2004)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
久住さんの編年では那珂八幡は布留0(古)
何が問題なんだ馬鹿なのか、浅読み曲解するな、ズラ国糞じじい。
0119日本@名無史さん
2017/06/17(土) 19:02:46.400120日本@名無史さん
2017/06/17(土) 19:21:50.980122日本@名無史さん
2017/06/17(土) 19:30:25.500124日本@名無史さん
2017/06/17(土) 19:51:22.640125日本@名無史さん
2017/06/17(土) 20:21:21.060126日本@名無史さん
2017/06/17(土) 20:39:03.440127日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:05:28.50むしろ長崎県を含むのでは?
0128日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:06:22.821番目の斯馬国は旧志摩(しま、嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は筑紫
5番目の彌奴国は嶺(三根)、佐賀県神埼郡三根村にある吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は博多
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖の安永田遺跡(佐賀県鳥栖市柚比町)
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女の室岡・亀ノ甲遺跡(福岡県八女市)
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国の範囲はおおむね筑紫国(後の筑前と筑後)に一致する。
筑紫国は、東に同盟国である豊国、南に時に敵対することがある肥国、北は対馬海峡を挟んで韓国、西は海である。
0129日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:09:33.01そうすると6番目は間違っているな。
最後は国邑ではなく城をまとめてあるのだな。
0130日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:10:59.53バカ丸出しのお仲間とバカ丸出しな事を好きなだけバカ丸出しに叫んできてください
ここはあなた方のようなバカ丸出しの方々はお呼びではありません
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1497059251/
0131日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:13:03.153番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市) 、五島は分国
4番目の都支国は早岐〜15番目の鬼奴国まで長崎県
16番目の邪馬国から20番目の烏奴國まで佐賀県
21番目の奴国は福岡県である
福岡県東部、大分県は倭国の兄弟国
0132日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:15:05.750133日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:15:53.340134日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:17:18.880135日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:17:46.43>見たとは どこで何を見たの?<
最初は、大分前に、Yahooでの議論で、大和説者が提示した文献で、
久宝寺遺跡で庄内と伽耶の陶質土器の共存の記載を見た。
その後、Yahooでのkssn(今はssn)との議論で、kssnが提示した、
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
で見たと思うが、
その議論の途中で一旦紀要から削除され、またしばらくしてから上の論考が出て来て、
それには、久宝寺遺跡で庄内と伽耶の陶質土器の共存の記載はなかった。
0136日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:24:02.780137日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:24:31.800138日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:30:35.92>おまえが見たのは河内の米田編年だろハゲ。<
おそらくそうだろう。
>大和の布留0古が河内では庄内V
大和の布留0新が河内では庄内W
大和の布留1が河内では庄内X<
米田?が、「庄内だ」と書いた事は実態であったんだろう。
しかし、その後、纏向の寺澤らの編年とのすり合わせをして、
編年の対応合わせ合いをした事も実態だったんだろう。
しかし、米田も寺澤も、明治大の佐々木論考も、始めから、
「大和の盟主王権の存在ありき」の、結論先にありきでの解釈をしている事は見え見えであり、
その時点で、発掘事実や実態にはある程度信用して上げても、
その解釈や編年や絶対年代説明に関しては、
「南→東」の嘘つきダマシである事がはっきりしているから、全く信用していない。
0140日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:34:22.910141日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:36:24.30>「久住論であり」というのは間違い 今後は「ザラコク論であり」と書きなさい <
関係がない。
大和説という嘘つきダマシの「結論先にありき」での解釈や説明の、半分×学者であっても、
ついうっかり歴史の史料事実や史料実態を書いてしまう事はあるから、
その部分は一定の価値がある、として、帰納的推論根拠に使わせて貰う。
0143日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:38:54.72>久宝寺で伽耶の陶質土器は出ていない <
それなら、米田の発掘報告書でも提示してみな。
0145日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:40:44.110148日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:44:01.75バカ丸出しのお仲間とバカ丸出しな事を好きなだけバカ丸出しに叫んできてください
ここはあなた方のようなバカ丸出しの方々はお呼びではありません
↓
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1497059251/
0149日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:44:20.74残りの半分は無知ゆえの誤解
0150日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:47:11.45>ザラコクがまた那珂八幡古墳から陶質土器が出ているかのようにワザと誤解させる詐欺をやってるのか
近くの別の遺跡から出てるのを詐欺ダマシしてるんだね <
また、
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
の「比恵・那珂遺跡群」から転写して上げよう。
古墳出現前後の時期には,遺跡の西縁に延長2.Okmに及ぶ「道路」を備え(久住1999b),
その「道路」は同時期の集落や墓地の方位・配置に強い規制を与えている。
比恵遺跡群北端では「運河」が掘削され,比恵遺跡群中央北部には倉庫群が存在する(久住2000a)
外来系土器の搬入は多く,
山陰系の甕・壺・注口壺,吉備系の甕・高杯,北四国系の壷,防長系の壺,東海系の壷,庄内大和型発などがある。
朝鮮半島系土器も多く,瓦質・陶質土器が出土している(久住2004)。
0151日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:49:59.59つまりザラコクはまだ那珂八幡古墳から陶質土器が出ているかのようにワザと誤解させる詐欺をやってるのだね
近くの別の場所から出てるのを詐欺ダマシしてるわけだ
0152日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:51:26.060154日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:54:02.630155日本@名無史さん
2017/06/17(土) 21:55:51.69>「久宝寺遺跡と一連の大阪市平野区・加美遺跡1号方形周溝墓出土の短頸壺(図26)〔田中1996〕については議論も多いが、
陶質土器としてよかろう。庄内式期IIIに並行するという〔米田・奥田1996〕」。<
そうか。
以前に読んだ時には加美遺跡には陶質土器の記載がなかったが、
陶質土器様の土器の出土があったんだな。
>つまり大和での布留0(古)。 わかったかズラ国。 おまえもう消えろ。<
米田と寺澤のような「結論先にありき」の、「南→東」の嘘つきダマシ学者同士での、
違う地域間の編年の擦り合わせなんて、信頼性が全くなく、
根拠にはならないよ。
0157subo
2017/06/17(土) 22:02:21.75末蘆国から東の伊都国経由で2千里
末蘆国から西に己百支国、伊邪国から東に行き長崎市あたりから諫早、鹿島、武雄
、有田、佐賀の山国から女王の所まで3千里
周旋5千里なのである
0160日本@名無史さん
2017/06/17(土) 22:04:08.680161日本@名無史さん
2017/06/17(土) 22:06:54.75バカの妄想とか誰も聞いてないから、な?
0163subo
2017/06/17(土) 22:08:00.72女王国以北21ヶ国、周旋5千里の説明をしたのである(いいな畿内厨
0165subo
2017/06/17(土) 22:16:13.89畿内説のチャップリンか、それともヒトラーか
0167日本@名無史さん
2017/06/17(土) 22:23:35.65纒向は倭人伝に基づく
邪馬台国や卑弥呼の物証が皆無と一番よく知っている学者
0169日本@名無史さん
2017/06/17(土) 22:28:03.110170日本@名無史さん
2017/06/17(土) 22:29:05.20どこ切り取ってもクズ
0171日本@名無史さん
2017/06/17(土) 22:30:30.920173日本@名無史さん
2017/06/17(土) 22:33:30.440174日本@名無史さん
2017/06/17(土) 22:44:23.33全部でむぱだし。
あんなでむぱで話が出来るのは知的水準が低い人間だけ。
九州でむぱで良し。
0175日本@名無史さん
2017/06/17(土) 22:53:22.90ありがとうございます。
でも杷木と玖珠は外せないかな。
大分県の大部分は隣国の豊国ですね。
邪馬台国は後の筑紫と肥前までですね。
肥後は狗奴国として独立をしていたと。
肥前の女王である壹與の時に筑紫と肥国は倭国の中心として統一されたのでしょう。
0176日本@名無史さん
2017/06/17(土) 22:56:11.99なかったわけはない。
ただ、関門海峡が通行できるようになったのが4世紀の仲哀天皇の時なんだ。
日本海の主要航路から外れていたんだ。
0177日本@名無史さん
2017/06/17(土) 22:57:37.470178日本@名無史さん
2017/06/17(土) 23:02:34.130180日本@名無史さん
2017/06/17(土) 23:03:32.760181日本@名無史さん
2017/06/17(土) 23:34:52.150182日本@名無史さん
2017/06/18(日) 00:07:02.06卑弥呼はどこにいたんだ?
邪馬台国と倭国、女王国はどの範囲?
皆が1と一緒の意見じゃないだろ?
ここはなぜか九州説の話しかねーのな
0183日本@名無史さん
2017/06/18(日) 00:10:29.600184subo
2017/06/18(日) 00:34:59.09どういたしまして
福岡県の東、大分県は違うような
0185subo
2017/06/18(日) 00:36:20.600186日本@名無史さん
2017/06/18(日) 01:34:56.63六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。
0187日本@名無史さん
2017/06/18(日) 01:36:39.98全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する狂人のみが発症する、心の病。
その症状は、自らに批判的な書き込みを、すべて畿内説スレの>>1◆q8leUXpsw.によるものだと思い込む、というもの。
原因は、逆立ちしても>>1◆q8leUXpsw.に遠く及ばないという圧倒的な差を自覚した上での被害妄想、
あるいは自らを客観視できなくなった六拾弐病患者による、自己に対する超絶な過大評価である。
0188日本@名無史さん
2017/06/18(日) 01:37:56.96邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないため、
日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている
0189日本@名無史さん
2017/06/18(日) 01:39:25.81卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。
0190日本@名無史さん
2017/06/18(日) 02:16:59.05但し邪馬台国は九州に存在した。
その違いは大きい。
0191日本@名無史さん
2017/06/18(日) 02:22:05.52>>>175
>どういたしまして
>福岡県の東、大分県は違うような
いえいえ。
大分県でも、日田、英彦山あたりまではむしろ筑後山門と同じ倭国の文化圏ではないかと思うのですが、玖珠はもう目の前なわけです。
のちの景行天皇の時の八咫の鏡の保有者である神夏磯姫の戦いは九州邪馬台国の内乱であり、大分県も西側は含まれているのかなと思います。
0192日本@名無史さん
2017/06/18(日) 03:36:43.763世紀初頭に纏向に大集落ができた。ヤマト王権の最初の王都
纒向は物流の拠点
箸墓の築造は三世紀のおわりごろ(西暦280年〜300年ごろ)
☝
まだ、あるが、
倭人伝と卑弥呼に関する根拠は推論、憶測に終始
結論として
寺澤の主張は畿内に3世紀に大きな国が有った。・・・・・・これは賛否あるが私はある程度理解できる
しかし。邪馬台国・ヒミコの登場する倭人伝物とのかかわりが薄弱故、寺澤は邪馬台国畿内説のパンチ力に欠ける。
0193日本@名無史さん
2017/06/18(日) 03:37:19.530194日本@名無史さん
2017/06/18(日) 03:42:06.000195日本@名無史さん
2017/06/18(日) 03:44:39.050196日本@名無史さん
2017/06/18(日) 03:49:01.200197日本@名無史さん
2017/06/18(日) 04:56:56.57学者なんて最小公約数しか言わないからね。
だからパンチ力に欠けて面白くないのは当たり前。
出雲や筑紫で硯が発見されたのだから、
弥生時代から文字があり、記紀の王統譜は基本正しいと考えたら、
一気に歴史が見えてくるのに、
いまだにスサノオ、ニギハヤヒなど神話上の人物であり、
そんな話をしたら恥ずかしいと考えてるのだろう。
ここの糞>>1も同じ。
纏向が瀬戸内の要素が極めて強い遺跡であるのなら、
瀬戸内勢力を引き連れて畿内入りした天神本紀のニギハヤヒ以外に何があるのだ。
それが分からないなんてもうアホとしか思えない。
当時は葛城鴨王朝だ。
神武も葛城に来た。
そして卑弥呼は葛城鴨王朝にいた。
纏向ではない。
0198日本@名無史さん
2017/06/18(日) 05:03:55.74邪馬台国畿内説を強力に押しているわけでは無い。
周りがそう決めつけているだけ。
0199日本@名無史さん
2017/06/18(日) 05:09:11.84古田史学は古代史界のパラリンピックだとして、
津田の言ってた事がことごとく考古学で覆りつつある。
崇神が4世紀初めとして、大和で大変革があった庄内0期まで約120年。
この120年が崇神以前に王がいたことを示す。
この時点で欠史8代などではない、8代は実在した。
箸墓は天皇で言えば7代孝霊あたりだ。
ではそれ以前の天皇は宮がどこにあった?
葛城だろ。
つまり葛城鴨王朝だ。
だからその時代、つまり箸墓以前は纏向の古墳も比較的小さいのだ。
何度でも言おう、卑弥呼は葛城にいた。
0200日本@名無史さん
2017/06/18(日) 05:12:38.44石舞台古墳のある広場一帯がその宮廷跡です。
0201日本@名無史さん
2017/06/18(日) 05:16:15.96スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
0202日本@名無史さん
2017/06/18(日) 05:22:27.25ヤマト王権発祥の地としているが、邪馬台国=ヤマト王権と断定していない。
先生の
主要な研究テーマは、考古学視点からの国家形成史、農業史、比較文化史である。
纒向遺跡についても重要な見解を展開している。とくに弥生墳丘墓や纒向型前方後円墳、
出現期古墳に関する研究では第一人者であり、土器型式に関して「布留0式」を提唱したことで知られる人。
寺澤先生を畿内説と勝手に決めつけないでほしい。
>>1も先生の文献を読んでると思うが・・・・・・考古学に興味を持ってもらうために邪馬台国や卑弥呼を出すこともあるが
纏向は邪馬台国の王都と断定していない。
0203日本@名無史さん
2017/06/18(日) 05:34:33.07卑弥呼と葛城地域はどんな関係だったと推測されるでしょうか?
これを「邪馬台国=纒向遺跡説」の立場から解説して欲しいところです。
三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡だという説があります。また、桜井市の箸中山古墳(箸墓)が卑弥呼の墓だという説−
つまり10代崇神帝の叔母倭迹迹日百襲媛が卑弥呼だという説−もあります。
これらの説を含んだ、邪馬台国は三輪山麓纒向遺跡だという説は有名です(私的には九州説を支持します)。
倭迹迹日百襲媛を卑弥呼に見立てるならばそれは崇神帝の治世とも重なります。
記紀の系譜に絡めれば、武内宿禰の前世代(葛城襲津彦の祖父の世代)の活動時期に重なってくるわけです。
崇神帝以前の大王家を葛城王朝と呼ぶ説があり(これもまた1つの説でしかありませんが)、
考元帝からさらにさかのぼった6代考安帝の「室秋津洲宮」は室宮山古墳のそばに比定されています。
この地域に、後に葛城氏を構成する有力勢力があったことは間違い無いでしょう。
三角縁神獣鏡が室宮山古墳から出土したということから、同古墳が葛城襲津彦の墓であろうが無かろうが、
葛城勢と卑弥呼の活動時期が重なりますね? そこに三角縁神獣鏡が絡むことになりますね?
そのあたりのつながりが「邪馬台国=纒向遺跡説」からどう考えられるだろうか? というのが「質問」です。
卑弥呼は三角縁神獣鏡を葛城勢に下賜したかとか、葛城王朝は、卑弥呼が擁立される前の倭国大乱の当事者だったかとか、
どんな関係だと考えられるでしょうか? このあたり、確定的なことがいえないのは分かっています。
推測で良いんで、「邪馬台国=纒向遺跡説」支持のどなたかお答え下さいませんか?
0204日本@名無史さん
2017/06/18(日) 05:47:18.980205日本@名無史さん
2017/06/18(日) 05:50:04.64>卑弥呼と葛城の関係は?
https://o-yan216.wixsite.com/mysite
0206日本@名無史さん
2017/06/18(日) 05:50:20.57居処したとしか言いようがないであろう。しからば、ヤマト国すなわち邪馬台国ということになる。」
(p24 纏向学研究第1号2013 寺澤薫「日本列島における国家形成の枠組み)
断定してるね
0207日本@名無史さん
2017/06/18(日) 05:52:07.380208日本@名無史さん
2017/06/18(日) 05:56:43.63神武が大和入りした後、
論功行賞で大伴や久米やウズヒコに土地を与えたのは分かる。
しかし突然、葛城の剣根という人物が出てきて混乱する。
ところが意味が分かった。
当時の葛城鴨王朝で言えば、
クシヒガタ(鴨王)、ヒメ踏鞴、剣根>>神武>>大伴、久米、ウズヒコ
剣根の方が神武より地位が上。
やはり神武東征は鴨王朝への婿入りの話。
神武は鴨王朝の傭兵隊長だろう。
0209日本@名無史さん
2017/06/18(日) 06:14:37.70>卑弥呼と葛城地域はどんな関係だったと推測されるでしょうか?
>これを「邪馬台国=纒向遺跡説」の立場から解説して欲しいところです。
邪馬台国=葛城王朝
物部=纏向遺跡
0210日本@名無史さん
2017/06/18(日) 06:44:25.51この投稿への返事は、2chが拒否して掲載してくれないようだから、
一旦パスね。
0211日本@名無史さん
2017/06/18(日) 07:16:17.41>「久宝寺遺跡と一連の大阪市平野区・加美遺跡1号方形周溝墓出土の短頸壺(図26)〔田中1996〕については議論も多いが、
陶質土器としてよかろう。庄内式期IIIに並行するという〔米田・奥田1996〕」。
つまり大和での布留0(古)。 わかったかズラ国。 おまえもう消えろ。<
庄内式期III→布留0(古)、という言い換え、なんて嘘つきダマシにしかならず、信用しないよ。
0212日本@名無史さん
2017/06/18(日) 07:24:44.74206 名前:日本@名無史さん 2017/06/18(日) 05:50:20.57
「魏志倭人伝に「・・・南至邪馬台国。女王之所都。」とある以上、卑弥呼はヤマト国の纏向遺跡に
居処したとしか言いようがないであろう。しからば、ヤマト国すなわち邪馬台国ということになる。」
(p24 纏向学研究第1号2013 寺澤薫「日本列島における国家形成の枠組み)
断定してるね
なるほど、>>202は、いまさらながら超あせってるのか
0213日本@名無史さん
2017/06/18(日) 07:31:56.60(2) ヤマト王権=卑弥呼の権力系譜
だがしかし、ここで注意すべき重大な点がある。『魏
志倭人伝』では、卑弥呼を一度として 「邪馬台国の女王」
とは書かない。 だから、私は 「邪馬台国」 とは弥生時代
以来の“ヤマト”国という部族的国家レヴェルの国でし
かなく、 あたかもかつての 「イト倭国」 のイト国のよう
な、邪馬台国を盟邦とした 「邪馬台国連合」 と言われる
ような部族的国家連合体などは存在しなかったと考えて
いる。邪馬台国と倭国女王である卑弥呼の王権とはその
権力系譜を異にするものと考えるべきであろう。 従って、
纒向遺跡はまったく新しい倭国 (王国) 体制 (ヤマト王
権=新生倭国) の大王都ではあっても、邪馬台国の王都
などではない。
0214日本@名無史さん
2017/06/18(日) 07:42:30.86通説では、邪馬台国女王卑弥呼が共立されて倭国女王となったんだろうから、
纏向=倭国王都=邪馬台国所都という理解だろうな
0215日本@名無史さん
2017/06/18(日) 07:49:36.92■国
国号:『日本』現存する世界最古で世界最長の国
王族:『皇族』現存する世界最古で最長の王族で世界で唯一の皇族
国歌:『君が代』歌詞が10世紀初めに編纂された『古今和歌集』の短歌の一つ
■紀元前
人類:独・マックスプランク研究所のJanet Kelsoのチームが科学誌「The American Journal of Human Genetics」
に発表したネアンデルタール人由来のTLR1とTLR6、TLR10遺伝子を最も多く持つのが日本人でどの集団よりも高く
約51%が持っていた。
磨製石器:群馬岩宿遺跡・栃木磯山遺跡等55地点遺跡から出土した3万?4万年前と推定される局部磨製石斧
土器:大平山元I遺跡の縄文式土器(約1万6500年前)
漆器:函館市南茅部地区にある垣ノ島遺跡から出土した漆塗り装飾品
■印刷物書籍書物
長編小説:『源氏物語』紫式部が著した初出は1008年(寛弘五年)の平安時代中期に成立した長編小説
印刷物:『百万塔陀羅尼』天平宝字8年(764年)に藤原仲麻呂の乱を平定した称徳天皇が100万巻印刷し奉納した
■建築物
博物館:『正倉院』奈良時代の756年に正聖武天皇のコレクションの700点以上を納めた世界最古の博物館
木造建築物:『法隆寺金堂および五重塔』601年に聖徳太子によって建立された
鉄骨鉄筋コンクリート造建築物:『大阪上天守閣』1931年に再建された
0216日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:01:42.60色々矛盾だらけだよ。分かっていて書いているんだろうが。
神武東征を何時と考えているか知らないが、2世紀末なら卑弥呼と卑弥弓呼の対立の時代。
神武東征の記述通り大和の地が卑弥呼や神武側に制圧されたなら、元は卑弥弓呼の支配域だったということだろう。
その時点で鴨王朝など当時はない。
0217日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:08:13.34>神武東征の記述通り大和の地が卑弥呼や神武側に制圧されたなら、元は卑弥弓呼の支配域だったということだろう。
なんでそうなるのか。
クナ国は静岡辺り。
問題なし。
0218日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:09:39.92>出雲や筑紫で硯が発見されたのだから、
>弥生時代から文字があり、記紀の王統譜は基本正しいと考えたら、
>一気に歴史が見えてくるのに、
途中までウンウンと読んでいたのに、
>そして卑弥呼は葛城鴨王朝にいた。
ここで飛躍するんだな。
鴨王朝はいいよ。
でも、卑弥呼とは関係ない。
0219日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:11:08.76>>>1も先生の文献を読んでると思うが・・・・・・考古学に興味を持ってもらうために邪馬台国や卑弥呼を出すこともあるが
> 纏向は邪馬台国の王都と断定していない。
詐欺の論法
0220日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:12:22.24>庄内式期III→布留0(古)、という言い換え、なんて嘘つきダマシにしかならず、信用しないよ。
信用するしないではなくて、米田さんの河内編年と寺沢さんたちの大和編年では指標が違うの。
おまえはそれが分からず庄内だと連呼してただけ。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/hennen.png
河内と大和を見てみ。
もう黙っておれ。
0221日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:18:38.60>ここで飛躍するんだな。
>鴨王朝はいいよ。
>でも、卑弥呼とは関係ない。
神武を大王だと思ってるだろ?
神武が大王であったなら7世紀に天皇なんて称号を創る必要はない。
神武は大王ではなかった。
発想の転換が必要。
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
0224日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:28:28.26>庄内式期III→布留0(古)
河内編年は庄内「式」にローマ数字
大和はアラビア数字
覚えておけ、ハゲ。
0225日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:31:50.98>ただ、卑弥呼とは関係ない。
崇神(4世紀初)の少し前にトヨという最高位の女性がおり、
その少し前にヒメという最高位の女性がいる。
これでもヒミコとトヨではないと言うのなら対案を出してくれ。
この人物こそヒミコとトヨだという対案だ。
まぁ出るわけがないんだけどねw
残念だがあきらめろ。
02261 ◆q8leUXpsw.
2017/06/18(日) 08:32:08.04前スレ950
>箸墓古墳は主体部の発掘が行われていないので
>最終的な年代はわからないが
>周濠の発掘物は4世紀以降のものである。
◆FAQ10を参照ください
ーーーーーーーー
前スレ953
(946へ)
>鏡は改鋳するから、同位体はあてになりませんよ。
>土器はほとんど出ていないので、意味がありませんよ。
>鏡の編年で評価すれば、後漢代には他に大型内行花文鏡の例がなく、倭国大乱の後としか考えられません。
>倭国大乱の後は卑弥呼が共立されるので、平原遺跡の八咫の鏡は卑弥呼の治世に鋳造されたことになります。
土器は出ているので意味があります
改鋳を理由にしても鉛同位体比の偏在を説明できません
鉛同位体比の分布は漢鏡6期から後漢鏡グループ(E領域)に移行しますので、E領域の配合が皆無である平原の仿製鏡の製造年代を引き下げることは無理があります
三世紀に銅素材が欠乏している状況があって、その状況下で鋳造されている仿製鏡の原料に6期以降の鏡が全く混入しない、という想定が異常に不自然であるからです
02271 ◆q8leUXpsw.
2017/06/18(日) 08:32:39.67(951)三輪山の伝説から、王統譜は捨象しているので、ダブルスタンダードになりません
>まったく意味がわかりません。
>それをダブルスタンダードというのです。
>非論理的ですよ。
結論しか言わないその発言は非論理的です
ーーーーーーーー
前スレ959
(946へ)
>2世紀の初めと2世紀の末ではまったく意味が違います。
>2世紀の末なら、卑弥呼の治世。
>まさか超大型内行花文鏡が2世紀の中頃まで作られたなどという、破廉恥なことは言いませんよね。
八葉鏡の制作年代が古い可能性も否定できませんが、伊都国の統属時期が女王共立より後である可能性の方が高いでしょう
02281 ◆q8leUXpsw.
2017/06/18(日) 08:33:03.42>主体部を掘って、装飾品が多いなどの
>根拠を持って、九州の女性墓は比定されていますが
>箸墓古墳を女性墓とする根拠は何でしょうか?
◆3を参照ください
ーーーーーーーー
前スレ965
(957へ)
>それを根拠に考古学会で通用すると思いますか?
文献研究は考古学系の学会の研究分野ではありません
02291 ◆q8leUXpsw.
2017/06/18(日) 08:33:24.48(964へ)
>根拠が示されていないからです。
築造企画の違いを根拠として掲げました
ーーーーーーーー
前スレ970
>>築造企画が違います
>定型化以前の纒向型バリエーションの範囲内でしょう。
>ここでもダブルスタンダードが用いられています。
セリエーションを理解されるといいでしょう
0230日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:33:44.7802311 ◆q8leUXpsw.
2017/06/18(日) 08:33:51.00(950へ)
>箸墓古墳は主体部の発掘が行われていないので
>最終的な年代はわからないが
>周濠の発掘物は4世紀以降のものである。
>この問題にも回答をお願いします。
◆FAQ10を参照ください
ーーーーーーーー
前スレ978
(951へ)
>すると あんたの考えではモモソ=ヒミコでよいですね?
◆FAQ6を参照ください
02321 ◆q8leUXpsw.
2017/06/18(日) 08:34:11.53>つまり纒向は那珂八幡のバリエーションに過ぎないのか。
>じゃあ前方後円墳も筑紫から伝わったと。
>簡単だな。
前方後円墳は箸墓が最初です
ーーーーーーーー
前スレ982
(975へ)
>数多くの事実を集めなければ論として筋が通りません。
>なお、三輪山伝説は記紀です。記紀には系統が記されてます。
>都合の良い部分だけ取り出すのはいかがなものか?
削偽定実が歴史研究の基本です
02331 ◆q8leUXpsw.
2017/06/18(日) 08:34:36.46>>1は南を東と読み替えないと成り立たない部分をどう説明してくれるのかな
成り立たない部分は無いと認識しています
0234日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:37:45.08さすがにこれはないわな
0236日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:40:19.18【地動説】記紀にヒミコはイの一番に出ている
わしは古代史界のコペルニクスだ。
0239日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:42:45.99非科学的で話にならない。
0241日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:43:39.66>前スレ989
>>>1は南を東と読み替えないと成り立たない部分をどう説明してくれるのかな
>
>成り立たない部分は無いと認識しています
要するに批判は相手にしないと。
話にならないな。
0242日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:44:59.33>>>237
>まともですが
>
>回答済みなので、記載した箇所を答えました
ちゃんと引用しろよ。
こんなのは回答ではない。
自身のサイトで書くべきことを載せて掲示板を独占しているだけだ。
0244日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:46:27.17>>>239
>訳の分からん決めつけや断定、妄想とは具体的に何のことでしょうか?
出だしからこれだけど。
>>1
>もう確定なのでロマンはありませんが
>勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
0245日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:46:54.81【天動説】記紀にはヒミコは出てこない
という男だ。
わし(天才)にとってはもの足りない。
わしは「【地動説】記紀にヒミコはイの一番に出ている」だ。
0246日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:47:00.2702471 ◆q8leUXpsw.
2017/06/18(日) 08:48:29.21「成り立たない部分」とは具体的には何のことか質問しました
回答がなければ、「成り立たない部分」は無いと了解いたします
0248日本@名無史さん
2017/06/18(日) 08:49:21.8202541 ◆q8leUXpsw.
2017/06/18(日) 08:56:40.830255日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:02:20.36自分の意見を一方的に押し付けるだけ。
そんなのは自分のブログにでも書いていろ。
0256日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:04:18.00古事記 「ヒメ」
これなら誰でもヒミコを連想するだろ。
でもそれは困る。
帥升=スサノオだとばれてしまう。
国王自ら渡海して朝貢という日本の歴史で最も不名誉な事実を日本人が背負わねばならなくなる。
だから細工した。
日本書紀 「ヒメ踏鞴五十鈴媛「
古事記 「ホト多多良伊須須岐比売命」
(別名を「比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)」といいます。)
名前を変えたのなら最初からヒメタタラにしておかねばいけない。
つまり
「ヒメ=ヒミコ」の印象をできるだけ潤色しようと必死だったという事だ。
「ウォーリーを探せ」みたいにしよったわけだ。
0258日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:17:29.06嫌われスレ主の一生。
ブログでやれ
0259日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:24:23.07>>930
平原1号築造年代の主たる根拠が、周溝出土の土器であることは、テンプレで述べた通りですが、鏡の鉛同位体分析の結果からも2世紀の製品でしょう
953日本@名無史さん2017/06/17(土) 11:03:53.78
>>946
鏡は改鋳するから、同位体はあてになりませんよ。
土器はほとんど出ていないので、意味がありませんよ。
鏡の編年で評価すれば、後漢代には他に大型内行花文鏡の例がなく、倭国大乱の後としか考えられません。
倭国大乱の後は卑弥呼が共立されるので、平原遺跡の八咫の鏡は卑弥呼の治世に鋳造されたことになります。
0260日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:25:32.282世紀の初めと2世紀の末ではまったく意味が違います。
2世紀の末なら、卑弥呼の治世。
まさか超大型内行花文鏡が2世紀の中頃まで作られたなどという、破廉恥なことは言いませんよね。
9771 ◆q8leUXpsw. 2017/06/17(土) 11:14:57.66
宴酣ですが、私はそろそろ落ちますので
0261日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:34:17.86そんなのは自分のブログにでも書いていろ。
0262日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:34:43.61>改鋳を理由にしても鉛同位体比の偏在を説明できません
>鉛同位体比の分布は漢鏡6期から後漢鏡グループ(E領域)に移行しますので、E領域の配合が皆無である平原の仿製鏡の製造年代を引き下げることは無理があります
>三世紀に銅素材が欠乏している状況があって、その状況下で鋳造されている仿製鏡の原料に6期以降の鏡が全く混入しない、という想定が異常に不自然であるからです
0263日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:35:48.460264日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:37:16.98答える気は皆無なんだな。
0265日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:37:18.202世紀の初めと2世紀の末ではまったく意味が違います。
2世紀の末なら、卑弥呼の治世。
まさか超大型内行花文鏡が2世紀の中頃まで作られたなどという、破廉恥なことは言いませんよね。
9771 ◆q8leUXpsw. 2017/06/17(土) 11:14:57.66
宴酣ですが、私はそろそろ落ちますので
0266日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:38:36.53卑弥呼の墓として祀られたのではなく、
倭国大乱で卑弥呼を擁立した一族があったわけだから、
その一族が代々祀られてると考えられる。
2世紀前半から続くその一族の神社をよく考えろ。
平原?
祀られてこなかったので論外。
箸墓?
2世紀前半から続いていない、これもダメ。
あるんだよね、高天原にw
0267日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:39:45.02>土器は出ているので意味があります
>改鋳を理由にしても鉛同位体比の偏在を説明できません
>鉛同位体比の分布は漢鏡6期から後漢鏡グループ(E領域)に移行しますので、E領域の配合が皆無である平原の仿製鏡の製造年代を引き下げることは無理があります
>三世紀に銅素材が欠乏している状況があって、その状況下で鋳造されている仿製鏡の原料に6期以降の鏡が全く混入しない、という想定が異常に不自然であるからです
0270日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:51:21.62じゃ、何でキウスしか言わないの?
0271日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:53:01.51Sineyo
0272日本@名無史さん
2017/06/18(日) 09:53:27.670273日本@名無史さん
2017/06/18(日) 10:38:19.83ただ、他の後漢鏡との差異は問題だな。
やはり古い素材を改鋳したと考えるのが自然かな?
0274日本@名無史さん
2017/06/18(日) 10:53:24.861 「私は知っていますよ。けど、必要がないので教えません。」
岡上「知ってるなら、言えば?うだうだ言ってないで」
1 「しない理由は既に述べました」
岡上「まるで小学生並の屁理屈ですね。」
0275日本@名無史さん
2017/06/18(日) 11:00:19.650276日本@名無史さん
2017/06/18(日) 11:06:52.76気を付けよう、暗い夜道とテンプレ詐欺
0277日本@名無史さん
2017/06/18(日) 11:07:38.240278日本@名無史さん
2017/06/18(日) 11:10:29.420279日本@名無史さん
2017/06/18(日) 11:18:38.710280日本@名無史さん
2017/06/18(日) 11:19:42.73チョソ乙
0281日本@名無史さん
2017/06/18(日) 11:25:48.20伝承や記録がまったく残ってないわけがない。
今でもどこかの神社でこの一族の人たちが祀られてるはずなのだ。
もっと言えば、80歳のお婆ちゃんに卑弥呼は誰かと聞かれて、はっきり答えられる人物でないとダメだ。
俺がお婆ちゃんに聞かれたら「えべっさん(事代主)の娘さん」だと答える。
0282日本@名無史さん
2017/06/18(日) 11:27:11.910283日本@名無史さん
2017/06/18(日) 11:27:28.950284日本@名無史さん
2017/06/18(日) 11:34:29.64>今でもどこかの神社でこの一族の人たちが祀られてるはずなのだ。
その「えべっさん(事代主)」を祀っているのが、全国で阿波だけなんですよ。
式内社「事代主神社」が全国で阿波にだけ(島根にさえ無い)あるように、事代主命は阿波の人物でしょう。 @阿波
0285日本@名無史さん
2017/06/18(日) 11:36:23.41木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
※神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
※今、ここ。
0287日本@名無史さん
2017/06/18(日) 11:56:03.42畿内説の成長力のなさをよく物語っている
0288日本@名無史さん
2017/06/18(日) 12:03:20.680290日本@名無史さん
2017/06/18(日) 12:27:42.14まあ前からいた人だが
0291日本@名無史さん
2017/06/18(日) 12:32:56.98いつまで引っ張ってんだよと
0292日本@名無史さん
2017/06/18(日) 12:35:23.250293日本@名無史さん
2017/06/18(日) 12:35:47.360294日本@名無史さん
2017/06/18(日) 12:36:26.720295subo
2017/06/18(日) 12:49:03.72@スレ主(妄想テンプレでおなじみ)
A孝霊厨(神仙思想で煙に巻く)
B岡上(内行花文鏡オタ)
C大野(妃のいない大王の妄想論文で天才などとうぬぼれる)
Dぱよちん(卑弥呼の達人、卑弥呼は九州、邪馬台国は畿内)
E沿海州豚(当然畿内説といいながら、カエル、デテクを連発する基地)
Fジョーカー(解放同盟のボス、多くの犯罪歴あり)
0296日本@名無史さん
2017/06/18(日) 12:57:58.120297日本@名無史さん
2017/06/18(日) 13:00:02.290298日本@名無史さん
2017/06/18(日) 13:00:15.620299日本@名無史さん
2017/06/18(日) 13:08:03.600300日本@名無史さん
2017/06/18(日) 13:10:49.16アイヌ語で百襲姫卑弥呼は三炊屋媛、長髄彦は孝元、事代主は孝昭、卑弥弓呼は崇神天皇
こんなのあったけど、読んだ人いる?
0302日本@名無史さん
2017/06/18(日) 13:15:19.25すると本人も詐欺師みたいなヤクザな仕事をしているんだろうな。
0304日本@名無史さん
2017/06/18(日) 13:48:58.92あぼーんNG推奨
コテハントリップ
1 岡上
南 → 東
鴨王朝
0305日本@名無史さん
2017/06/18(日) 14:27:07.45邪馬台国の都も防衛上の観点から奥津城にあっただろう。
大陸勢力が容易に侵入できない場所こそ邪馬台国の都にふさわしい。
大和でも吉備でも宮崎でも熊本でもいいが、
福岡だけはあり得ない。
福岡だと言ってるやつはバカなのか。
元寇の時、鎌倉幕府ではなく博多幕府だったら日本は終わってたよな。
それと同じ。
福岡厨、アホでカッペでまじウザいんですけど。
福岡って半チョソでしょw
0306日本@名無史さん
2017/06/18(日) 14:30:55.36「古代史界のパラリンピック」と呼ばれる連中がのさばってきたからな。
邪馬台国は福岡だと言ってるバカ、
早く消えてください、キモいです。
0307日本@名無史さん
2017/06/18(日) 14:33:41.95南 → 東
あぼーん
0308日本@名無史さん
2017/06/18(日) 14:39:22.90卑弥呼の時は中国とは戦っていなかった。
ただし、伊都国がある高祖山は博多湾を望む山城だから、防衛にはそれなりに適しています。
高祖城、怡土城などとして知られています。
ちなみに白村江の敗戦後は、唐から博多を占領に来ています。
0309日本@名無史さん
2017/06/18(日) 14:44:29.92>卑弥呼の時は中国とは戦っていなかった。
弥生時代、銅剣が福岡や対馬、銅鐸が畿内や中部と二分化している。
これは中国と戦ったかどうかではなく、
福岡や対馬を防衛の地域と認識してた証拠。
防人だな。
したがって銅鐸に見られるように近畿や中部を奥津城と意識していたので、
福岡に都はあり得ない。
0310subo
2017/06/18(日) 14:47:28.540311日本@名無史さん
2017/06/18(日) 14:50:42.72http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
武具はことごとく北部九州だろ。
そんなところに都はあるかい、馬鹿w
0312日本@名無史さん
2017/06/18(日) 14:51:51.27クラのなかにあった掛け軸や壺も売ったりしちゃったんだよ、
刀なんかも、いくつもあったんだよと言っているけど
いまの二本松のほうの話・・・伊達郡?
0313subo
2017/06/18(日) 14:52:52.06→江戸幕府打倒、明治時代
0314日本@名無史さん
2017/06/18(日) 14:53:46.35□□力夫氏と同じ家、読み方もそうだと言っていたり
0315日本@名無史さん
2017/06/18(日) 14:56:04.110318日本@名無史さん
2017/06/18(日) 14:57:22.20ヤマト、百済、平氏、南朝
0319日本@名無史さん
2017/06/18(日) 14:58:15.97と言っていたり
伊達郡川俣町という掲示板の話
0320日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:01:30.85読み方はわからないけど、この人の家なのかな、関係者?
0322日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:04:49.12お前らな、前方後円墳如きで邪馬台国を名乗るんじゃねーよ、平和ボケが。
なんか川の中州の倉庫なんて持ち出すし。一家揃って歴史歪曲か。おめでてーな。
よーしパパ勝利宣言しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、三角縁神獣鏡やるからその席空けろと。
倭国ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
筑後川の向かいに座った奴といつ戦争が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。畿内爺は、すっこんでろ。
0323日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:04:51.510324日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:08:47.76家の先祖の写真
キュウリの葉、葱の華・・・その他
0325日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:12:03.23と言っている人がいたでしょ
神奈川県の川崎区
0326日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:15:06.23と言っている
0328日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:19:43.33城に通っていて庭殿、庭殿様なんて言われていた、
たしか二本松とかそっちのほうだよ
0329日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:27:42.27家は□□力夫氏と同じ、読み方も同じような事を言っている
職はわからないけど、芝居や歌舞伎ばかり観に行っていた
0330日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:31:06.65その周辺に小手子の像というものが建てられているでしょ
0331日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:39:17.280332日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:45:33.93老婆のほうが詳しいというのは、どういう事なんだろう
老婆と言っても家?の嫁
0333日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:53:54.78宮内省 官司・・・
昔のことなので、よくわからないけど
0334日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:55:54.48ひとつ確信もって言えることは
「九州説、終わったな」
0335日本@名無史さん
2017/06/18(日) 15:57:16.630336日本@名無史さん
2017/06/18(日) 16:01:47.430337日本@名無史さん
2017/06/18(日) 16:14:16.480338日本@名無史さん
2017/06/18(日) 16:14:54.61>半島側に渡海能力
それは関係ない、原の辻では楽浪の遺物とともに出雲土器が出る。
海の向こうに先進文明をもった巨大な国があるという大陸の情勢を倭人は知ってただろう。
0339日本@名無史さん
2017/06/18(日) 16:18:00.79>倭国大乱とか、狗奴国との対立とか、邪馬台国は交戦中の国なので、武器がない国は邪馬台国ではない。
何を言ってるのか。
その武器を北部九州と言う防人地域に集めてたと言ってるわけだ。
都は奥津城にあって福岡にはない。
男王が70〜80年続いて倭国大乱だからな。
0340日本@名無史さん
2017/06/18(日) 16:42:04.33>天帝より授かり・・・
このような事が書いてあるでしょ
0342日本@名無史さん
2017/06/18(日) 16:46:33.92敵「渡来人どもめ〜」
主人公「海賊ごっこは終わり」と言っていたり
0343日本@名無史さん
2017/06/18(日) 16:50:53.35その神族〜テンノウ?〜から別れた一族などがいると
言っているけど
海賊 悪く言うとパチモノ
0344日本@名無史さん
2017/06/18(日) 16:52:39.46とも言うみたいだよ
あのガンダムの台詞にもあったとか
0345日本@名無史さん
2017/06/18(日) 16:59:00.41何かの家の直系なんじゃないのか?と言っている人がいたり
0346日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:05:37.84『伊達の桃太郎』門人?
読み方は、わからないけど、家は『ス』のほうだと言っている
0347日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:10:05.800348日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:13:49.270349日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:16:17.07>半島南部も倭人、倭人のみが渡海能力があった
それでもいい。
その渡海能力があったからこそ、大陸には大きく強い国があることも知っていた。
当時の中国は今のアメリカとEUを足したような感じだろう。
やはり防衛が必要だ。
だから防人を対馬にまで置いていたのだろう。
つまり卑弥呼のいた都は奥津城であって福岡ではない。
奥津城とは天然の要塞・大和であろう。
0350日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:20:35.64確か、赤いものに乗っていたよ
黄色に黒い馬のような絵が書いてある、
エンブレム、シンボル?
0351日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:32:25.00>奥津城とは天然の要塞・大和であろう。
何もないただの田舎
0352日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:36:07.11>(久宝寺遺跡)米田は発掘報告書を書いてない <
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
を見たら、米田は、別の人の発掘報告を見ただけであったようだったな。
0353日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:36:43.79ガンダムも無かった時代
0354日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:40:07.16大和説は、始めから「南→東」の嘘つきダマシのデマで出来ている。
そして大和説信奉者は、無知ゆえの「権力学者や文部省やマスコミ」などへの隷従者。
0355日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:43:40.57>つまりザラコクはまだ那珂八幡古墳から陶質土器が出ているかのようにワザと誤解させる詐欺をやってるのだね
近くの別の場所から出てるのを詐欺ダマシしてるわけだ <
那珂八幡古墳から陶質土器が出たかどうか?、なんて事は、知らないんだから、
そんな事をいう筈がない。
0356日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:44:35.76大和でも吉備でも宮崎でも熊本でもいいが、
福岡だけはあり得ない。
福岡だと言ってるやつはバカなのか。
元寇の時、鎌倉幕府ではなく博多幕府だったら日本は終わってたよな。
それと同じ。
0357日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:45:57.93>まだ誤魔化せると思ってるの? 那珂八幡古墳から陶質土器なんか出てないのは認めるよね?<
那珂八幡古墳は、まだ「全部の発掘を終わっていない」筈だよ。
0358日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:48:57.73>「九州説は理由を言わない」の法則<
大和説者は、「南→東などの嘘つきダマシをする」の法則。
0359日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:51:00.50大和でも吉備でも宮崎でも熊本でもいいが、
福岡だけはあり得ない。
福岡だと言ってるやつはバカなのか。
元寇の時、鎌倉幕府ではなく博多幕府だったら日本は終わってたよな。
それと同じ。
0360日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:51:26.46江南から船でどこでもいけるわ、ぼけ
0361日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:51:49.36家は□□力夫氏と同じ読み方だよと言っていたり
何なんだろう
0362日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:52:45.92???
0363日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:52:52.85邪馬台国は稲穂の国である
0364日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:54:56.22>野良猫にエサやるな
脳破綻クレー爺に学術論文の名前おしえると 必ずデマネタのハク付けに悪用するから <
「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・アホサギシに、もっともっと学術論文を提示させろ。
大和説学者は、アホだから、「ついうっかり」、
大和説にとっては都合が悪くなる情報を書いてしまって、
好都合だから。
0365日本@名無史さん
2017/06/18(日) 17:59:09.03>九州説 中傷だけが人生か? w <
大和説、大和説学者らの「南→東」などが嘘つきダマシである、という事も判らないアホ人生か?w。
0366日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:00:29.81松の木(もみ??)、シダ類、オジギソウのようなものが写っていたり、
浅野セメントに関係するところで仕事をしていた
0367日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:01:31.890368日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:11:51.39「南→東」などの史料事実の否定曲解がバレて、
悪口を言うしか無くなった大和説の、
末路がよく見える 。
0369日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:14:40.17大和説者全体が、日本の国のためにならず、癌だな。
0370日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:15:39.12何か関係しているのかな
アニメ、ガンダムseed?が何やら〜とか
0371日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:16:26.99大和「説」というのも烏滸がましい。
全部でむぱだし。
あんなでむぱで話が出来るのは知的水準が低い人間だけ。
大和でむぱで良し。
0372日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:17:43.570374日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:19:48.45実は、邪馬台国は雑穀の国だったんですよ。
弥生の大洪水により、全国の水田は崩壊し、稲作は出来なかったんですね。
だから稲作に替わる、畑での雑穀に活路を求め、その耕作技術を忌部一族が全国に広めていったんですね。 @阿波
0375日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:19:50.010376日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:23:17.52老婆の生まれる前?か、まだ結婚していない頃の出来事
家に嫁に来る前の出来事
0377日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:26:22.88>米田は、別の人の発掘報告を見ただけであったようだったな。
だから何なんだ。別の人って誰?
久宝寺が大和編年でいう布留には変わりない。
0378日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:29:51.34>何もないただの田舎
それは、まともな王墓のない九州の事ですねw
0379日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:33:04.90で、その北部九州を従えてた国はどこ?
考古学的にあるのかな?
その考え方の場合、
倭国の範囲は説によって違うが、
どの説でも、北部九州の従属を説明ができないと空論に過ぎん
時は3世紀前半、それが難しいのだよ。
0380日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:33:31.350381日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:36:43.06奴国と邪馬台国が中心である
0382日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:36:49.35老婆の体験談ではなくて、老婆の舅(姑)??の話
0383日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:37:14.79>畿内は寺澤説では狗奴国でも良いと思える。<
大和は、筑紫倭国の倭奴国から別れた別種の旧小国であるし、
「南≠東」であるから、「狗奴国=畿内」説も嘘吐きダマシにしかならず、
だから、寺澤説も嘘つきダマシである事になる。
0384日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:41:13.410385日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:41:46.00>で、その北部九州を従えてた国はどこ?
>考古学的にあるのかな?
九州を従えてた国は大和だ。
考古学的に従えるとはどういう事だ。
今の自衛隊が世界最先端の兵器を持っているからと言って、
宮内庁や天皇を従えてるとは言えないだろ。
銅剣や銅矛という武器より銅鐸と言う祭祀が重要。
つまり北部九州(銅剣)より畿内(銅鐸)が邪馬台国の都にふさわしい。
0386日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:45:40.40>寺澤先生は「纏向学の権威」 邪馬台国畿内説を強力に押しているわけでは無い。
周りがそう決めつけているだけ。<
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
に拠れば、
寺澤も、始めから「大和王権が列島の盟主であった」事、つまり「大和説」を前提にしている、
という説明になっているから、
「大和は、筑紫倭国の倭奴国から別れた別種の旧小国」という史料実態に違反し、
やはり嘘つきダマシのサギシになる。
0387日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:46:30.390388日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:47:43.250389日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:51:44.36>津田、江上、古田、彼らは結局古代史界の「荒らし」さん。 <
内藤、寺澤、スレ主、ssn、彼らは結局古代史界の「荒らし」さ。
>何度でも言おう、卑弥呼は葛城にいた。 <
何度でも言おう、葛城は、「南≠東」だから卑弥呼はいなかった。
0390日本@名無史さん
2017/06/18(日) 18:53:34.96>卑弥呼がいたのは明日香だよ。 石舞台古墳のある広場一帯がその宮廷跡です。<
「南≠東」だから、卑弥呼がいたのは、明日香にはならない。
0391日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:03:07.080393日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:10:03.48>>>1が寺澤先生の主張を活用してるだけで、寺澤先生は纏向は邪馬台国の王都と発言してない。
ヤマト王権発祥の地としているが、邪馬台国=ヤマト王権と断定していない。<
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
に拠れば、寺澤は、始めから
「大和が列島盟主である」という「結論先にありき」
での説明をしている。
>先生の 主要な研究テーマは、考古学視点からの国家形成史、農業史、比較文化史である。<
その時に、大和が列島盟主であったという前提での説明をしている。
>纒向遺跡についても重要な見解を展開している。とくに弥生墳丘墓や纒向型前方後円墳、
出現期古墳に関する研究では第一人者であり、土器型式に関して「布留0式」を提唱したことで知られる人。<
布留0式なんて、庄内と布留の混合状態であるだけであり、布留1に含めるべき。
>寺澤先生を畿内説と勝手に決めつけないでほしい。 >>1も先生の文献を読んでると思うが・・・・・・
考古学に興味を持ってもらうために邪馬台国や卑弥呼を出すこともあるが
纏向は邪馬台国の王都と断定していない。<
纏向を王都と断定していないくても、筑紫も含めた列島の盟主だ、とした論を主張すれば、
そりゃ「南→東」の嘘つきダマシのサギシだ。
0394日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:11:08.960395日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:11:23.16完全統一されている今の時代に比べるのはどうだろうな?
当時は卑弥呼が亡くなったらすぐにまた混乱するぐらいだったのに。
そんな中、国々をまとめるには、当然力も
必要。
0396日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:11:32.47歴史を捏造するのが仕事とは実にあわれである
0397日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:12:23.62>卑弥呼と葛城の関係は? 卑弥呼と葛城地域はどんな関係だったと推測されるでしょうか?
これを「邪馬台国=纒向遺跡説」の立場から解説して欲しいところです。・・・<
関係がありません。
0398日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:14:24.52>卑弥呼の王宮は室秋津島宮<
南≠東ですから✖です。
0399日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:21:51.22>で、その北部九州を従えてた国はどこ?
九州を従えていた国は倭国(阿波)なんですよ。
阿波から進出した、筑紫忌部が再興しました。
0400日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:22:21.29あまり見たことないような本や書なんかが沢山並んでいた
0401日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:33:33.54とかく声の大きい学者が力を発揮できた。
しかしそんな悪しき時代は去った。
今はネットで、情報も、学説も、うわさも一瞬のうちに広まる。
過去の論文も、書き物も、まやかし発言もしかり。
畿内説の底浅き限界もそこに見て取れる。
0402日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:35:08.46被災地?その周辺に犯罪者がいるんじゃないの、関係者とか
0403日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:35:22.10>続き (2) ヤマト王権=卑弥呼の権力系譜
だがしかし、ここで注意すべき重大な点がある。『魏志倭人伝』では、卑弥呼を一度として 「邪馬台国の女王」
とは書かない。
だから、私は 「邪馬台国」 とは弥生時代以来の“ヤマト”国という部族的国家レヴェルの国でしかなく、<
ははーん、寺澤?は、ここでも「邪馬台国」という史料に存在しない文言を造作して、
「邪馬台国=“ヤマト”国」という詭弁を使っているんだね。
> あたかもかつての 「イト倭国」 のイト国のような、<
なにこれ?。「イト倭国」なんて、全く存在しない。
という事は、寺澤のでっりあげ?。
>邪馬台国を盟邦とした 「邪馬台国連合」 と言われるような部族的国家連合体などは存在しなかったと考えて いる。<
アホな事を言わんといて欲しい。
卑弥呼や壹與は、共立女王だから、連合だよ。
>邪馬台国と倭国女王である卑弥呼の王権とはその権力系譜を異にするものと考えるべきであろう。
従って、 纒向遺跡はまったく新しい倭国 (王国) 体制 (ヤマト王権=新生倭国) の大王都ではあっても、
邪馬台国の王都などではない。<
全くのアホだね。「南至邪馬壹國、女王之所都」とはっきり書かれている。
だから、寺澤も、嘘つきダマシのサギシ。
0404日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:39:35.63そのようなスレッドもあったでしょ
何宗なんだろう、宗派?
0405日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:44:06.540406日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:49:37.75家の先祖の写真でしょ、
□□力夫氏と同じ家?読み方だよと言っている
0407日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:49:38.74>通説では、邪馬台国女王卑弥呼が共立されて倭国女王となったんだろうから、
纏向=倭国王都=邪馬台国所都という理解だろうな <
それは、大和が列島の盟主であった、という事が前提になっている事になり、
だから通説は、
「南→東」の嘘つきダマシだけではなく、
「大和が、筑紫の倭国の中にの倭奴国から別れた別種の旧小国」
という史料事実に対しても、
嘘吐きダマシをしている事になりますね。
0408日本@名無史さん
2017/06/18(日) 19:54:59.49>なんでそうなるのか。 クナ国は静岡辺り。 問題なし。<
「南≠東」だから、始めから「クナ国は静岡辺り」にはならず、✖。
0409日本@名無史さん
2017/06/18(日) 20:09:14.65>>庄内式期III→布留0(古)、という言い換え、なんて嘘つきダマシにしかならず、信用しないよ。<
>信用するしないではなくて、米田さんの河内編年と寺沢さんたちの大和編年では指標が違うの。<
「指標」や「伽耶の陶質土器の有無」も違う別々の編年の「擦り合わせ」をする事自体が、
嘘つきダマシしなってしまうではないか。
指標などが違う別のものであるんなら、(同じ部族ではなく)、
始めから一旦「別の部族である」という事から始めるべきなんだよ。
>おまえはそれが分からず庄内だと連呼してただけ。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/hennen.png
河内と大和を見てみ。もう黙っておれ。<
その「擦り合わせ」編年?は、以前にも示されたが、
嘘吐きダマシらのものであったから、関心もなく、信用もしていない。
0410日本@名無史さん
2017/06/18(日) 20:21:20.62>>庄内式期III→布留0(古)<
>河内編年は庄内「式」にローマ数字 大和はアラビア数字 覚えておけ、ハゲ。<
嘘吐きダマシの大和説学者が、勝手に造った記号など、関心も価値もない。
PCも素人の素人オジンは、PCに出てきた記号を使うだけ。
0411日本@名無史さん
2017/06/18(日) 20:26:19.13>崇神(4世紀初)の少し前にトヨという最高位の女性がおり、
その少し前にヒメという最高位の女性がいる。
これでもヒミコとトヨではないと言うのなら対案を出してくれ。 この人物こそヒミコとトヨだという対案だ。
まぁ出るわけがないんだけどねw
残念だがあきらめろ。<
対案など関係もない。
魏志倭人伝の記載事実であり、卑彌呼と壹與であり、
ヒメとトヨではない。
0412日本@名無史さん
2017/06/18(日) 20:51:25.03これを見て見ろ。
http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
武具はことごとく北部九州だろ。
そんなところに都はあるかい、馬鹿w
0413日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:00:15.64土木関係の社員、従業員じゃないよ
0414日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:10:54.52>◆FAQ10を参照ください <
嘘吐きダマシである事がバレている人間の命令は、お断りです。
FAQ10を転載してください。
>土器は出ているので意味があります<
箸墓のどこから出た土器ですか?。
>改鋳を理由にしても鉛同位体比の偏在を説明できません <
列島の銅鉱山がはっきり機能していなければ、
列島のホウ製鏡は、中国から齎された漢鏡の改鋳や、楽浪鏡師らの持参の材料銅や、
列島内の在庫の鏡の改鋳、などという「少量」になり、
鉛同位体比の偏在が発生します。
>鉛同位体比の分布は漢鏡6期から後漢鏡グループ(E領域)に移行しますので、
E領域の配合が皆無である平原の仿製鏡の製造年代を引き下げることは無理があります
三世紀に銅素材が欠乏している状況があって、
その状況下で鋳造されている仿製鏡の原料に6期以降の鏡が全く混入しない、
という想定が異常に不自然であるからです<
E領域とは、どこなのか?は知りませんが、
後漢鏡グループ(E領域)と、平原のホウ製鏡の材料銅と違った、という事で説明が付きます。
0415日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:12:25.57これが弥生終末期だったら共立は出雲なんだけどな
0416日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:13:23.85wiki『赤べこ』
仕事を手伝ってくれたという話
0417日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:15:26.12□□力夫氏と同じ家?
伊達郡というところの出身
0418日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:21:44.72何なんだろう
0419日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:25:17.07>八葉鏡の制作年代が古い可能性も否定できませんが、
伊都国の統属時期が女王共立より後である可能性の方が高いでしょう <
卑弥呼は、魏使らの見聞では、
(倭人の認識ではなく)魏使らの認識での「年已長大」の「長大=30〜35歳」ですから、
卑弥呼が生まれたのが、既に3世紀に入ってからになります。
そして、「伊都国の統属時期が女王共立より後である}というのも、
伊都国の武力が共立の保障であり、力になっていた可能性もありますから、
「統属時期が女王共立より後である」というのも全く根拠がありません。
0420日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:35:41.67>◆3を参照ください <
嘘吐きダマシのスレ主から命令されるのは嫌です。
必要と思われたら、転載してください。
>文献研究は考古学系の学会の研究分野ではありません<
学問の世界に、研究分野などと言った区別は有りません。
出来る限り全ての分野においての 「普遍性のある」帰納的推論をすべきです。
>築造企画の違いを根拠として掲げました <
その違いを具体的に言って貰わなくては、根拠を挙げた事にはなりません。
>セリエーションを理解されるといいでしょう <
セリエーションって何ですか?。
0421日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:40:18.64>◆FAQ10を参照ください <
転写するか、説明するか?、してください。
>>すると あんたの考えではモモソ=ヒミコでよいですね? <
>◆FAQ6を参照ください<
これも、転写するか、説明するか?、してください。
0422日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:52:46.80倭国大乱、そのままなんだが
0423日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:54:43.15>前方後円墳は箸墓が最初です <
無理です。
箸墓は、
庄内がなくて、布留であり、
久宝寺の陶質土器と庄内の共存や、
那珂八幡古墳付近でのTB〜UBの庄内と陶質土器と布留の混合、よりも明らかに新しく、
形状も、箸墓は那珂八幡古墳の模倣改良型になっていますから、
那珂八幡の方が古いです。
>削偽定実が歴史研究の基本です <
「偽と実」の判定のウソが、「南→東」でバレていますから、
削偽定実を標榜する事自体が、後代史書や後代でのダマシの出発点です。
0424日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:54:54.000425日本@名無史さん
2017/06/18(日) 21:58:25.81>>南を東と読み替えないと成り立たない部分をどう説明してくれるのかな <
>成り立たない部分は無いと認識しています <
史料事実は「南」なのであり、
「成り立たない部分は無いと認識」自体が、嘘つきダマシのサギシです。
0426日本@名無史さん
2017/06/18(日) 22:11:28.89『大膳』?
寺院に通っていたんだよ
と言っていたり
0427日本@名無史さん
2017/06/18(日) 22:13:57.69あれは上杉の話なのかな
0428日本@名無史さん
2017/06/18(日) 22:15:56.100429日本@名無史さん
2017/06/18(日) 22:18:16.480430日本@名無史さん
2017/06/18(日) 22:31:33.07>>朝鮮半島系土器も多く, 瓦質・陶質土器が出土している(久住2004)。<
> 久住さんの編年では那珂八幡は布留0(古)<
>>その「布留0(古)」は、那珂八幡古墳のどこから出土したんだ?。<
>何が問題なんだ馬鹿なのか、浅読み曲解するな、ズラ国糞じじい。<
庄内は、
那珂八幡地域よりも三雲の方が古かった(柳田)から、 三雲が列島庄内の始まり、という事になる事と、
大和説考古学者の「大和や河内などからの筑紫への搬入支配的」論という事の考古的説明がない、という事と、
那珂八幡地域での、庄内と伽耶の陶質土器と布留の共存状態がTB〜UB期であり、
那珂八幡古墳の布留(だけ?、UC?)と合わない事と、
久宝寺の庄内と陶質土器の共存には布留が存在しないから、 河内→筑紫の搬入支配の説明が付かないので、
布留も筑紫先行の可能性がある事になり、
だから、「箸墓の庄内無しで布留以後」も、那珂八幡古墳や久宝寺よりも後になってしまう、 という事だ。
0431日本@名無史さん
2017/06/18(日) 23:24:44.620433日本@名無史さん
2017/06/18(日) 23:40:14.19久宝寺で陶質土器が出たというのはデマ
「なお胎上分析によると29・126は久宝寺周辺で製作された可能性が高い。これらの上器が伽耶地域における嬉形土器・軟質両耳甕を模倣したものであるとすれば、韓式系土器の定義に当てはまるといえる」(発掘調査報告書)
0435日本@名無史さん
2017/06/19(月) 02:26:32.59因みに、日本最古のイエネコ(飼育されたネコ)の骨(弥生後期半ば)は
壱岐のカラカミ遺跡(高地性集落)で見つかっている
0436日本@名無史さん
2017/06/19(月) 03:24:41.71素人衆には学識豊かに見えたりして危険
0437日本@名無史さん
2017/06/19(月) 03:56:06.23ご都合主義はイカン
適当な時に来て、言いっぱなしはイカン
オウム返しはイカン トンズラもイカン
名無しはイカン
偏った自論だからしょうがないが、もう少し研鑽した方が良い。
0438日本@名無史さん
2017/06/19(月) 03:59:07.09『偏向』画像
0439スレ主さんよ
2017/06/19(月) 04:03:05.300440日本@名無史さん
2017/06/19(月) 04:03:17.580441日本@名無史さん
2017/06/19(月) 04:10:39.96南を東にするには、事例の積み重ねが必要です。
誤記とか、転写ミスは根拠がイマイチだから記述してないのはGOODですがね。
0442日本@名無史さん
2017/06/19(月) 04:10:57.130443日本@名無史さん
2017/06/19(月) 04:26:09.73どう考えてもデタラメだけどな
はやく頭の病院?精神科に行ったほうがいいぞ
0444日本@名無史さん
2017/06/19(月) 04:29:21.40と言っている人もいたはず、おそらく中華(漢人)視点からの書き込みだと思う
0445日本@名無史さん
2017/06/19(月) 04:38:30.080446日本@名無史さん
2017/06/19(月) 04:48:46.76あと、あの熊本の話とか
0447日本@名無史さん
2017/06/19(月) 05:33:24.340448日本@名無史さん
2017/06/19(月) 05:35:46.50という名前が出てくるような・・・何か関係しているのかな
0449日本@名無史さん
2017/06/19(月) 05:39:04.54創価なのか?創価じゃないのか?
と言っている人がいたり
ソウカ?何ていう宗派なんだろう
0450日本@名無史さん
2017/06/19(月) 05:44:49.25大和史学みたいな「古代史界のわかば学級」。
「古代史界のパラリンピック」と呼ばれる連中がのさばってきたからな。
「南→東」や「邪馬壹國は大和付近だ」だと言ってるバカ、
早く消えてください、キモいです。
0451日本@名無史さん
2017/06/19(月) 05:46:49.81責任を取って死ねと言っているんだよ、
お前に言っているんだと思う
0452日本@名無史さん
2017/06/19(月) 05:51:23.41>弥生時代、銅剣が福岡や対馬、銅鐸が畿内や中部と二分化している。
これは中国と戦ったかどうかではなく、
福岡や対馬を防衛の地域と認識してた証拠。
防人だな。
したがって銅鐸に見られるように近畿や中部を奥津城と意識していたので、
福岡に都はあり得ない。<
史料事実は、倭王武の「自昔祖禰・・・東征毛人五十五國」だよ。
0453日本@名無史さん
2017/06/19(月) 05:54:42.61このような事を言っている人がいたけど
「芸能人というのは何なんだ?」
0454日本@名無史さん
2017/06/19(月) 05:56:07.000455日本@名無史さん
2017/06/19(月) 05:58:10.22ひとつ確信もって言えることは
「大和説、終わったな」
0456日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:03:11.20モレ(仮)の出現まで、わからなかったの?
0457日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:06:36.48>>倭国大乱とか、狗奴国との対立とか、邪馬台国は交戦中の国なので、
武器がない国は邪馬台国ではない。<
>何を言ってるのか。
その武器を北部九州と言う防人地域に集めてたと言ってるわけだ。
都は奥津城にあって福岡にはない。
男王が70〜80年続いて倭国大乱だからな。<
http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
を見せてくれたよ。
0458日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:07:07.70なぜかkpop主演、
ここにもヤマモトという人物がいなかった?役名だよ
0459日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:10:10.87門人と書いてある人物、
この人物の名前を、もじったような人物も出てきたり
たしか叶雅道だったか真道
0460日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:16:52.96>>米田は、別の人の発掘報告を見ただけであったようだったな。<
>だから何なんだ。別の人って誰?<
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
には、別の人の名前も書かれていたような気がするな。
>久宝寺が大和編年でいう布留には変わりない。<
久宝寺の発掘報告を曲解した米田も、米田とつるんで久宝寺の土器を布留に変えた寺澤も、
どちらも史料事実の改竄をしている事になるから、
許し難い分裂幻覚妄想の病人だな。
0461日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:20:19.01>何もないただの田舎 それは、まともな王墓のない九州の事ですねw<
大和は、筑紫倭国の中の倭奴國から別れた別種の旧小国の、田舎の市を監督する大倭職のご大尽であたようですね?w。
0462日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:24:07.19>九州を従えてた国は大和だ。<
大和は、筑紫倭国の中の倭奴國から別れた別種の旧小国の、
田舎の市を監督する大倭職のご大尽であっただけのようですね?w。
0463日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:24:48.18畿内説もない
0464日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:25:13.47『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
☆銅鐸文化の消滅をこじつけでしか説明できない時点で近畿説はダメ
☆巨大古墳は、先住民(銅鐸民)の反抗を封じるために作られた無益なモニュメント
☆結果ではなく過程(強制労働)に意味があった
銅鐸民族の謎―争乱の弥生時代を読む 単行本 ? 2004/11
臼田 篤伸 (著)
銅鐸は「埋められていた」のではなく、「埋まっていた」のだ。「祭り」と「埋納」の呪縛による
銅鐸論の迷走を撃つ書。民族紛争の視点を導入し、銅鐸民族の侵入とその後の天孫族の侵略による
争乱の古代史を描く。
0465日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:25:33.54中国の話だよ
0466日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:26:47.94吉外のまま終わる人生
あぁ・・・
0467日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:27:30.38古事記、日本書紀・・・何だか知らないけど、引用と書いてあるでしょ
0468日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:28:23.92>>考古学会は古代史の荒らしである <
>そんなに事実から目を背けたいのかい?<
そんなに「南→東」などのウソを付いて、
文献考古のいずれの史料事実からも、目を背けたいのか?。
w
0469日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:31:40.86馬鹿は何も知らないというスレッドが建てられていたり
0470日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:53:35.50土着の長?渡来人?九州倭人?
0471日本@名無史さん
2017/06/19(月) 06:58:53.09記紀から土着の人では無い。
0472日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:01:01.16おかしな話になるけど『諸蕃』と書いてある人々だよ
0473日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:08:41.11それを誤魔化そうとしているのがいるんだよ
この天(天子)と言うは、ただの空のことだよ・・・とか
近代に入ってからの話なのか?
それともネットが普及してから、そうなったのか
いままでそうだと思っていた事が・・・違っていたからなのか
0474日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:10:54.71名無しのような人々がいるでしょ、名字がない?
0475日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:12:39.74今後の研究が進み関係が明らかになることを期待する。
0476日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:18:39.29天とは空のことだよ
と誤魔化そうとしているんだよ
実際は渡来系、諸蕃となっているでしょ、天子もそう
0477日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:20:57.16『天子神璽』
0478日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:26:03.92『聖化 日神 日霊 津』
◎天帝より授かった
0479日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:37:48.94朝廷が畿内で誕生したことぐらいかな?
古墳は年代が違うし、
困ったもんだ。倭人伝を無視しすぎだな。
0480日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:43:23.50女王の居城は、兵を持って守衛している、
(兵は)矛・楯・木弓を持ってる
・兵用矛,楯,木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃
女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察せしむ。
女王国の東、海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。
畿内厨は倭人伝そのものを読んでいない??
0481日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:44:23.07卑弥呼時代は弥生時代と考えられてきた。
しかし、畿内説の考古学者は、卑弥呼の墓はでかいからこれは古墳だ。
だから、卑弥呼時代は古墳時代だと言い始めた。
要するに、卑弥呼の墓が古墳の始まりというわけ。
近畿地方の弥生時代には鏡がない。鏡はだいたい古墳からしか出ない。
卑弥呼は鏡をたくさんもらったりしているから、弥生時代では話にならない。
古墳時代にしないとどうしようもない。
また、古墳時代にしないと、後の大和朝廷とのつながりもないことになる。
ところが、近年、それほど新しくもないが、箸墓よりもホケノ山古墳の
ほうが古いと言い出した。
http://www.kashikoken.jp/from-site/2000/hokeno.html
これが何を意味するかわかるかな。
最初に出来た古墳がホケノ山なら、ホケノ山が卑弥呼の墓ということになる。
しかも、ホケノ山から出た鏡は画文帯神獣鏡。
もちろん、画文帯神獣鏡が卑弥呼の鏡ということになる。
畿内説って、もうめちゃくちゃとしか言いようがない。
0482日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:46:18.08倭人伝には良く知られているように「有棺無槨」の記述がある。
しかし、ホケノ山は「石囲い木槨」とされる。木槨ということで
倭人伝の記述とは合わない。しかし、畿内説は木槨では槨ではないと
言い張る人も多い。
自分の都合を恥ずかしげもなく言い張るのが畿内説。
0483日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:51:10.32海の向こうから船で福岡に到着して、筑紫の日向に伊都国を立てた人たち。
でも出発地はそれほど遠くない。
船で往来が可能な程度なので、多分対馬海峡のどこかが出発地。
0484日本@名無史さん
2017/06/19(月) 07:59:41.13>これが弥生終末期だったら共立は出雲なんだけどな <
出雲も、「南≠東」だから、共立女王の国ではない。
0485日本@名無史さん
2017/06/19(月) 08:01:31.83高天原=北海道
黄泉国=東北
根国=関東
海神宮=竜宮=沖縄
0486日本@名無史さん
2017/06/19(月) 08:04:22.95これも正解と言えば正解
北海道や沖縄を応援したほうが良いんだよ
0487日本@名無史さん
2017/06/19(月) 08:08:30.89>倭国大乱、そのままなんだが <
「倭国大乱」なんて、ありません。
「大乱」とは、天子や皇帝に対しての反逆的な乱である事を示し、
倭国内の戦乱では使いません。
意味の変わる書き換えや、誇張表現の多い後漢書の、
半分×書たるの由縁です。
0488日本@名無史さん
2017/06/19(月) 08:20:44.39>久宝寺で陶質土器が出たというのはデマ
「なお胎上分析によると29・126は久宝寺周辺で製作された可能性が高い。
これらの上器が伽耶地域における嬉形土器・軟質両耳甕を模倣したものであるとすれば、
韓式系土器の定義に当てはまるといえる」(発掘調査報告書) <
へー?、発掘調査報告書には、それだけしか書かれていないんかい?。
しかし、私は、
久宝寺で、「伽耶人の渡来による陶質土器と、庄内の共存」という事の記載文を見ているし、
先日、久宝寺の近くの加美遺跡でも陶質土器的な土器の発掘があった投稿も見た。
どうなちゃったんだい?。
この投稿子が、また「言葉尻の切り取り」詐欺をしたんではないのかい?。
0489日本@名無史さん
2017/06/19(月) 08:22:57.50>「倭国大乱」なんて、ありません。
>「大乱」とは、天子や皇帝に対しての反逆的な乱である事を示し、
>倭国内の戦乱では使いません。
倭国の王位継承に関わる内乱のことを示しています。
つまり、筑紫倭国の内戦のことです。
畿内説が言うような、瀬戸内海賊が田舎娘を擁立したような話ではない。
ここへ来て急に魏志を否定してもしょうがない。
らしくないですよ。
0490日本@名無史さん
2017/06/19(月) 08:23:51.680491日本@名無史さん
2017/06/19(月) 08:25:51.65>だから野良猫にエサやるなと言った <
大和説に自信があるんなら、解釈や「南→東」のようなウソはいらんから、
もっともっと、史料事実や発掘事実だけを書いてくれ。
0492日本@名無史さん
2017/06/19(月) 08:32:32.20このスレッドの話じゃなかったのかな
0493日本@名無史さん
2017/06/19(月) 08:43:45.19>ザラコクは他人の会話でも小耳に挟んで下衆の勘繰りするからな <
「南→東」の嘘つきダマシのサギシの大和説人種は、
元々アホだから、
ついうっかり、史料事実や考古事実をしゃべってしまったり、
「南→東」の嘘つきダマシを糊塗するために、
ついうっかり、新たな「大和説によっては都合の悪い」事を事をしゃべってしまったり、
する人種だから。
0494日本@名無史さん
2017/06/19(月) 08:47:15.50見た見たって、どこで見た?
デマざらこく
0495日本@名無史さん
2017/06/19(月) 08:47:48.90>聞きかじり丸パクリで意味も知らない専門用語を使うから
素人衆には学識豊かに見えたりして危険 <
「南→東」などの嘘つきダマシの学者や大和説信者は、素人国民を騙そうとして、
聞きかじり丸パクリで意味も知らない専門用語を使って、
(うから
素人衆には学識豊かに見えたりして危険
0496日本@名無史さん
2017/06/19(月) 08:51:57.12>聞きかじり丸パクリで意味も知らない専門用語を使うから
素人衆には学識豊かに見えたりして危険 <
「南→東」などの嘘つきダマシの学者や大和説信者は、素人国民を騙そうとして、
聞きかじり丸パクリで意味も知らない専門用語を使って、
(自然や歴史においては有り得ない)「何でも絶対断定」的な言葉使いをするから、
素人衆には学識豊かに見えたりして危険。
0497日本@名無史さん
2017/06/19(月) 09:08:13.32大和説のアホ若造。
吉外の犯罪者のまま終わる人生。
あぁ・・・。
0498日本@名無史さん
2017/06/19(月) 09:11:46.210499日本@名無史さん
2017/06/19(月) 09:11:59.57『叶雅道』〜『天孫降臨』画像検索
0500日本@名無史さん
2017/06/19(月) 09:14:38.02>天孫族って、どこから来たの。 土着の長?渡来人?九州倭人?<
縄文人とは別であったらしい倭人としたとしても、
暢草を献じた時には場所が書いていないので、
山海経の「燕の南」から来た、という情報が一番古いようですね。
それと近いのは、呉王夫差の遺民で火の国山門に渡来した松野氏姫氏でしょうね。
0501日本@名無史さん
2017/06/19(月) 09:18:02.43と出てくるけど、それと熊本。あの地震とか。
0502日本@名無史さん
2017/06/19(月) 09:20:28.09日本には頭のおかしいのがいるのかな
日本の戦国時代?安土桃山時代?
その辺りの話ばかりしていたり
0503日本@名無史さん
2017/06/19(月) 09:24:07.14と言っている人もいたでしょ
0504日本@名無史さん
2017/06/19(月) 09:26:55.10縄文人とは別であったらしい倭人としたとしても、 暢草を献じた時には場所が書いていないので、
山海経の「燕の南」から来た、という情報が一番古いようですね。
それと近いのは、呉王夫差の遺民で火の国山門に渡来した松野氏姫氏でしょうね。<
縄文からで天孫族との繋がりもあった出雲は、出目がはっきりしませんが、
後に梁書に文身國と書かれていますから、何となく、
(東テイ人や侏儒國や縄文人と同じような)南方系のようでもあるんですが、
ズーズー弁であり、国引き神話で新羅や北朝鮮や沿海州との関係したようなので、
南方縄文系と大陸系の混合国家であったんでしょうね。
0505日本@名無史さん
2017/06/19(月) 09:38:17.54【地動説】卑弥呼は記紀のイの一番に登場する
よ〜く考えろ。
0506日本@名無史さん
2017/06/19(月) 10:57:32.09結局、>>498みたいな中傷はできても、ザラコクに反論できねえのかよ。
0507日本@名無史さん
2017/06/19(月) 11:23:56.95ウソツキには反論いっぱい出てるだろ
ボケだと弁護してやったのに何て言い草だ
0508日本@名無史さん
2017/06/19(月) 11:45:29.52>ウソツキには反論いっぱい出てるだろ ボケだと弁護してやったのに何て言い草だ<
ウソツキには、「南→東」などの反論いっぱい出してるだろ ?。
せっかく教えてやったのに、何て言い草だ 。
0509日本@名無史さん
2017/06/19(月) 11:49:54.670510日本@名無史さん
2017/06/19(月) 11:50:51.51それ、反論じゃないだろ
0511日本@名無史さん
2017/06/19(月) 11:54:19.41ザラコクに何を言っても無駄。
柳田は「三雲の庄内が日本で一番古い」など一言も言ってないのに、
言ったかのように嘘を言う。
そしてその個所を提示できない。
那珂八幡も同じ。
自分が河内と大和の指標が違う事を教えてもらっていながら、
畿内説者の言う事は関係ないなどとホザく。
この男はただ哀れな75歳。
吉外なので孫を頃すかもしれない。
夏までに氏んで欲しい。
0513日本@名無史さん
2017/06/19(月) 11:59:07.270514日本@名無史さん
2017/06/19(月) 12:00:18.720515日本@名無史さん
2017/06/19(月) 12:01:38.800516日本@名無史さん
2017/06/19(月) 12:11:01.11200年頃 ヒメタタライスズ 神武
ヒメタタライスズ 綏靖
ヒメタタライスズ 安寧
250年頃 アマトヨツ 懿徳 孝昭
270年頃 アマトヨツ 孝安
孝霊 孝元 開化
300 年 崇神
0517日本@名無史さん
2017/06/19(月) 12:23:47.500518日本@名無史さん
2017/06/19(月) 12:42:02.690519日本@名無史さん
2017/06/19(月) 12:53:20.19のち大学教授
0520日本@名無史さん
2017/06/19(月) 13:19:01.08だね
0521日本@名無史さん
2017/06/19(月) 13:22:43.62>久宝寺で伽耶の陶質土器が出たとか真っ赤なウソだから弁護する必要なし<
ほんの一日位前に、久宝寺の近くの加美遺跡で陶質土器と思われる土器を紹介された人もおり、
Yahooでの議論でも、東大出の京大教授クラスの天誅との議論で、
天誅も肯定していた「久宝寺の伽耶の陶質土器と庄内との共存」まで否定するような、
真っ赤なウソを付く人間には、弁護する必要なし。
0522日本@名無史さん
2017/06/19(月) 13:25:43.130523日本@名無史さん
2017/06/19(月) 13:31:05.270524日本@名無史さん
2017/06/19(月) 13:42:35.87>ザラコクに何を言っても無駄。<
「南→東」などの嘘吐きダマシの確信犯的は大和説者には、何を言っても無駄。
まるで、どこかの政権党政府の反応と全く同じ。
>柳田は「三雲の庄内が日本で一番古い」など一言も言ってないのに、 言ったかのように嘘を言う。
そしてその個所を提示できない。<
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm
で、柳田は、河内や大和などから搬入された庄内よりも古い庄内が三雲にある、
と証言している。
>那珂八幡も同じ。<
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
などでは、那珂八幡付近の庄内や布留や陶質土器はTB〜2Bであり、
那珂八幡古墳はUCの布留だ、と証言している。
>自分が河内と大和の指標が違う事を教えてもらっていながら、 畿内説者の言う事は関係ないなどとホザく。<
指標が違うものを恣意的に擦り合わせた寺澤と米田は、
「南→東」の嘘吐きダマシの大和説者であり、「結論先にありき」であるから犯罪的であり、、根拠にはならない。
>この男はただ哀れな75歳。 吉外なので孫を頃すかもしれない。 夏までに氏んで欲しい。<
この投稿子もただ哀れなガキ。
どこかの政権政府と同じように吉外的なので、子や孫を頃すかもしれない。
夏までに氏んで欲しい。
0525日本@名無史さん
2017/06/19(月) 13:47:24.32ザラコクって 近くの別の遺跡から新しい時代のもの出たという メチャクチャな理由で
那珂八幡古墳の時代を繰り下げようと、変な印象操作を企だててる老詐欺師だろ<
何これ?。
何の話なのか?、全く意味不明。
さては、「南→東」の嘘吐きダマシが嵩じて、錯乱状態になったか?。
0526日本@名無史さん
2017/06/19(月) 13:47:41.15>柳田は、河内や大和などから搬入された庄内よりも古い庄内が三雲にある、
と証言している。
その部分をコピペしろ。
出来ないとは言わせないぞ。
0527日本@名無史さん
2017/06/19(月) 13:53:26.60>吉外なので孫を頃すザラコク<
2chなどの掲示板に登場する「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説者らは、
何れも人種差別的戦争狂の吉外投稿者ばかりなので、
いずれは妻や子や孫や知人らも、戦争で頃させようとする事になるんでしょうね。
0528日本@名無史さん
2017/06/19(月) 13:56:04.95そういえば、この投稿子のssnも、
「竹島戦争」を鼓舞扇動する投稿を書いていましたねえ。
0529日本@名無史さん
2017/06/19(月) 14:15:22.46神代の伝承であるらしいこと(つまりかなり古い伝承)
元の場所の具体的な名前が出てこないこと
これらから、先祖は遥か昔にやってきたと伝わっていることが推量される。
「高い文明を持った弥生の支配層」がやって来たなら、こんな伝承にはならない。
そうであれば、故地の物語や故地での武勇伝、故地での身分などを高らかに謳い上げるだろう。
だけど、記紀はそうではない。
日本列島を作る話ある。
どこから来たか?
そりゃ、アフリカから旅してきたんだから、どこかを通って来たことは間違いない。
それが「いつ」であるか?
弥生の渡来人ではないってことだ。
九州の弥生初期の遺跡は、まるごと渡来人のムラなんていうものは存在しない。
縄文人のムラに、少しだけ新しいものが加わったというものしか見つからない。
「新しいものだけ」を取り上げると、あたかも「弥生人がやって来た」かのように報道され、
学者も、新しいもののほうが注目を浴びるからそればっかり強調する。
だけど、実態は「縄文人のムラに少しだけ新しいものが加わった」状態なんだよ。
まだ見つかっていないだけと強弁するやつがたまにいるが、もしひとつ見つかったから
といって「大量の支配層の弥生人がやってきた」ことにはならない。
これまでに見つかった大量の「縄文人もどきの」遺跡が消えてしまう訳じゃないからな。
0530日本@名無史さん
2017/06/19(月) 14:51:40.35天孫族(孫呉)は江南から来たんだよ
弥生時代にいっぱい渡来してきて政権争いが起きたんだよ
縄文人もどきとかなんだよ、ぼけ!
0531日本@名無史さん
2017/06/19(月) 15:13:53.44殷の滅亡と周の成立ぐらいの時期に弥生時代が始まってる年代観になるからね
半島にはない文化の高床倉庫や南方起源のイネの遺伝子とかがその物証とか言われるな
0532日本@名無史さん
2017/06/19(月) 15:50:21.20ザラこくの投稿からウソと中傷を取ると
何も残らないなあ
0533日本@名無史さん
2017/06/19(月) 16:26:32.16>福岡県定年退職後、出身校の國學院大教授 だね<
それなら、柳田氏は皇国史観大和説が見え見えだから、
「庄内では三雲が那珂八幡よりも古い」という自説を、
保留して当然だな。
0534日本@名無史さん
2017/06/19(月) 16:30:05.460535日本@名無史さん
2017/06/19(月) 16:30:57.52>最早、学問版ではないな。
スレ主の責任なり。
0536日本@名無史さん
2017/06/19(月) 16:36:53.56畿内政権からすれば、筑紫における神代の記憶がすでに遠い過去の物語になったいるから、さらにその昔まで遡らなかっただけでは?
弥生人の渡来は少数だったかもしれないが、高度な知識を持っていたから支配層に収まったのでは?
稲作には治水と暦が必要で、どちらも王の大事な仕事とされてきた。
稲作と王制は同時に輸入されたのだろう。
稲作を伝えた神の伝承は日本各地にあるからね。
イソタケルとかスサノヲだとか。
0537日本@名無史さん
2017/06/19(月) 16:38:21.06荒らしに来る馬鹿のせいだろ
0538日本@名無史さん
2017/06/19(月) 16:41:01.90>最早、学問版ではないな。<
2chは、始めから、
エッチ画像ばかり宣伝して、
読売や産経や週刊誌やNHKや民放テレビなどと同じように社内を右翼的上司を採用して、、
国民を享楽的な唯我独尊の女性差別の犯罪者的生活者をさせようとしており、
古代史に関しても、おそらく社内に右翼国家支配主義的上司を配置して、
zatakokuネームも拒否して、国民を右翼的方向に誘導しようとしているから、
学問的などとは決して言えない。
0539日本@名無史さん
2017/06/19(月) 16:44:19.69>>柳田は、河内や大和などから搬入された庄内よりも古い庄内が三雲にある、 と証言している。<
>その部分をコピペしろ。 出来ないとは言わせないぞ。<
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm
0540日本@名無史さん
2017/06/19(月) 16:44:57.04畿内説には逆立ちしても勝てないと
思い知らせちゃったから
九州説が荒らし専門になった
という意味では
スレ主の責任と言えるかもな
0541日本@名無史さん
2017/06/19(月) 16:48:27.96ほら、ザラコクがウソをついてたことがまた明らかになった
0542日本@名無史さん
2017/06/19(月) 16:50:05.91「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者の投稿から、
ウソと中傷を取ると、
史料事実の説明が殆どなく、何も残らないなあ。
0543日本@名無史さん
2017/06/19(月) 17:06:58.29証拠は?
0544日本@名無史さん
2017/06/19(月) 17:09:06.34弥生初期の遺跡で、王の墓って出てるのかい?
0545日本@名無史さん
2017/06/19(月) 17:22:20.230547日本@名無史さん
2017/06/19(月) 17:24:10.860548日本@名無史さん
2017/06/19(月) 17:25:41.91どんな証拠を出したと?
0549日本@名無史さん
2017/06/19(月) 17:30:28.000550日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:09:59.00>畿内政権からすれば、筑紫における神代の記憶がすでに遠い過去の物語になったいるから、
さらにその昔まで遡らなかっただけでは?<
少し違うようですよ。
新唐書に、
「日本、古倭奴也。去京師萬四千里・・・
其王姓阿毎氏、 自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。
彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」
と書かれ、
「王年代紀」を引用した宋史に、
「初主號天御中主、次曰天村雲尊、其後皆以尊為號、
次天八重雲尊、次天彌聞尊、次天忍勝尊、次贍波尊、次萬魂尊、次利利魂尊、次國狭槌尊、次角龔魂尊、次汲津丹尊、次面垂見尊、
次國常立尊、次天鑑尊、次天萬尊、次沫名杵尊、
次伊奘諾尊、次素戔烏尊、次天照大神尊、次正哉吾勝速日天押穂耳尊、次天彦尊、次炎尊、次彦瀲尊、
凡二十三世、並都於筑紫日向宮。
彦瀲第四子號神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮。即位元年甲寅、當周僖王時也。」
と書かれた、という事は、
大和には、記紀に書かれた情報以外の、始祖から神武までの伝承が実際に記憶存在していて、
記紀は、その情報群の中から、取捨選択して記載した、という事であり、
特に、大和天皇家が、「倭奴国の阿毎氏から別れた別種」である、という事になる証言は、
非常に重要な記録である、と思いますよ。
0551日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:15:29.99「南→東」の嘘つきダマシの大和説では、逆立ちしても九州説には勝てない、
と思い知らされちゃったから 、大和説者が荒らし専門になった、
という意味では、スレ主の責任と言えるかもな。
0552日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:20:04.59>ほら、ザラコクがウソをついてたことがまた明らかになった<
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm
ほらまた、この投稿子(おそらくssn)が、
柳田の「庄内は三雲が那珂八幡よりも先行した」という説明をしている事への、
ウソをついてたことが、明らかになった。
0553日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:34:49.21柳田は「三雲の庄内が日本で一番古い」など一言も言ってないのに、
言ったかのように嘘を言う。
ウソまみれザラコク
0554日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:36:59.42>弥生初期の遺跡で、王の墓って出てるのかい?<
王の宮殿や「三種の神器の副葬」の王の墓では、
現在の所、吉武高木(倭奴國王の墓?)などが一番古いんでしょう。
他にも三雲や井原なども、王墓の可能性があります。
しかし、支石墓や甕棺なども、
個人というよりは部族以上で頑張らないとおそらく出来ないでしょうから、
王の墓であった可能性はあります。
他にも、薩摩の上野原遺跡も、おそらく東テイ人の遺跡であり、
後漢に遣使を派遣したようですから、墓があれば王墓である可能性もあり、
足摺の巨大石遺跡も、侏儒國の王墓の可能性もあります。
0555日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:37:08.980556日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:39:04.18>>その部分をコピペしろ。 出来ないとは言わせないぞ。<
>http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm
そのリンクの文章のどこに「三雲の庄内が日本で一番早い」と言ってるのか抜きだせ。
おまえコピペできるだろ、ごまかすな。
0557日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:41:46.57ほら、ザラコクがウソをついてたことがまた明らかになった
0558日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:45:12.80ちなみにヒコナギサは筑紫日向三代、ニニギの孫で神武の父であるヒコナギサウガヤフキアエズのことです。
支石墓の頃から、博多湾沿岸または対馬海峡が倭国として認識されていたと言うことです。
0559日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:48:45.44なって日本を支配した」「だから朝鮮に近い九州に決まってる」
「未開の縄文人にクニを作れるわけがない」
相変わらず、騎馬民族説に侵されてるね。騎馬民族が長江の稲作民に変わっただけかもしれんけど。
「教えてやった」朝鮮人の書き込みもあるんだろうけどさ。
邪馬台国が畿内だとよっぽど都合が悪いらしいな。
朝鮮人が九州に渡り、稲作を教えてやって文明人にしてやったといいたいからな。
0560日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:51:54.38その権威を金印とともに継承したのが卑弥呼なので、卑弥呼も博多湾沿岸の筑紫日向の伊都国にいたわけですが、すでに神武が2世紀のうちに畿内に分かれているので、記紀には卑弥呼が記載されなかったことがわかります。
0561日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:55:38.83>>http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm
>そのリンクの文章のどこに「三雲の庄内が日本で一番早い」と言ってるのか抜きだせ。
おまえコピペできるだろ、ごまかすな。<
もう何度も書いたように、そのサイトには、
「三雲の庄内が日本で一番早い」という文章なんてないんだよ。
書いてある事は、三雲の庄内が、那珂八幡に存在する庄内よりも古い、という事までであり、
その那珂八幡の庄内には、
大和説学者のいう「大和や河内などからの搬入庄内」と、筑紫在地の胎土で造られた庄内」の両方があり、
それらよりも三雲の庄内の方が古いんだから、
だから三雲の庄内が列島で一番古くなる、
という事になるんだよ。
0562日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:57:17.37紀元前210年徐福は3千人の若者、職工とともに佐賀に上陸し平野を開拓し
吉野ヶ里となり邪馬台国へと発展する
そして稲作は九州から半島へと伝わる
本格的な騎馬民族は継体天皇のときである
0563日本@名無史さん
2017/06/19(月) 18:59:45.19天孫族(孫呉)の渡来は280年である
0564日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:13:41.81つまりなんの証拠もなく、ただザラコクが一人でウソをついてたわけだ
0565日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:20:05.80>その那珂八幡の庄内には、
大和説学者のいう「大和や河内などからの搬入庄内」と、筑紫在地の胎土で造られた庄内」の両方があり、
大和説学者のいう「大和や河内などからの搬入庄内」って本当か? 眉唾もんだな
0567日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:25:30.79そりゃあザラコクの又聞きだからウソだろう
0568日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:31:27.88ウソであれば、ウソで、畿内人が九州に入っていないことになるwww
0569日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:35:32.36>書いてある事は、三雲の庄内が、那珂八幡に存在する庄内よりも古い、という事までであり、
その那珂八幡の庄内には、
大和説学者のいう「大和や河内などからの搬入庄内」と、筑紫在地の胎土で造られた庄内」の両方があり、
それらよりも三雲の庄内の方が古いんだから、
だから三雲の庄内が列島で一番古くなる、
という事になるんだよ。<
なにを屁理屈こねてんだ、孫頃し。
「大和説学者のいう「大和や河内などからの搬入庄内」と、筑紫在地の胎土で造られた庄内」の両方があり、
それらよりも三雲の庄内の方が古いんだから」
それらよりも三雲の庄内の方が古いという根拠は?
0570日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:36:21.33呉の末裔を名乗る倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。
その畿内中心に広がったのが、方形周溝墓。
天孫降臨は記紀にも書かれている通り、ニニギの婿入り。
伊都国への婿入りだろう。
つまり天孫降臨は伊都国成立以降の話。
博多平野で、婿入りを示唆する考古学的所見は、1世紀中頃の方形周溝墓の受け入れ。(三雲南小路遺跡)
畿内にあった倭人によるクニ(倭国)からの婚姻を伴った天下り(地方官の派遣)が天孫降臨だろう。
元々伊都は倭人ではない人々の国であったが、1世紀中頃畿内の倭国から伊都国の王として、倭人を迎え入れたんだろうね。
0571日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:39:55.18倭人伝の記載で一致してるものを挙げて欲しい・・・・・・推理、憶測は無しで
0572日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:42:00.54>呉の末裔を名乗る倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。
>その畿内中心に広がったのが、方形周溝墓。
当然、九州を経由したに決まっているだろう。
畿内は九州の分家で、列島を代表していたのは筑紫なんだよ。
0573日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:42:16.550574日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:43:31.66調べてみるとわかる、アニメの話、というより元ネタ?
「カカロット お前がNO.1だ」
0575日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:44:02.45そんなに無い
あっても、畿内に限った事では無い 卜骨や丹
0576日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:45:06.29>相変わらず、騎馬民族説に侵されてるね。騎馬民族が長江の稲作民に変わっただけかもしれんけど。
>「教えてやった」朝鮮人の書き込みもあるんだろうけどさ。
何で畿内説の人って、すぐ朝鮮を持ち出すの?
何かコンプレックスでもあるのかな?
邪馬台国に牛馬はいないと魏志にあるのだから、騎馬民族なわけないじゃん。
そんなに朝鮮が好きなら向こうに帰れば?
畿内は一番、朝鮮系の遺伝子が強いらしいからね。
0577日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:46:02.560578日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:47:26.58この下戸遺伝子は突然変異で生まれ、中国江南を中心に広がったと考えられている。
◎本州の西日本では下戸遺伝子を持つ人の割合が50%を超えており、かなりの数の下戸遺伝子を持つ人々が渡来したと考えられること。
◎下戸遺伝子の分布には、2つの中心がある。
一つは紀伊、河内、大和。もう一つは能登半島。潮岬、能登半島は、長江から航海に出て東シナ海の海流に乗ると、自然と流れ着くポイントなんだよね。
◎備後、備中に飛び地のように下戸遺伝子の保有者が高頻度で分布していること。
◎畿内の分布において、下戸遺伝子保有者が多いのは、紀伊、河内、大和、伊勢、尾張、美濃なこと。
それらに比べて、丹波や近江は低いんだよね。
出雲も高くない。
ここからは、上記の事実を踏まえた個人的な推測。
紀元前に、江南から多数の人々が潮岬に渡来。
淡路島から現地人と融合しながら、河内、大和へ勢力を拡大。
その後、尾張氏の由来にもあるように、大和から尾張などの中部地方へ勢力を拡大した。
何らかのタイミングで備後、備中にも移住した。
能登半島周辺には、畿内とは別に江南から渡来した人々の影響を受けた勢力がいた。
出雲には、畿内や能登半島とは別の勢力がいた。
丹波や近江は、それらが混在する地であった可能性がある。
0579日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:48:24.70>天孫降臨は記紀にも書かれている通り、ニニギの婿入り。
>伊都国への婿入りだろう。
>つまり天孫降臨は伊都国成立以降の話。
筑紫日向の伊都国は、天孫降臨以前から倭国の都だったんだよ。
そこで政権交代があってニニギが降臨しただけ。
0580日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:49:52.67中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、河内や大和。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃が中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。
倭国大乱以前は、倭国はクニ=クナ(狗奴)と同一だろう。
0581日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:51:35.560582日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:52:32.73>畿内にあった倭人によるクニ(倭国)からの婚姻を伴った天下り(地方官の派遣)が天孫降臨だろう。
畿内政権が自ら筑紫日向にいたと書いているのは無視ですか?
すべての文献を無視しないと成り立たない畿内説って何でしょうか?
「凡二十三世、並都於筑紫日向宮。
彦瀲第四子號神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮。即位元年甲寅、當周僖王時也。」
0583日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:54:59.700584日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:56:14.71「日本、古倭奴也。去京師萬四千里・・・
其王姓阿毎氏、 自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。
彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」
筑紫日向、筑紫城、高千穂宮、高祖城、伊都国
すべて同じもの。
福岡県の西部にあるクシフル山の日向峠の麓の伊都国高祖宮のことです。
0585日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:56:56.75同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、それは元々伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。
0586日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:57:48.690587日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:59:33.78>淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
>国生み神話で最初に生まれる淡路島。
>イザナギの宮があったとされる淡路島。
イザナギの得物は銅矛ですよ。
国生み神話は博多湾のオノゴロ島すなわち能古島から始まります。
博多湾沿岸は考古学的には倭国の銅矛文化圏の発祥の地、稲作文化発祥の地、弥生王墓の始まりの地です。
文献も考古学も一切無視しないと成り立たない畿内説って、何の根拠もないただの妄想ですね。
0588日本@名無史さん
2017/06/19(月) 19:59:58.85ここからはあくまで個人的な推測。
倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。
伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。
河内彦の所領は河内であろう。
残りの泉北丘陵とそれに続く上町台地は誰が支配していたのだろうか?歴史が消された場所。
淡路島の向かいにある上町台地〜泉北丘陵にかけてがクナの王卑弥弓呼の本拠地だった可能性はないだろうか?
大物主を祀ることになるオオタタネコがいたのが泉北丘陵の陶村。その近傍に卑弥弓呼がいた可能性はないだろうか?
上町台地の先端にある大阪城の下or泉北丘陵の巨大前方後円墳の下に何かあるかもね。
0589日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:01:12.80日本書紀や日本書紀に異伝として書かれている他の4つの伝承でも、国生みで淡路島の次に生まれるのは大日本豊秋津州、本州(畿内が中心)であり、筑紫州ではない。
オノゴロ島も淡路島近傍の島ではないかと言われている。
おそらく国生み神話は畿内の倭人の伝承だろう。
大陸(江南辺りか)海流に乗り東シナ海を経て、黒潮→潮岬へたどり着いた人々が、淡路島に上陸し、その後河内、大和へ勢力を広げ、日本列島各地に広がったことを表しているのかもしれない。
0590日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:02:00.75>倭人とは、記紀で言えばイザナギ一派だろうな。
そうですね。
イザナギゆかりの地が筑紫日向小戸の橘に創建された小戸神宮や博多住吉大社です。
博多湾沿岸が倭国の発祥の地、倭国とは筑紫と同義語です。
卑弥呼もその倭国の女王でした。
0591日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:02:05.600592日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:04:59.24>1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
>面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
筑紫の倭国王のもとの地方自治体だったから、伊勢遺跡には王がいた形跡がないのです。
筑紫を頂点とする日本海ルートから畿内へ通じる分岐点として重要だったわけです。
0593日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:05:26.850594日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:06:55.69>倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
>記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。
そもそも倭国は博多湾沿岸の海洋民族から成立した王国です。
0595日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:07:22.43根拠なし。妄想。
0596日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:08:40.72歴史を捏造したらあかんよ。
0597日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:08:50.02>大陸(江南辺りか)海流に乗り東シナ海を経て、黒潮→潮岬へたどり着いた人々が、淡路島に上陸し、その後河内、大和へ勢力を広げ、日本列島各地に広がったことを表しているのかもしれない。
太平洋ルートは否定されていますよ。
弥生時代の主要交通路は日本海ルートです。
そこから外れた大和は辺境の地でした。
考古学的にも、他の地方より貧弱な出土物しかありません。
0598日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:09:22.23>自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。
>彦瀲子神武、、更以天皇爲號、徙治大和州
自天御中主、至彦瀲のぶぶんからして、
彦瀲の外戚(母方)の祖が、倭奴国の天御中主だったというわけだ。
んで、彦瀲の父方の祖のほうは瓊瓊杵尊。
つまり肥の邪馬台国と筑紫の倭奴国は、彦瀲の父母のとき政略結婚で親戚になったということな。、
0599日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:09:51.12根拠なし。妄想。
0600日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:10:01.030601日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:10:09.76根拠なし。妄想。
0602日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:11:03.94否定されてません。
根拠を示しなさい。
0603日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:23:12.30その点を無視しては駄目。
大まかには
1、長江河口→東シナ海の海流(回流でもある)→大隅半島の南をとおり黒潮本流に合流→潮岬
2、長江河口→東シナ海の海流→九州東岸を北上する対馬海流→能登半島
1のルートの途中、大隅半島から黒潮に乗り潮岬いたるルートが魏の使者を迎えたルート。
0604日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:31:34.84>彦瀲の外戚(母方)の祖が、倭奴国の天御中主だったというわけだ。
記紀では彦渚鵜葺草葺不合の母親は豊玉姫なので、遠賀川流域勢力、豊国が本来の倭国の本家だったのかも?
倭国とは、九州北部の豊国、天孫族の筑紫、後に卑弥呼らを輩出する肥国の連合国家と捉えることができます。
いわゆる邪馬台国連合です。
0606日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:33:48.99妄想垂れ流すなら、畿内説スレから出て行ったら?
閑古鳥が鳴いている九州説のスレに帰りなさい。
0608日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:37:00.10もともといた遠賀川の国津神とも合流して、順に倭国王を務め、2世紀には筑紫の天孫族が、3世紀には火の国の日御子が倭国王となりました。
0609日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:37:35.18考古学的証拠がありません。
0610日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:38:13.50もう一度、記紀を読み直してみては?
0611日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:38:58.40歴史を捏造したらあかんよ。
0612日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:40:40.91彦瀲第四子號神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮。即位元年甲寅、當周僖王時也。」
これが畿内大和朝廷の公式見解。
何を根拠にこれを否定しようとしているの?
0613日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:41:50.84だって、「大和や河内などからの搬入庄内」がウソなんだろ?
大和や河内などから搬入されてないんだから、畿内人が九州に来ていないことになるじゃん。
0614日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:42:47.49>畿内にあった倭人によるクニ(倭国)からの婚姻を伴った天下り(地方官の派遣)が天孫降臨だろう。
そんなところに天孫族はいませんでしたよ。
天孫族の象徴は矛です。
当時の畿内は銅矛文化圏の外です。
考古学を無視して妄想してもしょうがありません。
0615日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:43:58.250616日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:47:06.490617日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:48:33.990618日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:51:31.400619日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:51:44.150620日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:52:46.53だって、「大和や河内などからの搬入庄内」がウソなんだろ?
大和や河内などから搬入されてないんだから、畿内人が九州に来ていないことになるじゃん。 @阿波
0621日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:53:06.90筑紫日向のクシフル山の麓にあるのが伊都国の高祖宮、高祖城だから、これが筑紫城、高千穂宮のこと何だろうなあ。
倭国の代々の王墓は、この博多湾沿岸の日向の地にしか見つかっていないからね。
0623日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:54:02.52つまり畿内は倭国と交流のない辺境の倭種。
0624日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:57:12.72天孫降臨に代表されるように伊都国など地方の国々とも血縁を結んだりしてね。
倭国大乱を経て、吉備や伊勢尾張、丹波、宮崎日向の投馬国などが台頭。
畿内の倭国では卑弥呼と卑弥弓呼が対立。
九州では伊都国が投馬国と吉備を中心とした一大率に支配されることになる。
結局1世紀に栄えた旧勢力は卑弥呼を共立した国々に敗退することになる。
それと同時に神話や血統まで奪われ、クナや卑弥弓呼に至っては歴史上から抹殺されてしまう。
0625日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:57:38.48広義の倭国は筑紫(博多湾沿岸)、豊国(遠賀川流域)、肥国(有明海沿岸)の九州北部。
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
0626日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:58:50.96歴史を捏造したらあかんよ。
0627日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:59:26.770628日本@名無史さん
2017/06/19(月) 20:59:57.00倭人の淵源に関しては、やはり、
「大きくなった燕の南にいて、燕に属してした」
という記録は無視できないよ。
その頃の列島は、やはり南方系の東テイ人や侏儒國人やアイヌや蝦夷などの縄文系が先住していて、それに、
出雲などのズーズー弁族や、アソベや、ツボケや、越のオロチ族や、秋田美人の碧眼紅毛部族などが大陸から渡来して来て、
先住縄文系と混じって、各地に部族国家を作っていたが、
その中の出雲が、「国引き」をして列島の盟主的になっていて、
その上に、燕の南の弥生倭人(天孫族を含む)が海峡に渡来して来て、
一旦出雲の臣下のNo.2になっていたが、国譲り戦争に勝って、
筑紫にも(在地縄文系の?猿田彦を従えて)降臨して来て、
またそれとは別の「呉王夫差の遺民の姫氏」が火の国山門に渡来して来て、倭に合流した、
という事でしょう。
0629日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:06:27.31>>628
>出雲などのズーズー弁族や、アソベや、ツボケや、越のオロチ族や、秋田美人の碧眼紅毛部族などが大陸から渡来して来て、
この辺りは詳しくないので、解説いただけると嬉しいです。
0630日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:09:26.95>天孫族(孫呉)の渡来は280年である <
これはちょっと無理。
史料事実や史料実態に全く合わない。
新唐書に、
阿毎氏の神武らの東遷は、AD57年の倭奴国の筑紫城から出発した、
という事が書かれているから、
天孫族の渡来は、AD57年以前であった、という事になる。
。
0631日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:11:01.04補足
遠賀川流域に何もないみたいだけれども、もともと豊玉姫の一族も博多湾の志賀島にいた綿津見神だけれども、天孫族に圧迫されて東へ移動したと予想。
筑紫城高祖宮を出発した神武が立ち寄った北九州市の筑紫岡田宮は父方の祖母の実家にあたります。
0632日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:11:40.37>>その那珂八幡の庄内には、
大和説学者のいう「大和や河内などからの搬入庄内」と、筑紫在地の胎土で造られた庄内」の両方があり、 <
>大和説学者のいう「大和や河内などからの搬入庄内」って本当か? 眉唾もんだな<
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
0633日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:14:10.71同意する。
天孫族が都を1世紀頃に日向峠の東側の福岡から西側の伊都に移動したのです。
その王墓が漢委奴国王印を伝えてきた南小路遺跡です。
0634日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:17:19.53>呉の末裔を名乗る倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。
その畿内中心に広がったのが、方形周溝墓。<
そりゃ無理だ。
呉の末裔を名乗る姫氏は、「火の国山門」に渡来して来た事を証言し、
倭奴国王を出しているんだから、九州内にいたのであり、
「淡路島や畿内」に渡来する事は、無理だ。
0635日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:17:50.011世紀中頃に新たに委奴国に渡来して王族になったいう考古学的所見はない。
あるのは、畿内中心に広がった方形周溝墓の受け入れ。(三雲南小路遺跡)
天孫は新たな渡来ではない。畿内勢力からの婿入り。伊都国の王として招かれたんだろうね。
0636日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:19:59.11火の国は下戸遺伝子の分布が少ないエリア。
銅鐸文化の中心でもない。
火の国に、春秋時代の呉の末裔を名乗る根拠がない。
0637日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:22:26.400638日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:23:50.63なお、地域別の分布では関東が最多になります。
畿内は通過地点に過ぎません。
0639日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:25:17.49>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃が中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。
倭国大乱以前は、倭国はクニ=クナ(狗奴)と同一だろう。<
これも✖。
倭国も狗奴国も、「南≠東」だから、畿内や伊勢尾張ではない。
0640日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:26:26.13銅鐸は記紀にも魏志にも登場しない、邪馬台国とも大和朝廷とも関係ない文化です。
弥生時代の畿内の勢力は、人知れず消えていきました。
0641subo
2017/06/19(月) 21:26:41.87ちなみに天神族の渡来は紀元前210年である
0642日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:28:08.780643日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:29:53.77>伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。<
これも✖。
「南≠東」だから、淡路島は倭国の本拠ではない。
0644日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:30:12.44倭国大乱を経て、筑紫における卑弥呼の共立、それに賛同しなかった肥後熊本との対立。
0645日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:30:53.420646日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:31:41.290647日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:33:10.000648日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:33:35.22「畿内系土器が北部九州に見られる」のであって、畿内の土で作られた土器を畿内人が北九州に持ち込んだ
とは言っていない。
その「畿内系土器」とは、東阿波型土器を模倣したもの。 阿波から進出した、筑紫忌部がもたらしたものなんですよ。 @阿波
0649日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:33:48.97イワレヒコはニギハヤヒのもとに居候しただけだったので、4世紀の崇神が初国シラス天皇になったのです。
0650日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:34:30.00>オノゴロ島の伝承が残るのは畿内中心である。
日本書紀や日本書紀に異伝として書かれている他の4つの伝承でも、
国生みで淡路島の次に生まれるのは大日本豊秋津州、本州(畿内が中心)であり、
筑紫州ではない。<
後代8世紀の記紀は、半分偽書であるから、論拠にならず、
オノゴロ島の古伝承が残るのは、博多湾内の能古島である。
0652日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:35:52.030653日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:35:59.230654日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:36:35.20>オノゴロ島の古伝承が残るのは、博多湾内の能古島である。
それ、もう書いたよ。
0655日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:39:24.06まあ、政権交代するたびに初代がいて、それを示す符丁が天皇諡号の中の神の字なんですよ。
現在の天皇家の直接の祖は全国を席捲する八幡神社の神である応神天皇です。
南無八幡大菩薩。
0656日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:40:48.79新しい天皇は即位するたびに勅使を宇佐神宮に派遣して、報告したんです。
0657日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:41:37.390658日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:43:52.270659日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:45:35.48>基本太平洋ルートは海流に乗り、中国大陸の【長江河口】から日本列島への一方通行である。
その点を無視しては駄目。 <
根本的には、
「倭は、大きくなった燕の南に居て、燕に属していた」
という山海経の記載に合わないから、
それだけでは✖。
0660日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:48:46.08ヤマト、百済、平氏、南朝は伊勢神宮
明治に南朝になったから明治天皇は伊勢神宮に参拝したのである
ちなみに孝明天皇は北朝の天皇である
0661日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:50:42.480662日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:51:48.60崇神東征なんか考古学的証拠は何もない。
意図的に根拠のない嘘を撒き散らして何がしたいのかな?
0663日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:53:08.03生まれは筑紫の宇美。
宮は山口県の穴門豊明宮(現在の下関市忌宮)。または難波(関門海峡)大隈宮。
宗廟は大分県の宇佐神宮。
父親は博多住吉の神こと武内宿禰、筑後の高良玉垂命と同じ。
母親は筑紫を征服した神功皇后。宮は福岡県の筑紫香椎宮や山口県の穴門豊浦宮。
0664subo
2017/06/19(月) 21:54:07.570665日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:54:17.220666日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:55:48.01>記紀では彦渚鵜葺草葺不合の母親は豊玉姫なので、遠賀川流域勢力、豊国が本来の倭国の本家だったのかも?
倭国とは、九州北部の豊国、天孫族の筑紫、後に卑弥呼らを輩出する肥国の連合国家と捉えることができます。
いわゆる邪馬台国連合です。 <
根本的に、二中歴の、「517−39−569×2=−660」という計算になる二倍年歴証言に拠って、
神武即位は紀元前91年位になり、
だから神武の父のウガタフキアエズは、紀元前100頃以前になり、
卑弥呼らの共立連合時期とは、全く合わない。
0667subo
2017/06/19(月) 21:57:06.04纏向の突然発生は崇神東征である
0668日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:59:04.49>記紀では彦渚鵜葺草葺不合の母親は豊玉姫なので、遠賀川流域勢力、豊国が本来の倭国の本家だったのかも?
トヨタマヒメは、博多志賀島を本拠とした豪族、すなわち(倭奴国の)海神大神の娘じゃなかったかな?
0669subo
2017/06/19(月) 21:59:12.80九州説は99パーセントの文献と1パーセントの考古学から成り立っている
0670日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:59:19.05>そんなこと言ってる考古学者いないから <
「南→東」の嘘つきダマシの日本の考古学者や大和説者は、始めからサギシであり、
「ついうっかりの事実記載以外には)、人間的にも全く信頼性がないから。
0671日本@名無史さん
2017/06/19(月) 21:59:20.98日向三代と卑弥呼の間に倭国大乱が入るわけだけれど、その前の70〜80年の男王の時代が日向三代なら、鵜葺草葺不合は1世紀後半ですよ。
0672日本@名無史さん
2017/06/19(月) 22:00:32.04ああ、そうなんですが、天孫族が強くなると東に追いやられてしまったのではないですかねえ。
0673日本@名無史さん
2017/06/19(月) 22:11:05.18天孫族は、博多を占領したわけではないと思うけどね
それどころか、博多は海神大神一族(倭奴国)に任せ、
天孫族の主力は新天地を求めて瀬戸内〜大和方面へ向かったということでよいのでは・・・
0674日本@名無史さん
2017/06/19(月) 22:17:46.09元伊勢は九州に全くない。
0675日本@名無史さん
2017/06/19(月) 22:24:44.69天孫族と豊国との関係には少なからぬものがあると思う。
そして、倭奴国とは別に考えなくてはと思うけど、手がかりがないねえ。
0676日本@名無史さん
2017/06/19(月) 22:27:18.29>1世紀〜2世紀初頭、畿内のクナ=クニ(倭国)を中心に西日本は緩やかに纏まっていたんだよ。
>畿内の倭国では卑弥呼と卑弥弓呼が対立。<
これも、「南≠東」だから、全部✖。
0677日本@名無史さん
2017/06/19(月) 22:28:54.70少なくとも3代は博多湾沿岸にいたはずで、それが帥升らではないかと。
新天地に向かったのが2世紀なんでしょう。
倭国大乱は王位を脅かす内乱のことなので、王位を下された天孫族が東に落ち延びたのでしょう。
綿津見の神の倭奴国の権威は伊都国の天孫族から、卑弥呼に継承されたのでしょう。
0678subo
2017/06/19(月) 22:36:08.770679日本@名無史さん
2017/06/19(月) 22:38:57.21崇神までは、同床共殿で祀られていた天照大御神。
元伊勢や伊勢神宮内宮に祀られているのは天照皇大神である。
それとは別に、日向には天照大御神を祀る神社もある。
もしかして両者は別人であり、
天照大御神は卑弥呼、天照皇大神は台与を意味するのではないか・・・
0680日本@名無史さん
2017/06/19(月) 22:44:48.07古代の有力国は
すべて博多湾岸にあったという前提だと、つじつまが合わなくなり、
いつまでたってもなぞがほどけないな
やはり、佐賀平野と熊本平野に展開していた肥国連合という一大勢力を想定すると、無理なく読み解けるよ。
0681日本@名無史さん
2017/06/19(月) 22:46:02.830682日本@名無史さん
2017/06/19(月) 22:50:59.57伊勢神宮は持統天皇が阿波から移して、伊勢に創建したんですよ。 @阿波
0683日本@名無史さん
2017/06/19(月) 22:57:16.15たぶん卑弥呼と壹與は肥国の女王です。
でも倭国の都は伊都なので、共立された卑弥呼は伊都で郡使に面会し、伊都に葬られたのでしょう。
0685subo
2017/06/19(月) 23:10:28.780687subo
2017/06/19(月) 23:18:36.63末蘆国から2千里だから、伊都国は500里だし畿内は離れすぎやな
0688日本@名無史さん
2017/06/19(月) 23:21:28.22倭国の王都であった博多湾沿岸を、天神や国津神、海神らが取り合うのが倭国の歴史。
九州北部はなかなか統一されないが、その地域の富は列島の他の地域をはるかに凌駕し、博多湾沿岸を征服した者が中国に対して倭国王を名乗ることが可能だった。
ttp://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
具体的には筑紫、豊国、肥国の三王家の連合国家。
なお、熊襲は肥国王家の別名。
0690日本@名無史さん
2017/06/19(月) 23:25:41.36肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣秀吉の淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比v命といい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の辺縁であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0691日本@名無史さん
2017/06/19(月) 23:26:10.56対馬海峡の幅が三千里ですよ。
0692日本@名無史さん
2017/06/19(月) 23:26:48.14八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔であり、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であるとされ、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0694日本@名無史さん
2017/06/19(月) 23:57:42.780695日本@名無史さん
2017/06/19(月) 23:58:17.82女王の都は九州北部の中にある。
0696subo
2017/06/20(火) 00:10:52.74前原から纏向まで700キロ切るぐらいだろう
0698日本@名無史さん
2017/06/20(火) 00:28:08.22つまり帯方郡を出て北九州に来るまでの里数は全部間違いで、
そこから幾内への里数だけは間違っていないということかw
0700日本@名無史さん
2017/06/20(火) 00:56:55.54九州内で特定したとか、畿内は無理とか
そんな議論はできないね
0701日本@名無史さん
2017/06/20(火) 03:47:16.12>ですねえ。
>>出雲などのズーズー弁族や、アソベや、ツボケや、越のオロチ族や、秋田美人の碧眼紅毛部族などが大陸から渡来して来て、<
>この辺りは詳しくないので、解説いただけると嬉しいです。<
私も、専門的に詳しく調べた事ではありません。
日本の常識や、古田グループからの事実情報や、Yahoo時代の議論で得られた事実情報などを、
紹介しただけです。、
0702日本@名無史さん
2017/06/20(火) 03:48:27.03それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→「ヒメ」タタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマ「トヨ」ツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home
0703日本@名無史さん
2017/06/20(火) 03:57:35.060704日本@名無史さん
2017/06/20(火) 03:57:37.92>補足 遠賀川流域に何もないみたいだけれども、もともと豊玉姫の一族も博多湾の志賀島にいた綿津見神だけれども、天孫族に圧迫されて東へ移動したと予想。
筑紫城高祖宮を出発した神武が立ち寄った北九州市の筑紫岡田宮は父方の祖母の実家にあたります。<
凄いお話ですねえ。
まるで、古田グループで確認された難氏や都市氏や熊鰐氏の話や、姫氏の話を彷彿されますね。
立岩にも、ホウ製鏡が出ていました。
0705日本@名無史さん
2017/06/20(火) 04:02:15.26畿内説内部での話(推理、多数決)であり、考古学でオーソライズされたものではない。
私見であるが
畿内説は倭人伝の記述から遠いところにある説と思う。
0706日本@名無史さん
2017/06/20(火) 04:09:28.62>同意する。<
有難うございます。
>天孫族が都を1世紀頃に日向峠の東側の福岡から西側の伊都に移動したのです。
その王墓が漢委奴国王印を伝えてきた南小路遺跡です。<
ほぼ賛成です。
天孫族の歴代王墓に関しては、大阪市大の先生の正木氏がかなり詳論を書いておられましたが、
詳しい比定地は覚えていません。
0707日本@名無史さん
2017/06/20(火) 04:15:20.17http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
武器(北部九州)が銅鐸(畿内)を守ってるよね。
王権が畿内にあった証拠。
0708日本@名無史さん
2017/06/20(火) 04:19:53.49青銅器の分布地域が広義の倭国だ。
北部九州は防衛のための要所であって、こんな場所に王権なんて存在するわけがない。
0709日本@名無史さん
2017/06/20(火) 04:24:37.83平形銅剣で特徴づけられた地域だ。
この瀬戸内の首長がやがて纏向に進出する。
それがもう一つの天孫降臨・ニギハヤヒだ。
2世紀末の話だ。
0710日本@名無史さん
2017/06/20(火) 04:28:05.20>1世紀中頃に新たに委奴国に渡来して王族になったいう考古学的所見はない。<
一番古い「三種の神器」王墓の吉竹高木があるよ。
>あるのは、畿内中心に広がった方形周溝墓の受け入れ。(三雲南小路遺跡)<
大和は、倭国の倭奴國から別れた別種の、
地方の市を監督する大倭職の田舎の「旧小国」であったんだから、
方形周溝墓も、筑紫→大和に伝わった事になる。
>天孫は新たな渡来ではない。畿内勢力からの婿入り。伊都国の王として招かれたんだろうね。<
天孫族は、当然「燕の南」にいた倭人の中の一氏族であり、
大和に達する前は、当然九州に来ていたのであり、
その前は、当然、「燕の南」から、出雲王朝時代の海峡の「壱岐対馬や沖ノ島や半島南部」の「天國」に来ていたのであり、
それから筑紫に天孫降臨した事になる。
0711日本@名無史さん
2017/06/20(火) 04:46:15.53>火の国は下戸遺伝子の分布が少ないエリア。<
下戸遺伝子情報は、勿論現代人での遺伝子情報。
過去の歴史の中での半島経由の部族に数量が多かった、という事を示すもの。
>銅鐸文化の中心でもない。<
「鐸」は、中国や北方騎馬民族に淵源を持ち、
列島での銅鐸祭祀の初元は、出雲。
>火の国に、春秋時代の呉の末裔を名乗る根拠がない。<
新撰姓氏録や、松野氏姫氏系図や、日本書紀私記の「東海姫氏國」や、
魏略や魏志や、晋書や梁書や通典や太平御覧や通鑑前篇などに記載されている。
0712日本@名無史さん
2017/06/20(火) 04:48:04.40>方形周溝墓は福岡の東小田峯から始まり、東に伝播しました。
なお、地域別の分布では関東が最多になります。
畿内は通過地点に過ぎません。<
成程。ご紹介有難う御座います。
0713日本@名無史さん
2017/06/20(火) 04:50:58.91>ヤマト史観では天孫降臨の年代を捏造している
ちなみに天神族の渡来は紀元前210年である<
その「紀元前210年」の根拠は、何ですか?。
0714日本@名無史さん
2017/06/20(火) 04:56:26.85>神武は天孫族ではない、天孫族の崇神東征の投影である <
そりゃ無理。
記紀伝承や、後代の王年代紀や、新唐書や宋史などの記録を、全部否定する事になる。
0715日本@名無史さん
2017/06/20(火) 04:57:23.26スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
0716日本@名無史さん
2017/06/20(火) 05:02:18.07>「畿内系土器が北部九州に見られる」のであって、畿内の土で作られた土器を畿内人が北九州に持ち込んだ
とは言っていない。 その「畿内系土器」とは、東阿波型土器を模倣したもの。
阿波から進出した、筑紫忌部がもたらしたものなんですよ。@阿波<
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
では、胎土も「河内のものもあった」ように書かれていた筈。
0717日本@名無史さん
2017/06/20(火) 05:13:01.74>筑紫から畿内への東征は何度もあったのですよ。<
そりゃ、倭王武の上表文を見ても、「自昔」ですから、何度もあったんでしょう。
姫氏も、播磨や紀の国に来ていたようです。
>イワレヒコはニギハヤヒのもとに居候しただけだったので、4世紀の崇神が初国シラス天皇になったのです。<
崇神の「初国」は、「初めて手に入れた新領地の国」という意味であり、
神武の「始」の「始祖文言」とは違いますよ。
0718日本@名無史さん
2017/06/20(火) 05:17:24.530719日本@名無史さん
2017/06/20(火) 05:26:36.490720日本@名無史さん
2017/06/20(火) 05:40:40.11天照大御神や三種の神器何て関係ない。
天孫族以前に土着の文化が畿内に在った。
畿内に天孫族が外から謎のの150年に来たのではないだろうか
0721日本@名無史さん
2017/06/20(火) 06:30:04.35阿波から進出した忌部一族が、畿内を拓殖していっただけなんですよ。 @阿波
0722日本@名無史さん
2017/06/20(火) 06:37:58.34神武がニギハヤヒと和解した時に天神の子であることを証明したのは天の羽羽矢だった。
つまりその時は三種の神器は筑紫伊都の王家が保有していたということ。
少なくとも景行天皇の時は筑紫の梟師と書かれた神夏磯姫が三種の神器を持っていたとある。
0724日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:12:52.94畿内説は
倭人伝から、邪馬台国と卑弥呼の名を取り出しただけで
倭人伝の中身は殆ど無視。
畿内に邪馬台国が無ければいけないと言う理由があるのだろうか?
別に、ヤマト王権や朝廷の前に、倭国の盟主が畿内以外に有っても良いのだが。
0725日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:25:08.570726日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:26:10.72纒向では、王の継承はニワトリ
0727日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:26:11.45馬の搬入は対馬から九州で良いのか?
出雲が銅鐸ま古墳も発祥だろ?
250年以前の九州と本州の交流は半島より浅い
半島南部の韓から漢四群に道を開いたのは
倭人だが国内は?
瀬戸内海航路と山陽道の歴史で
時系列を整理出来てるか?
邪馬台国はくそ田舎。
0728日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:33:48.70>崇神は畿内ヤマトの初代王であり天孫王朝の始まりである <
半分×書である記紀でも、
神武東征に「日下」や「南方」という8世紀には認識出来ない「河内湾」の記録があるから、
神武のような人物の存在は否定し難く、
新唐書や王年代紀の宋史の証言もあるから、大和における神武始祖伝承は否定し難い。
0729日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:34:14.72倭人伝では貝類や生野菜はでてきますが、桃は記述されてないのは何故
纒向で大量に桃の種が出てきてるのに一言も倭人伝では触れていないのは何故
0730日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:37:38.69>>オノゴロ島の古伝承が残るのは、博多湾内の能古島である。<
>それ、もう書いたよ。<
了解です。
古田さんが、もう何十年も前に、能古島へ行って、
伝承収集をされた記載をしておられましたからね。
0731日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:37:58.85邪馬台国は畿内じゃないからです。
0732日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:41:32.85>まあ、政権交代するたびに初代がいて、それを示す符丁が天皇諡号の中の神の字なんですよ。
現在の天皇家の直接の祖は全国を席捲する八幡神社の神である応神天皇です。
南無八幡大菩薩。<
「諡号の中の神の字」は、当然「神様」という意味ではなく、
後代の造作時点での「神のような」という形容詞的な文字ですよ。
0733日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:41:58.57>邪馬台国はくそ田舎。
邪馬台国は筑紫の都。
畿内がくそ田舎なのです。
0734日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:42:48.16>>>722
>つまり三種の神器とやらが王権の印だとか言う話は記紀を根拠にはできない
王権が筑紫にあったと言うことだよ。
0735日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:44:44.87弥生時代の王墓は博多湾沿岸にしか見つかっていない。
中国の歴史書はずっと後まで、倭国王は筑紫にいると記している。
0736日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:45:33.20記紀は倭国(阿波)での出来事を記しています。
神武東征も乙巳の変も壬申の乱も全部、倭国(阿波)国内で起こった事件なんですよ。 @阿波
0737日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:45:50.05くそ田舎に7万戸もあるか。
湿地帯の畿内は無理だが。
0738日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:45:59.71いわゆる祖先神だな。
祖先を祭るのは当然のことだから。
0739日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:46:38.54だから、邪馬台国は畿内じゃないんだよ。
奈良盆地に7万戸なんてあるわけない。
0740日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:52:32.96>こういう妄想はどこから発生したのかな<
宇佐の重要性は、妄想でもなく、
天孫族の海人の阿毎氏のとっての、東方や南九州への進出起点の位置にあり、
参拝の拍手の数でも、出雲大社に次ぐNo.2的神格の神社でもあり、
応神も磐井も関わった神社であるから、
その後の大和天皇家の阿毎氏が尊崇しても何らおかしくない。
0741日本@名無史さん
2017/06/20(火) 07:55:37.54大和説は、99パーセントの無知妄想と、1パーセントの史料事実から成り立っている 。
0742日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:00:50.27奈良は倭国の外。。。。
倭種でもない、夷人の住んでいた場所だったのか。。。
0743日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:05:25.76100%の無知蒙昧だろ。
史実資料の要素ってどこだよww
0744日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:05:28.91>崇神までは、同床共殿で祀られていた天照大御神。 元伊勢は九州に全くない。<
あれ?、糸島には「伊勢」がありますよ。
「伊勢」の「伊」の文字は、当然「阿毎=アマ+イ」の「イ」であり、
伊都国や伊予や伊豆などの「伊」。
0745日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:06:55.16宇佐神宮は歴代天皇の崇敬も厚く、アマテラスよりも重要な皇祖とされてきたよ。
0746日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:08:36.83明治になってから糸島に表記が変わっただけ。
0747日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:09:34.380748日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:10:23.46>(subo)伊勢神宮は熊本の八代からの移築である <
あれ?、suboさんは、倭姫の問題をよくご存じ?ですねえ。
0749日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:12:55.95>>>722
>つまり三種の神器とやらが王権の印だとか言う話は記紀を根拠にはできない
畿内説は三種の神器の根拠はなんだと考えているのかな?
それとも三種の神器が王権の象徴とされてきた歴史そのものを否定するのかな?
0750日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:13:26.48kwsk
0751日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:15:01.86>妄想もっと多いと思う<
「南→東」の分裂幻覚の大和説者らの妄想は、もっと多いと思う。
おそらく99%以上?。
0752日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:24:41.78>2千里=800キロくらいだから ちょうど合ってる <
韓の方四千里の半分位だし、
狗邪韓國までの7千余里の3〜4分の1位だし、
各渡海幅の千余里の倍位だし、
海峡二国の見聞移動距離や、末盧國〜伊都国の500里もあるから、
末盧國から残り二千里以内では、大和には全く届かないし、九州からも出られない。
0753日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:41:53.92>だから何? ただの間違いでしょ<
「2千里=800キロくらいだから ちょうど合ってる」というのは、
史料事実や史料実態を否定曲解をする、ただの「嘘つきダマシの詐欺」なんでしょ?。
0755日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:45:40.150756日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:54:08.87>>前原から纏向まで700キロ切るぐらいだろう<
>現代人の足ならね しかし古代船は1日ごとに停泊しなきゃいけないので距離は大幅に伸びる<
結局、全て「倭人伝の間違いだ」と言う、
魏使らの実際の実地での見聞記録の「史料事実 や史料実態」否定の、
非学問的な分裂幻覚の妄想に、遁走するしかないらしい。
こんな・・・・人種に「南≠東」と言ってやっても、無駄で無意味であった訳。
0757日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:57:22.030758日本@名無史さん
2017/06/20(火) 08:57:38.95>間違ってるという確証のないところは間違ってないとして試算してもいいでしょ?<
「南」は、「間違ってるという確証」はないよ。
だから大和は始めから✖。
0760日本@名無史さん
2017/06/20(火) 09:26:34.170761日本@名無史さん
2017/06/20(火) 09:28:08.56>少なくとも信ぴょう性に疑問符のつくデータを使って 九州内で特定したとか、畿内は無理とか
そんな議論はできないね<
要は、確率の比較の問題だ。
魏使らが「南と東」を間違えない確率は、周髀算経を知っているからほぼ100%であり 、
間違える確率はほぼ0%。
一寸千里や簡易三角測量や記里車や歩測を知っている魏使らが、里数を、
有効数字1桁程度で記録出来る確率は90%以上であり、
6倍位間違える確率は殆ど0%。
世間の皆様。
大和説者と言う人種の特徴は、このように、
都合の悪い史料事実を、イチャモンを付けて曖昧化させて、
それで、自分らに都合の良い解釈を、可能性が高いかのように、
口先で宣伝する人種なんですよ。
どこかの国の政権政府も、最近全く同じような答弁や反論をしていましたね?。
0762日本@名無史さん
2017/06/20(火) 09:31:52.60周髀算経を知っているなんて証拠ないね
0763日本@名無史さん
2017/06/20(火) 09:47:07.70勿論「南は東」ではないし、
「卑弥呼」は「ヒメ」ではないし、
「壹與」は「トヨ」でもないし、
大和説者は、このように、史料事実を自由気ままに改竄した論理で、
世間の人々を騙そう、とする。
どこかの国の政府と全く同じ行為。
0764日本@名無史さん
2017/06/20(火) 09:55:19.57>弥生時代の青銅器の分布
http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
武器(北部九州)が銅鐸(畿内)を守ってるよね。 王権が畿内にあった証拠。
>青銅器の分布地域が広義の倭国だ。
北部九州は防衛のための要所であって、こんな場所に王権なんて存在するわけがない。<
ダメだよ。
大和は、倭国の中の倭奴国から別れた別種の旧小国、なんだから。
0765日本@名無史さん
2017/06/20(火) 10:00:44.73>面白いのは瀬戸内。 平形銅剣で特徴づけられた地域だ。 この瀬戸内の首長がやがて纏向に進出する。
それがもう一つの天孫降臨・ニギハヤヒだ。 2世紀末の話だ。<
ダメだよ。
瀬戸内も纏向も、「南≠東」で列島の盟主ではなく、
どちらも筑紫へ搬入上納しているから、
筑紫の支配下の地域だ。
0766日本@名無史さん
2017/06/20(火) 10:07:58.950767日本@名無史さん
2017/06/20(火) 10:18:57.40糸島半島と伊都の区別がつかないアホ
0768日本@名無史さん
2017/06/20(火) 10:24:23.03>三輪山神社の御神体は三輪山そのもの。
天照大御神や三種の神器何て関係ない。
天孫族以前に土着の文化が畿内に在った。<
大和は、元は出雲系で銅鐸祭祀部族などの居住地であったが、
そこへ神武らが侵入して殺戮占拠を、銅鐸を排除したもの。
>畿内に天孫族が外から謎のの150年に来たのではないだろうか <
神武東征は、紀元前1世紀。
0769日本@名無史さん
2017/06/20(火) 10:26:56.29畿内は邪馬台国ではない。
邪馬台国は銅矛文化圏、すなわち、九州にあった。
0770日本@名無史さん
2017/06/20(火) 10:27:29.76「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
0771日本@名無史さん
2017/06/20(火) 10:28:31.58だから記紀には、その後に筑紫倭国の女王となった卑弥呼が出てこない。
0772日本@名無史さん
2017/06/20(火) 10:37:25.340773日本@名無史さん
2017/06/20(火) 10:56:45.67>三輪山神社の御神体は三輪山そのもの。
>天照大御神や三種の神器何て関係ない。
>天孫族以前に土着の文化が畿内に在った。
その通り。
>畿内に天孫族が外から謎のの150年に来たのではないだろうか
150年って西暦150年頃の事?
橿原でみつかった前方後円形周溝墓はその時代だからありうるかも。
しかし卑弥呼はその天孫族ではない。
0774日本@名無史さん
2017/06/20(火) 10:58:17.79>神武東征は、倭国大乱が原因なので、2世紀。
神武東征は2世紀の末、卑弥呼の時代。
庄内0期。
0775日本@名無史さん
2017/06/20(火) 11:01:16.05邪馬台国とは九州から畿内の事。
其の国のどこに卑弥呼がいたのかが問題。
畿内でしょ。
■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
0776日本@名無史さん
2017/06/20(火) 11:16:40.27>そもそも八咫の鏡を含む三種の神器がいつ伊都から畿内に伝わったのかが記紀に明記されていない。
神武がニギハヤヒと和解した時に天神の子であることを証明したのは天の羽羽矢だった。
つまりその時は三種の神器は筑紫伊都の王家が保有していたということ。
少なくとも景行天皇の時は筑紫の梟師と書かれた神夏磯姫が三種の神器を持っていたとある。<
成程。
0777日本@名無史さん
2017/06/20(火) 11:25:13.56>つまり三種の神器とやらが王権の印だとか言う話は記紀を根拠にはできない <
Wiki:
『古事記』では天照大御神が天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊に「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、鏡、また草薙(くさなぎの)剣」を神代として授けたと記され、
『日本書紀』には三種の神宝(神器)を授けた記事は無く、
第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊の曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種(みくさ)の宝物(たから)を賜(たま)ふ」とある。
古代において、「鏡」、「玉」、「剣」の三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、
「支配者」一般の象徴であったと考えられ、
仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手らは、それぞれ白銅鏡、八尺瓊、十握剣を献上して恭順を表している。
また景行天皇に服属した周防国娑麼の神夏磯媛も、八握剣、八咫鏡、八尺瓊を差し出した。
また福岡市の吉武高木遺跡や壱岐市の原の辻遺跡からは鏡、玉、剣の組み合わせが出土している。
0778日本@名無史さん
2017/06/20(火) 11:32:44.51いつものキ〇ガイニートがお目覚めかな?
0779日本@名無史さん
2017/06/20(火) 11:38:54.15>その数字が間違いなだけだろ その証拠に規則性がなくてバラバラだわ 2千里あれば普通に畿内まで届く <
魏使らの「有効数字1桁程度の概数」の里数記録は、
6倍位もの大間違いは、しないよ。
0780日本@名無史さん
2017/06/20(火) 11:42:48.99「鏡」、「玉」、「剣」の三種の組み合わせは物部が外威となった時期から大王にもたらされた。
3世紀後半からだ。
畿内では桜井茶臼山あたりに出るしね。
それ以前、魏から鏡が送られたのは事実だが、
台与も卑弥呼も基本は三種の神器ではない。
0781日本@名無史さん
2017/06/20(火) 11:43:12.69>周髀算経を知っているなんて証拠ないね<
後漢末に再収集注釈をされた周髀算経の、計測法を読まなくては、
魏使らは方向も有効数字1桁程度の里数も、記録出来ない。
0783日本@名無史さん
2017/06/20(火) 11:52:10.26>>神武東征は、倭国大乱が原因なので、2世紀。<
>神武東征は2世紀の末、卑弥呼の時代。 庄内0期。<
神武東征は、二中歴の、
517−39−569×2=−660
に拠って、569年が二倍年歴計算された事になり、
これで逆算すれば、
517−39−569=−91であるから、
神武即位元年は、紀元前91年頃、
0784日本@名無史さん
2017/06/20(火) 12:01:30.71>「鏡」、「玉」、「剣」の三種の組み合わせは物部が外威となった時期から大王にもたらされた。
3世紀後半からだ。 畿内では桜井茶臼山あたりに出るしね。 それ以前、魏から鏡が送られたのは事実だが、
台与も卑弥呼も基本は三種の神器ではない。<
三種の神器は、大和の天孫族の阿毎氏に特有のものではなく、
部族王的な「支配者」一般の象徴であったと考えられ、
大和の阿毎氏も持っていたが、
筑紫の姫氏の高良大社でも、現在でも「三種の神宝」の行列のお祭りが行われている。
0785日本@名無史さん
2017/06/20(火) 12:10:34.93循環論法に陥ってる薄馬鹿
0786日本@名無史さん
2017/06/20(火) 12:48:06.08保管してある後宮に娘を入れてる藤原氏のための制度だろ
0787日本@名無史さん
2017/06/20(火) 13:27:38.88>古代において、「鏡」、「玉」、「剣」の三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、
>「支配者」一般の象徴であったと考えられ、
>仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手らは、それぞれ白銅鏡、八尺瓊、十握剣を献上して恭順を表している。
>また景行天皇に服属した周防国娑麼の神夏磯媛も、八握剣、八咫鏡、八尺瓊を差し出した。
>また福岡市の吉武高木遺跡や壱岐市の原の辻遺跡からは鏡、玉、剣の組み合わせが出土している。
逆に考えるんだ。
彼らは皆、筑紫倭国の天皇家の一族なんだ。
ただ、複数の王統、宮家が併存していたんだ。
天皇家同士であっても、記紀では普通に殺し合いをしている。
吉武高木はその全ての祖である原初の王の墓になる。
畿内天皇家はその分家にあたる。
0788日本@名無史さん
2017/06/20(火) 13:29:18.50>台与も卑弥呼も基本は三種の神器ではない。
根拠がない。
平原遺跡からは三種の神器の内容が出土している。
三種の神器の定型化は紀元前にさかのぼる。
0789日本@名無史さん
2017/06/20(火) 13:30:25.15九州には、古代天皇の湯治行幸記録が無い。
九州には、天皇宮中祭祀のお呼びが無い。
よって、九州には、邪馬台国は無かった。 @阿波
0790日本@名無史さん
2017/06/20(火) 13:31:33.76>3世紀後半からだ。
>畿内では桜井茶臼山あたりに出るしね。
畿内の三種の神器は筑紫より500年ほど遅れている。
つまり、それまではそもそも大王家が畿内にはなかった。
平原遺跡が3世紀でも2世紀でも、三種の神器が含まれていたことは、筑紫が王都であったと言うこと。
0791subo
2017/06/20(火) 13:32:17.900792subo
2017/06/20(火) 13:35:53.73>畿内の三種の神器は筑紫より500年ほど遅れている。
天神降臨が紀元前210年、天孫降臨が280年だから500年ほど遅れている
という意味か
0793日本@名無史さん
2017/06/20(火) 13:40:36.99それが王権となんか関係あると言う根拠は?
0794日本@名無史さん
2017/06/20(火) 13:49:48.36残ったのは、臭い匂いする亡者だけ
0795日本@名無史さん
2017/06/20(火) 13:51:25.850796日本@名無史さん
2017/06/20(火) 14:13:31.60煎じつめると
九州説が正しいから畿内説は間違いだ
としか言ってない
0797日本@名無史さん
2017/06/20(火) 14:25:38.76つまり
王権のシンボルなんかじゃない
ってことね
0798日本@名無史さん
2017/06/20(火) 14:49:55.38天孫降臨に代表されるように伊都国など地方の国々とも血縁を結んだりしてね。
倭国大乱を経て、吉備や伊勢尾張、丹波、宮崎日向の投馬国などが台頭。
畿内の倭国では卑弥呼と卑弥弓呼が対立。
九州では伊都国が投馬国と吉備を中心とした一大率に支配されることになる。
結局1世紀に栄えた旧勢力は卑弥呼を共立した国々に敗退することになる。
それと同時に神話や血統まで奪われ、クナや卑弥弓呼に至っては歴史上から抹殺されてしまう。
誰がどの神話、血統を奪ったのか?
天孫降臨、ニニギの方は分かりやすいな。
記紀に書かれている通り、神武。
クナ、卑弥弓呼の方は誰かな?
沢山いそうだが、分かりやすいところでは、ニギハヤヒ。ニギハヤヒ自体虚像だろうけど、ニギハヤヒの末裔を名乗る人々がクナの神話を奪った一味に含まれるかもね。
魏志倭人伝当時の女王国の状況を解明するには、次はクナの神話を奪った集団を明らかにしていかないといけない。
0799日本@名無史さん
2017/06/20(火) 14:58:39.460800日本@名無史さん
2017/06/20(火) 15:08:00.320801subo
2017/06/20(火) 15:19:21.35卑弥呼の時代の倭国とは北部九州であり、その当時の畿内の葛城王朝(鴨王朝)
は倭国ではない
天孫(孫呉)降臨は280年である
0802日本@名無史さん
2017/06/20(火) 15:23:18.14はい、残念ですが、完全に破綻しました。
0803日本@名無史さん
2017/06/20(火) 15:24:30.82>畿内の三種の神器は筑紫より500年ほど遅れている。
それはそうだ。
>つまり、それまではそもそも大王家が畿内にはなかった。
いや大和に大王家があった。
あったから神武もニギハヤヒも中臣の祖・タネコも忌部の祖・天富もみんな大和に来たのだ。
来た時期は2世紀末、王権の場所は神武の住んだ葛城だ。
三種の神器は元々瀬戸内〜九州系の文化であるというだけ。
前方後円墳もそうだ。
それを採用したのは崇神天皇の時代。
箸墓は発掘されてないから分らないが、
行燈山古墳(崇神陵)あたりにも三種の神器があると想定される。
崇神が三種の神器や前方後円墳を採用したのは母方の物部の文化だからだ。
王権とは別だ。
0804日本@名無史さん
2017/06/20(火) 15:26:18.38北部九州もまともな墳墓がないがな
0805日本@名無史さん
2017/06/20(火) 15:27:21.83北部九州が倭国である根拠は?
葛城に王朝なんかあるのか?根拠は?
天孫が孫呉ってダジャレですか?
嘘を撒き散らして何がしたいのかな?
0806日本@名無史さん
2017/06/20(火) 15:32:54.230807日本@名無史さん
2017/06/20(火) 15:32:56.3810代崇神が4世紀初頭〜前半の人物であるか否か。
それだけ。
10代崇神が4世紀初頭〜前半の人物であれば台与の即位まで約60年。
崇神以前の女性でトヨ(イヨ)を探せばいい。
トヨ(イヨ)の条件は2つ。
@最高位の女性であること。
A約3世代前にヒミ、ヒム、ヒメという最高位の女性がいること。
これで卑弥呼は簡単に決まる。
わしは1分で見つけた。
もういい加減にあきらめろ、おまえら。
0808日本@名無史さん
2017/06/20(火) 15:34:46.790809日本@名無史さん
2017/06/20(火) 15:40:30.26これが何も根拠がない
0810subo
2017/06/20(火) 15:44:32.05北部九州が倭国である根拠は魏志倭人伝である
葛城王朝が嫌なら扶桑国でいい
天孫が孫呉なのはダジャレではない
孫呉空は筋斗雲に乗って天から降臨した(これはダジャレである
嘘を撒き散らしているのは畿内厨である
0811日本@名無史さん
2017/06/20(火) 15:44:51.88>これが何も根拠がない
大ありだ。
10代崇神天皇の時代を 4世紀初頭とする根拠は、
古事記に「山邉道勾岡上」と記される10代崇神天皇有力墓である西殿塚古墳、
または行燈山古墳が、考古学的に広義の布留式前半(4 世紀初頭)の蓋然性が高くなっ
ていること、
また、吉備津彦の墓としか考えられない中山茶臼山古墳、
崇神に反乱を起こした武埴安彦の墓の可能性が極めて高い椿井大塚山古墳、
先代旧事本紀に交野連と記されてるタベノスクネの墓である可能性が高い雷塚古墳(森
古墳群)、四道将軍ゆかりとしか考えられない会津・一簣古墳群など、
崇神時代の人物の墓もことごとくこの時期である。
0812subo
2017/06/20(火) 15:47:07.52あきらめるのはトンデモ大野である
0813subo
2017/06/20(火) 15:49:16.400815日本@名無史さん
2017/06/20(火) 15:51:08.55関東の古墳王国群馬も古墳時代開始が4世紀前半から。
これは崇神の子・豊城入彦命と関係するのだろう。
やはり崇神は4世紀初頭。
つまり邪馬台国は決まった。
卑弥呼が分かったからだ。
0816日本@名無史さん
2017/06/20(火) 15:55:28.94日本書紀も思わず王と書いてしまってる人物だ。
鴨王ことクシヒガタだ。
この人物が実質の王。
この男が妹を女王に立てた。
神武なんて王ではないのだよ。
0817subo
2017/06/20(火) 15:59:12.35崇神天皇崩御は316年であり崇神在位期間63年は2倍暦である
0818日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:03:54.70『日本書紀』本文での皇后。渟名襲媛とも。事代主の子鴨王の娘。母は不明。安寧3年に皇后になる。
事代主の子鴨王の娘だ。
「王」の表記は異例だろ。
こっち本家だったからだ。
崇神がこの王家(鴨王家)を滅ぼした。
0819日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:10:40.10鴨王とかアホじゃないのかな。鳥じゃあるまいし。
0820日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:15:02.38だからばれないように時代を大きくずらし、神武東征を大々的に書いた。
男王国の時代に見せかけるためだ。
本当の王、実質の王が鴨王・クシヒガタであることも知ってた。
卑弥呼がばれれば帥升もばれる。
それを一番恐れたのだ。
0821日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:16:20.13だから倭国大乱で仕方なく妹を立てたんだアホ。
それくらい分かれや。
0822日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:18:55.32まごうかたなき異常者の姿である
0823日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:23:24.93「主」「王」など、こういう表記をされてる一族が王権でなかったと考える方がおかしい。
2世紀前半から続く王権とは葛城の古代出雲王朝だ。
九州にはそんな表記をされてる一族はいないwww
0824日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:28:46.55いるなら出してみろ。
カッペ、ダッセw
カッペ、ダッセw
カッペ、ダッセw
カッペ、ダッセw
0825日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:30:49.26その次は台与。
台与の後、大和の地の領主がいなくなる。
崇神と、河内青玉繋(河内彦)の血を引く武埴安彦との戦い。
これは、大和の地の支配権を巡る戦いだよ。
武埴安彦に付いたのは河内や宇治の旧狗奴国の勢力だろうな。
崇神に付いたのは、後の物部かな?
崇神が勝利し、大和や河内などの旧狗奴国領を支配下に置くこととなる。
崇神は新たに大和の地の支配権を握ったが、王の位置にあったかはまた別の話だけどね。
武埴安彦の異母兄妹とされる大彦とかは、どれくらいの地位だったんだろうね。
0826日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:36:41.98>崇神に付いたのは、後の物部かな?
>崇神が勝利し、大和や河内などの旧狗奴国領を支配下に置くこととなる。
河内って昔から物部の領地なのだが。
河内にも志紀という地名がある。
交野を開発したのも肩野物部。
守屋が死んだのも河内だろ。
土師器が大和以上に出てたはずだ。
あれは物部土器だからな。
なんでその河内が狗奴国なんだよ。
0827日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:39:28.05>循環論法に陥ってる薄馬鹿 <
先に、魏使らが「周髀算経の一寸千里などや東西南北の決め方を知っている、
という事になる事を言ってあるから、
魏使らがそれらの計測法を使ったという推論を使う事は、
「原因からの推論」の一方通行であり、
循環論法にならない。
0828日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:42:03.41>三種の神器はどっちかっていうと 保管してある後宮に娘を入れてる藤原氏のための制度だろ<
吉武高木に既に、三種の神器の組み合わせの副葬がある。
0829日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:46:28.29>鴨王とかアホじゃないのかな。鳥じゃあるまいし。
鴨をトーテムとした部族が畿内にいたと言うこと。
卑弥呼ではなかった。
0830日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:48:16.19>>>825
>>崇神に付いたのは、後の物部かな?
>>崇神が勝利し、大和や河内などの旧狗奴国領を支配下に置くこととなる。
>
>河内って昔から物部の領地なのだが。
>河内にも志紀という地名がある。
>交野を開発したのも肩野物部。
>守屋が死んだのも河内だろ。
>土師器が大和以上に出てたはずだ。
>あれは物部土器だからな。
>
>なんでその河内が狗奴国なんだよ。
>>825は畿内説すら理解していない底辺の妄想家
0831日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:48:57.69台与、記紀では孝元天皇の時代まで。
河内青玉繋(河内彦)の娘、埴安媛が孝元天皇に嫁ぎ和睦したんだよ。
卑弥弓呼がどうなったかは不明。殺されたのか、追放されたのか。
和睦の中心が河内青玉繋であることから推測すると、狗奴国内でクーデターがあったんだろうね。
河内や大和の物部の祖は、元は卑弥弓呼の下っ端の裏切り者だろうな。
0832日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:50:40.29全く根拠なし。
妄想。
0833日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:51:08.09ひたすら何の根拠もない妄想をさも真実のように喚き散らすこの様
まごうかたなき異常者の姿である
0834日本@名無史さん
2017/06/20(火) 16:52:41.04で?
魏使らが「周髀算経の一寸千里などや東西南北の決め方を知っている
と言う理由は何なんだ?
0835日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:06:10.18>鴨をトーテムとした部族が畿内にいたと言うこと。
カモは神だ。
歴史上唯一、神を名乗った一族だ。
神武がそこに婿入りした。
だから、
神武 神日本磐余彦天皇(カムやまといわれひこのすめらみこと)
長男 神八井耳命(カムやいみみのみこと)
次男 綏靖「神渟名川耳天皇(カムぬなかわみみのすめらみこと)
となってるだろ。
0836日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:09:26.86いるなら出してみろ。
カッペ、ダッセw
カッペ、ダッセw
カッペ、ダッセw
カッペ、ダッセw
0837日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:11:43.870838日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:16:17.95>九州には、天皇家の高貴な匂いが無い。<
大和には、神武の「首長たちを騙し討ちの皆殺し」や長男のタギシミミ殺しなど、血の匂いばかり。
どこかの国みたい。
>九州には、古代天皇の湯治行幸記録が無い。<
大和にはいい温泉が殆どないから特記する必要があるが、
九州には火山や温泉が一杯あるから、記載する必要がない。
>九州には、天皇宮中祭祀のお呼びが無い。<
大和が筑紫倭国を併合吸収継承するまでは、筑紫で宮中祭祀をしていた。
>よって、九州には、邪馬台国は無かった。 @阿波<
よって、阿波にも大和にも、邪馬壹國は無かった。 @阿波はアホ。
0839日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:17:45.530840subo
2017/06/20(火) 17:20:15.220841日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:22:06.76どこまで行っても大和説者って奴は、
煎じつめると、
(史料事実を根拠にした論をしゃべるんではなく)、
大和説が正しいから九州説は間違いだ、
としか言ってない。
0842日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:22:49.73神武 神日本磐余彦天皇(カムやまといわれひこのすめらみこと)
長男 神八井耳命(カムやいみみのみこと)
次男 綏靖「神渟名川耳天皇(カムぬなかわみみのすめらみこと)
神武は神姓だった。
ところが神殺しをした人物がいた。
それが崇神だ。
神の祟りを恐れ、母親の一族物部が持ち込んだ鏡を放り出した。
その鏡は今も伊勢神宮をウロウロしている。
0843日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:28:10.95>(三種の神器)つまり 王権のシンボルなんかじゃない ってことね <
つまり、古代では、国王から小国王までの王権のシンボルであったが、
大和が、そのシンボルを持てるようになったのは、
ようやく古代末期になってからだった、
という事だね。
0844日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:33:01.72どうして?
ヤマトに降参して献上したんじゃないの?
0845日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:38:43.87何言ってんだ?
0846日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:39:00.77後の大和朝廷と関係あるか無いかは別として、
今でも記録、伝承、信仰されてないとおかしい。
大国主、大物主、事代主、鴨王…
「主」「王」など、こういう表記をされてる一族が九州にはいない。
いるなら出してみろ。
0847日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:42:57.53>1世紀〜2世紀初頭、畿内のクナ=クニ(倭国)を中心に西日本は緩やかに纏まっていたんだよ。・・・<
嘘を付くなサギシ。
「南≠東」だから、大和は、
西日本の中心ではなく、
倭国の中の倭奴国から別れた別種の旧小国だったんだよ。
だからその後の記載は、始めから✖であり価値がないから、読まない。
0848日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:47:37.89>いや大和に大王家があった。
あったから神武もニギハヤヒも中臣の祖・タネコも忌部の祖・天富もみんな大和に来たのだ。
来た時期は2世紀末、王権の場所は神武の住んだ葛城だ。<
いや、大和は「大王家」ではない。
大和は、筑紫倭国の中の倭奴国から別れた別種の旧「小国」だ。
0849日本@名無史さん
2017/06/20(火) 17:54:25.49>北部九州もまともな墳墓がないがな <
北部九州には、三種の神器を副葬したまともな墳墓一杯あり、
現在でも高良大社で「三種の神宝」の移動祭祀まで残っているが、
大和には、「大きくて多けりゃいいのだ」の、田舎のご大尽趣味の墳墓ばかりで、
まともな「三種の神器」のある墳墓は殆どないがな。
0850日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:00:00.46>もういい加減にあきらめろ、おまえら。 <
「南≠東」だし、
「大和は、筑紫城の「倭国の中の倭奴国」から別れた別種の旧小国であり、
「卑弥呼≠ヒメ」であるし、
「壹與≠トヨ」であるから、
大和説は、始めから✖だ。
もういい加減にあきらめろ、おまえら。
0851日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:06:32.88>>これが何も根拠がない <
>大ありだ。 10代崇神天皇の時代を 4世紀初頭とする根拠は、・・・<
「・・・」の中に、「崇神天皇の時代を 4世紀初頭」という絶対年代を指定する論拠が、
全く書かれていないではないか。
お前はアホか?。
0852日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:08:13.460853日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:23:34.61>お前はアホか?。<
「南≠東」先生は相変わらず容赦ないなー(ビール吹きました^^
その人の話は面白いから少し手加減してあげなはれ(てきとー
つかお友達でしょ?
0854日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:27:57.28>大和説は、始めから✖だ。
これはもはや議論ではない。
怨念だ。
早く消えろ孫頃しzarakoku.
0855日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:29:14.05>あと宮崎の西都原も4世紀前半、景行の九州征伐と関係するのだろう。 関東の古墳王国群馬も古墳時代開始が4世紀前半から。
これは崇神の子・豊城入彦命と関係するのだろう。 やはり崇神は4世紀初頭。 つまり邪馬台国は決まった。
卑弥呼が分かったからだ。<
これも、「邪馬台国」という嘘つき文言を使ってしまったし、
卑弥呼の名前を出したから「南≠東」に拠って、
✖ね。
それに、「布留の西殿塚や行燈山」 が崇神だ、というのたまうだけでは、何の論拠にはならない、
というままだよ。
0856日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:37:30.860857日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:39:44.40「大和説は、始めから✖だ。」
「南≠東」とお経を唱えるだけ。
早く氏ねや孫殺し。
0858日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:42:55.01やがて韓国領である竹島を日本が武力で奪回、
私の家族が極右国家日本に殺されるとマジで言ってた変態75歳だぜ。
0859subo
2017/06/20(火) 18:47:47.33大野が言う>神の祟りを恐れ、母親の一族物部が持ち込んだ鏡を放り出した
>その鏡は今も伊勢神宮をウロウロしている。はなかなか味があって面白い
0860日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:49:35.66もし九州に卑弥呼を輩出した「2世紀前半から3世紀後半まで続いた王権」があれば、
当然、その王統譜を書き残してるはずだよね。
例え、後の大和朝廷に遠慮したとしても、
例えば「××主」とか「〇〇王」とかいるはずなのだが。
誰ですか?
全くいないのだが。
0861subo
2017/06/20(火) 18:50:42.560862日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:52:14.150863日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:52:49.35>渟名底仲媛(3代天皇・安寧の正后) 『日本書紀』本文での皇后。渟名襲媛とも。事代主の子鴨王の娘。母は不明。安寧3年に皇后になる。・・・<
「事代主」の名前を書いたようでは、書紀は、また「嘘を付いたな」。
天照と同時代の大国主の子供が事代なんだから、
事代は鴨王や安寧とは7〜8代位は違う時代になって、書紀はアホになってしまう。
また鴨王が、出雲系であるんなら、銅鐸祭祀であって当然であり、
葛城に銅鐸と銅矛?が併存していても、何らおかしくない。
0864subo
2017/06/20(火) 18:55:30.260865日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:55:34.450866日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:56:15.12>2世紀末から魏志倭人伝の時代まで、大和の地の王は卑弥呼なんだが。
鴨王とかアホじゃないのかな。鳥じゃあるまいし。<
この投稿子もアホね。
「南≠東」だから、卑弥呼は「大和の地の王」にはならず、✖。
0867日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:56:58.210868日本@名無史さん
2017/06/20(火) 18:59:15.86>弥生時代の青銅器の分布
http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
銅剣・銅矛・銅戈の分布でも平形銅剣の分布でも銅鐸の分布でも全て倭国(阿波)が含まれている。 王権が「阿波」にあった証拠。
0869subo
2017/06/20(火) 18:59:58.48畿内説の捏造は旧石器捏造事件をはるかに超えているよな
0870日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:03:02.19>天照と同時代の大国主の子供が事代なんだから、
アマテラスと同時代のスサノオの子が大国主なんで、その子の事代主は2世代 違いだね。
>事代は鴨王や安寧とは7〜8代位は違う時代になって、書紀はアホになってしまう。
鴨王(クシヒガタ)は神武世代なのでスサノオから5世代後。
アホはおまえ。
0871日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:03:47.700872日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:15:38.52弥生時代の九州には文字があった。
もし九州に卑弥呼を輩出した「2世紀前半から3世紀後半まで続いた王権」があれば、
当然、その王統譜を書き残してるはずだよね。
誰だよ?
〇〇主とか××王とかで説明してね。
松野連系図なんてパチモンはダメだよ。
王や主ではないのだから。
0873日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:17:48.44根拠を裏付ける物証に乏しい。
倭人伝に通ずる証拠品も示さない。
数学的には、解くカギは示すが回答には行き届きそうもない。
九州説もしかりだが、解くカギの多さは九州説のほうが多い。
そのあたりが、各種アンケートで九州説が支持されると思う。
纏向一辺倒のテンプレだから仕方ないが、畿内説で畿内にカギを多種与えてくれれば良いのだが・・・
0874他説に誤解を与えないために、あえて続けます
2017/06/20(火) 19:32:06.04それに、纏向学に便乗し寺澤先生が邪馬台国の都は纏向とか箸墓は卑弥呼の墓と断定したように言うのは良くない。
お遊び程度で、寺澤先生は邪馬台国や卑弥呼を出す程度です。
安本先生との対談も、決して畿内説を強く主張しません。
纏向遺跡の研究者です。・・先生も確定した、邪馬台国は主張しません。
スレ主が畿内説が勝者と言いますが、寺澤先生には関係ありません。
0875日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:36:21.010876日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:39:33.110877日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:41:01.35朝廷はコケコッコーで王は変わりません。
畿内の倭種の圀は埴輪コケコッコーで王は変わりました。朝廷は三種の神器です。
0878日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:44:06.74>弥生時代の青銅器の分布
http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG
銅剣・銅矛・銅戈の分布でも平形銅剣の分布でも銅鐸の分布でも全て倭国(阿波)が含まれている。
青銅器も倭国(阿波)から全国に展開していったことが示されています。
王権が「阿波」にあった証拠。
0879日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:44:09.400880日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:46:02.88キウス連呼祖父さんが、キウスと言い始めたのは
自分では3年前と言ってるが2年前の誤りです。
0881日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:52:00.930882日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:56:14.16>崇神と、河内青玉繋(河内彦)の血を引く武埴安彦との戦い。
これは王位争いだろ。彦坐王の血を引く狭穂彦との戦いもそうだし。
トヨが卑弥呼の宗女と書いある。
孝昭天皇か孝安天皇あたりの世代が卑弥呼で、開化あたりがトヨってことになる。
そのどれにも関係しているのは、天火明命の一族だ。
開化も崇神も垂仁も嫁にしているが、その3人は血を引いていない。
だから争いが起こり、嫁として貰うしかなかったともいえる。
景行は日葉酢媛の子だからか争いになっていない。
神功皇后が大きな権力を持ったのは、その一族出身というか母がそうだったからだろうな。
仲哀も継体も母はその一族らしい。
記紀が出来た頃は海部氏も尾張氏も勢力が衰えているからわかりにくい。
衰えたというか、氏族が増えて分散したようにも見えるけどね。
まあ、いまだに草薙剣が熱田神宮にあることや、間人皇后、オケ・ヲケ王子が丹後に
隠れたこと、伊勢神宮の外宮の神様の伝承を考えると、丹波氏(尾張氏他)の一族が
ヤマト王権創立に相当深く関わっており、卑弥呼・トヨ、女王の血筋の重視を考えれば、
それが丹波一族(天火明命の子孫)だということを否定することは難しい。
この一族以上に卑弥呼の一族にふさわしい氏族は見当たらないからな。
そこから考えれば、アマテラス神話は本来この一族のもので、三代が九州にいたという
天皇家は傍流だったのか、無関係だったのかもしれないと思えるね。
だから、母か祖母がその一族、あるいは妻がそうでないと王になれなかった。
0883日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:57:03.89うそつき
「魏志倭人伝に「・・・南至邪馬台国。女王之所都。」とある以上、卑弥呼はヤマト国の纏向遺跡に
居処したとしか言いようがないであろう。しからば、ヤマト国すなわち邪馬台国ということになる。」
(纏向学研究第1号2013 寺澤薫「日本列島における国家形成の枠組み)
0884日本@名無史さん
2017/06/20(火) 19:59:58.64昔はそうだったね。昔の本では邪馬台国論争には関わりたくないようなことを書いてる。
だけど、最近は違うみたいだよw
0885コケコッコーについて
2017/06/20(火) 20:01:30.59纒向学研究センターの違いかな
利害が複雑で桜井市は良くわからない。
税金をなんと思ってるのでしょうかね?
0886日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:03:59.330887日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:04:11.76もっと昔は鴨一族だったかもしれんよ。
秋津中西遺跡とか知らんかね?
奈良市の中心部の弥生中期の遺跡とか。
0889日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:08:55.86九州スレに行って書き込めばいいじゃん。なんでここにいるのさ。
0890日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:13:40.700891日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:14:31.650892岡上 ◆JN/67qb8kM
2017/06/20(火) 20:16:11.88>箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である
テンプレの◆1に魏志と突合したとありますね。具体的にどう突合したのか、1には記載がないので、
◆2以下をざっくり見てみました。
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
→箸墓が如何とか書いてるだけ。魏志との突合はしていませんね。
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
→箸墓が女性墓ということを記紀を援用しないと言いつつとつまみ食いしてるだけ。
4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
→纏向はわかったから、だから突合は??
◆5(倭国の形成と気候変動)
→気候変動? いやだから突合は・・・
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
→はぁ。読む気も失せる内容ですね。突合・・・
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
→土器流入をみると、畿内はすごいんだぞ的なことが書いてる。突合はどうしましたか???
◆8(結語)
→結局、魏志との突合は一切なし。
結語:突合もまともに行わず、邪馬台国を纏向と箸墓に当てはめただけ。
これでは結論ありきの畿内厨的発想と言わざるを得ませんね。
0893日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:18:25.62魏志に矛のことは書かれていても、銅鐸のことは書いてない。
畿内は邪馬台国ではない。
邪馬台国は銅矛文化圏、すなわち、九州にあった。
0894日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:18:30.89桜井市立埋蔵文化センターの発掘主任は事実しか言わなかった。
桜井市立埋蔵文化センター元発掘🅗主任は纏向=邪馬台国の王都とは言ってない。
その🅗が今は纒向学研究センターにいる
元🅗主任曰く
纒向と王が居た。都市である。
近畿に邪馬台国が有ったとお考えの方は邪馬台国の王都の筆頭と考えておられます。
🅗貴君はどこに向かおうとしてるのか?
0895日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:19:21.12若手の発掘担当者からたくさん異論が出ている。
静岡の高尾山古墳の発見が輪をかけている。
0896日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:20:55.930897日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:23:22.200898教えてください。
2017/06/20(火) 20:23:37.36桜井市立埋蔵文化センターと纒向学研究センターの違い
同一センターで、埋蔵課と研究課に分ければいいと思いますが・・・・・・・
0899日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:23:49.54各地の現役の発掘担当者が参加するシンポジウムなんかだと、「九州説」なんて影も形もないのに
891 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 20:14:31.65
九州説論者は、基本、議論ではなく布教にくる
京都大学を中心として、その伝統にもとずき、考古学の分野で
そのような教育システムができあがっているからである
その教育システムからはずれれば、就職も生活も出世も不利と
なる可能性がある
「邪馬台国畿内説」はいま学問的、科学的にはきわめて多くの
問題をかかえながら政治的には勝利をおさめつつあるようにみえる
「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない
出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない
「邪馬台国畿内説」は確かな根拠といえる鉄の骨をもたない
土の虚塔である
空中楼閣である
いつかはかならず崩壊する
「兵用 矛 楯 木弓」
矛のでてこない畿内はありえない
竹箭或鐵鏃或骨鏃
↑鐵鏃のでてこない畿内はありえない
0900日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:27:43.68現場を後で見ただけ。
0901日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:29:22.60>トヨが卑弥呼の宗女と書いある。
>孝昭天皇か孝安天皇あたりの世代が卑弥呼で、開化あたりがトヨってことになる。
違う、そこまで行ったならもう少し真剣に探せばいいのに。
その時代にヒミコもトヨもいないだろ?
実際はこうだ。
■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
0902日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:29:32.880903岡上 ◆JN/67qb8kM
2017/06/20(火) 20:29:34.18魏志との突合も真摯に行っていないような有様で、
不確定な事柄を「確定した」と言い張るのは、明確な間違いですから。
擁護の余地は少ないです。
0904日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:30:09.17>↑鐵鏃のでてこない畿内はありえない
丹のでてこない九州もありえない @阿波
0905日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:33:17.73しつこいよ、
丹山は解釈の問題
景初3年に邪馬台国の女王卑弥呼が、魏に献上した丹(朱・丹砂)は、伊都国の丹生川(嬉野町)で採取したものと考える。
末盧国(唐津)から伊都国(吉野ヶ里)に至る陸行の途中、佐賀県多久市の辺りから南西30キロメートルに丹の取れる
虚空蔵山がある。
魏志倭人伝の「その山には丹あり」の文章のままである。
0906日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:35:40.62対馬海流に流されて、末盧国(唐津)は有り得ない。 @阿波
0907日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:37:29.21大風呂敷ひろげて人気取る成り上がり者?
彼は纏向遺跡には詳しいと思うが、邪馬台国論争には不向きだよ。
纒向だけでは名声を上げたり、著書が売れない(銭????税金も含め銭????)から邪馬台国論争に首を知っ込んだとしか思えん。
0908日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:38:47.55寺澤批判ヤレ!ヤレ!
名無しのスレ主が来るぞ!
0909日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:39:09.61410 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/04/25(火) 15:29:08.37
侏儒國が高知県の西部の足摺岬方面。沖の島に「低身長部族が江戸時代まで存在していた」という記録がある。
すばらしい!!
又有侏儒國在其南
↑侏儒国は、高知県沖の、沖の島だよ
石切で有名な 強制労働でじっさいに小人が多かったらしい
江戸時代の地誌「沖の島記」に
それらしき描写がある
0910日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:39:36.150911日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:40:25.130912日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:40:56.94似た人物を渉猟しているだけ。
もはや畿内説は学問ですらない。
0913日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:42:05.48>寺澤は奈良県職員
食いつぶすのは奈良県民の孝霊の税金だけにしろよ。
国の補助金まで浪費するな。
0914日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:46:15.95おれ釣っちゃった。満足。満足。
0915日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:46:39.38箸墓卑弥呼説は見てて悲しくなってくる
纒向の発掘調査やってる人や桜井市奈良県の考古学専門家が発掘が進むにつれ
箸墓は卑弥呼の塚じゃない、誰の塚かさっぱりわからん、卑弥呼じゃなく台与の次の男王の墓だ、
などなど卑弥呼説に否定的な意見ばかり出てくるようになったた、市の広報は
予算確保や市民の興味引くために卑弥呼卑弥呼と連呼しなければならん、
でそれに踊らされてる一般人の図。
これは一般日本人が遺跡を軽んじてる証拠
卑弥呼が絡まないと価値がないとして無視してしまう知的探究心のとぼしさ、
卑弥呼に絡まない遺跡の発掘や保持なんかに金使うなという浅ましさ
見てて本当に悲しくなってくるわ
103 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2015/10/17(土) 16:22:40.01 ID:fynOFoqN0 [3/5]
91の続きになるが、奈良県や桜井市所属の考古学者はかなりキツイだろ
自治体ノータッチの考古学関連の集いなんかだと
箸墓は卑弥呼の墓じゃないっす、時代が卑弥呼じゃなく台与かそのあとっすとか言うが
次の日市のイベントで「纒向発掘〜卑弥呼の宮殿発見!」とかに出なきゃいけないからな
逆に言えば、公務員や市から金もらって発掘やってる学者の彼らが
こんな市 http://www.city.sakurai.lg.jp/himiko/ の意向によく逆らえると感心したりもする
0916日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:47:50.140918日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:51:07.65釣られてるのはどっちなんだろうな
0919日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:54:13.26全1病患者 vs 全キウス病患者。
同程度の知的水準のものによる激戦だな。
胸アツだわ
0920日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:55:45.32釣れるはずがないw
0921日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:55:56.62奈良県教委とか橿原市教委と桜井市立埋蔵文化センター
は意思疎通は計られていましたよ。
纒向学研究センターは必用なかったと思います。首謀者は○✖です。
これ本当です。市教委に居ましたから。あなたの言う通りです。
センターが一本化してないのは利害です。
0922日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:56:42.27>だけど、四国にあそこに7万戸は無理
無理もなにも、倭人伝にそう書いてあるんだから7万戸だったんですよ。
0923日本@名無史さん
2017/06/20(火) 20:57:13.420924日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:00:13.06嘘をつきまくることだと気が付かないようだ
0925日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:04:44.22個人情報じゃないけどぐぐったら出てきた。
ずいぶん前にTVに昔出てましたね。
https://www.youtube.com/watch?v=0TRITblqA5s
近畿に邪馬台国が有ったとお考えの方は邪馬台国の王都の筆頭と考えておられます。」と語ってますね。
世界ふしぎ発見
ノーマルな方では無いでしょうか。今は知りませんが。
0926日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:06:22.30そんなことより、きみはこれに答えるべきだ
もしかして、四国出身じゃない?
関西弁て、阿波徳島からきたんだろ?
司馬遼太郎とか言ってるけど
関西弁は阿波徳島から来たっていう、学説・学者をここに貼ってみてよ
司馬遼太郎は誰かから聞いたみたいだよ
0927日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:07:05.30寺澤は畿内説の代表者じゃないから
そこんとこヨロシク
0928正解 アホスレ主の妄想
2017/06/20(火) 21:08:42.61寺澤先生は、纏向学であり纒向の研究者です。
それに、纏向学に便乗し寺澤先生が邪馬台国の都は纏向とか箸墓は卑弥呼の墓と断定したように言うのは良くない。
お遊び程度で、寺澤先生は邪馬台国や卑弥呼を出す程度です。
安本先生との対談も、決して畿内説を強く主張しません。
纏向遺跡の研究者です。・・先生も確定した、邪馬台国は主張しません。
スレ主が畿内説が勝者と言いますが、寺澤先生には関係ありません。
0929日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:10:04.020930日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:11:25.191995年の討論会で、安本が石野に、近畿から矛のでてこないことを問いただしたことがある
むし・虫・無視…
(良識派たる)畿内説論者とはこの程度のもの
0932日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:13:23.00「阿波で千年、京で千年」
0933日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:14:03.80関西弁て、阿波徳島からきたんだろ?
司馬遼太郎とか言ってるけど
関西弁は阿波徳島から来たっていう、学説・学者をここに貼ってみてよ
司馬遼太郎は誰かから聞いたみたいだよ
0934日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:15:34.93ヤマト王権を語る学者であり、邪馬台国には触れません。
0935日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:20:18.67阿波のほうが畿内より説得力があると思う。
畿内説の反論を待とう。
九州説の方は、、「両方とも無い」と言わず
阿波Vs畿内も面白いので静観しましょう。
0936日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:21:47.78スレの大半がスレ主のカキコミ?
0937日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:22:28.04京都弁が阿波弁とよく似ているとは聞くけど、そういった学説・学者は知らないですね。
0938日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:28:12.44妙に説得されちゃう。当たってると思う。
桜井市も長谷寺が実在する主たる観光地で良い。
あとは自力で財政立て直しすればよい。纏向は世論が傾くまで(倭人伝、物証両面)、お金をかけない方が良い。
0939日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:30:35.600940日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:36:09.80都合の良い反論をハンネつけて回答するだろう。・・・まぁ反論にはならんだろうけど。
勝者なのだから、魏志倭人伝の一語一句を勝者なりに解説すれば良い。
偽装FAQはいいから、倭人伝と畿内説の一致点だけをテンプレに書けばよい。
倭人伝の不備の指摘も良い。
倭人伝が無ければ邪馬台国は無いという原点にもどろう。
0941日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:40:45.30いたく賛同
反論で畿内説が成り立っているのなら別ですね。
反論は反論を生みますよね。
倭人伝に基づく、確たる立証の積み重ねがスレ主に求められてると思います。
0942日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:42:59.750943日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:47:48.29底が抜けてるんだろ
0944キウス ◆PyuQX798ps
2017/06/20(火) 21:53:26.12其の後、希白をキウスと読みバカの私が指摘されました。(反省)それも2年前です。
その辺りから、スレ主のテンプレが加筆、訂正等どんどん増えていきました。
すべて、キウス連呼祖父さんは、本論と関係無い私への恨みです。
もしくはスレ稼ぎでかもしれません。
2ちゃんゆえ、それもよろしいかと思いますが、スレのスピードを速めるための書き込みはやめたほうが良いと思います。
また、誰彼構わずキウスと書き込むのはいかがなものでしょうか?24時間私はカキコミできません。
3日に一度は、2時間ぐらい張り付いてます。あとは気ままにです。
畿内説はあり得ません・・・あるなら根拠はいいですので、根拠となる物証を示すべきです。
倭人伝以降5世紀まで記述された、倭国に関する書物を提示していただければ幸いです。」
0945日本@名無史さん
2017/06/20(火) 21:56:04.24本当に何から何まで世間とズレまくってるんだな
0946キウス ◆PyuQX798ps
2017/06/20(火) 21:57:11.51「奈良県桜井市に所在する・・・」と途中で桜井市を入れさせた覚えもありません。
たぶん、スレ主の心使いでしょう。
0948日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:00:33.000949日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:02:05.520950日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:03:12.080951日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:03:22.400952日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:05:14.01寺澤は公務員なんだ。
公務員倫理規程に基づき活動していてるんだ。
ずいぶん法違反犯してないかな。大丈夫かな。
0953日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:05:43.600956日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:10:29.64性的搾取に名誉棄損、人権侵害・・・その他・・・という話でしょ
0958日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:12:11.84なぜおかしいの?
0959日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:12:55.640960日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:16:01.160961日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:26:57.74ときどき岡上やキウス名義もつけてる
0963日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:32:27.38ダブハントリハンは防止できない
0965日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:39:21.920966日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:41:43.110967日本@名無史さん
2017/06/20(火) 22:51:52.79致命的なのは方位・・・何とか畿内にしたいが根拠箕臼
「写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある」の一言で終わらせる研究者も多い。
去年だな
2年前じゃない
0969日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:00:22.320971日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:01:38.51>記紀編纂者も神武の時代が女王国だと知ってるんだよ。 だからばれないように時代を大きくずらし、神武東征を大々的に書いた。
男王国の時代に見せかけるためだ。 本当の王、実質の王が鴨王・クシヒガタであることも知ってた。
卑弥呼がばれれば帥升もばれる。 それを一番恐れたのだ。<
こりゃ、まるで、「南→東」の分裂幻覚妄想患者のssnの書いた、小説だね。
0972日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:02:25.72>私が4棟を指摘したのは2年前です。
其の後、希白をキウスと読みバカの私が指摘されました。(反省)それも2年前です。
「希白」じゃなく、「希薄」なんですよ。 @阿波
0973日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:05:31.79・嘘に対する罪悪感のなさ
・日本史の基礎知識を知らない
・知らない事項を満足にググれない
・日本語力が小学生レベルにも劣る
・渡来人大好き
さて、キウスの生育環境は…
0975日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:08:19.14実際に国を造ったのは渡来人だよ
0976日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:10:39.45>「主」「王」など、こういう表記をされてる一族が九州にはいないwww いるなら出してみろ。
カッペ、ダッセw カッペ、ダッセw カッペ、ダッセw カッペ、ダッセw<
倭奴国王、倭国王帥升、親魏倭王、倭王旨、倭の五王、
ありゃ?、タリシホコは、天子だった。
しかし、九州説者には、ssnなどのような分裂幻覚妄想患者は、いないようだね。
0978日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:11:34.07なんて言っても
後の時代・・・近代になってから、わかった話
穴の開いた、巨大な石(貨幣。コイン。)を
転がしていたなんていう話はないでしょ、日本の話だよ
0979日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:12:55.150980subo
2017/06/20(火) 23:13:45.270981日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:13:53.70これも「南→東」の嘘吐きダマシの大和説者のssnの投稿だね。
世間の皆様の目に毒が入ってはいけないから、掲載しないようにしておきましょうね。
0982日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:14:12.46と言ってる人がいたり
市だか何だか知らないけど、ヒドラが関係しているの?
0983subo
2017/06/20(火) 23:16:01.390984日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:17:58.330985日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:21:38.38雷、電気系統のモンスターかもしれない
0986日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:22:09.86>で? 魏使らが「周髀算経の一寸千里などや東西南北の決め方を知っている
と言う理由は何なんだ?<
後漢最末期に周髀算経が再収集注釈があり、
魏の初代文帝が即位の詔書で、度量衡の統一を指示し、
その後魏の重臣たちが次々と「周制への復古」の上表をしたから、
周髀算経を読んでおかないと、魏の役人にして貰えないようになっていたから。
0988subo
2017/06/20(火) 23:23:31.750990subo
2017/06/20(火) 23:26:09.390991subo
2017/06/20(火) 23:28:32.500992日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:29:07.040993日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:31:06.300994subo
2017/06/20(火) 23:32:20.03今後もいろいろ間違えると思うから指摘してくれ
0995日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:32:28.69そうだね。
中西遺跡が紀元前4〜5世紀。
倭人の渡来が春秋時代末期で同時代だが、まだその頃は淡路島や沿岸部にいただろうしね。
イザナギ一派(倭人)と先住民の関係も解明しないとな。
記紀には協同したり、殺したり追いやったり色々書かれているけど。
0996日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:33:05.86>(三種の神器)どうして? ヤマトに降参して献上したんじゃないの? <
大和は、倭国の中の倭奴國から別れた別種の旧小国であったから、
献上しないし、
筑紫の王は、始めの頃は、副葬したことが多く、
高良大社では残しておいたようだが、
別種分家の大和は、かろうじて三種の神器を譲って貰ったが、
すぐに離れ離れになって保管されたようだよ。
0997日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:35:14.05というのは何なんだろう
ちなみに家の老婆は二本松のほうの生まれだよ、
菊人形というのがあって〜・・・???と、よく言っていた
0999日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:51:48.861000日本@名無史さん
2017/06/20(火) 23:51:50.10鉄器普及地域を支配するなど及びもつかない後進地域
3世紀邪馬台国では無い
10011001
Over 1000Threadもう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
life time: 3日 12時間 28分 36秒
10021002
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