もし平家が源氏を滅ぼしていたら…
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0001日本@名無史さん
2011/01/26(水) 10:20:240081日本@名無史さん
2011/02/25(金) 00:24:02.41高氏(こうし)は高階氏流で右大弁高階峯緒の末裔である。大高大夫惟頼が実は源義家の四男であったと言われるがこの辺りから源氏との結びつきが強くなったのであろう。
その曾孫惟長が三河の守足利義兼に仕え、額田郡日志賀・菅生郷司職に補任され足利家執事となった。それ以降、惟重、重氏、師氏、師重らが代々執事を務めている。
鎌倉政権下で足利氏は有数の名門として遇され、家督の下に三番編成の中央奉行所があり高氏(こうし)や上杉氏が務めていた。その下に地方公文所があり、命令は「袖判下文」により伝達されていた。
この袖判下文は将軍家のほかは北条氏、足利氏にのみ許されたというから幕府内部での足利氏の家格の高さが窺える。
徳治三年(1308)に高師行奉書が、元亨二年(1322)に師重奉書が出されており、執事が家督からの命令伝達に大きい役割をしていたのがわかる。
高階惟長→惟重→重氏→師氏→師重→高師直・高師泰
『梅松論』新田義貞の下向
去程に数万騎の官軍関東に下向するよし聞えければ、高越後守(=高師泰)を大将として大勢を差し添へて海道に遣さる。
師泰に仰せられけるは、「先づ三河国に下りて矢作川を前に当て、御分国(三河国菅生郷、高師直の領地)たる間、駈け催して当国の軍勢を相待つべし。
努々(ゆめゆめ)川より西へ馬を越すべからず」と将軍の命を請けて、
0082日本@名無史さん
2011/02/25(金) 00:31:23.77瑞生山 曹洞宗 新編岡崎市史20(総集編) 中町字小猿塚37にある曹洞宗寺院。深恩院瑞生山と称し、本尊は大日如来。もと籠田総門南の総構え内側に所在。古くは天台宗という。創建時より明治8年(1875)まで尼寺で、そのため総持尼寺の名で一般的に呼ばれる。
高師泰の娘で同族師冬の妻であった明阿が一族の菩提寺として所領菅生郷の築山(高氏屋敷地か)に建立した。
夫・父をはじめ一族の多くを観応2年(1351)に殺された明阿は、文和4年(1355)将軍尊氏に申請して姪の「いち」を住持として総持寺を建立し重代相伝の地菅生郷を寄進することを許可された。2、3年後には完成か。
応永6年(1399)足利義満が高氏所領であった額田郡比志賀郷を塔頭の深恩院に寄進した
寺領菅生・比志賀郷は、歴代将軍から手厚い保護をうけ段銭以下臨時課役に免除されて守護不入地とされていた
0083日本@名無史さん
2011/02/25(金) 06:43:04.13清和源氏がんがれ 正統派貴族流平家末裔も
0084日本@名無史さん
2011/02/25(金) 07:09:51.18藤原範季(藤原南家)と平教子(平教盛の娘)の娘、藤原重子(修明門院)の皇子が84代順徳天皇→善統親王(四辻宮…順徳源氏の祖)→尊雅王(四辻宮2代)→智泉尼(義満外祖母)→紀良子(3代将軍家清和源氏足利義満の母)
0085日本@名無史さん
2011/02/25(金) 07:47:28.81参照高氏分脈
26代継体天皇の孫の孫、第40代天武天皇→高市皇子→長屋王→桑田王→磯部王→石見王→峯緒王(高階峰緒 、高階家初代)→高階茂範→高階師尚→高階良臣→高階敏忠→高階業遠→高階成佐
→高階惟章(源義家、源義国の家来、在下野国)→高階惟頼→高階惟真→高階惟範→高階惟長→高階惟重→高重氏(高家初代)→高師氏→高師重→高師直(足利尊氏の側近)、兄は高師泰、弟は高師茂と高師久…子孫は 広がる?
0086日本@名無史さん
2011/02/25(金) 12:56:20.24高氏は血筋的には源氏
0087日本@名無史さん
2011/02/25(金) 14:59:37.340088日本@名無史さん
2011/02/25(金) 15:11:31.800089日本@名無史さん
2011/02/26(土) 02:01:36.11たいら聖範→たいら(北條家初代)時家→たいら時方→北條時政…源氏将軍3代でほろぼし京摂家・皇族将軍をたらい回して ニポンを 130年も支配(源頼家サマ潰滅1203年〜北條本流潰滅1333年まで)!!!
0091日本@名無史さん
2011/02/26(土) 14:21:21.31けど逆にとると、重なる部分も多い。
まあ程度の差はあれ系図なんてどこも似たようなもん。
平維方の息子あたりで良いと思うよ。
0092日本@名無史さん
2011/02/26(土) 15:02:15.570093日本@名無史さん
2011/02/26(土) 16:05:28.41仲が良いのが平氏って覚えればいいとかいっていたな。
0095日本@名無史さん
2011/02/26(土) 22:22:00.62田舎武士で歴史に埋もれたような人間の父親ならまだしも・・・
0096日本@名無史さん
2011/02/27(日) 00:30:52.710097日本@名無史さん
2011/02/27(日) 00:36:47.210098日本@名無史さん
2011/02/27(日) 06:54:33.09それともいわゆる源家を滅ぼすってこと?
0099日本@名無史さん
2011/02/27(日) 09:07:27.41ここでは藤原北家 特に頼長さま(*_*)以来 身も心もガチンコ一体で 藤原公家権力番人やってきた 〇●源氏本隊じやね
0100日本@名無史さん
2011/02/27(日) 10:06:30.10最初からそこがあいまいなわけだが、
義朝の息子に限定しても、反平家の旗頭には
義仲や頼政が立ったわけで状況は変わらないし。
0101日本@名無史さん
2011/02/27(日) 12:55:12.790102日本@名無史さん
2011/02/27(日) 13:23:14.12系図総攬に北条氏の系図は無いよ
0103日本@名無史さん
2011/02/27(日) 17:21:21.16その相手の義平は既に死んでたし坂東が基盤ではない
頼政は坂東に基盤がなかったからな
0104日本@名無史さん
2011/02/27(日) 18:53:59.62逆に、頼朝が処刑されていていなかったら、
志田三郎がかつぎだされて、反平家で動くってことは
あったのかな?
0105日本@名無史さん
2011/02/28(月) 08:40:45.84志田庄は池禅尼の斡旋で八条院領になった。
義広は頼盛とのつながり深いのでは?
それに野木宮合戦の経過を見るといつか小山氏、八田氏と衝突する可能性があったかも。
0106日本@名無史さん
2011/02/28(月) 09:17:06.67志田庄立荘当時は美福門院領。
本所美福門院、領家藤原宗子、当時の常陸介は平頼盛。
ちなみに常陸国は1148年頃平家盛が常陸介になって以来、
平家一門や関係者が常陸介になっている事が多く
平治または治承三年以降平家の知行国となった他の坂東諸国とは、
治承寿永以前の状況が違うものがあったと推測される。
0107日本@名無史さん
2011/03/02(水) 21:26:29.18http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1281096529/
0108日本@名無史さん
2011/03/02(水) 21:26:59.940109日本@名無史さん
2011/03/03(木) 17:31:04.610111日本@名無史さん
2011/03/04(金) 08:36:10.64その場合は源氏が京都で「源氏にあらずんば人にあらず」と権勢を誇り
清盛の子供が反源氏の挙兵し幕府を創る。
0112日本@名無史さん
2011/03/04(金) 08:36:53.880113日本@名無史さん
2011/03/04(金) 09:56:10.77http://toki.2ch.net/test/read.cgi/jr/1274115792/
0114日本@名無史さん
2011/03/04(金) 16:45:46.62平治の乱といっても源氏と平家だけが戦ったわけじゃねーし。
その背景ってもんがあるだろ
ポッと出の河内源氏ふぜいが権勢誇れるわけねーべさ
0115日本@名無史さん
2011/03/05(土) 01:02:08.17w
0116日本@名無史さん
2011/03/05(土) 01:32:06.30ヘタレとしてのw
0117日本@名無史さん
2011/03/05(土) 06:49:25.28平治の乱は源氏vs平家という図式では現在語られていない。
信西派、信頼派、天皇親政派、中立派など色々な政治勢力が絡まった中で起きた戦い
として現在は評価されている。
義朝の立場は信頼の部下的な立場と評されている。
清盛は中立派で乱勃発当初は一連の戦いの圏外にいて後に天皇親政派の誘いに乗って
乱に加わったという経緯を持つ。
ちなみに、平治の乱勃発の政治的勢力や地位としては
信西=信頼=天皇側近≧清盛>>>>>|越えられない壁|>>>その他軍事貴族≧義朝
軍事的な力も
清盛>>>>>>>|越えられない壁|>>>源光保>>義朝
という図式で義朝は乱の後政治権力を握るという立場には立てない。
もしも平治の乱で義朝が属する信頼派が勝利するには下記の条件が必要である。
信西排除後
1.信頼が清盛を仲間に引き止める
2.信頼が天皇親政派との提携を深めつつ後白河を取り込む
ということが前提条件となり
その場合は
信頼を中心とした不安定な政局が数年続き、その後分裂か誰かが其の中から頭角を現す
という結果となるだろう。
そうなった場合頭角を現すのはやはり平清盛となるような気がする。
そしてその政局の中で義朝は足元をすくわれないように上手く渡り歩かないとどこかの時点で失脚するだろうし、
失脚しなくても源頼政のように一軍事貴族として過ごすようになると思う。
0118日本@名無史さん
2011/03/08(火) 20:14:00.37関東で育ってるし、自前の兵力もあるし、官位も持ってるし、頼朝より断然有利じゃん。
0119日本@名無史さん
2011/03/08(火) 22:50:46.060120日本@名無史さん
2011/03/09(水) 08:50:16.88清盛の先祖平貞盛は父の国香が将門に攻められて自殺した時、親の仇討ちは
気が進まなかったけど親族から説得されて蜂起したというけど
単なる私怨の私闘よりは、親の仇討ちという大義名分がある方が
やり返しやすい
0122日本@名無史さん
2011/03/09(水) 23:30:28.47乗っかったうえで、その権威を利用することができたから。
頼義・義家以来の源氏の権威なんてものは絵空事で、自前の兵力といえるものはわずかしかない。
だから失脚した途端に兵力は激減する。
その状態で、令旨をいくらもらっても意味が無い。だいたい「不平皇族」ってなんだよ?(笑)
頼朝のほうが有利だったという理由はいくつかあるが、最大の理由は「同時多発的に反乱が勃発」したこと。そのために平氏は多方面作戦の展開を余儀なくされ、兵力を分散せざるを得なくなった。
頼朝の挙兵はその中の一つに過ぎない。
0123日本@名無史さん
2011/03/09(水) 23:57:40.400125日本@名無史さん
2011/03/10(木) 01:44:31.870126日本@名無史さん
2011/03/10(木) 09:09:38.47義朝が生きてるから関東の棟梁が頼朝でなく義朝になるだけ。
流人の頼朝より現役の義朝の方が断然有利。
0127日本@名無史さん
2011/03/10(木) 23:25:17.87木曽義仲の上洛の際には頼朝よりも義仲の方が実力的に上だったとの見方もある。
なお義仲上洛の時、近江の山本義経、美濃の源光長、義仲の叔父の行家、志田義広が一緒に上洛した他
甲斐源氏の安田義定も一緒に上洛している。
彼等は義仲上洛直後離反したものが多く、義仲とは「同盟軍だった」とみなされている。
この時期駿河、遠江は甲斐源氏が制圧していたが、甲斐源氏はある時期まで
頼朝の傘下に入ったわけではなく「同盟者」の立場だった。
安田義定は自分の判断で義仲に加わったので甲斐源氏もこの時期までは頼朝の傘下には
加わらず独自の立場にいたと思われる。
義仲上洛の直前においては
頼朝は都の貴族の間ではもっとも有名でおそらく最も有力な「反乱軍」だったが
他に挙兵したものたちから見れば、頼朝はまだ「同盟者」の存在であったと見るのが妥当であろう。
0128日本@名無史さん
2011/03/10(木) 23:38:33.50義朝や頼朝が従えたとされる坂東の豪族は無条件には義朝や頼朝には従わない。
保元においては国衙の指示に従って軍を出動させたとの説もあるし、
平治においては義朝や義平頼朝にごく私的に近い身内的なものしか出兵しなかったとの見方もある。
また、治承時に坂東の武士達が頼朝に味方した理由も平家方に近い豪族に抑圧を受けていた坂東の豪族が頼朝の挙兵を
自分に敵対する勢力を掃討する好機と考えて挙兵したという見方が最近は強い。
例
上総国 平家方 藤原忠清 vs 上総介広常
下総国 平家縁者 千田判官 vs 千葉氏
相模国 平家家人 大庭氏 vs 在庁官人系 三浦氏、中村氏(土肥・土屋)
坂東の豪族の基本的要求は自分の所領の安堵や坂東国衙における地位の確保であって
それを保証してくれるものを主として自分から選び取っていた。
つまり、坂東の豪族は自分にとって必然性を感じなければ誰が何を呼びかけても
(国衙からの呼び出しは例外だが)従わない。
つまり、もし義朝が生き残っていて出兵を呼びかけても、坂東の豪族側に出兵する必然性や出兵した後のメリットがなければ
義朝の求めには応じないどいうことが予測される。
頼朝の成功の原因の一つは時代の波に上手く乗れたということがある。
すなわち、清盛が治承三年のクーデターを起して、知行国を大量に増やした結果
坂東の従来の豪族の力関係に変化が起きて平家に近いものが優遇され、そうでないものが冷遇された。
その結果冷遇されたものが、平家方に反撃の機会を狙っていた
という当時の状況が頼朝の挙兵を成功させた というのが坂東の豪族を従えさせるのに成功した一つの大きな要因であると思われる。
「治承三年のクーデター」という事件がなければ
頼朝の成功はなかったし、たとえ義朝が生きていたとしても成功はむずかしかっただろう。
0129日本@名無史さん
2011/03/11(金) 01:05:40.47この時代においては、武士の「主従関係」というのを、江戸時代なんかのそれとは一旦切り離して見てみるということをしないといけないんだよね。
古代‐中世初期の武士の「主従関係」は、それはドライでルーズなものだよ。
0130日本@名無史さん
2011/03/11(金) 11:22:23.33だから、清盛が政権とったら結局は「平家にあらずんば」状態になるから
関東の反平家の勢力が、義朝を旗頭に反乱ののろしを上げるといってるの。
流人でさえ担ぎ上げたのに、現役の軍事貴族を担がないわけないじゃん。
0131日本@名無史さん
2011/03/11(金) 13:07:56.16江戸時代の主従関係もドライだよ。家臣が主君を「押し込め」たり。
家臣の多くは主君個人に忠誠を誓っているのではなく、主家に忠誠を誓っている。
だから主家にふさわしくない主君だと平気でお家騒動を起こす。
まあ、追い腹を切るなど個人に忠誠を誓った家臣もあるが全体から見れば少数派。
0132日本@名無史さん
2011/03/12(土) 02:13:49.65ただ、反平家勢力が蜂起に至る過程しだいでどうなるかはわからんな。
意外と米俵を担ぎ出すかもだぞ。
0133日本@名無史さん
2011/03/12(土) 21:51:44.67流人だからこそ頼朝は担ぎ上げられたって側面があるのだと思う。
義朝だと大庭御厨や相馬御厨への濫妨事件の件などで、関東の中には義朝に恨みを抱く有力豪族も多い。
そして、そういった部分は必ず敵の平家は突いてくるはずなので、
関東諸勢力を1つに纏めあげるという観点から見た場合、「現役軍事貴族」だからという理由によって義朝の方が有利などとは全然言えない。
第一、「関東にいた軍事貴族」(関東に所領を有するものの、五位以上の位階を有し、京に籍を置き、衛府や北面などの京における武官職に任官している者)ということなら、
関東には義朝の他にも、源義広や、源義康、源義重他の源諸氏や、波多野義通や山内首藤経俊といった藤原氏秀郷流諸氏など他にも数多く存在しついる。
だがそんな彼らは関東の在庁系などに長年に渡る敵対勢力をそれぞれ抱えており、そうした在庁勢力と度々合戦などにも及んできている(上で述べたように義朝も同じこと)。
つまりこれは、軍事貴族だからという理由それだけでは関東の諸勢力は彼らに靡いたりはしないということを意味している。
0134日本@名無史さん
2011/03/21(月) 14:27:12.09福良・備後沼田・西宮沖・吹井・備前今木・備前壇之浦の、いわゆる六ヵ度
の戦、が注目される。
義経に代わる剛の者としては、平教経あたりが有望。
ちなみに福良(南あわじ市)・沼田(広島県三原市)・西宮(兵庫県西宮市)
・吹井(大阪府泉南郡岬町)・今木(岡山県瀬戸内市邑久町)・壇之浦(岡
山県倉敷市下津井田之浦)。
この六ヵ度戦の段階で、源氏が劣勢にならないと、>>1の状況は無い。
0135日本@名無史さん
2011/03/21(月) 15:13:12.12六ヵ度の戦い、の前に行われた、水島合戦(岡山県倉敷市水島)は、木曽義仲の
西国侵攻を止めた戦の一つ。
北西風と日食を上手く使った平家の圧勝だったらしい。
六ヵ度戦の前年だから、この段階で頼朝・義経が兄弟喧嘩をはじめると、>>1
になりそうだ。
0136日本@名無史さん
2011/03/23(水) 23:56:17.010137日本@名無史さん
2011/04/04(月) 17:22:41.63源平合戦→実は平氏、平氏の乱、平氏の乱で、平家が源氏を支援して戦う
源氏がなくなる、平氏、源氏の足利がマジギレ
源氏足利 平氏がマジギレ ていうか、平氏以外もマジギレ
伊達以外源氏はほぼ滅亡、信長、秀吉、家康はほぼ農民武士
平氏は権力おわれるけど、それから民間になって、場合によっては残って子爵とかになる。
平氏は東日本作ったしな。
源氏はほとんど何もやらないで乱ばっかだよね。
0138日本@名無史さん
2011/04/04(月) 17:43:18.04東日本をつくった。
あるものは医者になった、あるものは漫画家になった、あるものは剣術家になった(千葉)
あるものはししゃくになった。
東日本なんて、平氏と農民でかってに作ったんだぞ。
0139日本@名無史さん
2011/04/04(月) 20:05:45.520140日本@名無史さん
2011/04/20(水) 07:24:25.95紅白歌合戦は、「祝八百長・源平合戦」。
http://s1.shard.jp/deer/0204/44/291_1.html
終戦直後、紅白歌合戦は始まった。
これは、八百長戦争で莫大な埋蔵金を手にした徳川一族が、
「源平合戦」を題材に、一大忘年会を企画したものだった。
0141日本@名無史さん
2011/04/23(土) 00:13:08.570142日本@名無史さん
2011/04/23(土) 02:05:04.740143日本@名無史さん
2011/04/23(土) 03:16:22.01河内源氏と関係深かっただろう?
たしか、家督を継承した源義忠は、伊勢平氏と関係が深かったはず。
源頼朝の系譜は、必ずしも河内源氏の嫡流ではなかったしね。
河内源氏の諸勢力の有力候補の一人程度でしょう?
0144日本@名無史さん
2011/04/23(土) 04:21:20.71頼朝が河内源氏の嫡流とみなされてたのは、
平治の乱に挑むにあたって父義朝が頼朝に、源氏重代の家宝である「源太が産衣(=鎧)」や「髭切(=太刀)」を相伝させたことや、
平治の乱で「一旦」成功を収めた直後に、頼朝をわずか13歳で右兵衛権佐(“佐殿”の由来はここから)に任官させた事実からも確実とは思う。
ただその後の義朝の敗死で頼朝も流罪となったので、
例えば武田信義が「(頼義の系統ならば)一門更に優劣なし」とのたまったりとか、
新田義重が「故陸奥守(義家のこと)の嫡孫をもって自立の志を挿む」と言って頼朝の元へ参じなかったりとかいう状況を許すこととなる。
だから頼朝もそのあたりからは、先祖頼義の故事を忠実にトレースしたりとか、自らの源氏の嫡流性を示すために必死のパフォーマンスを演じることとなる。
0145日本@名無史さん
2011/04/23(土) 04:28:29.520146日本@名無史さん
2011/04/23(土) 08:25:32.40杉浦千畝の命のビザは、コレに習ったと分かる。
以前どこかのサイトで観たが、杉浦氏も嵯峨源氏の末裔のようだ。
0147日本@名無史さん
2011/04/23(土) 08:40:52.36悟空とピッコロ
連邦とジオンの関係
0148日本@名無史さん
2011/04/23(土) 12:18:54.02「平家落人」って平家家臣の武将のことだからね
実際に清盛の子息や孫が助かったわけじゃないから
ちなみに清盛の娘たち(女系)は公家の妻になって
源氏の世になっても都で平穏に暮らしていた
だからこっちの系統は残っているけど
0149日本@名無史さん
2011/04/23(土) 14:36:17.350150日本@名無史さん
2011/04/23(土) 19:01:54.60安倍元総理の先祖も平の家に嫁いだらしいが、落ち逃れるのに、嵯峨源氏松浦氏姓ではなく、御先祖高俊のルーツ、奥州安倍宗任(鳥海三郎)の安倍姓名乗って、安倍だから、本来は、岸でも安倍でもなく、平だな。
0151日本@名無史さん
2011/04/23(土) 19:10:26.55平野も良兼の末裔。
0152日本@名無史さん
2011/05/12(木) 18:24:28.58そんな様子は微塵もなかったわけで、
結局、あちこちの武家が騒乱を起こして戦乱の時代になるんじゃない?
どこかが頼朝と北条がやったような武家政権の樹立まで辿り着けばいいけど、
そうはならずに時間切れで元寇で日本中大混乱って流れになりそう
0153 忍法帖【Lv=2,xxxP】
2011/05/15(日) 01:44:00.480154日本@名無史さん
2011/05/18(水) 00:24:01.240155日本@名無史さん
2011/05/18(水) 03:22:13.720156日本@名無史さん
2011/05/21(土) 10:08:01.740157日本@名無史さん
2011/05/21(土) 15:24:59.89それはない!
良民が成長して、中世の扉はすでに開かれちゃってるし、
朝廷も院も、政治機構としての機能は衰退してる。
「軍事貴族」として、あるていど武家の棟梁としての地位を保つか、
文弱貴族化すればまた別の武家が台頭するまでのこと。
0158日本@名無史さん
2011/05/21(土) 20:03:57.070159日本@名無史さん
2011/05/27(金) 02:55:42.310160日本@名無史さん
2011/05/27(金) 08:28:25.60948 :名無しさん@京都板じゃないよ:2011/05/22(日) 08:27:45.81
そういえば
昨日 5月20日は
成田空港開港33周年
「
歌舞伎が衰えたのは
成田山の封印が 衰えたから
歌舞伎の成○屋は
表にもちあげられてるだけ
本当はその4つくらい裏に 黒幕がいた
成田山は平家の力の源泉
源氏に敗れたふりしたけど
表に立ち続けるよりも
実際は操縦源に近づいて
この国を 操作するのを選んだ
能力は源氏や橘より
はるかに上
だって裏で動かしていたんだもの 」(Mちゃんの言葉)
0161日本@名無史さん
2011/05/27(金) 08:28:43.63947 :名無しさん@京都板じゃないよ:2011/05/22(日) 08:27:21.99
追伸
エカシと高○古墳に行ってから
しばらくして
夢で
赤い線の 受話器から
「 成田山からぬし 抜けた 」
という電話がかかってきた
(・・;)9・・・・・・・
どういう意味だろう?
0162日本@名無史さん
2011/05/27(金) 08:29:05.11941 :名無しさん@京都板じゃないよ:2011/05/20(金) 16:42:50.71
「
現実の序列と違い
潜在意識を動かしてる序列がある
どんな座に付いていても
潜在意識を動かせないと
人を操縦はできない
ヌシの潜在意識を動かせるものは
貧民街に居ようと 遊郭に居ようとも
実質的に 世界を操縦する
普通の人なのに
周囲がその人の想い通りになってしまう人がいる
そういうこと 」(Mちゃんの言葉)
0163日本@名無史さん
2011/05/27(金) 08:29:21.68942 :名無しさん@京都板じゃないよ:2011/05/20(金) 16:43:20.67
「
血筋を見抜ける血筋は多い
でも ヌシを見分けられる血筋は少ない
今 ヌシ達にべったりとはりついてる
「 道化師 」も
それが力のヌシと教えられるまで
その存在に気づかなかった 」(Mちゃんの言葉)
ちなみに
「 くくり 」とは
日本書紀に描かれた名称
「 くくり姫 」という名前を
このブログでは 用いていますが
ぶっちゃけって言えば
古代のヌシと 支配層の血筋の間に生まれた巫女的形質の存在
巫女の中でも最高峰的な巫女の存在です
0164日本@名無史さん
2011/05/27(金) 08:29:39.17943 :名無しさん@京都板じゃないよ:2011/05/20(金) 16:43:44.18
Mちゃん曰く
(ノ゚ο゚)ノ
実は夢殿の操縦権者達 道化師的存在の
さらにその上に 彼らに情報伝達する存在がいて
それが夢殿最高峰の巫女
「 くくり 」のような存在なのだとか
(・・;)・・・・・
「 情報こそ神 」
実は彼らが 情報を重んじるのは
世界を操作するのに必要な想いのヌシ達の情報が
世界を維持する生命線と知っているからだそうな
φ(・・;)・・・・・・
0165日本@名無史さん
2011/05/27(金) 22:27:19.21そういって落ちて行った人たちは、平家再興とか、全く考えなかったのかな?
源氏 も頼朝没後はてんやわんやになって北条氏の世になってもめてるんだし、そのチャンス派かならずあったとおもうんだが
その後の武士たちは源氏の血筋を正当化することによってステータス上げてるけど、平家のまつえをアピールした武将は居ないよね
なんで?
0166日本@名無史さん
2011/05/27(金) 22:47:10.18直方流の北条氏や熊谷氏、繁盛流の大掾氏など名門平氏は生きてるからそれでいいのれす。
0167日本@名無史さん
2011/05/27(金) 23:09:40.53表立って名乗れないけど
でもやはり平家の本流は西国だよね
伊豆の田舎の北条氏の天下でも落人たちは納得できたのかな?
0168日本@名無史さん
2011/05/27(金) 23:23:19.84平家の落人といっても、家人郎等がほとんどだから、
再興を図るには、平家の血統が明らかなる人物と、
スポンサーを探さないといけないから、一苦労だよ。
0169日本@名無史さん
2011/05/27(金) 23:46:17.79徳子でも担ぎ出して再興して欲しかったな
0170日本@名無史さん
2011/05/28(土) 02:07:35.920171日本@名無史さん
2011/05/28(土) 03:02:53.13平家以外にも軍事貴族系の平氏はいるんだから。
0172日本@名無史さん
2011/05/28(土) 10:47:08.30源氏も、平家も、血筋たとっていくと皇族とつながるんでしょ?
0173日本@名無史さん
2011/05/28(土) 11:20:22.380175日本@名無史さん
2011/05/28(土) 16:02:27.89軍事貴族を筆頭(盟主)に、彼らと主従関係や姻戚関係で結ばれた地方の郡司富豪層の総称、と見て大きくは外れていないんじゃないかな。
始まりは9世紀末から10世紀初頭頃(寛平・延喜期)。
0176175一部訂正
2011/05/28(土) 16:05:31.08↓
軍事貴族を筆頭(盟主)に、彼らと主従関係や姻戚関係で結ばれた地方の郡司富豪層の総称が「武士」、と見て大きくは外れていないんじゃないかな
0177日本@名無史さん
2011/05/29(日) 19:28:14.34北條氏に限らず鎌倉時代の武士はそうだが。
0178日本@名無史さん
2011/05/29(日) 21:51:21.750179日本@名無史さん
2011/05/30(月) 00:42:48.380180日本@名無史さん
2011/05/30(月) 09:55:00.46平貞盛
多田満仲
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