>>118>>126
義朝や頼朝が従えたとされる坂東の豪族は無条件には義朝や頼朝には従わない。
保元においては国衙の指示に従って軍を出動させたとの説もあるし、
平治においては義朝や義平頼朝にごく私的に近い身内的なものしか出兵しなかったとの見方もある。

また、治承時に坂東の武士達が頼朝に味方した理由も平家方に近い豪族に抑圧を受けていた坂東の豪族が頼朝の挙兵を
自分に敵対する勢力を掃討する好機と考えて挙兵したという見方が最近は強い。


上総国 平家方 藤原忠清 vs 上総介広常
下総国 平家縁者 千田判官 vs 千葉氏
相模国 平家家人 大庭氏 vs 在庁官人系 三浦氏、中村氏(土肥・土屋)

坂東の豪族の基本的要求は自分の所領の安堵や坂東国衙における地位の確保であって
それを保証してくれるものを主として自分から選び取っていた。

つまり、坂東の豪族は自分にとって必然性を感じなければ誰が何を呼びかけても
(国衙からの呼び出しは例外だが)従わない。

つまり、もし義朝が生き残っていて出兵を呼びかけても、坂東の豪族側に出兵する必然性や出兵した後のメリットがなければ
義朝の求めには応じないどいうことが予測される。

頼朝の成功の原因の一つは時代の波に上手く乗れたということがある。
すなわち、清盛が治承三年のクーデターを起して、知行国を大量に増やした結果
坂東の従来の豪族の力関係に変化が起きて平家に近いものが優遇され、そうでないものが冷遇された。
その結果冷遇されたものが、平家方に反撃の機会を狙っていた
という当時の状況が頼朝の挙兵を成功させた というのが坂東の豪族を従えさせるのに成功した一つの大きな要因であると思われる。

「治承三年のクーデター」という事件がなければ
頼朝の成功はなかったし、たとえ義朝が生きていたとしても成功はむずかしかっただろう。