部落起源と朝鮮
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001日本@名無史さん
2006/04/30(日) 22:05:470038日本@名無史さん
2006/05/17(水) 14:44:28またバカをやらすことに使われたもので、
いわば天皇家の象徴。
その朝廷は日本を征服支配した朝鮮人が作ったもの。
つまり、日の丸は、朝鮮人による日本支配の象徴なのである。
0039日本@名無史さん
2006/05/17(水) 14:50:31赤い丸は古い倭国を示し
四角い白は朝鮮を示す。
西日本の丸もち、東日本の角もち
平家の赤旗、源氏の白旗
0040日本@名無史さん
2006/05/17(水) 14:53:12同意。
0041日本@名無史さん
2006/05/17(水) 15:07:00中世に職能差別されたのが契機。
江戸時代では差別はされたが、
意外と経済的優位性は持っていた。皮革産業の独占など。
明治に比較産業に大資本が参入し、これが崩れ、貧困化した。
0042日本@名無史さん
2006/05/17(水) 15:17:560043日本@名無史さん
2006/05/17(水) 15:20:020044日本@名無史さん
2006/05/17(水) 16:31:07部落内には一目置かれた不思議な連中がいたらしく、
何時から入り込みだか分からないんだと、
同胞には間違いないならしいのだが、はっきりとは分からない、
そいつが言うには秀吉が連れて来たんだと。
冗談かと思ったけど、意外にマジだったな。
0045日本@名無史さん
2006/05/17(水) 16:34:17祖国に帰れなかったか、帰りたくなかったか、その理由は定かではないが、
朝鮮での生活よりは日本での生活の方が意外に良いかも?・・・
例え部落であってもイイかも?・・・
と日本の現状を目の当たりにした逃走捕虜が部落に下ったとも考えられる。
現に時が経っているが、連行された陶工らは自らの意思で日本に残った。
0046日本@名無史さん
2006/05/17(水) 16:39:470047日本@名無史さん
2006/05/17(水) 16:45:24>>1はなかなか鋭いよw
0049日本@名無史さん
2006/05/17(水) 16:53:44民団と総連のように仲良くやろうぜw
0050日本@名無史さん
2006/05/17(水) 17:06:30伊藤とかの伊、伊達、も古代の朝鮮系、まあ
そんなこんなで朝鮮系は古代から結構入ってるさ
だからこそ日本人と朝鮮人は似た顔してるんだろう
結局、いつから日本人かという問題さ
そもそも日本という名称だって新羅からはいったんだぜw
0051日本@名無史さん
2006/05/17(水) 17:08:45上の方では見事にスルーされてんじゃよw
寂しいのかい?www
0052日本@名無史さん
2006/05/17(水) 17:20:54金偏の名前おもいだしてみ、伊もほぼそう。
伊予の予は余で扶余とか
0053日本@名無史さん
2006/05/17(水) 17:24:47日韓併合時の人だろ
0054日本@名無史さん
2006/05/17(水) 17:31:49実在は確認される人として丹波但馬に移住した
新羅のアメノヒボコがいる。
彼の子孫は近江の天皇一族の祖先となり天孫として
各地の司令官になるんだ。
五十手、伊系の苗字か彼らの子孫。
藤原も伊部氏も彼らの手先、もちろん血も混じってるでしょ。
まあ、われわれは朝鮮とはきってもきれない間柄ってこったw
0055日本@名無史さん
2006/05/17(水) 17:33:06てことで、部落半分は在日朝鮮人地域だったり。同じ部落に住みながら、
日本人部落民と朝鮮人部落民は全くと言っていいほど交流がない。
それどころか、お互いに反目すらしあってる。
ところって結構多いらしいね。
0056日本@名無史さん
2006/05/17(水) 17:37:54但馬から脱解が新羅に移住し王になってるし
その代わりとしてアメノヒボコが但馬に移住してるし
百済が大和と結びついたのはずっと後の話。
0057日本@名無史さん
2006/05/17(水) 17:39:03朝鮮野郎お誘いの飲み会を断ると、お前は「協調性が無い!」
とかいってすぐ怒鳴るんだよね。
調性がない民族が何言ってんだか?とつくづく思うよ。
0058日本@名無史さん
2006/05/17(水) 17:43:490059日本@名無史さん
2006/05/17(水) 17:55:53「歴史」を「小説」レベルに引き下げているって事に気づいてないらしい。
科学的な裏付けが無ければ、単なる仮説に過ぎないし。古代史はその性格上、殆どが仮説の域を出ていない。
「仮説」を「事実」であるかのように主張する事自体が大間、てか変人扱い。
しかもスレとは全然関係ない。バカの極み。
0060日本@名無史さん
2006/05/17(水) 18:16:44朝鮮人は出雲神話タマムスビノカミ
でもその後の天孫神話でも
もっとも位の高い人たちだったわけだ。
朝鮮人の地位が下がったのは6、7世紀の話。
そういう経緯も知らないと部落と朝鮮の関係もわからないだろ
0061日本@名無史さん
2006/05/17(水) 18:17:19朝鮮ぶら、いやコリアタウンも、もうちと中華街を見習うべきだな。
開放的になれや、と。 交流しろや、と。
交流っても日本人に強制的に反省を求める従来型のじゃないヤシでないと駄目だ。
0062日本@名無史さん
2006/05/17(水) 18:21:49これ以上在日を増やすと日本が腐るよ。
治安も悪くなりしね、交通事故も増える。さらに地価や民度も下がる。
0063日本@名無史さん
2006/05/17(水) 18:23:38いや移民とかのそっち系の開放とは違いうんだけど
0064日本@名無史さん
2006/05/17(水) 18:30:28斜め読みしてましたスマソ
中国人でも変な留学生とか密航者とか犯罪者はいるんですけど、
地域に溶け込んでる人はいる。かつ、民族的な部分も生かして
やってる人って、いるんですよね。
なんで朝鮮系って問題ばかり起こすのでしょ?
0065日本@名無史さん
2006/05/17(水) 18:33:000066日本@名無史さん
2006/05/17(水) 18:34:58繋がってるからでしょ、生きるためにそういう
道で生きざるえなかった。
0067日本@名無史さん
2006/05/17(水) 19:03:53そんな説はどこでも通用せん。
0068日本@名無史さん
2006/05/17(水) 22:48:41=部落になってしまった説
0069日本@名無史さん
2006/05/17(水) 23:02:57似てるとこ多いやん
0070日本@名無史さん
2006/05/17(水) 23:34:47賎人はエッタヒニンみたいなもんでしょう
それに比べると日本の部落民の方が断然人らしく生きてるよw
0071日本@名無史さん
2006/05/17(水) 23:54:13朝鮮ヒトモドキは人類ではないから、
部落民にすらなれないんだぜ。
0072日本@名無史さん
2006/05/20(土) 22:10:06=部落になってしまった説
0073日本@名無史さん
2006/05/20(土) 22:32:370074日本@名無史さん
2006/05/20(土) 23:03:110075日本@名無史さん
2006/05/20(土) 23:07:38騎馬民族スレの400あたりから読んでごらん。
扶余が部落の主流だというのが分かるから。
0076日本@名無史さん
2006/05/20(土) 23:15:100077日本@名無史さん
2006/05/21(日) 00:31:51古代から近世にかけて支配階級をのぞく国民のほとんどが農民でした。
しかし実際の生活には工人や芸人なども必要です。
それらの家業は近代になって会社ができるまでは、
特定の家族に受け継がれるものだったため、
それらの家族を被差別民として固定化し、
ある意味においては保護したのではないでしょうか。
0078日本@名無史さん
2006/05/21(日) 00:45:08俺、そのスレ行ってるけど、昨日こっちにレスした。
秦氏=朝鮮人 京都県民と部落民の関係
ttp://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1131991701/l50
171
江戸期の寺檀制度下じゃ教義も何も(ry
176
一向一揆起源説も証明出来ないっていうし
第一、百済と結びつかないし
古代と部落民すら結びつかないし、中世までだろうよ。
神を部落扱いですか。
そうですか。
180
181
濫僧、屠者とかケガレた者は、清浄な鴨の河原に住んだらだめだぞ!
っていう。
濫僧(ひにん)
ケガレ観念と被差別民の関連を考えれば、少なくとも古代の関東と関連付けるのは無理じゃないかと。
0079日本@名無史さん
2006/05/21(日) 00:51:06何か評価をしてくれ。
0080日本@名無史さん
2006/05/21(日) 00:54:36秦氏は部落民ではない。
牛殺しをたしなめるアメノヒボコだ。
秦氏が扶余を私有民として管理してたのだろう。
0082日本@名無史さん
2006/05/21(日) 01:11:09うん、分かってる。
秦氏の行くところ、必ず被差別民の影がつきまとう。
播磨、但馬、摂津、山城、河内や和泉。
0084日本@名無史さん
2006/05/21(日) 01:26:46白馬青牛さんは関係ないだろw
しかし騎馬民族・扶余と、
部落問題がつながるとは、
誰も予想しなかっただろうな。
0085日本@名無史さん
2006/05/21(日) 01:39:05むしろ同じ人種と考えるのが妥当だろうな
0086日本@名無史さん
2006/05/21(日) 02:00:17天部、海部、扶余部…と、いろいろ連想させる。
0087日本@名無史さん
2006/05/21(日) 02:03:33/ ヾ ヽ、
/ 彡ノヽ ヽ
/ ,,ノ-~  ̄ ヽ |
| /へ_ ,=、 _ノヾ \ミ ノ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/彡| -・=/ ヽ =・- | ) | 土井たか子ニダよ。
ヽ .| 、_っヽ ノ | ノ | 本名は李高順ニダよ。
`-.| / _ ヽ | |_ノ ∠ 北朝鮮に親戚いるニダよ。
.| ノ`-´\ | \____________
ヽ' ⌒ ' 丿
|ー - ―~ |、
/|ヽ___ ノ| ヽ、
0088日本@名無史さん
2006/05/21(日) 03:52:55あんまり言いたくないが
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E9%83%A8%E8%90%BD%E3%80%80%E6%9D%B1%E5%8C%97%E3%80%80%E4%BF%98%E5%9B%9A&lr=
0089日本@名無史さん
2006/05/21(日) 03:57:39簡単な話し、「勝てば官軍 負ければ賊軍」
きっと、蝦夷が勝てば蝦夷社会になってたね!
0090日本@名無史さん
2006/05/21(日) 04:58:09http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1133544342/
部落起源と朝鮮
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1146402347/
日本の起源を探ろう
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1130554729/
一人で乱立せず、スレッド纏めてくれ!
0091日本@名無史さん
2006/05/21(日) 08:15:30彼の説明では、加藤清正が現朝鮮から連れてきた人々を住まわせたのが始まりとの
ことだった。
何故、連れて来たかと言うと、藩内の百姓連中に厳しい年貢を課していて、百姓
達のガス抜きをしないと一揆が絶えないので、百姓の下の身分を作るのが目的
だったらしい。
元々、部落とは現朝鮮からの移民を住まわせた地域のことでないかい?
確かに、福岡は多いよ、学生時代に博多区の焼肉店に何気なく入ったら、店主が
店員に「日本人は入れるな!」とか小言を言っていた。
それから、解同は確かに解同の為の活動をしていると思う。
俺の町でも知事まで呼んでそれらの活動をしていたが、面白いのは部落から逃れて
来た連中が威勢よくて、元々部落でもなんでもない人はまったく無関心なこと。
これって、部落見極め運動そのものになってる。
人間は金さえ貰えれば、人権はどうでもいいようです。
0092部落とは
2006/05/21(日) 10:33:39い人口九割の賎の民をとじこめ、反仏派の北条期には源氏の「四つ」をはじめ、赤系
でない者を追い込んだ。
足利幕府になると今度は逆で、赤系の祇の「八つ」も反体制の南朝方と、橋のない
川へ入れられたのが実際の処で、喜田博士は日本部落史研究の第一人者とされている
が、何も全然ご存じない。
0093曖昧模糊の喜田史観
2006/05/21(日) 10:35:32刊行の高柳金芳の「江戸時代被差別分層の生活史」の方が正確である。そこから逆に
さかのぼってゆけば、九対一ぐらいの割合だった征服者と被征服者の悲劇。つまり吾
々の先祖の虐げられてきた真相が判り得るといえる。
「良い事を言われると、人は悪い気がしない」という人情の機微を巧く利用して、な
んでも美化してしまい、敗戦民族を「国津神」などとしてしまうからして、それを文
字通りで読まされては、喜田先生でもわけが判らなくなる。仕方がないというか、ま
ぁ当たり前みたいになっている。
0094「四つ」と「八つ」
2006/05/21(日) 10:40:22は騎馬民族で東北沿海州から日本海を親潮で流されてきた北方民族であるが、治安維
持のため徳川時代には施政方針を「四つ」と「八つ」を交互にくりこんで、互いに牽
制しあわせて被差別。藤ナイ[内?]は十世紀流入の契丹系をさす。
契丹は唐を滅ぼしてとって換った国ゆえ、大陸系でも御所からは賎民視されていた
のである。だが、太平洋側に黒潮で這い上がった「八つ」は八母音の原住民で、農耕
漁業製塩をしたから食用課役奴隷にされた。が、「四つ」は沿海州北鮮系で遊牧民族
ゆえ、討伐されて捕えられる飼戸(しこ)。
0095契丹系
2006/05/21(日) 10:42:05契丹系で、天慶の乱とされた時の者らの押し込み限定地。だが「エの民」つまり江戸
の以北はみな部落ゆえ、一緒くたにされて被差別され、少しでも反抗すれば徹底的に
こらしめて、オカミの言いなりになる奴隷人民に仕立ててしまった。だから藤原王朝
の鉄武器による権力はえらいものであった。
0096島崎藤村の「破戒」
2006/05/21(日) 10:45:43た。全国的に「解放」の美名で広められたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で
告白する島崎藤村の「破戒」、それとこの「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人
々にまで、部落について初めて知らされる結果となり、一般庶民が驚き仰天した。そ
の結果の名残りが、住井すゑの「橋のない川」である。
せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを本で知ら
され、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対
象にまでしてのけた。
0097日本@名無史さん
2006/05/21(日) 10:47:530098部落出身者
2006/05/21(日) 10:49:16用され三十人扶持程度の奉行所同心や材木座火盗同心の連中へ、「不浄役人め」とか、
「溝さらえ」と、はっきり差別。この名残りか現代でも特殊部落出身の大製菓や大製
陶会社では、興信所を使い部落出身者の就職差別し不採用にする。
0099日本人の九割
2006/05/21(日) 10:50:16銭で購入した「八つ」の者や、「四つ」の連中なのに、最後まで残ったのを部落者扱
いで人非人して非人と誤る。
0100日本@名無史さん
2006/05/21(日) 10:50:590101特殊部落とは
2006/05/21(日) 10:54:00人族の「八つ」との区別もできずに、十世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼし
て取って代わった契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であろうと、指が八本との妄
説まで立てる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼ
された明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話を書いているのに、喜田貞吉らは気づか
ず、「特殊部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。
0102三韓征伐はまったく逆
2006/05/21(日) 10:54:43部落は西暦663年に世変わりした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送り込み徹底
的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのがゲット
ーの居附部落と知らぬらしい。
続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ
徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ、尽きると自滅させた。日本後紀や続日本紀
に記録されている。
0103日本@名無史さん
2006/05/21(日) 11:44:12崇神王朝系騎馬民族なんて言ってる時点でアレだなw
日本における牛皮なめし発祥の地・播州について語らなきゃ。
無論、部落問題はそれだけではないけども、
「牛皮なめし民」は大きな要素だ。
0104皮剥ぎ
2006/05/21(日) 11:49:51だが、駕かき川越人足や雲助は平家で、「八つ」とよぶ赤筋の拝火宗徒。トウナイは
『唐無い』で、契丹系の部落民」
と、はっきり種族別が分けられるが、喜田貞吉は他国の捕虜とか社会の落伍者と決め
つけるが、藤原王朝時代に征伐された日本列島原住民。足利時代は散所奉行が新設さ
れて、南朝に味方した者らの反体制子孫を収容。
0105応仁の乱
2006/05/21(日) 11:51:28の代わりにしっ払っさせられ、生き残れたのが戦国武者や武将になれたが、世が泰平
になると下克上は明治維新までのびた。
0106喜田 貞吉
2006/05/21(日) 11:53:01徳島県出身。東京帝国大学文科大学で歴史研究を行う。卒業後、帝国大学で講師を務め、1909年に文学博士の学位を得た。
文部省で国定教科書の編纂にも従事したが、小学校の歴史教科書に南北朝期の北朝・南朝を並べて記述していたため、南朝を正統とする立場から非難され、休職処分となった(1911年、南北朝正閏問題)。
法隆寺再建・非再建論争では、再建論の論陣を張った。
1920年京都帝国大学教授。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。被差別部落研究の先駆者としても評価されている。
0107喜田の部落問題認識
2006/05/21(日) 11:57:01『特殊部落研究号』の創刊直前には、近畿各地の融和運動家を訪問している。そこで何が話し合われたのか、米田の存在の影響など喜田の研究の成果を受け継ぐために今後の課題として提起した。
0108米田庄太郎
2006/05/21(日) 11:58:08米田は奈良の被差別部落出身であり、キリスト教へと導かれたことにより、欧米で長く生活した西欧紳士であった。
被差別部落出身を隠すことなく、容姿端麗、語学の天才でもあった米田にたいして、土俗主義者としての喜田は、自身の部落問題認識において常に障壁となる存在としてあり、終始疎遠な関係であったことを紹介した。
0109日本@名無史さん
2006/05/21(日) 17:02:160110日本@名無史さん
2006/05/21(日) 17:08:180111日本@名無史さん
2006/05/21(日) 17:11:210112日本@名無史さん
2006/05/21(日) 17:18:330113日本@名無史さん
2006/05/21(日) 17:21:490114日本@名無史さん
2006/05/21(日) 17:24:310115日本@名無史さん
2006/05/21(日) 17:31:220116日本@名無史さん
2006/05/21(日) 17:34:000117弾左衛門こと改名矢野内記
2006/05/21(日) 17:43:25<慶応四年正月。老中稲葉美濃守より弾左衛門こと改名矢野内記宛>の文書によると、「其方儀(神君)御入国以来、先祖より引き継ぎ、御用品納入や御仕置御用をよく相勤めてきたが、
去る元治元年の伝馬町大牢火災の節は、己が囲内の牢屋へ囚人を引き取って自分の出費で面倒を見た。さらに去る慶応二年の長州征伐には五百名の
強壮な若者を出征させ、留守家族の手当ても自分で賄った。大阪表へ其方も将軍さまのお伴で出向したいと申出もあったが、重ねて此方からの御用もあるからと止めさせたところ、
手代の中から名代を選んで、これを大阪表へやって指揮を執らせたし、今般、時勢に臨み銃隊をもうけ公儀歩兵隊を新設するに当たり、
其方は一ケ大隊の人数の供出を申し出、取りあえず百名の二ケ小隊には自弁にて銃器弾薬を揃え訓練をした。まことに尽忠報国の心掛けである。
よって、鎌倉以来の由緒正しき名門ゆえ、出格の訳をもって、平人の身分に仰せ付けられることになった。有難く存ずペし」この通達があって二ヶ月後、矢野内記は鳥羽伏見で敗れてきた新選組に、
自腹を切って横浜関門で五万五千両で買い求めたエンスヒール銃やミニエー銃を持たせた銃隊二百名を、軍費一万両つけて渡している。
近藤勇が大久保大和と変名して引率していった「甲陽鎮撫隊」がこれである。
0118浄土真宗本願寺(西派)
2006/05/21(日) 17:56:35所属しています。これは部落の起源を考える上できわめて重要なことです。つまり現在の部落の直接
の起こりは、江戸幕府による本願寺の東西分割と非常に密接な関係があるということです。
このことは歴史のブラックホールであまり紹介されないことです。(一部の本には詳説されています)
前のレスの一部にもありますが、室町時代までは職業とか差別とかはあまり厳しいものはありません
でした。江戸期身分制の穢多・非人なども、以前の革職人や染物業者や運送業者、木工師などとは、
ある意味、非連続と見るべきです。
それがなぜ江戸期に急激に差別が加速したか。これは幕藩体制成立史上、けっこう重要なポイントで
す。
ひとつに室町・戦国期まで、浄土真宗本願寺教団が築いていた地位、果たしていた役割、組織、事件
信者の社会層などを考える必要があります。
そして徳川がなぜそれを2分する必要があったのかを考えることも重要です。
あまり深く追求すると、まだ今日でもさしさわりがあると思われますが・・・
0119部落差別も総理大臣も瀬戸内海沿岸
2006/05/21(日) 17:59:25四国中国地方は旧家が多いと聞きます。
皇国史観で屈辱するなスレと若干かぶる気もしますが、
なぜか総理大臣は瀬戸内海沿岸に多いようです。
例えば青森の大島理森は山口の高村さんに蹴落とされましたし、山形の鹿野道彦
は小泉さんに蹴落とされましたし同じく山形の加藤紘一も総理になれません。
秋田、宮城からも総理大臣が一人も出ません。仙台の三塚さんも総理になれません。
岩手の小沢さんも過去の人ですし福島の渡部こうぞうさんも消えました。
茨城の梶山さん、栃木の渡辺美智雄さんも総理になれませんでした。栃木の船田元も消えました。
茨城の中村喜四朗も総理になれませんでした。
>>さて、瀬戸内海沿岸(大阪から福岡のライン)に注目しますと、
まず、大阪府から鈴木貫太郎、幣原喜重郎、岡山県から犬養毅、平沼騎一郎、鳩山一郎(元、岡山)、橋本龍太郎、
広島県から、加藤友三朗、池田勇人、宮沢喜一、
山口県から、伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、
徳島県から、三木武夫、香川県から、大平正芳、福岡県から広田弘毅
次代をになうニューリーダーから・・・
福岡、麻生太郎、古賀誠、山口、安倍晋三、高村正彦、菅直人(宇部市)
広島、亀井静香、中川秀雄、岡山、平沼赳夫、兵庫、小池百合子、
徳島、後藤田正純といった所でしょうか。
0120日本@名無史さん
2006/05/21(日) 18:04:03「朝鮮紀行」では、半島でも革職人は差別されていたと書かれていましたが、
それは、宗教上の理由でふか?
皮革加工系が半島でも、日本でも差別されるようになった経緯が知りたい。
0121日本@名無史さん
2006/05/21(日) 18:05:26>>1
あんまり言いたくないが
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E9%83%A8%E8%90%BD%E3%80%80%E6%9D%B1%E5%8C%97%E3%80%80%E4%BF%98%E5%9B%9A&lr=
0122山口県出身の総理大臣
2006/05/21(日) 18:06:50だから佐藤栄作に自民党公認にしてもらったという情報もウソではありません。
(橋本が総理の器ではない事はその後の橋本内閣の経済失政や銀行3行もつぶしたことからもお分かりだと思います。)
佐藤信二さんが落選したのはもちろん本人の素質のなさで、もちろん彼が慶応大学卒なのも
裏口入学です。
父が佐藤さんの選挙の手伝いした事もあり、私の父も佐藤さんの縁故で一流企業に入社できました。
(はっきり言って仕事は出来ません)
小渕優子が今の総理は?との質問に「中曽根???」と答えたのは有名な話です。
だから、、自民党公認を取り得る蓋然性があなたにどれだけ存するかが焦点でしょう。
と言うより素質なんてなくてもいいんです。ようは血筋というか地盤のほうが問題だから。
その証拠に私の祖父のはとこなんか、アジア人何百万人も虐殺した挙句日本中焼け野原にした上
原爆2度落とされても戦争責任とらなくていいわけでしょう。その父は少し頭のおかしい人で
紙をくるくる巻いて遠眼鏡にしたのは有名だけど。それでも天皇になれるのです。その父は16歳
で天皇になっても取り巻きがしっかりしてるからお飾りでいいし、父孝明天皇が佐幕攘夷派(徳川派)
なのに自分は倒幕開国派(薩長派)で父を裏切った挙句、父を殺した伊藤、岩倉を側近として
大事にする明治大帝なのですよ。その明治大帝は1866年まで身長145センチ体重45キロ
だったのに突然、長州の味方になった途端身長180センチ体重100キロになるのです。
だからトンデモといってる本人がトンデモなのです。
0123山口県出身の総理大臣
2006/05/21(日) 18:07:28佐藤さんが一流企業の縁故入社や一流大学への裏口入学を斡旋したのは有名な話。
(うちもそう)。もっとすごいのは天皇家の親族というだけで自民党の公認にしてもらえる事でしょうか。
もし、何もない人間が選挙に出ようとしたら10億はかかると思います。
一代で総理になった田中角栄がロ事件で捕まって、佐藤が造船疑惑で逮捕、
されなかった理由は佐藤が田布施コネクション(昭和天皇つながり)から検察に圧力をかけた
からで、検察のオえらいさんも人の子、ヒロヒトから文化勲章もらえたらうれしいですよねえ。
それでもみ消したみたい。田布施町では天皇の事をタマと呼ぶのだが、岸が言うには
クリーンな政治資金ならつかまらないけど汚いカネなら捕まるんだって。
田中角栄の5億なら賄賂になるけど、皇室などのエスタブリッシュメント層から取った5億ならクリーン
な政治資金になるそうだよ。だから天皇=タマとは政治資金と選挙の利権の事で
タマを握ったものが総理になれるというか情報を握ったものが総理に慣れるんだって。
(実績、山口県出身の総理大臣。 伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、佐藤栄作、岸信介)
0124薩長はまんまと天下をとり
2006/05/21(日) 18:15:46陰げ詣りをさせ、薩長はまんまと天下をとり、鹿児島の棟木部落の鍛冶町からでた西
郷や大久保、海江田が世直しをし、のちに同じ部落より大山とか東郷といった偉い元
帥がでたので、伊集院に特殊部落をすりかえたが、同部落の益満休之助や自決した田
中新兵衛。土佐の部落から京へ、殺し屋として送りこまれた岡田以蔵も、捕えられる
と、斬髪していなかった為に、無宿人以蔵として獄門さらし首。
0125賎民自治体
2006/05/21(日) 18:23:42門は徳川家康江戸入府の後、長吏以下の支配を命ぜられた。当時小田原の長吏太郎左
衛門が北条氏直の証文により、又元禄五年に上野下仁田村の馬左衛門が、武田信玄の
証文を提出し、弾左衛門から独立したいと訴えたが却下になって、幕府はその証文を
弾左衛門に下附したとの事である」
0126日本@名無史さん
2006/05/21(日) 19:49:450127日本@名無史さん
2006/05/21(日) 19:52:460128クダラ系だけは賎から良
2006/05/21(日) 19:55:50子浦まで追ってきたので、桓武帝即位からクダラ系だけは賎から良に変ったが、後は
戦国期で下克上と称された時代。
ブシン(不信)の飼戸の者の生き残りが武力によって、武士や武将になったからで
ある。維新ものと戦国ものが、一般受けするのも救いのない底辺の庶民の賎の者が、
どうにか陽のあたる場所へ浮き上れる機会の夢が、そこにはあるからであろう。なに
しろ江戸の貞亨年間に居付き部落から大多数が都市に脱出して銭で町人別や寺人別に
入る迄は、人口の八割以上は限定収容されていて、逃げ出せば、逃散の咎めで殺され
る奴隷だったからである。
0129日本@名無史さん
2006/05/21(日) 19:56:210130製革業
2006/05/21(日) 19:57:38ってもいかぬ事になっていた。公儀においては藤原王朝のとっていた、夷を以って夷
を制する方式を前述のごとく、「四つ」の弾左の下には、「八つ」の車善七、その下
に四谷者や吉原四郎兵衛手下その支配下に谷津の「八つ」ものの各部落、といった組
み合せにして、相互に憎しみ合せて一つにならぬようにした。
0131穢多非人
2006/05/21(日) 19:59:16で、海藻みたいなボロを着て裸馬にのせられた死刑囚につきそっていた連中だが、身
寄りの者が首代として黄金五枚をなんとかして作って持ってゆけば、地獄の沙汰も金
次第で許され、非人の境遇から足を洗って常人に戻れた。
穢多非人と一律にいうが、「八つ」の穢多だけを目の敵にしているのは、「四つ」
の弾左は体制側ゆえ「四つ」は表面にでず、穢多非人と二大区別に官製歴史がごまか
しているのはこのわけである。
東京にも浅草に先族の当て字の千束町や鈴ヶ森に近い大森には洗足そのままの地名
が残っているのは、人頭税をぼちぼち取るより、大きく金をとれるので、非人を次々
と戻したからである。
0132浅草新地の弾左衛門
2006/05/21(日) 20:01:41つたが、江戸では浅草・品川等四ヶ所に居つた。「非人頭」が統一し、下に「小屋頭」
がある。非人頭中の最有力者は浅草の車善七と、品川の松右衛門である。非人頭は弾
左衛門に属し、手下の出入は弾左衛門に一々届ける。亨保七年に善七は弾左衛門支配
から脱けようとして、はたせなかつたらしい。駿河の非人の犯罪者を弾左衛門に引渡
さなかつたのでおおいに、もめた例がある。
0133日本@名無史さん
2006/05/21(日) 20:17:48浄土真宗ばっかりだよ。っていうか九州は
浄土真宗か浄土宗のみって感じですが???
0134下克上
2006/05/21(日) 20:39:29間楯として強制的に狩りこみされてきたのが、関白一条兼良の日記にもある「悪党」
で、仏閣を荒す足軽の中で、辛うじて生き残り戦場で武具や武器を拾い「寸法武者」
となったのが戦国武者。その中から戦国大名も出ただけの話。
0135武士
2006/05/21(日) 20:40:32呼んだが、防人や飼戸の御楯に出しても相手が同じ「四つ」なら向こうに付いてしま
うので、実に始末に困る。
その武士がクーデターみたいに武力をもっている強味から、明国に属従していた足
利の守護職や現地の守護代、公卿の荘園の守護代を追い払って、代りに領主となって
しまった事だろう。
0136八田
2006/05/21(日) 20:47:17なったのは賜姓です。八田というのは弁天涯の、あの一帯をいまでもあのへんに住ん
でる人のことをヤッタモンっていうんです。安土城を作った弁天涯の絶壁八田なんで
す。越前から出るわけはなく下織田とよばれた信長は近江です。だから後に、信長が
殺された後は、あそこの連中たちは追われて、近江乞食っていわれるんです。太田亮
の『姓氏辞典』なんかみると、加賀に入った藤原氏が加藤であるとか大真面目に書い
ていますが、京をかためるのに精一杯の進駐軍が、わざわざ雪深い加賀へはゆきませ
ん。浄土宗が加賀に入って一向宗道場を作った時の作り話です。語源は簡単で仏教が
浄土で上等なのに、反仏教徒のアウトローは下等の意味です。なにしろ漢字は郭の時
代から、みな当て字で自由に勝手に付けているので、文字通りに読んでゆくと、日本
の歴史は、まったく判らなくなってしまいます。
0137下克上
2006/05/21(日) 20:48:42かび上がれる唯一の機会だったからである。つまり加藤清正にしろ虎之助とよばれ岡
部又左の大工の徒弟だったのは、薮塚の加藤弾正の伜ですから居付地住まいの素性。
それから同じく秀吉のまたいとこにあたる福島市松がササラ衆の、桶屋の職人の伜だ
し、これも原住系に相違なく限定職だから居付地に入れられていた。秀吉も中村が後
に遊郭になる程ゆえ、居付部落の抜け人。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています