>>226
「義家に関しては、生まれながらの坂東武者の棟梁といえるかも」
それは違うと思う。
義家は、やはり最後まで河内の武者。
後三年の役を私戦とされたため、郎党への報償は、すべて河内の本領の資産で与えている。
また、河内の所領をめぐり、兄の郎党と対立した自分の郎党のために、河内の本拠地で戦したくまでしている。
頼義は相模を関東進出の前線基地としたが、本拠地は河内の壷井。
壷井という地名の由来は、頼義が前九年の役で苦戦し、水に困ったため、水を入れた壷を埋めて教訓としたことにあるとされる。

伊勢平氏の伊勢、伊賀に対応する地が河内源氏の場合は河内。