モンゴルはいかに世界を変えたのか
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0001世界@名無史さん
2012/02/03(金) 11:49:51.0100315世界@名無史さん
2012/06/24(日) 04:36:05.350モンゴル史じゃまったく違うからな。
モンゴル前までの各種遊牧部族の歴史
モンゴル崩壊と、ロシアの台頭
にわかれるんだろうけど、モンゴル以降の歴史もだいぶ違うよな。
0316世界@名無史さん
2012/06/24(日) 04:36:43.040同時にモンゴルの歴史は金融しでもある。
0317世界@名無史さん
2012/06/24(日) 09:38:52.900?
0318世界@名無史さん
2012/06/24(日) 10:13:35.6800319世界@名無史さん
2012/06/24(日) 23:12:26.500モンゴルと手を組んだイスラム商人が世界金融を扱うテクニークの基礎をつくった
それを模倣したのがイタリア商人たちであり、それをさらに発展させたのが
ユダヤ人だな。←いまここ
0320世界@名無史さん
2012/06/27(水) 01:09:49.320まだその部族が残ってればの話だが
聞くところによるとかなりの美女揃いとのこと
0321世界@名無史さん
2012/06/30(土) 23:36:02.140最初の世界帝国はペルシャ 世界史はイランからはじまる
0322世界@名無史さん
2012/07/06(金) 01:13:38.0000323世界@名無史さん
2012/07/06(金) 01:34:39.3100324世界@名無史さん
2012/07/13(金) 23:52:55.730ドーソンによると、ハンガリーにおいても、エステルゴムの内城
Albe-Julie Saint-Martinの三城は陥落せず、本国よりオゴタイ
崩御の報を得て囲みを解いたという。これとは別に蒙古軍は
オーストリア に侵寇し、ウィーン南部のノイシュタイン城を包囲した。
この攻城戦は、『ローマ帝国衰亡史』のエドワード・ギボンが次の
ように叙述している。
一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声と武勇に恐れを
なしていて、オーストリアのノイシュタインの町への彼らの攻撃は
五十人の騎士と二十丁の石弓兵で勇敢に防衛され、彼らはドイツの
一部隊の来援で包囲を解いた。 (「ローマ帝国衰亡史」巻10)
このようにギボンは蒙古人がドイツ人(フランク族)の勇猛さに
恐れをなしていたと記している。
たった五十人の騎士で一城が守れるとは信じがたいがノイシュタット
の防衛はドーソンも、 ノイシュタットには僅かに五十人の守備兵と
二十人の石弓兵とを備える のみなりしが、蒙古兵はオーストリア公、
ボヘミア王、カリンチア公、 バーデン侯Agrar管長の連合軍近けるを
以て退却したり。(「蒙古史」)
今村明著 『封建制の文明史観』P60-P61
0325世界@名無史さん
2012/07/14(土) 06:10:45.9100326世界@名無史さん
2012/07/14(土) 07:36:49.1300327世界@名無史さん
2012/07/14(土) 11:46:53.570キプチャク汗国そのものが脅威だったはずだ。
ロシアなどはモンゴルの属国を200年も続けていたんだから
でもドイツ騎士団などにはモンゴルの脅威は全く感じられないし、
ポーランドやハンガリーでは国土防衛を目的としてドイツ人を殖民
させている。
また、バトゥは折角占領したハンガリーやポーランドに兵力の一部を駐留も
させず、全軍で撤退している。
これなんかも「一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声
と武勇に恐れをなしていて、」とのエドワード・ギボンの推測を裏付ける。
0328世界@名無史さん
2012/07/14(土) 15:17:12.100ドイツ騎士団を撃破したことについて
0329世界@名無史さん
2012/07/14(土) 17:16:24.570ドイツ騎士団に買ったってことだろ。
ポーランドやリトアニアはもちろんタタールでさえも単独でドイツ騎士団
に勝てたかわかんねえじゃん。
0330世界@名無史さん
2012/07/14(土) 17:37:42.0000331世界@名無史さん
2012/07/14(土) 17:54:17.95O0332世界@名無史さん
2012/07/14(土) 18:03:10.5201241年4月に世に言うワールシュタットの戦いが行われたリーグニッツって
当時のポーランドのドイツ国境付近なんだよ。
この戦いの敗北によりポーランドの組織的抵抗は事実上おわったんだ。
オゴタイハーンの崩御をきっつかけとしてモンゴル軍が全軍撤退した
のは1242年3月ごろである、これはワールシュタットの戦いがドイツと国境
付近で行われてから10ヶ月以上たっている。
ポーランドもハンガリーも蹂躙したモンゴルがなぜドイツを蹂躙できなかったか
を考えれば、「一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声
と武勇に恐れをなしていて、」とのエドワード・ギボンの推測を
裏付ける。
0333世界@名無史さん
2012/07/14(土) 18:11:24.970モンゴルの騎兵は無力化される。オーストリア方面でも限界が出ている。
ドイツ人の武勇が脅威だったというよりハンガリー・ポーランド以西の
地勢がモンゴル騎兵にとって不利だったのだろう
0334世界@名無史さん
2012/07/14(土) 18:12:41.470もともと狩猟民族であったドイツ。夏の間週末は必ずどこかで
シュッツェンフェストが開かれている。
それぞれの地区の射撃協会メンバーが集まって射撃の技を競い合う
お祭りはすでに13世紀ころには始まっていたようである。
http://www.jap.pianokoshino.de/sub4.html
これなんかも、意外とモンゴルの襲撃から都市を防衛した過去の
教訓に基づいてるのかもしれない。
0335世界@名無史さん
2012/07/14(土) 18:20:53.310一時は内戦発展が危ぶまれたほどで遠征軍の貴弟、貴子からすれば
ジョチ家の領土拡大戦争なんてもんに参加するよりかはよっぽど重大な問題が本拠地で待ち構えてたわけで
いたずらに戦役を拡大したところで利点がないんだよね
10ヶ月てのはそういう連中に対してバトゥが粘りに粘った結果だろう、バトゥ本人はクリルタイの参加する気はないみたいだし
実際崩御がなけりゃドイツ突入しててもおかしくはない
0336世界@名無史さん
2012/07/14(土) 18:25:58.360(1141年-1162年)によって始められた。
10年間の、ドイツ人移住者の主な義務はハンガリー王国の南東部国境
地帯の防衛をすることだった。植民は13世紀終盤まで続けられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%E4%BA%BA
0337世界@名無史さん
2012/07/14(土) 18:40:59.140ジョチ・ウルス(キプチャックハン国)を建国し
ルーシ各国を支配(タタールのくびき)してたんだが。
ポーランドに対しても1259年、1286年、1287年と3回も
侵攻しながらもポーランドを征服できなかった。
とくに1287年の侵攻はジョチ・ウルス(キプチャックハン国)
第8代宗主トゥラ・ブカによる親征だったが撃退され、
それ以後2度とポーランドへの侵攻を行わなかった。
0338世界@名無史さん
2012/07/14(土) 18:42:27.060を後押しした。
ピャスト朝の流れを汲むポーランド諸侯の分裂と戦乱、幾度ものモンゴル
侵攻や住民の拉致もあり、ポーランド西部の公国群は13世紀には急速に
衰退した。
荒廃したシレジア地方の復興に際しては、ポーランド人だけでは人手が
足りず、西方からの農民たちを招いたが、フランス人やオランダ人より
もドイツ人が大きな割合を占めた。
その結果、シレジアは急速にドイツ化してゆく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E6%A4%8D%E6%B0%91
0339世界@名無史さん
2012/07/14(土) 19:04:06.9300340世界@名無史さん
2012/07/14(土) 19:16:11.440軍を構成する兵の訓練の熟練度や士気の高さも
重要な要因だ。その点に関しては今も昔もドイツの方が
ロシアより上だろう。
0341世界@名無史さん
2012/07/14(土) 19:26:50.620持つドイツ人勢力との間に起きた戦い。
兵力は不明だがノヴォゴロド軍の方が多数であったことは間違いない。
当時、ドイツ騎士修道会がリヴォニアに展開できた兵力を考えると修道会軍
の兵力は多くても数百名程度だったと考えられる。
兵力差が60対1と伝える史料などから推測するとノヴォゴロド軍の
兵力は数千名程度だと考えられる。
ドイツ側は楔形の陣形でノヴォゴロド軍中央へ突撃を行った。
ノヴォゴロド軍は両翼をのばして独逸軍を包囲撃滅した。
ドイツ側は400人の戦死者と50名の捕虜を出して敗退した。
ドイツ騎士修道会は20名の戦死者と6名の捕虜をだした。
ドイツ騎士修道会軍の戦い方は中東十字軍と同じに敵の中央突破
を狙ったもので、負け方も同様のパターンで突破に失敗して包囲
されて壊滅したといったところだ。
見ようによっては単純に兵力差から負けたとも言える。
http://crazyhis.web.fc2.com/war/battle/1242chud.htm
0342世界@名無史さん
2012/07/14(土) 19:30:21.910皇帝自体は名君なんだけどね、出身地がアレなもんでイタリアに深入りしすぎた感
とてもモンゴル相手に戦線増やせる状況じゃない
0343世界@名無史さん
2012/07/14(土) 19:45:26.1800344世界@名無史さん
2012/07/14(土) 22:16:06.670占領地に駐留させたけど、バトゥは占領地を放棄した。
それこそ、「一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声
と武勇に恐れをなしていて、」とのエドワード・ギボンの推測を
裏付ける。
0345世界@名無史さん
2012/07/14(土) 23:01:19.2200346世界@名無史さん
2012/07/14(土) 23:11:52.720するからだよ。
0347世界@名無史さん
2012/07/14(土) 23:17:37.4300348世界@名無史さん
2012/07/14(土) 23:23:00.770「よっしゃぁ」と応じてドイツ騎士団はフルボッコされているが。
この当時のドイツはポーランドやクリミアに太刀打ちできる力は無かったのだろう。
0349世界@名無史さん
2012/07/14(土) 23:28:42.91Oモンゴル内部の覇権争いが大事だったんだろ。
別にむきになるところじゃないし。
ヨーロッパよりモンゴルの軍事力が上だったのは当たり前で、
征服されなかったのは偶然だが、征服されたとしても、
やがては放棄してたろ。ロシアみたいに。中華みたいに。
政治力は大したことないから。
軍事力じゃドイツなど大したものでないが、モンゴルの政治力も、
大したものじゃないから世界史に爪痕を残せないで終わる。
それが妥当なところだろ。
ヨーロッパ信仰もモンゴル信仰も馬鹿くさい。
遠路はるばる来て勝利を積み重ねたモンゴルが強いのは、
当たり前で、同時に世界史を変える力がないのも、
歴史が証明してる。
ドイツにはモンゴルみたいに世界に押し出せる力なんかない、
辺境の弱小国。
かといってモンゴルがヨーロッパ支配してもその後の、
西洋の覇権は変わらない。
0350世界@名無史さん
2012/07/15(日) 00:11:46.850なんでヨーロッパ各国を征服できなかったの。
>恐れている割にはポーランドが「ドイツ騎士団と戦うから援軍送ってくれ」との要請に
>「よっしゃぁ」と応じてドイツ騎士団はフルボッコされているが。
これだってその後、ルーシ諸国のように属国にしちゃえばよかったのに
どうしてできなかったんだ。
キプチャックハン国の20万の兵力ではポーランドやドイツ騎士団国を属国にする
力がなかったんだろ。
0351世界@名無史さん
2012/07/15(日) 00:15:34.200の兵力ではドイツ本国を征服なんて全然無理だな(笑)
0352世界@名無史さん
2012/07/15(日) 00:22:21.6900353世界@名無史さん
2012/07/15(日) 00:25:51.170モンゴルの歴史に詳しければすぐに分かると思うがオゴダイ死後のハン位争奪戦終了後
再びハン位争奪戦が繰り広げられた上
フレグ・ウルスとチャガタイ・ウルスと敵対関係になって
王統断絶とか内紛とかで欧州の端にまで気が回らなかっただけで
ドイツが征服を免れたのは全く運としか言いようがない
そもそも国力だけで比較しても当時のドイツなんかホラズム、金、宋と比べて格段に劣るわけで
しかもそれが諸侯の手で分裂してるときた
0354世界@名無史さん
2012/07/15(日) 00:49:52.4000355世界@名無史さん
2012/07/15(日) 13:18:56.140ドイツの東欧における植民地ともいえるドイツ騎士団国は
キプチャックハン国の属国であるルーシ諸国にとって現実
的な脅威だったんだから、宗主国の対面からもドイツ騎士団
を滅ぼしか屈服させる必要はあるだろ。
動員兵力20万の1〜2割程を動員しただけでも兵数ではドイツ騎士
を圧倒できるはずなんだから。
0356世界@名無史さん
2012/07/15(日) 14:02:10.170タタールの領分である黒海やドニエプル川など伺うような状況には無かった。
0357世界@名無史さん
2012/07/15(日) 15:01:30.7401362年の青水の川(シニュハ川)の戦いで一敗地に塗れる。
この戦いでウクライナの大部分とキエフを失い、それ以後、リトアニア
との関係が逆転する。
それでもドイツ騎士団国に対しては一方的な圧力を受け続けていた。
0358世界@名無史さん
2012/07/15(日) 22:28:24.43Oポーランドとかが遠路はるばるきたモンゴルにたこ殴りされた事実があるだけ。
武力じゃあの時代はモンゴル>>>>>欧州は当たり前だろ?
何、基地外が喚いてんだ?
意味不明なんだが?
0359世界@名無史さん
2012/07/15(日) 23:44:26.610汗国の西の果てでルーマニア人がタタールを追い出して勝手にモルダヴィア公国を建てたり
ポーランドやリトアニアがウクライナに侵入しても何もしなかったんだから
プロイセン行くどころじゃないだろw
>>356
それ1410年以降の話
0360世界@名無史さん
2012/07/16(月) 11:51:15.030強いかわからないが、両方と戦っているリトアニア大公国との戦闘で両国の強さを比較できる。
1362年ジョチウルス(キプチャク・ハン国)内での後継者争いの隙を
突いてリトアニア大公国が攻め込んだ。
ウクライナ一帯を治めていた領主の間で戦われた戦闘(青水の戦い)で
リトアニアが圧勝し、ウクライナのほとんどを征服し国力を増強させた。
しかしそれでもドイツ騎士団の侵略を跳ね返すことはできず、同じく
ドイツ騎士団に苦しめられていたポーランドと合同し1410年の戦い
(タンネンベルクの戦い)でようやくドイツ騎士団の脅威を跳ね除ける
ことに成功した。
リトアニア大公国にとってはジョチウルス(キプチャク・ハン国)より
ドイツ騎士団国の方がよっぽど強敵だったんだろう。
0361世界@名無史さん
2012/07/16(月) 12:01:32.78O0362世界@名無史さん
2012/07/16(月) 12:16:07.910アゼルバイジャンやアルメニアをイル汗国と
血で血を洗う抗争を繰り広げたキプチャク汗国。
最後は仲良くティムールに踏み潰された。
0363世界@名無史さん
2012/07/16(月) 12:58:18.910仲良くタタールに敗れている。
0364世界@名無史さん
2012/07/16(月) 13:21:08.10O0366オツガイ ◆EAbyJft1LY
2012/07/16(月) 13:47:12.410でも、ジョチウルスのルーシ支配って間接統治が基本だったし、
初期はそれなりにうまくいってたからそこまで深入りする必要性もなかったんじゃないかな。
それよりも中央でのカアン位を巡る争いやイル・ハン国との対立のほうが重要だったんだと思う。
そもそも、モンゴルが出てくるまでもなく、アレクサンドル・ネフスキーがドイツ騎士団を破ってるし。
>>360
14世紀半ば以降のジョチ・ウルスはあなたも言ってるように内部での後継者争いで混乱してたからね。
まぁ、後にトクタミシュが現れて一時的に盛り返すとは言え、分裂し衰退しかかってる時期だったのには違いない。
その頃のジョチウルスとドイツ騎士団を比べて、タタールはドイツ騎士団を恐れてたと言っても説得力に欠ける気がする。
ジョチウルスがドイツ騎士団のほうまで攻め入らなかったのは、中央でのゴタゴタやイル・ハン国との対立のせいで、
大して必要のない遠征をする暇がなかったからでしょ。まぁ、ドイツ騎士団も当時としては強い勢力だったと思うけどね。
0367世界@名無史さん
2012/07/16(月) 15:27:57.930>1399年のヴォルスクラ河の戦いではリトアニア軍もドイツ騎士団も
>仲良くタタールに敗れている。
ヴォルスクラ河の戦ってリトアニアとジョチ・ウルスの戦いだろ。
ジョチ・ウルスにとっては1380年にモスクワ大公国とリトアニアが組んで
ジョチ・ウルスの軍勢に大勝したクリコヴォの戦いの報復戦だろ。
0368世界@名無史さん
2012/07/16(月) 16:01:04.65O0369世界@名無史さん
2012/07/16(月) 16:15:47.110(その後トクタミシュはティムールにフルボッコされるが)
0370学部生
2012/07/16(月) 17:53:21.2600371世界@名無史さん
2012/07/16(月) 18:18:26.1800372学部生
2012/07/16(月) 18:42:06.790ググんのんさえメンドイから教えてーな
0373世界@名無史さん
2012/07/16(月) 18:47:38.620じゃなきゃヨーロッパの辺境国家があそこまで強くなれなかった
0374学部生
2012/07/16(月) 18:55:10.950モンゴルなんかなければよかったのに
0375世界@名無史さん
2012/07/16(月) 21:38:59.350スペインなんかなければよかったのに
0376世界@名無史さん
2012/07/16(月) 22:08:45.3200377世界@名無史さん
2012/07/16(月) 23:12:45.510コンスタンティノーブルを陥落させたオスマントルコだが
0378世界@名無史さん
2012/07/16(月) 23:48:16.990ヴィチはベルケ汗の治世に、この当時国家的統一を達成していた
リトアニアのミンドフクと同盟を結んで(婚姻関係と従臣関係を結んだ)、
汗国の支配に抵抗しようとした。
これに対して、ベルケ汗はブルンダイの率いる強力な汗国軍を南西ルーシ
に派遣し、南西ルーシ諸公を軍事的に威嚇することによって彼らをリト
アニアから離反させようとした。
ヴェルナツキイによれば、「おそらくモンゴル人はリトアニアの勢力の
増大を懸念しており、リトアニアの拡大は、それが初期の段階のもので
あっても、西ロシアにおける自分たちの支配に対する潜在的な脅威であ
ることを認識していたのであろう」
http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/russia/mongol_01.htm
0380世界@名無史さん
2012/07/17(火) 00:14:08.49Oそのクリミアハン国がロシア女帝に支配され滅ぼされたのは皮肉な限り
0381世界@名無史さん
2012/07/17(火) 04:36:04.080つくづく大陸人とは凶暴であると思う
0382世界@名無史さん
2012/07/17(火) 16:49:17.8600384世界@名無史さん
2012/07/17(火) 19:13:29.4700385世界@名無史さん
2012/07/17(火) 20:07:22.6200386世界@名無史さん
2012/07/17(火) 21:49:51.2100387世界@名無史さん
2012/07/17(火) 22:54:19.630>モンゴル諸国と東欧の力関係が逆転したのは14世紀〜15世紀と見ていいことは分かった
ベルケ汗の治世(在位1257年 - 1266年)にはすでにリトアニア大公国がキプチャック
ハン国の潜在的な脅威になっていた。
ドイツ騎士団んからの圧力がなかったら、13世紀中には力関係は逆転していた。
0389世界@名無史さん
2012/07/18(水) 00:56:35.700ティムールにドイツ騎士団なんかが歯が立つなんて本気で思ってるのかよw
0390世界@名無史さん
2012/07/18(水) 01:45:29.670攻めん込んだ側がやられるだけの話
0391世界@名無史さん
2012/07/18(水) 01:50:40.5700392世界@名無史さん
2012/07/18(水) 08:12:40.67O0393世界@名無史さん
2012/07/18(水) 13:27:59.830http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-1-1.jpg
http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-1-2.jpg
http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-1-5.jpg
http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-1-6.jpg
http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-77.jpg
http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-259.jpg
http://24.media.tumblr.com/tumblr_m6k05oGh661qa8o34o1_500.jpg
http://blog-imgs-47.fc2.com/b/u/h/buhisoku/20111122230001_28_1.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/moro1977-004/imgs/4/f/4fb55678.jpg
上ロシア 下・・・
http://file.giraffech.blog.shinobi.jp/395-241.jpg
0394世界@名無史さん
2012/07/18(水) 18:47:32.7400396世界@名無史さん
2012/07/18(水) 19:32:55.680,/ ゙゙llli,,,
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0397世界@名無史さん
2012/07/18(水) 23:20:31.110大公国がキプチャックハン国の潜在的な脅威になっていた。
0398世界@名無史さん
2012/07/18(水) 23:46:12.7500399世界@名無史さん
2012/07/19(木) 00:35:49.460キプチャックが動員できる兵数は20万
現実的な脅威にはなりにくい。
ただ、ほぼ同数の兵数で戦った青水の戦い(1362年)では
リトアニアが圧勝したことからも兵力ではリトアニア軍のほうが
キプチャック軍より強いだろう。
0400世界@名無史さん
2012/07/19(木) 00:38:34.990その強力であるというリトアニアではなくティムール
0401世界@名無史さん
2012/07/19(木) 00:44:23.8200402世界@名無史さん
2012/07/19(木) 01:00:03.330実質支配してのは南の平原だろ
リューリク朝滅んでないし
0403世界@名無史さん
2012/07/19(木) 01:02:36.810ドイツ騎士団国。
当然、ドイツ騎士はキプチャック騎兵よりだいぶ強いだろう。
それこそ、「一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声
と武勇に恐れをなしていて、」とのエドワード・ギボンの推測を
裏付ける。
0404世界@名無史さん
2012/07/19(木) 01:06:13.740ハンガリー・イングランド・ドイツなどから成る十字軍をフルボッコ。
コンスタンティノーブル包囲を開始。
0408世界@名無史さん
2012/07/19(木) 20:52:48.4300409世界@名無史さん
2012/07/19(木) 23:59:35.790バトゥの弟ベルケ汗の治世(在位1257年 - 1266年)にはすでにリトアニア大公国が
キプチャックハン国の潜在的な脅威になっていた。
キプチャック軍は20万、リトアニア軍は3万ほど動員できたことから兵数が同じなら
間違いなくリトアニアの方が強いだろう。
そのリトアニアに対し一方的に侵略を繰り返していたドイツ騎士団は当然もっと強いだろう。
んからの圧力がなかったら、13世紀中には力関係は逆転していた。
それこそ、「一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声
と武勇に恐れをなしていて、」とのエドワード・ギボンの推測を
裏付ける。
0410世界@名無史さん
2012/07/20(金) 00:04:36.670強力なリトアニア大公国に恐れをなしてティムールに喧嘩を売った
ってかw
0411世界@名無史さん
2012/07/20(金) 00:26:20.8300412世界@名無史さん
2012/07/20(金) 08:38:53.0700413世界@名無史さん
2012/07/20(金) 17:19:50.570東欧がモンゴル相手に優勢になったのと同時期だな
0414世界@名無史さん
2012/07/20(金) 18:57:50.430■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています