鈴鹿市について語りましょう 其の31
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0686名無しさん
2019/02/23(土) 03:46:17.92ID:pbSq3RnQという意味で、鈴鹿市といなべ市の
関わりを記す。
いなべ市
猪名部を語源とし、員弁とも充てる。
朝廷、帝、天皇に仕えた木工職人の
集団。宮大工、宮殿や船舶の築造に
貢献した。林業を興したので、活動
範囲は、炭焼き、鉱産開発、釘や鋸
に用いた製鉄、林道に水源の維持
管理へ広がる。員弁は、有力者の
元で地位や能力を獲得した者、との
意味がある。ほか、集落内の地名を
調べると、皇室御用達の耕作地で
食べ物専用、綿花とか食えない商業
作物は禁止、民が飢える、の意味や、
天皇皇后のことはお父さんお母さん
と呼んで良いとする地名(大安)が
あり、農業女学校を素地とする県立
高等学校に至っては宮殿の様相で、
皇室との関わり深いようだ。
さて、鈴鹿市算所地区には、平和の
礎と称する石碑がある。戦時下の
犠牲者に対するものだが、石碑の
アンモナイトの造形は、発掘場所、
支援者の存在を意味する。負傷を
負いながらも生存した人たちは、
いなべ市の者に、天皇皇后さま
に、助けられたようだ。鈴鹿市の
者にとって、いなべ市は、北の
神殿、北の聖地。世代交代が進んだ
ことで、戦時下の出来事が人々の
記憶から失われつつあるが、鈴鹿市
の自治会長は、慰安旅行と称して
墓参りをするのが、習わし。
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