1937年に半田市の主要な地場産業であった織物業が不況に襲われた。
それ以外の地場産業も好調であったのは肥・飼料業と酢の生産くらいであった。
深刻な不況に直面し半田市は工業誘致に活路を求めた。
注目されたのは軍需産業で中島飛行機が誘致された。
また同年、臨海工業地帯造成の具体化を図ることになった。
乙川地区一帯と亀崎地区の一部を含む約164万坪を対象とする都市計画が立てられ、
この計画の中で中島飛行機は8つの住宅地に5000人分の住宅を造り、
15000人分の独身寮を確保することになった。
戦後の都市計画街路計画は中島時代の計画を修正したものであり、
1962年に新計画が作成されるまでこの計画が道路整備の基本計画であった。
製作所と同時に造られた寮や住宅地は建物こそ残っていないが、
亀崎・乙川地区の道路や地割に色濃く残されている。