>>303
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クプチンスキーの日記に記録されているような虐殺は、「最モ国際条規ノ履行ニ注意シ」たと、
寺内陸軍大臣が誇らしげに書いている軍の実態と異なる。上層部に報告された軍の行動だけが、
戦場の実態ではない。捕虜の話を裏付けるような兵士の手紙がある。日本兵新屋は、西海岸マオカ(真岡)で
「百八十名の者一同に白旗を揚げ降伏せり。また翌日捕虜残らず銃殺せり」と、降伏した
捕虜全員を銃殺したと書いている。一個中隊約二〇〇人で捕虜十八〇人を輸送するのは困難との
理由からの銃殺である。...第五歩兵連隊第四十一連隊(広島)の大隊副官のちの連隊副官の歩兵中尉
壱岐熊雄の『日露戦役従軍叢話』には、日本刀野切れ味を試したのは「交戦の半ばあるいは追撃前進中に
おいて、敵の俘虜ちか、支那人の間諜とかに向い上司の命令によりあるいは独断専行によりて、
軍隊の一隅において行わるる場合が尠くなかった」とある。日本刀のの斬れ味を試す機会が「随分」
あった。「日露戦争では日本の軍隊は軍規厳正であったというが、それは表面だけのことでしかなかったことが、
この事件によって証明されている」大江志乃夫はこう指摘している。
松山捕虜収容所の話が広く知られている...国際法学者は、国際法を重視したことや軍規が厳正で
あったことを強調してきた。国際的な評価を気にし、ロシア人捕虜も法規に則って優遇されたと
いわれてきた。その一方、国際法学者や軍上層部の目の届かない戦場で、一部兵士たちは日本刀の
斬れ味を試し、虐殺もしていた。それを兵士が記録し、捕虜が目撃していたのである。
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一九〇四年五月三日、全国家宗教家大会が開かれた。ニコライは、正教神学校校長からの報告を聞いて、
「ロシア罵倒の熱心においてとりわけ際立つのはプロテスタントのコザキ(小崎弘道)である」と
書いている。コザキは、ロシアは十六世紀の野蛮国だ、それに対して日本は二十世紀の文明国だと
発言したという。また、仏教界の代表は「日本人は黄禍などでは全然ない。日本人は黄色い肌の下に
白い心を持っている。ロシア人こそは、まさに黄禍なのである。かれらの白い肌の下には黄色い
心がある」と演説していた。
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ダメみたいですね(落胆)