長篠の敗因について平山は穴山信君が戦線放棄した事を理由とする。それは、1穴山氏の戦闘を記録したものがない、2穴山党から目立った死者が無い、事を根拠とする(ソースは甲陽軍鑑品五十二)
さて甲陽軍鑑品第一四には「武田軍右翼に穴山信君が配置された」こと、そして右翼の土屋・一条・穴山が第三陣まで突破した事を記してる。
更に、穴山家臣にも死者が出てる。例えば朝比奈三郎右衛門、諏訪部助右衛門尉である。また穴山信君は河内国人衆とも繋がりが深く長篠戦後彼らの為に徳川と交渉したという逸話も残る(つまり河内衆も穴山の指揮下にあった可能性がある)
つまり甲陽軍鑑品第五十二にある「穴山殿は戦わずに引く」というのは全くの大嘘か、さもなくば「穴山党は戦ったが、信君自身は戦ってない」という非常に卑怯な悪口。
で、問題なのはどうして平山氏はこの事に触れてないのか?
甲陽軍鑑は著者の思想的バイアスが強い事は誰だって知ってる事で(例えばこの後に出てくる勝頼への献策状なんて最たるもの)研究は慎重にするはず。確かに穴山党の死者は寺院の記録を紐解かないとわからないからまぁ行きつかなくても仕方ないけど…