古府要法寺蔵九月二十八日勝頼宛信君書状には「高天神に向けて徳川軍が襲来し、戦闘に及ぶも敗北してしまいました。口惜しい事限りありません。そこで御祈祷礼と蝋燭を送っていただきたい」と書いてあるらしくおそらく長篠の戦い後の天正三年以降のものらしい。
長篠後徳川・織田は反攻を強めていてその中で穴山信君は防戦に努めていたようだ。と、言う事は信君はかなり大きな軍事指揮権を与えられていたのではなかろうか?
ただし、この書状を見れば駿河軍がそのまま穴山衆として再編された訳ではないのは確か。「祈祷と蝋燭」は死者の弔いなんだろうけどこれを勝頼に請求してるって事は信君の家臣が死んだわけじゃ無いハズ(穴山衆なら支払うのは信君だと思う。どうだろうか?)
つまり信君は駿河方面軍の指揮権は有するけどそれはあくまで「相談」の指揮権で穴山氏が駿河を領する訳では無い、という勝頼の方策だったんじゃなかろうか?