それは史料上否定されてる。勝頼本陣含めた武田軍は有海原に陣を張ってるから(「寒狭川を越えて有海原へ三十町ほど踏み出してきた」信長公記)。
設楽原保存会でも「追撃はあったのか?」という研究はされてるけど、「信長は全く追撃をしなかった」という見解もある。これは慶長の調査を理由とする。
つまり、追撃戦で死んだのなら墳墓は有海にないといけないが、その殆どが設楽原にある。これは武田軍の死者は織田徳川拠点で出た事を意味する。これは織田徳川方史料とも一致する。
信長は追撃は徳川に任せて殆ど追撃を掛けなかったという話に繋がっていく。どのみち、墳墓の位置を理由にすると設楽原で殺されたという結論にしかならん。主張を変えるべきだろうね。