でも有名な三方ヶ原で「殿!もうこれは負け戦です!退却してください」で死者二千人(信玄発表で一千人→数千人だっけ?)、これで惨敗な訳で。
武田軍は死者の殆どは設楽原で出していて、死者は山と積まれたはず。五千人超えた辺りで「ヤベェよこれ」ってなるだろうし。だとしたらそもそも決戦に反対していた重臣衆、勝頼に進言しに行くはず。何故そんな事が起きなかったのか
確かに長篠城を取り戻された時点で袋の鼠、ケツが燃えてる訳だけど…
つまるところ、武田軍指揮官や勝頼には戦況が判らない状況だった?