十二月十二日、遠藤加賀守宛に、明春者、濃州へ可令出勢候、
と伝えてたのに朝倉撤退でその計画が頓挫した事は平山優の武田三代にも書かれてる。
正確には12月12日まで朝倉撤退は知らなかったのは確実で、信玄が朝倉撤退を知ったのはかなり遅い。
ちなみ本願寺も12月28日に朝倉義景と武田信玄に朝倉撤退の非難とお互い情報交換しろという書状を送っている。
使いの僧=人づてとは本願寺の僧のことだったら信玄は12月28日まで知らなかったことになる。