当の武田が「長篠の民は俺たちを見捨てた」と思ってるからね。所謂【雄々しくも立ち腹捌く甘利信康】
設楽原防御陣の構築にあたっては長篠住民が力を貸した。その結果、武田軍は大敗。死者一万という戦国時代最悪の結果となる。
甘利信康は甲陽軍鑑では「あまりのしゅ」とされる甘利氏の一員だが、設楽原に柵をつけ織田徳川に味方した長篠の住民を恨み住民の屋敷の前で立ちながら腹を切ったという。