別所街道は普通に使われていたろう。てかそうじゃないと武田軍の布陣意図が読みにくくなってしまう。
勝頼の本陣は医王寺山にあったけど、ここは武田軍陣地以外にも豊川下流から別所街道が観れるという点が注目される。
武田軍は織田軍が来る事をそもそも予期して無かった(甲陽軍鑑)から、これは対徳川を見据えた布陣という事になる。つまり徳川軍約一万が来るなら長篠南部と踏んでいた、と。
伊奈街道を警戒していないのは設楽氏が別所街道を我が物としてる事と関係してるだろう。現実、酒井率いる鳶ヶ巣山砦奇襲隊は設楽貞通を道案内にしてる。つまり勝頼の読みは当たっていた。
奇襲隊は四千人という大人数、それが安全に行軍してる以上、別所街道には大人数行軍可能な整備が施されていた事になる。