設楽原保存会は「長篠には馬防柵に適する木が存在してない」という非常に簡潔な文章でのみ記してる。とはいえ、馬防柵は非常に広範囲に設置されてるから使った資材もまた膨大だったはず。
まずそれだけの木材が長篠周辺にあったのかという点もあるけど、
史料調査から長篠には武田領から移ってきた(逃げて来た?)住民が多かった事がわかってる。
それで徳川・武田共に住民へはかなりの宣伝をしてたらしいが、長篠住民は徳川を選んだ。
その一環で長篠周辺では木材採取等が出来なかった、という様な話もあるのかもしれん。
どのみち何処かで材料は調達されたはずだが、まさかに岐阜から全部運んだとも思えないし…