馬防柵って信長の発明品じゃないから、武田軍も当然知っていたはず。
名和氏が「設楽原合戦の真実」で紹介してる武田の戦術書だと工兵が柵を引き倒して突破口を作るやり方が載ってる。
実際、甲陽軍鑑や三河物語、榊原家譜なんかだと第一柵は突破されたとあるから武田軍が馬防柵に手も足も出なかった、という事はない。
柵の向こうは狭かったはずで、故に突入すれば数的不利は消える。敵が逃走すれば勝機がある(逃げるなら後方、信長家康本陣に向かうしか無い)
だから武田軍も勝率高しと踏んで、常識的な兵法の元決戦に挑んだということになる。