さて、立花の城では大将御引退の後、その夜は残った三人が覚悟し、思い思いのあり方で様々に物語などした。
坂新五左衛門申しけるは「この上は武勇の沙汰も無いだろう」と、武具を脱ぎ置き、帯を解き、焚き火に
当たって背をあぶった。
浦兵部は「死するとも歯噛みという下説がある。生頸を抜かれるのも口惜しい次第である」と、用心を呼びかけ
夜廻りをした。
桂右衛門太夫が申しけるは「この城の状況では、中々今夜は押し寄せて来ないだろう。明日、潔く切腹すべし。
このような寒夜に兵部丞が夜廻りするのは無益である。方々、家人を召し連れてこちらに入られ、酒を一つ
まいられよ。新五左衛門、背あぶりも大概にするのがいいぞ。さあ、こちらへ。」と呼び入れ、
「このような時節であり、座の高下は要らぬ。うち乱れて酒を飲もう。」と夜もすがら酒宴した。

新五左衛門が申した「それがし、宵より焚き火に当たっておりましたが、ここでひとさし、舞いましょう。」
そう言ってこの時出合面と錦戸切を舞った。一入の舞の出来に、上下感じ入った。

そのうちに漸次天は晴れ明け、かくて城中より敵方へことわりを申した
『毛利一門、仔細有って悉く退きて候。ここにある拙者たちは、桂右衛門太夫元重、浦兵部丞宗勝、
坂新五左衛門就清、城番として罷り在り候。どうか使いを出して頂きたい。切腹仕り、その上で
御城御請取あるべし。』

このように伝えると、敵方よりこのように申してきた
「これより申す事が、御返事となるでしょう。各々敗軍されたように見及び候。さては両三人、その番として
残られたか。名誉の義共に候。しかし御切腹は中々有るまじき義にて候。何方へなりとも、御望み次第に
送り参らすべし。」

それより互いに使者を立てて、「そういう事であれば羽片(博多カ)へ退くべし」と云い、敵方は軍兵百人相添え
彼らを羽片へ送った。三人は心静かに退き、名誉の義と申された。これは筑前国立花の物語である。

(毛利元就記)

いわゆる多々良浜の戦いにおける毛利軍の撤退について