(前略)宗雲公(北条早雲)などはきっと一仏一社の化身であったのだろう。

子細は、伊勢より7人が言い合せ、荒木・山中・多米・荒川・有竹・大道寺・宗雲ともに7人が武者
修行すると談合された。駿河の今川義元公の祖父子の御代に、牢人の身分で今川殿のもとで堪え忍ば
れた(牢人分にて、今川殿に堪忍有り)。

才覚をもって駿河屋形の縁者となり給い、すなわち駿河の内かたの郷という所にしばらくおられ、義
元公御親父の代に今川殿の威勢を借りて伊豆へ移り、大場北条辺りの百姓どもに物を貸しなさると、
後には伊豆半国の侍・百姓どもが宗雲公へ出入りを仕り、物を借りたので朔日・15日に礼に参った。

その間にもしばしば参る者には貸銭を差し置きなさったことにより、我ましに(我先に?)宗雲公の
御屋敷の辺りに家を作って皆被官となり、前述の6人の荒木・山中・多米・荒川・有竹・大道寺も宗
雲の被官になった。

この衆を首として宗雲公ともに7手に作り、伊豆一国を治めなさって、絶えて久しき北条を継ごうと、
三島明神へ願を立てなさった。(後略)

――『甲陽軍鑑』