8月23日朝の時点で、大垣勢は、長良川西岸?の河渡(現岐阜市河渡)に
石田家臣舞兵庫(前野忠康)、杉江勘兵衛ら1000が布陣、
石田三成・小西は揖斐川西岸?の沢渡村(現大垣市東町)に布陣、
島津は墨俣に布陣という展開をしていた。

河渡の舞兵庫らを発見した黒田・藤堂・田中らは、田中・黒田が河渡より上流の浅瀬から
長良川渡河に成功。
舞兵庫らを攻撃する。兵力差も大きく舞兵庫らは敗走、
舞兵庫敗走の報告を聞いた石田・小西・島津らは大垣へ撤退する。

一応これが通説の河渡川の戦い、合渡川の戦いと言われているもの。
真実スレに太田和泉守記を書いといたけど、
日付が26日だったり、東軍加藤嘉明や西軍宇喜多がいたりとか一致しない部分もある。

>>809
岐阜が籠城の場合、黒田・藤堂・田中がどう展開するのか、
同じく大垣勢は史実同様揖斐川・長良川の渡河点に布陣するのか
大垣で籠城態勢か、このあたりでも河渡川の戦いがなくなったりもする。
まぁ史実布陣でも結局大垣退却なので、追撃するなら大垣からじゃないかな?
長良川防衛線を維持できる方策があるなら変わってもくるかもだけど。