わたし>>424に書いたし、>>10にも書いてあるんだけど、
前線の拠点が籠城持久すべき期間の想定は半月、2週間。
岐阜に限定すれば1週間耐えれば宇喜多が到着するが、
北ノ庄だろうが岐阜だろうが桑名だろうが2週間あれば手空き隊や他方面からの隊の
移動が当該地域に到着できるであろうから。
そして後詰決戦により敵主力を撃滅できたらいいなぁという作戦方針に関するもの。


東軍から見た岐阜城については、8月22日付秋田実季宛佐々正孝書状には、

岐阜之事も中納言殿無人にて御座候間、日数五十日と被相抱候事成間敷と風聞候事

とあり、岐阜城の秀信は兵が少ないので、50日も持たないだろうと噂されている、とある。


また岐阜城については、太田和泉守記に以下のような記述がある。

岐阜城
中納言秀信公 居館并瑞龍寺山取出三ヶ所拵、
治部少臣下樫原左近父子人数千計楯籠、   とある。

史実でも秀信は居館と瑞龍寺山等に砦構築をしたとある。
(石田家臣、柏原彦右衛門、子は平介)


東軍先発隊の渡河決行については、通説だと、村越茂助がなにかしら煽ったから、じゃないの?
>>573にもある8月19日付井伊直政・本多忠勝宛黒田長政・徳永寿昌・奥平貞治連署状とか。

そして後詰決戦に応じるかどうかはわからないなぁ、半々と見るが。
応じても撤退決断してもおかしくはないと思う。

あと根本的に、石田か秀信が美濃衆に犬山城への加勢を指示したのは攻守両面考えて
いたからだと思われる。当然だが。
だから秀信が居館や瑞龍寺山に砦構築していたのも攻守両面考えていたからであろう。