奥平宛の書状には論点が多くあって、
1.信玄は駿河から来たのか
2.小笠原とは信嶺なのか氏助なのか
3.高天神城は降伏したのかどうか
4.三カ年の鬱憤とはいつからどうして鬱憤になったのか

鴨川氏は信玄は信濃から来て小笠原は信嶺と、駿河からの別働隊が信玄の朱印を持って遠江で禁制を発給したと主張しているわけで、少なくとも別働隊が遠江から西上したのは否定していない
本隊でもない別働隊が遠江を敵中突破し、かつ朱印を預けられているとか苦しすぎる言い訳で信玄はやはり駿河から来たとするのを否定するのは難しい
当城主小笠原の書き方も信嶺なら城主なんてつける意味ないし、信嶺の懇望で信玄が西上するとか意味不明なので氏助で妥当
降っていたかどうかは、まだ決定打に欠ける
ちなみに他の最前線の武田研究者の平山、丸島、柴、柴辻はみな本多氏寄りだろう
そんだけこの論点に限っては鴨川氏の苦しさが目立つ