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武田勝頼 Part16

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0001人間七七四年2019/03/22(金) 20:17:09.04ID:L5s5s1vq
新スレ 武田勝頼 Part16です。
勝頼関連について、どうぞ。

http://itest.5ch.net/matsuri/test/read.cgi/sengoku/1551006280

前スレ 武田勝頼 Part15
0672人間七七四年2019/04/02(火) 20:23:38.30ID:8OpHPR7n
>>670
>徳川に再度落ちたという歴史資料はあるんですか?
自分が知る限り、二次史料江戸時代の軍記物でも見たことない
72年に高天神が降伏したと言う学者もその後どんな風に徳川に戻ったかという史料や根拠を示したことはないはず
0673人間七七四年2019/04/02(火) 20:27:37.68ID:8OpHPR7n
2000年代初め辺りのその説が出た頃は複数の学者がその説に従って降伏したって書いていたけど、
今はどうなんだろ、平山氏と今スレで話題になった本多氏ぐらい?
0674人間七七四年2019/04/02(火) 20:30:26.14ID:wTj6Vvve
>>640
これも間違って書いてるね
本田氏の信玄侵攻ルートは芝裕之氏が提唱したものを支持したもの
本田氏はそれを武田氏の朱印状などの発給文書の月日を地図上に落として明らかにしたと書いてある
進軍ルートを三河物語や甲陽軍鑑を根拠としたなんて事は書いてない
0675人間七七四年2019/04/02(火) 20:39:18.80ID:qgMaWDHf
>>671
付近、遠方だったかな?
村の代表が安全を保障するため信玄の陣所を訪ねて証書を貰いに行ってたとか
印鑑はそこで使われていて信玄本人以外が所持してる筈がない
=別働隊ではありえないという指摘だったかと
0676人間七七四年2019/04/02(火) 20:39:35.70ID:H6EmisG3
>>671
小笠原は信嶺のこと→なんで信濃先方衆の一人に過ぎない小笠原信嶺の懇望が出てくるのか意味不明

印鑑→信玄本隊は南伊奈から侵攻し、鴨川氏は駿河からの別働隊が信玄の印鑑持って奥平に書状書いたとか主張してたはず(うろ覚え)

別働隊が駿河から天竜川渡った?掛川城は一番防御を固めてただろう堅城なのに、山縣や秋山以外の家臣にリスクある別働隊を任せたなんて到底思えない
任せたとして、こんな別働隊なんのメリットがあるというのか
0677人間七七四年2019/04/02(火) 20:47:04.73ID:qgMaWDHf
>>674
前半は前スレの補足で後半は別の話題
紛らわしい書き方でしたね

軍鑑や三河物語の記述がよく引用されてるのは前の話題の二俣城攻めの前後です

言うまでもなく侵攻ルートについては軍鑑などにも記載が無いので引用はされていないです
(だから論争になってると思いますが)
0678人間七七四年2019/04/02(火) 20:58:36.08ID:xGFHE2ij
浜松城を攻めなかったのは単純に織田の本格的な介入を招くからでしょ?
西上作戦時織田は手一杯とよく言われるけど実際はこの時期そこそこ余力が出てきている

・一向一揆は地元で暴れる分には脅威だが、外征能力は殆どない(信玄すら戦力に数えてない)

・朝倉勢は内応・サボタージュが続発して組織崩壊中

・浅井勢は一向一揆と組んで秀吉を攻めるも敗北、逆に秀吉や勝家が小谷城下に攻め込んでくる始末
0679人間七七四年2019/04/02(火) 21:04:06.89ID:wTj6Vvve
>>677
三河物語にしても二俣攻めの様子を一次史料の補足的に引用してるだけで、重要な開戦の日付、降伏の日付は一次史料からちゃんと引用してる
まるで引用史料が軍記をメインみたいな誤解する書き方は違うんじゃないの
0680人間七七四年2019/04/02(火) 21:30:52.65ID:qgMaWDHf
そこは鴨川氏の文章との対比なので

鴨川氏の場合は書状を引用するにも背景の解説を入れたり前後の書状や相手の返信なども紹介して妥当性を表現している
強引な解釈というのも散見してると思いますが

本多氏の場合は自説の背景として軍記の引用が多い
書状から日付を引用してても唐突に出てきて書状に記載されてる内容の妥当性についての検証などはあまり無い

>>637に書いてある箇所などがまさにそれで、その北条氏政が持ってた情報は正しいのか?という根拠については説明してくれない

スタンスの違いだから好みに合う合わないは当然あるだろうけど、そういう傾向の本でしたよって書いたまでです
0681人間七七四年2019/04/02(火) 21:39:20.85ID:9sgQQee1
>>680
平山も書状の内容と前後の流れの検証しない唐突気味だよな
新説ならぬ珍説で功績を主張したい
または本を売りたいがために前後の流れの検証をしないのが多いこと
0682人間七七四年2019/04/02(火) 21:43:41.87ID:gyrQNDv/
要約すると本田と平山は法螺吹きだから話半分に聞けという事でしょ
0683人間七七四年2019/04/02(火) 21:47:04.95ID:wTj6Vvve
当初から水の手を断つ城攻めは三河物語に詳しいとあるが、そのことを裏が取れる一次史料の山県昌景書状を文章付きでちゃんと載せてあるよ
氏政書状に関しても二俣攻めに参戦してた伊豆州清水氏からの報告に基づくもので信憑性は高いと説明されてあるが
0684人間七七四年2019/04/02(火) 21:51:07.58ID:qgMaWDHf
最新の研究成果というならば、この説は複数の根拠に基づいていて確実性が高い
一方この説は根拠となる史料が少なく未だ検証が必要な段階であるとか
そんな感じのスタンスでまとめてほしいと思う
大学で教えてるような立場であるなら尚更

他人の説を批判して客観的に見てそれってまだ双方論証できてなくない?と思われるような内容についても
「未だに〜と記述されており誠に遺憾」みたいな文章が続くと著者に対して微妙な印象が強くなる

還暦をとうに超えてるおじいちゃんなので仕方ない部分もあるんだろうなとは思うけど
0685人間七七四年2019/04/02(火) 21:56:37.30ID:8OpHPR7n
>>675
>印鑑はそこで使われていて信玄本人以外が所持してる筈がない
>=別働隊ではありえないという指摘だったかと
それは普通はありえないはずだよな、何のための印だってなる
ぶっちゃっけ別働隊が信玄の名で好き勝手出来るってことだし

>>676
何聞きたいのかさっぱりわからない
レス番ずれてない?そうでないならもう少しちゃんと整理して書いて
0686人間七七四年2019/04/02(火) 21:58:45.87ID:wTj6Vvve
詳細は本田氏の拙論、武田氏研究49号の武田信玄の遠江侵攻経路を読んでって書いてあるじゃん
0687人間七七四年2019/04/02(火) 22:04:30.69ID:qgMaWDHf
>>683
全体の話の流れがね

当初から水の流れを断つ方針で攻め込んでいたようだ
→だから時間はかかっていない

通説では12月とされているが北条氏政の書状から日付を逆算すると11月には終戦している
→なので二俣城は一ヶ月で陥落させている

これだけ書いてサラッと次の話題に進まれちゃってますからね

他説を否定する根拠も本多氏が主張する内容の根拠も全然浅いなーという印象しか無かったです

論文や研究紙に詳細書いてますって書くだけじゃこの本の内容自体に価値は無いですよね
(そういうとこも正に今のこのスレの流れのようだ)
0688人間七七四年2019/04/02(火) 22:07:06.80ID:H6EmisG3
>>685
1.鴨川氏が主張する小笠原信嶺程度の信濃先方衆の「懇望」のため信玄が天竜川を東から西に渡ると奥平宛に書くのは不自然極まりないと思わないか?

2.本当に掛川や高天神城の敵の領内を山縣秋山以外の別働隊が敵中突破したと思うのか?天竜川を渡るのもリスクがあるのに

3.奥平宛に信玄の名前と印で天竜川を渡って浜松へ向かうと書いているのに、その軍に信玄がいないということは無理がありすぎではないか?
0689人間七七四年2019/04/02(火) 22:07:44.62ID:8OpHPR7n
そういえば本多氏って小山評定で白峰氏と論争してた人だっけ?

>>682
>>686
本『多』氏な
ちなみに戦国時代の歴史学者だと他に本多博之って人もいる。
0690人間七七四年2019/04/02(火) 22:08:10.89ID:wTj6Vvve
そりゃ信玄の遠江侵攻についての著書じゃないから、本筋のこと以外に紙面を割くわけないでしょ
さらっと流し読みした程度で書評するなんてほぼレッテル貼りに近いでしょ
0691人間七七四年2019/04/02(火) 22:09:19.08ID:wTj6Vvve
>>689
誤変換失礼
0692人間七七四年2019/04/02(火) 22:09:19.44ID:qgMaWDHf
>>685
鴨川氏のそれに対する反論としては偽印や本物の証書でも西上作戦の時のものではない可能性など信憑性を証明するのは本当に難しいと説明されてましたね
実際に偽印が用いられた証書の紹介と解説など含めて

これに限らずですが、ありえないはずだ だけで結論としない姿勢は好感が持てます
0693人間七七四年2019/04/02(火) 22:09:50.58ID:GzxprgQW
関ヶ原合戦での8月5日の三成の書状では田辺城が開城したと書いていたが
実際に開城したのは9月18日で三成書状は間違った情報だったと確定した話
もあったように書状には間違った情報が含まれていることを
注意するべきですね
当事者じゃなくて伝聞してる情報は特に
0694人間七七四年2019/04/02(火) 22:12:09.80ID:wTj6Vvve
>>687
当初から水攻めは
0695人間七七四年2019/04/02(火) 22:13:48.18ID:qgMaWDHf
>>690
それであれば>>585>>588のような表現はまずくないですかね

この本読んでも話題についての詳細は少ない
それであれば『武田氏研究49号の武田信玄の遠江侵攻経路』こっちを参考史料として掲示すべきかと
0696人間七七四年2019/04/02(火) 22:15:56.80ID:wTj6Vvve
>>687
当初からの水攻めしたから時間かかってないなんて書いてないな
篭城方は善戦し城は容易には落ちなかったと書いてある
当初から水攻めの根拠も山県昌景書状で確認取れるわけだが
0697人間七七四年2019/04/02(火) 22:17:43.82ID:H6EmisG3
>>695
二俣城の件はともかく、信玄が駿河から侵攻したこと、高天神城が落ちてたか信玄を素通りさせたことは間違いないでしょ
鴨川氏の主張は支離滅裂だから
0698人間七七四年2019/04/02(火) 22:18:15.62ID:wTj6Vvve
>>695
その論争の顛末が書いてあるわけだから問題ないでしょ
論争の内容が具体的に知りたければ書かれてる参考文献を調べればいいだけだし
0699人間七七四年2019/04/02(火) 22:20:49.12ID:8OpHPR7n
>>688
1 この時期の小笠原信嶺は奥平の取り次ぎだか寄り親じゃなかった?
長篠城守備の費用のため井伊谷に土地宛がわれるのは信玄死亡前後ぐらいだったから、
まだその時点じゃ関係ないと言えなくもないが、完全に無関係なら長篠の守備なんてならないだろうから、
この時点でそれなりに奥平小笠原の関係が深くても不自然とは思わない

2 他の例から考えるなら十分可能だと思う、天竜川渡るもその地点まで来れば信玄の本隊と合流してるんじゃ

3 既に書いたが無理だろ、たとえ別働隊が勝頼でも厳しいだろ
0700人間七七四年2019/04/02(火) 22:25:22.57ID:8OpHPR7n
>>698
>降伏してない説の鴨川氏が、降伏してた説の本田氏の批判に具体的な反論が一切できずほぼ決着
つか具体的な反論出来ないってどういうことなんだ?
過去に本多氏が鴨川氏への論文だして、それへの具体的な反論が何年たってもなかったとかでそう言ってるのか?
他の人のレス読む限りは違うような印象受けるんだが
0701人間七七四年2019/04/02(火) 22:25:22.58ID:9sgQQee1
>>693
遠く離れた場所の書状だとこうなるわな
北条氏政の書状から逆算とか一番信用しちゃいけないソースだわな
0702人間七七四年2019/04/02(火) 22:26:15.38ID:qgMaWDHf
読んだ本人の感想が「なんだこれ?5chの自称歴史研究家?」程度だとしか思えなかったという状態なんですが

論争の顛末のレベルが低いというか自分の主張に対してバイアスかかってるなーという意味で

二俣城が一ヶ月で落ちたのか信玄が高天神城降服させたのかさせてないのかは別の問題だと思いますよ

ただこの本だけではどちらの説の根拠とするのも厳しそうだなという印象です
どこかのレスにあったようないい本だとは全然思えなかったですね
0703人間七七四年2019/04/02(火) 22:27:53.15ID:8OpHPR7n
>>692
そういうものなのか
軍鑑か何かじゃ死ぬ前に予め自分の花押だか何か残した空白の紙を大量に残したとかあったけど
史実でもそういったことあるのか……
0704人間七七四年2019/04/02(火) 22:29:30.90ID:H6EmisG3
>>699
奥平と小笠原信嶺がある程度知己であろうことは知っているがそういう話でなく、小笠原信嶺がなんで信玄に西上を懇望するんだ?
百歩譲って山縣が天竜川の西で早く信玄と合流したいというなら分かるが、唐突に小笠原が西上を懇望したと読むのが鴨川氏の主張
3が無理というなら駿河から侵攻したのは信玄本隊ということだね
0705人間七七四年2019/04/02(火) 22:33:03.86ID:wTj6Vvve
>>700
再度の反論はあれども当城主小笠原が信嶺であることや、信玄が南進部隊にいたことの新たな主張は無く龍の朱印を預けたという事例の提示もなかった
要するに主要な論点に対する積極的反論が無かった、とのこと
0706人間七七四年2019/04/02(火) 22:35:01.57ID:8OpHPR7n
>>702
確かに
・二俣城がどれぐらいで落ちたか
・信玄本隊はどのルートを通ったか
・高天神は降伏したのか
の三つの問題あるみたいだな

>>704
仮に三河長篠方面担当していたとするなら、さっさとこっち方面に来てほしいと思うのはおかしくないと思うが
特に信玄本隊が駿河から入って遠江でも東の方にいたとするなら

逆に高天神の小笠原は何で西上を懇望するんだ?
小笠原の位置なら掛川落としてくれとか、天竜川東の徳川勢力の排除望むんじゃ?
0707人間七七四年2019/04/02(火) 22:41:41.80ID:H6EmisG3
>>706
懇望する、は降伏を願い出るという意味もある(こっちの方が用例が多い)
だから本多氏は小笠原は降伏したと主張している

小笠原信嶺はそこまで大身じゃないので違和感しかない
山縣の別働隊はそんなあちこち兵力を分散してたとは思えないから小笠原信嶺も山縣の旗下にいたはずだし
0708人間七七四年2019/04/02(火) 22:42:08.00ID:8OpHPR7n
>>705
やった最初に聞いた答えが返ってきた
つまりこういうこと?
鴨川氏論文→本多氏論文で鴨川氏に意見→鴨川氏反論→本多氏反論になっていないと先月の本で言ってる

他の人のレス読むと反論になっていないと先月の本で言ってるのは
鴨川氏の説否定から入って自分の都合いい事だけ書いてハイ論破!みたいらしいが
そこは読んで判断する

>>704
むしろ馬伏塚の小笠原なら位置的に天竜川渡って浜松攻めてと頼みそうな気がする
0709人間七七四年2019/04/02(火) 22:53:10.18ID:8OpHPR7n
>>707
別方面の勢力に動いてもらう時に使う用例も十分多いと思うが
降伏で使う場合は、開城条件とかとセットがほとんどじゃ

小笠原信嶺は山県らと比べると一段落ちると思うが信玄が小笠原に宛てた書状とかもあるし
そんな変なことか
0710人間七七四年2019/04/02(火) 22:58:54.59ID:wTj6Vvve
>>708
本多氏論文2010→鴨川氏による本多氏論文への批判2012→本多氏反論2013→鴨川氏再批判2015するも主要な論点に対する積極的反論無し→本多氏反批判2017
10年近くやってるみたいね
0711人間七七四年2019/04/02(火) 23:00:37.29ID:H6EmisG3
>>709
信玄が駿河から遠江に入り、奥平に手紙書く際に
1.高天神城主小笠原長忠が降伏を願い出たから今から天竜川渡って浜松向かうよ
2.城主小笠原信嶺が要請してきたから今から天竜川渡って浜松向かうよ

2は違和感ありすぎ、掛川城か高天神城はどうしたのよって突っ込みたくなる
0712人間七七四年2019/04/02(火) 23:03:48.09ID:H6EmisG3
わざわざ「城主」小笠原と書く意味も分からないし、小笠原信嶺の身に何があったんだよと心配になるレベル
0713人間七七四年2019/04/02(火) 23:14:51.54ID:GzxprgQW
西上作戦の時に小笠原長忠が武田に降ったなら
所領安堵なら人質は絶対に取られるはず
その後に徳川に寝返ったなら勝頼に人質は処刑されてるはず
徳川に寝返ったのはいてか徳川から安堵された書状もない等
ごっそり抜け落ちたことになりますね
0714人間七七四年2019/04/03(水) 00:40:37.87ID:vC4KHP/B
>>647
それならそれで、10月15日の段階で二俣城を包囲していた(馬場が)のに、信玄は20日以上も何処で何していたの? になります。
0715>2019/04/03(水) 01:48:26.67ID:ILDye0kT
>>451

天正7年(1679年)3月下旬、北条氏を打倒するため、伊勢天照大神宮御宝殿へ北条氏政追罰の願文を奉じました。
0716人間七七四年2019/04/03(水) 01:56:38.05ID:mlnQx8PK
信玄って行動がトロいなあ。
時間がかかれば、織田信長の後詰が来るのは分かり切ってる。
ならば1日も無駄にせず、すぐに行動するべきだろう。
冬とはいえのろますぎる。

そういえば、本多とか言う奴は美濃へ侵攻するとか言ってるが、冬の時期にどうやって信濃から美濃へ侵攻するのか説明してほしいな。
0717人間七七四年2019/04/03(水) 02:04:38.81ID:ILDye0kT
>>451
https://ameblo.jp/bd20159/entry-12379671347.html
>勝頼は天正7年3月に伊勢天照大神宮御宝殿へ祈願文を出した。
>当時御館の乱の結果、北条との同盟が決裂した時に北条氏政追罰の願文である。
>『妙心寺史』によると鉄山宗純に起草させたもので、文自体は鉄山が勝頼の意を汲んで
>文章を練り、勝頼がその文書を認めた者である。詳細は笹本正治氏『武田勝頼』に詳しいが、(以下略

天正7年3月に甲相決裂
だってさ
0718人間七七四年2019/04/03(水) 03:08:34.01ID:ar/BEH/l
0741 モノノフ名無しさん(神奈川県) 2019/04/01 21:22:53
新元号の出典が太宰府にあるとは。
紅白を逸してまで開催した男祭りへの想いがようやく花開いた。
本当にももクロchan達は関わる人たちを皆笑顔にするよね。
次はどんな笑顔へ繋げるのか楽しみ。
0719人間七七四年2019/04/03(水) 05:44:16.29ID:utrNhxyy
平山優
「高天神城は、元亀3年10月から始まった武田信玄最後の作戦(いわゆる西上作戦)で降伏しているんだってば」
https://twitter.com/hirayamayuukain/status/932276013580435456
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0720人間七七四年2019/04/03(水) 05:52:58.39ID:utrNhxyy
高天神城が、元亀三年武田信玄の侵攻を受けて降伏した旨記載されている参考書は
本多隆成『定本徳川家康』
柴裕之『徳川家康』
平山優『武田信玄』
0721人間七七四年2019/04/03(水) 05:59:38.21ID:utrNhxyy
城主小笠原氏助は、信玄に降伏しているんですよ。そして武田軍の撤退と家康の反撃で、再度徳川方に従属しているのです。天正2年の武田勝頼の高天神城攻めは、その失地回復という意味合いが強いのです。
https://twitter.com/HIRAYAMAYUUKAIN/status/932279200387436544
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0722人間七七四年2019/04/03(水) 06:25:00.46ID:bUBJBkv5
前にも平山の本で暴れてた奴いなかった?
確か平山が甲州征伐で織田軍が餓死や逃亡者で崩壊寸前だったとかを書状一枚で言って奴
同一人物か?
0723人間七七四年2019/04/03(水) 07:39:12.70ID:utrNhxyy
武田氏滅亡より

平山優は勝頼推しなのでリップサービスも含まれてるかな
http://imgur.com/jsvnA5F.jpg
http://imgur.com/NmBz9Nn.jpg

ID:qgMaWDHfが書いてる内容は鴨川 達夫と本多 隆成の著書で鴨川氏のスタイルの方が好みという程度で別にどちらの論説を支持してる訳でもないと思うよ
0724人間七七四年2019/04/03(水) 08:06:42.33ID:xOnAjSNt
しかし、長篠の敗北は痛恨の極みだったよね 同じ負けるにしても、負け方が酷すぎるからな
何よりこれまで武田の軍事を支えてきた重臣たちが殆ど討ち死にしてしまうという
絶対にしてはいけない負け方をしたからな
恐らくこの報を聞いた感のいい信長は「武田は終わった・・・」とすぐに思っただろうね
それぐらい武田の運命を大きく決定づけた敗北だったと思う
高天神や御館も滅亡の原因の一つだけど、もし長篠以前の有能な武田武士が生きていたら
あんな悲惨な裏切りやら離反劇は食い止められたかもしれないし・・・
やっぱり長篠での人材の喪失と言うのは武田にとって致命的だったと思う
その上で高天神と御館での信用の喪失がトドメを刺した
0725人間七七四年2019/04/03(水) 08:28:56.87ID:bUBJBkv5
>>723
3月23日 山口秀景書状で兵の兵糧欠乏
3月24日 信長が兵糧を配給
3月26日 北条氏政より米千俵が諏訪へ届く


兵糧については解決してるのに織田は崩壊寸前だったは無理があるな
0726人間七七四年2019/04/03(水) 08:59:15.17ID:2S4+6xKE
兵糧が欠乏気味
信州の豪雪による氷結
岐阜から甲府への行軍過程で逃亡者が出た
→これらは事実

織田軍は崩壊寸前だった
→これは論理の飛躍で根拠がない

こういう事ですね
0727人間七七四年2019/04/03(水) 09:10:05.60ID:VsqouB7a
山岳地帯の大勢力への戦だったのに相手が雑魚すぎて無人の野を行くが如しの進軍で
後方勢力地からの補給が追い付かなかっただけだろ
相手が動けないうちに出来るだけ戦果を拡大するのは間違ってない、勝頼は最期まで動けず自害したけど
0728人間七七四年2019/04/03(水) 09:41:59.42ID:hOQYomsX
>>724
長篠のあとも武田は結構もってたろ
信玄の負の遺産という重荷がいっぱいあったのに勝頼も頑張ったよ
0729人間七七四年2019/04/03(水) 10:14:14.49ID:KVmCKoDm
>>728
>>417
長篠ではその負の遺産らが勝頼を逃がすために殿軍を引き受けて
散っていき、長篠後も崩れることなく反逆者も未然に防ぐ結束していた
勝頼主導による北条との手切れからの徳川北条による二面攻撃
高天神城のみごろし、新府城建設や度重なる防衛戦の戦費による重税で
小笠原信嶺などの武田家臣の忠誠心が失われてしまったんだよな

むしろ、勝頼=信玄の負の遺産
0730人間七七四年2019/04/03(水) 10:20:18.50ID:5DixtKSR
当時の慣例としては高天神城の小笠原氏助が降伏したならば
小笠原氏助が浜松城攻めの先鋒を必ず務めなければならない。
少なくとも武田家はそういう決まりが厳然としてあった。
城主を最前線に立たせて人質として使うのが一番確実だしね。
0731人間七七四年2019/04/03(水) 10:23:13.33ID:7jjpub26
高天神城の見殺しは大きかったと思うよ
あの城には各国から部将が集まってたようだし、「どうせ先方衆は盾にされて見殺しにされる運命なんだ」というのが共通認識になっちゃったんだろうな
0732人間七七四年2019/04/03(水) 10:24:37.62ID:5DixtKSR
ちなみに籠城する場合は新参の武将(敵方から寝返ってきたものなど)を
馬丸出しの警護につかせた。
馬丸出しは城の入り口を守ってるが城門の外にあるので万一そいつらが裏切っても
致命傷にならないから。これは武田家独特の軍法だった。
0733人間七七四年2019/04/03(水) 12:10:15.62ID:qn/+JQyf
>これは武田家独特の軍法だった。

どういった史料からわかることなの?
0734人間七七四年2019/04/03(水) 12:27:12.49ID:S+f6JWva
裏切った奴が先鋒務めた例なら数多あるが軍法まで決まっとるんか
0735人間七七四年2019/04/03(水) 12:34:03.49ID:J0njK6Rv
小笠原は通説じゃ、三方原に徳川方で参戦してるし、戦死者には小笠原の姓を持つのが複数いるのだが
0736人間七七四年2019/04/03(水) 13:23:02.17ID:qn/+JQyf
寛永諸家系図伝によると小笠原安次の息子の安広が三方が原で討死しているが
これが高天神の小笠原氏と何か関係あるの?
彼らの本拠である三州欠城ってのは高天神城のことだったの?
0737人間七七四年2019/04/03(水) 13:34:49.64ID:qn/+JQyf
他に三河国の幡豆小笠原氏の小笠原信元も戦死ではないけど「三方が原合戦の時、大権現の供奉す」とあるし
>>736の安広の弟の安勝が三方原で負傷して出仕をやめるとか書いてある
この合戦に複数の小笠原氏の者がいたのは間違いない

小笠原なんて珍しい苗字のものが日本中探しても高天神以外にいるとは考えられないし
これで高天神城が武田に下ってないことは確定したね
0738人間七七四年2019/04/03(水) 13:52:18.14ID:PjzD+2eO
そもそも高天神城が武田信玄の頃に降っていたなら、甲陽軍鑑が記録しないわけがない。

徳川方にしても記録を残さないのがおかしい。

だいたい、駿河から高天神城を通るとしたら、掛川からいつ横腹を突かれるかわからないし、途上にある久野や浜名を落とさずに進軍してるから、こちらは兵站としては使えない。

城を残して進軍したらどうなるかは、岡城や栂牟礼城を残して北上した島津軍から見てもお察しだし。
0739人間七七四年2019/04/03(水) 13:55:11.08ID:qn/+JQyf
そうだよな
山本勘助の活躍はじめ甲陽軍鑑は全部史実を書き留めてるもんな
書かれてない時点で明らかだわ
0740人間七七四年2019/04/03(水) 13:57:19.18ID:5H/fCh43
>>739
甲陽軍鑑にも誤りはあるらしい。Enpediaでは信虎期の年代におかしい点があるとか。

でも武田信玄の功績を書き留めないのはおかしいですよね。
0741人間七七四年2019/04/03(水) 14:01:45.10ID:e8gmQ/Uv
>>738
では天竜川を渡って浜松に向かうと書いた信玄の書状はどう考えるんだ?
0742人間七七四年2019/04/03(水) 14:08:01.82ID:FXG90mcf
>>741
いや、天竜川を北上して二俣城に向かい、二俣城を落としてから南下、では?

もし駿河から高天神城を通過して、それから二俣城に向かったなら、そのルートしか考えられない。

二俣城を無視して浜松城に向かった、とでも?
0743人間七七四年2019/04/03(水) 14:18:03.06ID:e8gmQ/Uv
>>742
天竜川渡った後に、あるいは渡る前に天竜川沿いを北上して二俣城向かったと普通は考える
浜松の前に二俣城向かったのはどうでもいい話であって、要は信玄は駿河から侵略したということ
その途上に掛川と高天神があるから少なくとも素通りはしたということ
既出の通り小笠原信嶺が書状に出るくるのは無理がありすぎることから信玄の書状に出てくる小笠原は氏助で間違いない
ただし降ったと書いたのは信玄のブラフである可能性がある
0744人間七七四年2019/04/03(水) 14:34:51.13ID:FXG90mcf
>>743
二俣城はどうでもいい城ではないよ。
山城で経済的な価値はないが、青葉街道を経て伊那へ入る際の要衝だし、遠州北部のど真ん中に位置するから、遠州の他の城にいつも圧力をかけられる城だし。
0745人間七七四年2019/04/03(水) 14:37:55.56ID:e8gmQ/Uv
>>744
そういう意味じゃない
本題は信玄が駿河から侵略したのかどうかだろ
天竜川渡った後にどこ向かったかは本題とは逸れるからどうでもいいという意味
0746人間七七四年2019/04/03(水) 16:35:56.55ID:KVmCKoDm
高天神城が1572年に武田に降り、1573〜1574年に徳川に寝返り
1574年6月に武田に攻められたなら勝頼は裏切り者絶許状態なのに
小笠原与八郎長忠の処遇について駿河の富士郡にて一万貫文を
安堵されてるのは違和感はあるね
小笠原与八郎長忠の駿河の富士郡に国替の判物は存在するのに
その前の徳川に寝返った歴史史料や人質は誰がなったのか
徳川に寝返ったのに人質が処刑された史料も無し

↓とは明らかに違うんだよね

菅沼正貞 … 明確な裏切り行為は無かったが長篠城を武田の援軍到着前に
      徳川に開城したから内通の疑いをかけ幽閉、獄死

奥平信昌 … 信玄没後に徳川に寝返ったため、人質を即刻処刑し
      絶許で長篠城攻めへ

菅沼定直・今泉道善 … 長篠の敗戦後に勝頼の田峰城入城拒否したため、
     後日、城内の老若男女を族滅、定直と道善は生け捕りにした後で鋸挽きの刑で報復

木曽義昌 … 即刻、人質処刑後に絶許で木曽征伐へ
0747人間七七四年2019/04/03(水) 17:37:33.40ID:5H/fCh43
小笠原長忠って最後は信長か家康に殺されてるんだよね。過去の裏切りで。

1572年に裏切ってるなら、家康は人質は間違いなく殺してるだろうなあ。
0748人間七七四年2019/04/03(水) 18:46:47.59ID:eq5Kk4cq
根拠が例の書状一通のみで解釈も別れる、
それ抜きにしても周囲の状況前後の状況から見て、降伏は無かった書状で嘘言ってる可能性が一番高い
0749人間七七四年2019/04/03(水) 18:59:42.65ID:bUBJBkv5
信玄の書状を全て信じるなら駿河侵攻は今川が上杉と共謀して滅ぼそうとした武田の正当防衛になるからな
0750人間七七四年2019/04/03(水) 19:02:55.81ID:5H/fCh43
>>749
あれは酷すぎる。
自分は織田徳川と結んで今川を攻めようとしたのに。
0751人間七七四年2019/04/03(水) 19:17:08.16ID:OHGRXlId
>>748
降伏はなかったとしても駿河から攻めてるのは事実だから高天神城を素通りできないとする>>738の主張は成立しなくなる
どっちにしても高天神城は信玄にとって無害だったわけだ
0752人間七七四年2019/04/03(水) 19:26:43.17ID:Zi9/xAae
>>747
北条氏滅亡の折に家康が処断したんだったはず
0753人間七七四年2019/04/03(水) 19:49:04.41ID:LTDjYEbf
>>751
駿河から侵攻した、という根拠あるいは史料って何かあるの?
0754人間七七四年2019/04/03(水) 20:17:49.32ID:utrNhxyy
http://imgur.com/XHk8JiF.jpg

小笠原が懇願した通り軍を進める
と読むか
小笠原が降伏してきたから軍を進める
と読むか...
0755人間七七四年2019/04/03(水) 20:28:44.57ID:utrNhxyy
鴨川氏は小笠原は遠江高天神城の小笠原じゃなくて信濃松尾城主の小笠原信嶺だと主張してるみたいだけど
0756人間七七四年2019/04/03(水) 21:05:45.26ID:TlquFwos
>>753

>>754
0757人間七七四年2019/04/03(水) 21:17:19.90ID:5H/fCh43
>>754
駿河から、とは何処にも書いてないと思うんだけど? 何でこれで、駿河から? になるわけ?

仮に高天神城の小笠原長忠が降伏あるいは要請してきたとしても、それが「駿河から」と解釈するには余りにおかしくないか?

天竜川、とあるけど、別に天竜川は上流にもあるし。信濃から遠江に侵攻した時点で小笠原には応じた、とも解釈できないの?
0758人間七七四年2019/04/03(水) 21:24:46.99ID:TlquFwos
>>757
天竜川上流から渡って浜松向かうとかおかしいだろ
途中に二俣城もあるし
更にこの時期遠江南部の寺社に信玄の禁制が相次いで発給されている
ちなみにこれについては鴨川氏は別働隊に信玄朱印を預けたと無茶苦茶な主張をしている
0759人間七七四年2019/04/03(水) 22:05:30.80ID:eq5Kk4cq
途中に敵城あるのは駿河高天神のルートでも同じ
通説のルートだと二俣の南辺りで天竜川渡って南下して三方ヶ原
一言坂の徳川みたいに下流で天竜川渡ったわけじゃない

まあ天竜川上流っていってもあなた達が具体的にどこからを上流と言ってるかわからんが
0760人間七七四年2019/04/03(水) 22:12:35.63ID:utrNhxyy
http://imgur.com/OMvMTRU.jpg
主張している内容としてはどちらも決定打に欠ける
ただ本多氏の文章の方が雑な印象なのは否めない
0761人間七七四年2019/04/03(水) 22:29:07.55ID:utrNhxyy
http://imgur.com/uMGxJRO.jpg
遠江北部にあった判物の存在について取りに来たんだよと適当とも取れる反論
朱印についても信玄本陣に無いなんてあり得ないと断定しちゃう本多氏

歴史研究家としてはいささか軽率な印象はあるかな
0762人間七七四年2019/04/03(水) 22:34:05.55ID:mCMmB6tn
>>760
リンク先の部分読んだだけなので勘違いかもしれないが
この本多氏って人自己否定してね?

北部の寺院から南部の陣地に使い送ってそれに対し発給した発給者が受給者の近くにいる必要無いなら
最初の日付が進むたびに受取人の所在地が東から西へ進んでるから武田軍が駿河から西に進んだも
武田軍が動いていなくても遠距離からの受取人は時間かかったで成り立っちゃうぞ
0763人間七七四年2019/04/03(水) 22:41:42.66ID:utrNhxyy
>>762
「武田信玄の「西上作戦」を研究する」で検索すれば全文読めるので興味あれば

この件に関してはどちらの言い分も疑問点は残る感じだけど鴨川氏の偽書についての解説は勉強になる
0764人間七七四年2019/04/03(水) 22:45:23.69ID:TlquFwos
奥平宛の書状には論点が多くあって、
1.信玄は駿河から来たのか
2.小笠原とは信嶺なのか氏助なのか
3.高天神城は降伏したのかどうか
4.三カ年の鬱憤とはいつからどうして鬱憤になったのか

鴨川氏は信玄は信濃から来て小笠原は信嶺と、駿河からの別働隊が信玄の朱印を持って遠江で禁制を発給したと主張しているわけで、少なくとも別働隊が遠江から西上したのは否定していない
本隊でもない別働隊が遠江を敵中突破し、かつ朱印を預けられているとか苦しすぎる言い訳で信玄はやはり駿河から来たとするのを否定するのは難しい
当城主小笠原の書き方も信嶺なら城主なんてつける意味ないし、信嶺の懇望で信玄が西上するとか意味不明なので氏助で妥当
降っていたかどうかは、まだ決定打に欠ける
ちなみに他の最前線の武田研究者の平山、丸島、柴、柴辻はみな本多氏寄りだろう
そんだけこの論点に限っては鴨川氏の苦しさが目立つ
0765人間七七四年2019/04/03(水) 22:54:51.99ID:VZKwNSWl
>>764
上の方の書き込みにもあったけど

>当城主小笠原の書き方も信嶺なら城主なんてつける意味ないし、信嶺の懇望で信玄が西上するとか意味不明なので氏助で妥当

この部分はちょっと理解できなかった

信嶺は松尾城主なんじゃないの?
遠江、三河の調略も担当していたのであれば山家三方衆も調略がなったこのタイミングで出馬を促すのはありえなくはないのでは?
0766人間七七四年2019/04/03(水) 22:56:49.13ID:kK7q/e8q
丸島柴辻が小笠原降伏したとか言ってたの10年以上前のことじゃ?
今でもも言ってるの?
0767人間七七四年2019/04/03(水) 23:14:03.50ID:TlquFwos
>>765
信玄が奥平宛にそちらの松尾城主小笠原信嶺の懇望で天竜川上流を渡って浜松に向かうよと書くのはどう解釈するのか
信玄は駿河から来ているならまだ少しは分かるが、鴨川説はそうですらない
奥平宛の書状の結びはあとは山縣昌景に聞いてくれとあり、小笠原信嶺でなく山縣がこの方面軍の指揮官だったはずだし
0768人間七七四年2019/04/03(水) 23:27:54.54ID:TlquFwos
>>766
近年出版された武田家臣一覧辞典には小笠原氏助は信玄に降ったと普通に書いてある
0769人間七七四年2019/04/04(木) 00:04:31.39ID:Z/KJnI31
そもそも高天神城が降ったことに関しての書状って奥平宛だけしかないの?

普通なら、所領安堵なり加増なり約束した書状が残ってないの? 勝頼が小笠原に加増を約束したのはあるんだし。
0770人間七七四年2019/04/04(木) 03:48:34.96ID:8+0gMZ2D
>>767
内容としては郡上遠藤宛に書いた書状と似たような内容なので違和感無いと思ったけど
少なくとも鴨川説だけ全否定する程とは思えなかった

松尾城主小笠原が山家三方奥平の取次役
山家三方衆は山県昌景の寄騎に編入されている
そして浜松には家康に差し出した人質がいる

奥平の離反を信濃先方衆の小笠原信嶺が取り次いでいたとしたら自然に読める文章になる

逆にこの時点で武田に属している奥平に向かって「そちら側の高天神城」では意味が通らない

何らかの補足史料が無いのであれば、この書状だけで高天神城が信玄に降ったとするのは軽率なんじゃないかな
0771人間七七四年2019/04/04(木) 05:23:48.31ID:Ht/D3PSz
>>770
まず、貴方は信玄はどこから侵攻したと考えてるのか
鴨川氏はここで大きく無理をしてるから分が極めて悪い
取次とは重臣か近臣しか担わないから小笠原信嶺がやることは絶対ない、奥平の取次は山縣だろう
小笠原信嶺が人質の解放のため懇望するというのも無理がある
素直に信玄は奥平に貴方達のため浜松向かうと書けばいいはずで
あと小笠原信嶺のことをそちらの城主小笠原と呼ぶのも変すぎる、素直に小笠原掃部とか書けばいい
三カ年の鬱憤晴らすべく出陣したはずなのに小笠原信嶺の懇望により浜松攻めるというのも変
当城主小笠原が氏助の場合は当はこちらのという意味になる
補足資料は既出の通りこの時期南遠江の寺社に禁制の発給が相次いでる点にある
無論、これだけで小笠原の降伏があったとは断定できないが、信玄が高天神城を通ったことは間違いないはず
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