武田勝頼 Part16
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0001人間七七四年
2019/03/22(金) 20:17:09.04ID:L5s5s1vq勝頼関連について、どうぞ。
http://itest.5ch.net/matsuri/test/read.cgi/sengoku/1551006280
前スレ 武田勝頼 Part15
0665人間七七四年
2019/04/02(火) 19:55:19.37ID:qy74+2OT0666人間七七四年
2019/04/02(火) 19:57:12.98ID:qohUsCFx当の解釈の他にもつらつら書いてありましたよ
通勤経路にあるから興味あるのであれば明日もう少し読み込んできますが
本当に全体的に雑な印象なんですよね
鴨川氏の説否定から入って自分の都合いい事だけ書いてハイ論破!みたいなそんな感じ
他の歴史研究家の方がこの点については更なる検証の必要性を感じるとか断定はできないみたいな一歩引いた表現があって逆に信頼できる
0668人間七七四年
2019/04/02(火) 20:05:14.26ID:KY+I9q6Xじゃあやっぱり長篠の三千挺は正しかったってのはウソなの?
0669人間七七四年
2019/04/02(火) 20:08:16.78ID:qgMaWDHf訂正というかみたいな指摘ね
自分は城の明け渡し時期についてしか書いてなくて指摘もらったのは開戦タイミングだから訂正とは少し違うけど
0670人間七七四年
2019/04/02(火) 20:12:54.09ID:GzxprgQW徳川に再度落ちたという歴史資料はあるんですか?
西上作戦では書状だけで落ちたと言うのは無理があるんじゃないですか?
それを根拠とするなら徳川に再び寝返ったというのをセットで出ないと
偽書または間違った情報だという扱いのが優勢だと思いますね
戦国時代では良く間違った情報が飛び交いましたからね
最近では本能寺の変の後の明智光秀の居場所を柴田勝家が間違った
情報しか得ていなかったという書状が見つかってましたね
0671人間七七四年
2019/04/02(火) 20:14:26.53ID:8OpHPR7n別に別働隊が敵の領内素通りは別に無理ないだろ、
部隊分けて敵領焼き打ちさせるとか関東遠征でもやったし、
総兵力で上回ってるならそうおかしなことじゃない、
信濃から遠江平野部まで出てきた武田の部隊もいるのだからそっち警戒して
徳川主力は動けないんだし。
>信玄の印鑑を別働隊が持ってただの
何それ?
>>666
なんか微妙そうですね
自分は読みに行くのはGWでいいや
0672人間七七四年
2019/04/02(火) 20:23:38.30ID:8OpHPR7n>徳川に再度落ちたという歴史資料はあるんですか?
自分が知る限り、二次史料江戸時代の軍記物でも見たことない
72年に高天神が降伏したと言う学者もその後どんな風に徳川に戻ったかという史料や根拠を示したことはないはず
0673人間七七四年
2019/04/02(火) 20:27:37.68ID:8OpHPR7n今はどうなんだろ、平山氏と今スレで話題になった本多氏ぐらい?
0674人間七七四年
2019/04/02(火) 20:30:26.14ID:wTj6Vvveこれも間違って書いてるね
本田氏の信玄侵攻ルートは芝裕之氏が提唱したものを支持したもの
本田氏はそれを武田氏の朱印状などの発給文書の月日を地図上に落として明らかにしたと書いてある
進軍ルートを三河物語や甲陽軍鑑を根拠としたなんて事は書いてない
0675人間七七四年
2019/04/02(火) 20:39:18.80ID:qgMaWDHf付近、遠方だったかな?
村の代表が安全を保障するため信玄の陣所を訪ねて証書を貰いに行ってたとか
印鑑はそこで使われていて信玄本人以外が所持してる筈がない
=別働隊ではありえないという指摘だったかと
0676人間七七四年
2019/04/02(火) 20:39:35.70ID:H6EmisG3小笠原は信嶺のこと→なんで信濃先方衆の一人に過ぎない小笠原信嶺の懇望が出てくるのか意味不明
印鑑→信玄本隊は南伊奈から侵攻し、鴨川氏は駿河からの別働隊が信玄の印鑑持って奥平に書状書いたとか主張してたはず(うろ覚え)
別働隊が駿河から天竜川渡った?掛川城は一番防御を固めてただろう堅城なのに、山縣や秋山以外の家臣にリスクある別働隊を任せたなんて到底思えない
任せたとして、こんな別働隊なんのメリットがあるというのか
0677人間七七四年
2019/04/02(火) 20:47:04.73ID:qgMaWDHf前半は前スレの補足で後半は別の話題
紛らわしい書き方でしたね
軍鑑や三河物語の記述がよく引用されてるのは前の話題の二俣城攻めの前後です
言うまでもなく侵攻ルートについては軍鑑などにも記載が無いので引用はされていないです
(だから論争になってると思いますが)
0678人間七七四年
2019/04/02(火) 20:58:36.08ID:xGFHE2ij西上作戦時織田は手一杯とよく言われるけど実際はこの時期そこそこ余力が出てきている
・一向一揆は地元で暴れる分には脅威だが、外征能力は殆どない(信玄すら戦力に数えてない)
・朝倉勢は内応・サボタージュが続発して組織崩壊中
・浅井勢は一向一揆と組んで秀吉を攻めるも敗北、逆に秀吉や勝家が小谷城下に攻め込んでくる始末
0679人間七七四年
2019/04/02(火) 21:04:06.89ID:wTj6Vvve三河物語にしても二俣攻めの様子を一次史料の補足的に引用してるだけで、重要な開戦の日付、降伏の日付は一次史料からちゃんと引用してる
まるで引用史料が軍記をメインみたいな誤解する書き方は違うんじゃないの
0680人間七七四年
2019/04/02(火) 21:30:52.65ID:qgMaWDHf鴨川氏の場合は書状を引用するにも背景の解説を入れたり前後の書状や相手の返信なども紹介して妥当性を表現している
強引な解釈というのも散見してると思いますが
本多氏の場合は自説の背景として軍記の引用が多い
書状から日付を引用してても唐突に出てきて書状に記載されてる内容の妥当性についての検証などはあまり無い
>>637に書いてある箇所などがまさにそれで、その北条氏政が持ってた情報は正しいのか?という根拠については説明してくれない
スタンスの違いだから好みに合う合わないは当然あるだろうけど、そういう傾向の本でしたよって書いたまでです
0681人間七七四年
2019/04/02(火) 21:39:20.85ID:9sgQQee1平山も書状の内容と前後の流れの検証しない唐突気味だよな
新説ならぬ珍説で功績を主張したい
または本を売りたいがために前後の流れの検証をしないのが多いこと
0682人間七七四年
2019/04/02(火) 21:43:41.87ID:gyrQNDv/0683人間七七四年
2019/04/02(火) 21:47:04.95ID:wTj6Vvve氏政書状に関しても二俣攻めに参戦してた伊豆州清水氏からの報告に基づくもので信憑性は高いと説明されてあるが
0684人間七七四年
2019/04/02(火) 21:51:07.58ID:qgMaWDHf一方この説は根拠となる史料が少なく未だ検証が必要な段階であるとか
そんな感じのスタンスでまとめてほしいと思う
大学で教えてるような立場であるなら尚更
他人の説を批判して客観的に見てそれってまだ双方論証できてなくない?と思われるような内容についても
「未だに〜と記述されており誠に遺憾」みたいな文章が続くと著者に対して微妙な印象が強くなる
還暦をとうに超えてるおじいちゃんなので仕方ない部分もあるんだろうなとは思うけど
0685人間七七四年
2019/04/02(火) 21:56:37.30ID:8OpHPR7n>印鑑はそこで使われていて信玄本人以外が所持してる筈がない
>=別働隊ではありえないという指摘だったかと
それは普通はありえないはずだよな、何のための印だってなる
ぶっちゃっけ別働隊が信玄の名で好き勝手出来るってことだし
>>676
何聞きたいのかさっぱりわからない
レス番ずれてない?そうでないならもう少しちゃんと整理して書いて
0686人間七七四年
2019/04/02(火) 21:58:45.87ID:wTj6Vvve0687人間七七四年
2019/04/02(火) 22:04:30.69ID:qgMaWDHf全体の話の流れがね
当初から水の流れを断つ方針で攻め込んでいたようだ
→だから時間はかかっていない
通説では12月とされているが北条氏政の書状から日付を逆算すると11月には終戦している
→なので二俣城は一ヶ月で陥落させている
これだけ書いてサラッと次の話題に進まれちゃってますからね
他説を否定する根拠も本多氏が主張する内容の根拠も全然浅いなーという印象しか無かったです
論文や研究紙に詳細書いてますって書くだけじゃこの本の内容自体に価値は無いですよね
(そういうとこも正に今のこのスレの流れのようだ)
0688人間七七四年
2019/04/02(火) 22:07:06.80ID:H6EmisG31.鴨川氏が主張する小笠原信嶺程度の信濃先方衆の「懇望」のため信玄が天竜川を東から西に渡ると奥平宛に書くのは不自然極まりないと思わないか?
2.本当に掛川や高天神城の敵の領内を山縣秋山以外の別働隊が敵中突破したと思うのか?天竜川を渡るのもリスクがあるのに
3.奥平宛に信玄の名前と印で天竜川を渡って浜松へ向かうと書いているのに、その軍に信玄がいないということは無理がありすぎではないか?
0689人間七七四年
2019/04/02(火) 22:07:44.62ID:8OpHPR7n>>682
>>686
本『多』氏な
ちなみに戦国時代の歴史学者だと他に本多博之って人もいる。
0690人間七七四年
2019/04/02(火) 22:08:10.89ID:wTj6Vvveさらっと流し読みした程度で書評するなんてほぼレッテル貼りに近いでしょ
0692人間七七四年
2019/04/02(火) 22:09:19.44ID:qgMaWDHf鴨川氏のそれに対する反論としては偽印や本物の証書でも西上作戦の時のものではない可能性など信憑性を証明するのは本当に難しいと説明されてましたね
実際に偽印が用いられた証書の紹介と解説など含めて
これに限らずですが、ありえないはずだ だけで結論としない姿勢は好感が持てます
0693人間七七四年
2019/04/02(火) 22:09:50.58ID:GzxprgQW実際に開城したのは9月18日で三成書状は間違った情報だったと確定した話
もあったように書状には間違った情報が含まれていることを
注意するべきですね
当事者じゃなくて伝聞してる情報は特に
0695人間七七四年
2019/04/02(火) 22:13:48.18ID:qgMaWDHfそれであれば>>585や>>588のような表現はまずくないですかね
この本読んでも話題についての詳細は少ない
それであれば『武田氏研究49号の武田信玄の遠江侵攻経路』こっちを参考史料として掲示すべきかと
0696人間七七四年
2019/04/02(火) 22:15:56.80ID:wTj6Vvve当初からの水攻めしたから時間かかってないなんて書いてないな
篭城方は善戦し城は容易には落ちなかったと書いてある
当初から水攻めの根拠も山県昌景書状で確認取れるわけだが
0697人間七七四年
2019/04/02(火) 22:17:43.82ID:H6EmisG3二俣城の件はともかく、信玄が駿河から侵攻したこと、高天神城が落ちてたか信玄を素通りさせたことは間違いないでしょ
鴨川氏の主張は支離滅裂だから
0698人間七七四年
2019/04/02(火) 22:18:15.62ID:wTj6Vvveその論争の顛末が書いてあるわけだから問題ないでしょ
論争の内容が具体的に知りたければ書かれてる参考文献を調べればいいだけだし
0699人間七七四年
2019/04/02(火) 22:20:49.12ID:8OpHPR7n1 この時期の小笠原信嶺は奥平の取り次ぎだか寄り親じゃなかった?
長篠城守備の費用のため井伊谷に土地宛がわれるのは信玄死亡前後ぐらいだったから、
まだその時点じゃ関係ないと言えなくもないが、完全に無関係なら長篠の守備なんてならないだろうから、
この時点でそれなりに奥平小笠原の関係が深くても不自然とは思わない
2 他の例から考えるなら十分可能だと思う、天竜川渡るもその地点まで来れば信玄の本隊と合流してるんじゃ
3 既に書いたが無理だろ、たとえ別働隊が勝頼でも厳しいだろ
0700人間七七四年
2019/04/02(火) 22:25:22.57ID:8OpHPR7n>降伏してない説の鴨川氏が、降伏してた説の本田氏の批判に具体的な反論が一切できずほぼ決着
つか具体的な反論出来ないってどういうことなんだ?
過去に本多氏が鴨川氏への論文だして、それへの具体的な反論が何年たってもなかったとかでそう言ってるのか?
他の人のレス読む限りは違うような印象受けるんだが
0701人間七七四年
2019/04/02(火) 22:25:22.58ID:9sgQQee1遠く離れた場所の書状だとこうなるわな
北条氏政の書状から逆算とか一番信用しちゃいけないソースだわな
0702人間七七四年
2019/04/02(火) 22:26:15.38ID:qgMaWDHf論争の顛末のレベルが低いというか自分の主張に対してバイアスかかってるなーという意味で
二俣城が一ヶ月で落ちたのか信玄が高天神城降服させたのかさせてないのかは別の問題だと思いますよ
ただこの本だけではどちらの説の根拠とするのも厳しそうだなという印象です
どこかのレスにあったようないい本だとは全然思えなかったですね
0703人間七七四年
2019/04/02(火) 22:27:53.15ID:8OpHPR7nそういうものなのか
軍鑑か何かじゃ死ぬ前に予め自分の花押だか何か残した空白の紙を大量に残したとかあったけど
史実でもそういったことあるのか……
0704人間七七四年
2019/04/02(火) 22:29:30.90ID:H6EmisG3奥平と小笠原信嶺がある程度知己であろうことは知っているがそういう話でなく、小笠原信嶺がなんで信玄に西上を懇望するんだ?
百歩譲って山縣が天竜川の西で早く信玄と合流したいというなら分かるが、唐突に小笠原が西上を懇望したと読むのが鴨川氏の主張
3が無理というなら駿河から侵攻したのは信玄本隊ということだね
0705人間七七四年
2019/04/02(火) 22:33:03.86ID:wTj6Vvve再度の反論はあれども当城主小笠原が信嶺であることや、信玄が南進部隊にいたことの新たな主張は無く龍の朱印を預けたという事例の提示もなかった
要するに主要な論点に対する積極的反論が無かった、とのこと
0706人間七七四年
2019/04/02(火) 22:35:01.57ID:8OpHPR7n確かに
・二俣城がどれぐらいで落ちたか
・信玄本隊はどのルートを通ったか
・高天神は降伏したのか
の三つの問題あるみたいだな
>>704
仮に三河長篠方面担当していたとするなら、さっさとこっち方面に来てほしいと思うのはおかしくないと思うが
特に信玄本隊が駿河から入って遠江でも東の方にいたとするなら
逆に高天神の小笠原は何で西上を懇望するんだ?
小笠原の位置なら掛川落としてくれとか、天竜川東の徳川勢力の排除望むんじゃ?
0707人間七七四年
2019/04/02(火) 22:41:41.80ID:H6EmisG3懇望する、は降伏を願い出るという意味もある(こっちの方が用例が多い)
だから本多氏は小笠原は降伏したと主張している
小笠原信嶺はそこまで大身じゃないので違和感しかない
山縣の別働隊はそんなあちこち兵力を分散してたとは思えないから小笠原信嶺も山縣の旗下にいたはずだし
0708人間七七四年
2019/04/02(火) 22:42:08.00ID:8OpHPR7nやった最初に聞いた答えが返ってきた
つまりこういうこと?
鴨川氏論文→本多氏論文で鴨川氏に意見→鴨川氏反論→本多氏反論になっていないと先月の本で言ってる
他の人のレス読むと反論になっていないと先月の本で言ってるのは
鴨川氏の説否定から入って自分の都合いい事だけ書いてハイ論破!みたいらしいが
そこは読んで判断する
>>704
むしろ馬伏塚の小笠原なら位置的に天竜川渡って浜松攻めてと頼みそうな気がする
0709人間七七四年
2019/04/02(火) 22:53:10.18ID:8OpHPR7n別方面の勢力に動いてもらう時に使う用例も十分多いと思うが
降伏で使う場合は、開城条件とかとセットがほとんどじゃ
小笠原信嶺は山県らと比べると一段落ちると思うが信玄が小笠原に宛てた書状とかもあるし
そんな変なことか
0710人間七七四年
2019/04/02(火) 22:58:54.59ID:wTj6Vvve本多氏論文2010→鴨川氏による本多氏論文への批判2012→本多氏反論2013→鴨川氏再批判2015するも主要な論点に対する積極的反論無し→本多氏反批判2017
10年近くやってるみたいね
0711人間七七四年
2019/04/02(火) 23:00:37.29ID:H6EmisG3信玄が駿河から遠江に入り、奥平に手紙書く際に
1.高天神城主小笠原長忠が降伏を願い出たから今から天竜川渡って浜松向かうよ
2.城主小笠原信嶺が要請してきたから今から天竜川渡って浜松向かうよ
2は違和感ありすぎ、掛川城か高天神城はどうしたのよって突っ込みたくなる
0712人間七七四年
2019/04/02(火) 23:03:48.09ID:H6EmisG30713人間七七四年
2019/04/02(火) 23:14:51.54ID:GzxprgQW所領安堵なら人質は絶対に取られるはず
その後に徳川に寝返ったなら勝頼に人質は処刑されてるはず
徳川に寝返ったのはいてか徳川から安堵された書状もない等
ごっそり抜け落ちたことになりますね
0714人間七七四年
2019/04/03(水) 00:40:37.87ID:vC4KHP/Bそれならそれで、10月15日の段階で二俣城を包囲していた(馬場が)のに、信玄は20日以上も何処で何していたの? になります。
0715>
2019/04/03(水) 01:48:26.67ID:ILDye0kT天正7年(1679年)3月下旬、北条氏を打倒するため、伊勢天照大神宮御宝殿へ北条氏政追罰の願文を奉じました。
0716人間七七四年
2019/04/03(水) 01:56:38.05ID:mlnQx8PK時間がかかれば、織田信長の後詰が来るのは分かり切ってる。
ならば1日も無駄にせず、すぐに行動するべきだろう。
冬とはいえのろますぎる。
そういえば、本多とか言う奴は美濃へ侵攻するとか言ってるが、冬の時期にどうやって信濃から美濃へ侵攻するのか説明してほしいな。
0717人間七七四年
2019/04/03(水) 02:04:38.81ID:ILDye0kThttps://ameblo.jp/bd20159/entry-12379671347.html
>勝頼は天正7年3月に伊勢天照大神宮御宝殿へ祈願文を出した。
>当時御館の乱の結果、北条との同盟が決裂した時に北条氏政追罰の願文である。
>『妙心寺史』によると鉄山宗純に起草させたもので、文自体は鉄山が勝頼の意を汲んで
>文章を練り、勝頼がその文書を認めた者である。詳細は笹本正治氏『武田勝頼』に詳しいが、(以下略
天正7年3月に甲相決裂
だってさ
0718人間七七四年
2019/04/03(水) 03:08:34.01ID:ar/BEH/l新元号の出典が太宰府にあるとは。
紅白を逸してまで開催した男祭りへの想いがようやく花開いた。
本当にももクロchan達は関わる人たちを皆笑顔にするよね。
次はどんな笑顔へ繋げるのか楽しみ。
0719人間七七四年
2019/04/03(水) 05:44:16.29ID:utrNhxyy「高天神城は、元亀3年10月から始まった武田信玄最後の作戦(いわゆる西上作戦)で降伏しているんだってば」
https://twitter.com/hirayamayuukain/status/932276013580435456
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0720人間七七四年
2019/04/03(水) 05:52:58.39ID:utrNhxyy本多隆成『定本徳川家康』
柴裕之『徳川家康』
平山優『武田信玄』
0721人間七七四年
2019/04/03(水) 05:59:38.21ID:utrNhxyyhttps://twitter.com/HIRAYAMAYUUKAIN/status/932279200387436544
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0722人間七七四年
2019/04/03(水) 06:25:00.46ID:bUBJBkv5確か平山が甲州征伐で織田軍が餓死や逃亡者で崩壊寸前だったとかを書状一枚で言って奴
同一人物か?
0723人間七七四年
2019/04/03(水) 07:39:12.70ID:utrNhxyy平山優は勝頼推しなのでリップサービスも含まれてるかな
http://imgur.com/jsvnA5F.jpg
http://imgur.com/NmBz9Nn.jpg
ID:qgMaWDHfが書いてる内容は鴨川 達夫と本多 隆成の著書で鴨川氏のスタイルの方が好みという程度で別にどちらの論説を支持してる訳でもないと思うよ
0724人間七七四年
2019/04/03(水) 08:06:42.33ID:xOnAjSNt何よりこれまで武田の軍事を支えてきた重臣たちが殆ど討ち死にしてしまうという
絶対にしてはいけない負け方をしたからな
恐らくこの報を聞いた感のいい信長は「武田は終わった・・・」とすぐに思っただろうね
それぐらい武田の運命を大きく決定づけた敗北だったと思う
高天神や御館も滅亡の原因の一つだけど、もし長篠以前の有能な武田武士が生きていたら
あんな悲惨な裏切りやら離反劇は食い止められたかもしれないし・・・
やっぱり長篠での人材の喪失と言うのは武田にとって致命的だったと思う
その上で高天神と御館での信用の喪失がトドメを刺した
0725人間七七四年
2019/04/03(水) 08:28:56.87ID:bUBJBkv53月23日 山口秀景書状で兵の兵糧欠乏
3月24日 信長が兵糧を配給
3月26日 北条氏政より米千俵が諏訪へ届く
兵糧については解決してるのに織田は崩壊寸前だったは無理があるな
0726人間七七四年
2019/04/03(水) 08:59:15.17ID:2S4+6xKE信州の豪雪による氷結
岐阜から甲府への行軍過程で逃亡者が出た
→これらは事実
織田軍は崩壊寸前だった
→これは論理の飛躍で根拠がない
こういう事ですね
0727人間七七四年
2019/04/03(水) 09:10:05.60ID:VsqouB7a後方勢力地からの補給が追い付かなかっただけだろ
相手が動けないうちに出来るだけ戦果を拡大するのは間違ってない、勝頼は最期まで動けず自害したけど
0728人間七七四年
2019/04/03(水) 09:41:59.42ID:hOQYomsX長篠のあとも武田は結構もってたろ
信玄の負の遺産という重荷がいっぱいあったのに勝頼も頑張ったよ
0729人間七七四年
2019/04/03(水) 10:14:14.49ID:KVmCKoDm>>417
長篠ではその負の遺産らが勝頼を逃がすために殿軍を引き受けて
散っていき、長篠後も崩れることなく反逆者も未然に防ぐ結束していた
勝頼主導による北条との手切れからの徳川北条による二面攻撃
高天神城のみごろし、新府城建設や度重なる防衛戦の戦費による重税で
小笠原信嶺などの武田家臣の忠誠心が失われてしまったんだよな
むしろ、勝頼=信玄の負の遺産
0730人間七七四年
2019/04/03(水) 10:20:18.50ID:5DixtKSR小笠原氏助が浜松城攻めの先鋒を必ず務めなければならない。
少なくとも武田家はそういう決まりが厳然としてあった。
城主を最前線に立たせて人質として使うのが一番確実だしね。
0731人間七七四年
2019/04/03(水) 10:23:13.33ID:7jjpub26あの城には各国から部将が集まってたようだし、「どうせ先方衆は盾にされて見殺しにされる運命なんだ」というのが共通認識になっちゃったんだろうな
0732人間七七四年
2019/04/03(水) 10:24:37.62ID:5DixtKSR馬丸出しの警護につかせた。
馬丸出しは城の入り口を守ってるが城門の外にあるので万一そいつらが裏切っても
致命傷にならないから。これは武田家独特の軍法だった。
0733人間七七四年
2019/04/03(水) 12:10:15.62ID:qn/+JQyfどういった史料からわかることなの?
0734人間七七四年
2019/04/03(水) 12:27:12.49ID:S+f6JWva0735人間七七四年
2019/04/03(水) 12:34:03.49ID:J0njK6Rv0736人間七七四年
2019/04/03(水) 13:23:02.17ID:qn/+JQyfこれが高天神の小笠原氏と何か関係あるの?
彼らの本拠である三州欠城ってのは高天神城のことだったの?
0737人間七七四年
2019/04/03(水) 13:34:49.64ID:qn/+JQyf>>736の安広の弟の安勝が三方原で負傷して出仕をやめるとか書いてある
この合戦に複数の小笠原氏の者がいたのは間違いない
小笠原なんて珍しい苗字のものが日本中探しても高天神以外にいるとは考えられないし
これで高天神城が武田に下ってないことは確定したね
0738人間七七四年
2019/04/03(水) 13:52:18.14ID:PjzD+2eO徳川方にしても記録を残さないのがおかしい。
だいたい、駿河から高天神城を通るとしたら、掛川からいつ横腹を突かれるかわからないし、途上にある久野や浜名を落とさずに進軍してるから、こちらは兵站としては使えない。
城を残して進軍したらどうなるかは、岡城や栂牟礼城を残して北上した島津軍から見てもお察しだし。
0739人間七七四年
2019/04/03(水) 13:55:11.08ID:qn/+JQyf山本勘助の活躍はじめ甲陽軍鑑は全部史実を書き留めてるもんな
書かれてない時点で明らかだわ
0740人間七七四年
2019/04/03(水) 13:57:19.18ID:5H/fCh43甲陽軍鑑にも誤りはあるらしい。Enpediaでは信虎期の年代におかしい点があるとか。
でも武田信玄の功績を書き留めないのはおかしいですよね。
0742人間七七四年
2019/04/03(水) 14:08:01.82ID:FXG90mcfいや、天竜川を北上して二俣城に向かい、二俣城を落としてから南下、では?
もし駿河から高天神城を通過して、それから二俣城に向かったなら、そのルートしか考えられない。
二俣城を無視して浜松城に向かった、とでも?
0743人間七七四年
2019/04/03(水) 14:18:03.06ID:e8gmQ/Uv天竜川渡った後に、あるいは渡る前に天竜川沿いを北上して二俣城向かったと普通は考える
浜松の前に二俣城向かったのはどうでもいい話であって、要は信玄は駿河から侵略したということ
その途上に掛川と高天神があるから少なくとも素通りはしたということ
既出の通り小笠原信嶺が書状に出るくるのは無理がありすぎることから信玄の書状に出てくる小笠原は氏助で間違いない
ただし降ったと書いたのは信玄のブラフである可能性がある
0744人間七七四年
2019/04/03(水) 14:34:51.13ID:FXG90mcf二俣城はどうでもいい城ではないよ。
山城で経済的な価値はないが、青葉街道を経て伊那へ入る際の要衝だし、遠州北部のど真ん中に位置するから、遠州の他の城にいつも圧力をかけられる城だし。
0745人間七七四年
2019/04/03(水) 14:37:55.56ID:e8gmQ/Uvそういう意味じゃない
本題は信玄が駿河から侵略したのかどうかだろ
天竜川渡った後にどこ向かったかは本題とは逸れるからどうでもいいという意味
0746人間七七四年
2019/04/03(水) 16:35:56.55ID:KVmCKoDm1574年6月に武田に攻められたなら勝頼は裏切り者絶許状態なのに
小笠原与八郎長忠の処遇について駿河の富士郡にて一万貫文を
安堵されてるのは違和感はあるね
小笠原与八郎長忠の駿河の富士郡に国替の判物は存在するのに
その前の徳川に寝返った歴史史料や人質は誰がなったのか
徳川に寝返ったのに人質が処刑された史料も無し
↓とは明らかに違うんだよね
菅沼正貞 … 明確な裏切り行為は無かったが長篠城を武田の援軍到着前に
徳川に開城したから内通の疑いをかけ幽閉、獄死
奥平信昌 … 信玄没後に徳川に寝返ったため、人質を即刻処刑し
絶許で長篠城攻めへ
菅沼定直・今泉道善 … 長篠の敗戦後に勝頼の田峰城入城拒否したため、
後日、城内の老若男女を族滅、定直と道善は生け捕りにした後で鋸挽きの刑で報復
木曽義昌 … 即刻、人質処刑後に絶許で木曽征伐へ
0747人間七七四年
2019/04/03(水) 17:37:33.40ID:5H/fCh431572年に裏切ってるなら、家康は人質は間違いなく殺してるだろうなあ。
0748人間七七四年
2019/04/03(水) 18:46:47.59ID:eq5Kk4cqそれ抜きにしても周囲の状況前後の状況から見て、降伏は無かった書状で嘘言ってる可能性が一番高い
0749人間七七四年
2019/04/03(水) 18:59:42.65ID:bUBJBkv50751人間七七四年
2019/04/03(水) 19:17:08.16ID:OHGRXlId降伏はなかったとしても駿河から攻めてるのは事実だから高天神城を素通りできないとする>>738の主張は成立しなくなる
どっちにしても高天神城は信玄にとって無害だったわけだ
0753人間七七四年
2019/04/03(水) 19:49:04.41ID:LTDjYEbf駿河から侵攻した、という根拠あるいは史料って何かあるの?
0754人間七七四年
2019/04/03(水) 20:17:49.32ID:utrNhxyy小笠原が懇願した通り軍を進める
と読むか
小笠原が降伏してきたから軍を進める
と読むか...
0755人間七七四年
2019/04/03(水) 20:28:44.57ID:utrNhxyy0757人間七七四年
2019/04/03(水) 21:17:19.90ID:5H/fCh43駿河から、とは何処にも書いてないと思うんだけど? 何でこれで、駿河から? になるわけ?
仮に高天神城の小笠原長忠が降伏あるいは要請してきたとしても、それが「駿河から」と解釈するには余りにおかしくないか?
天竜川、とあるけど、別に天竜川は上流にもあるし。信濃から遠江に侵攻した時点で小笠原には応じた、とも解釈できないの?
0758人間七七四年
2019/04/03(水) 21:24:46.99ID:TlquFwos天竜川上流から渡って浜松向かうとかおかしいだろ
途中に二俣城もあるし
更にこの時期遠江南部の寺社に信玄の禁制が相次いで発給されている
ちなみにこれについては鴨川氏は別働隊に信玄朱印を預けたと無茶苦茶な主張をしている
0759人間七七四年
2019/04/03(水) 22:05:30.80ID:eq5Kk4cq通説のルートだと二俣の南辺りで天竜川渡って南下して三方ヶ原
一言坂の徳川みたいに下流で天竜川渡ったわけじゃない
まあ天竜川上流っていってもあなた達が具体的にどこからを上流と言ってるかわからんが
0760人間七七四年
2019/04/03(水) 22:12:35.63ID:utrNhxyy主張している内容としてはどちらも決定打に欠ける
ただ本多氏の文章の方が雑な印象なのは否めない
0761人間七七四年
2019/04/03(水) 22:29:07.55ID:utrNhxyy遠江北部にあった判物の存在について取りに来たんだよと適当とも取れる反論
朱印についても信玄本陣に無いなんてあり得ないと断定しちゃう本多氏
歴史研究家としてはいささか軽率な印象はあるかな
0762人間七七四年
2019/04/03(水) 22:34:05.55ID:mCMmB6tnリンク先の部分読んだだけなので勘違いかもしれないが
この本多氏って人自己否定してね?
北部の寺院から南部の陣地に使い送ってそれに対し発給した発給者が受給者の近くにいる必要無いなら
最初の日付が進むたびに受取人の所在地が東から西へ進んでるから武田軍が駿河から西に進んだも
武田軍が動いていなくても遠距離からの受取人は時間かかったで成り立っちゃうぞ
0763人間七七四年
2019/04/03(水) 22:41:42.66ID:utrNhxyy「武田信玄の「西上作戦」を研究する」で検索すれば全文読めるので興味あれば
この件に関してはどちらの言い分も疑問点は残る感じだけど鴨川氏の偽書についての解説は勉強になる
0764人間七七四年
2019/04/03(水) 22:45:23.69ID:TlquFwos1.信玄は駿河から来たのか
2.小笠原とは信嶺なのか氏助なのか
3.高天神城は降伏したのかどうか
4.三カ年の鬱憤とはいつからどうして鬱憤になったのか
鴨川氏は信玄は信濃から来て小笠原は信嶺と、駿河からの別働隊が信玄の朱印を持って遠江で禁制を発給したと主張しているわけで、少なくとも別働隊が遠江から西上したのは否定していない
本隊でもない別働隊が遠江を敵中突破し、かつ朱印を預けられているとか苦しすぎる言い訳で信玄はやはり駿河から来たとするのを否定するのは難しい
当城主小笠原の書き方も信嶺なら城主なんてつける意味ないし、信嶺の懇望で信玄が西上するとか意味不明なので氏助で妥当
降っていたかどうかは、まだ決定打に欠ける
ちなみに他の最前線の武田研究者の平山、丸島、柴、柴辻はみな本多氏寄りだろう
そんだけこの論点に限っては鴨川氏の苦しさが目立つ
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