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武田勝頼 Part16

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0001人間七七四年2019/03/22(金) 20:17:09.04ID:L5s5s1vq
新スレ 武田勝頼 Part16です。
勝頼関連について、どうぞ。

http://itest.5ch.net/matsuri/test/read.cgi/sengoku/1551006280

前スレ 武田勝頼 Part15
0011人間七七四年2019/03/23(土) 08:44:49.98ID:7S88LiJq
>>6
弾薬累が手に入りにくい
貧乏国だから乱発できない
0012人間七七四年2019/03/23(土) 09:11:47.06ID:TcVaYyT6
火薬に関してだが
主原料は硝石(KNO3)と硫黄(S)
武田領内の草津周辺は日本屈指の硫黄の産地だった。
硝石はインドの乾燥地帯から大量出土してるけど
軒下や穴倉やトイレ周辺の土を集めて灰と煮詰めて冷やせば製造できる
というか当時でも世界の大半ではそうやって作った。実は武田領内でも製造可能。
火薬自体は輸入に頼らずともよかった。
0013人間七七四年2019/03/23(土) 09:24:36.28ID:J4Bku9He
だが質は大して良く無いだろう
でなければわざわざ海外から硝石を輸入する訳無いし
不発頻発で使い物にならなきゃ意味無いし
0014人間七七四年2019/03/23(土) 09:50:32.89ID:AxvDVZBO
硝石とやらは、人尿、ヨモギの粉末、蚕の糞、これらを混ぜて、風通しの良い床下に数年放置し、その後、それらに灰汁を混ぜて煮詰めて、液体を濾してゆく、という製造法のようだが…
やはり化学知識が不十分の時代では、純度に問題がありましょうな?
0015人間七七四年2019/03/23(土) 10:27:22.64ID:UANrZfqm
>>10
馬場さんは撤退時に殿で死んだはずじゃ・・・・
と当時思っていました
0016人間七七四年2019/03/23(土) 10:28:46.63ID:UANrZfqm
>>14
その製造法を開発した奴凄いね
何らかの偶然だったんだろうけど
0017人間七七四年2019/03/23(土) 15:19:16.90ID:7S88LiJq
>>12
国産のは品質が悪かったから影響が出ない程度で輸入品のに混ぜて使ってた
0018人間七七四年2019/03/23(土) 16:31:54.75ID:oIS4mqKu
日本でも石炭や石油の油田があり生産に努力した時期があった
しかし、埋蔵量が少なく、品質も良くなかったから現在も輸入に頼らざるをえない
0019人間七七四年2019/03/23(土) 17:35:56.51ID:vqujsp/T
戦前の秋田油田は国内消費の1割程度は賄ってたはず
未だと0.03%くらいらしい
0020人間七七四年2019/03/23(土) 17:50:04.35ID:kxLFLkED
火山国だから、利益は出ないけど一通りそろうんだよな...日本。
0021人間七七四年2019/03/23(土) 18:01:13.63ID:vqujsp/T
信長からすれば美濃の隣接地に100万石レベルの武田がいるのはやっぱ都合悪いから
最終的には信忠と松姫の子供が武田継ぐ流れだったんだろうな
0022人間七七四年2019/03/23(土) 18:05:44.07ID:AxvDVZBO
信玄の場合だと、倒した敵の当主に武田一門を養子にするというパターンはあるが、信長の場合だとひたすら殲滅でないのか
0023人間七七四年2019/03/23(土) 18:22:44.41ID:GEaWcvy0
伊勢は結構一門を押し込んでるだろ
北畠も後にアレな事にはなったが、全滅したわけではないし
0024人間七七四年2019/03/23(土) 18:56:26.24ID:J4Bku9He
越前もノブに寝返った朝倉一門に任せてるし
一揆に惨殺されなければ養子送り込んで乗っ取っただろうな
あと岩村遠藤も秋山が来なけりゃ乗っ取れてた
0025人間七七四年2019/03/23(土) 20:00:01.12ID:rrSOsgDr
硝石作りには人糞より家畜のふんの方が向いているので、食用に家畜を作る事が少ない日本には不利だった。
0026人間七七四年2019/03/23(土) 20:14:18.55ID:Som3Cbp3
武田信玄って養子に送り込んだ、と言うけど、勝頼に継がせてるのは高遠だからなあ。諏訪惣領継がせずに、なぜ高遠なんか継がせたのか?
0027人間七七四年2019/03/23(土) 22:56:39.73ID:tBmtl0l5
本家を継がせようとしたのかも知れないけど、生き残り諏訪関係者の反発が強かったんだろう
勝頼が生まれた年に一族の誰か反乱起こしてたような
0028人間七七四年2019/03/23(土) 23:13:38.08ID:TcVaYyT6
本家の方は大名家としての地位は失い大祝家として頼忠が継いだとされてるな
その後、うまく立ち回り関ヶ原の戦いで功をあげ高島藩主として大名に復帰と記されてるな
0029人間七七四年2019/03/23(土) 23:30:09.09ID:TcVaYyT6
信玄はなぜ諏訪を城下町というか神前町として大きく育てようとしなかったんだろ
ポテンシャルとしては諏訪湖周辺は凄まじいものがあったのに。
江戸時代では下諏訪は交通の要衝として栄えたよね
0030人間七七四年2019/03/24(日) 00:01:02.65ID:k6Cz3nB9
経済という概念が無かったからだろうね
甲斐は内陸で水運に使える河川も無かったから
0031人間七七四年2019/03/24(日) 00:28:34.62ID:DTppBaiM
甲府盆地 標高300m
諏訪地域 標高760m

武田家臣「なぜもっと山に行かねばならぬのか?」

諏訪は治安の良くなった江戸時代でも
難所がある中山道の宿場町として賑わっただけで
自力で経済力で栄えては無かったですぜ
0032人間七七四年2019/03/24(日) 00:40:37.05ID:k6Cz3nB9
つうても諏訪から飯田までの天竜川の水運を整備できれば
三河、遠江との物流はかなり収益を生んだ筈
飯田街道や青崩峠は塩の道として古来から難所ながらも人、物の往来は盛んだった
0033人間七七四年2019/03/24(日) 00:44:10.79ID:M/DW+yAs
天竜川の水運は江戸時代でも碌に出来なかったから無理だろ。
0034人間七七四年2019/03/24(日) 00:46:11.65ID:VyainpRR
つっても戦で金を使うのに整備費用を誰が出すのか
今川が生きていたら塩止めみたく下流でストップできる権限もあるし
0035人間七七四年2019/03/24(日) 00:51:18.27ID:K9rE6wVy
成田氏の領地は利根川でも中流域の極狭い範囲だが金持ちだったと推定されてるんだよね。
もちろん水運益。
0036人間七七四年2019/03/24(日) 00:52:57.27ID:K9rE6wVy
あと関西淀川流域には本願寺の門前町がいたるところにできたけど
いずれも経済力が凄かった。
だから信長との戦争で10年間も苦しめる事ができたわけだけど
0037人間七七四年2019/03/24(日) 00:58:35.07ID:K9rE6wVy
甲府盆地の笛吹川とか釜無川の水運が盛んじゃなかったのは水深が浅すぎて筏くらいしか
浮かべられなかったのと、なにより日本住血吸虫で死ぬから船で物資を気軽に運ぼうとか
思えなかったんじゃね?
だから現在も甲府盆地の川では魚釣りする人が居ないし、水が綺麗なのに泳ぐ人も居ない
つーか河川敷に誰一人近づかない。
0038人間七七四年2019/03/24(日) 01:01:39.64ID:DTppBaiM
成田氏の領地 土地の高低差がほとんどない平らな地形で標高は20m
甲府盆地 標高300m
諏訪地域 標高760m
0039人間七七四年2019/03/24(日) 01:03:57.57ID:K9rE6wVy
でも諏訪盆地って信州みそ、酒造メーカーのメッカで
その後は生糸生産のメッカとなり
さらにオルゴールとか時計とか精密機械工業のメッカになったろ
普通に水が豊富で交通が便利で水運も使えるからだと思ってるんだが
0040人間七七四年2019/03/24(日) 01:09:06.46ID:k6Cz3nB9
水質の良さと日本では湿気の少ない気候だから
生糸と精密機械の製造には向いていたんだろうが
交通に関しては鉄道が通るまではド田舎じゃね?
0041人間七七四年2019/03/24(日) 01:10:23.69ID:DTppBaiM
上町台地の標高は最も高い大阪城天守閣跡で38mであり、
北部は淀川水系の大川に落ち込み、南部へはなだらかに下り北の大阪城大手町付近で24m、
中央部の天王寺交差点付近で16m、帝塚山付近で14mの標高を保つが、南部の万代池南方から急速に標高を失い住吉大社付近で6m
0042人間七七四年2019/03/24(日) 01:14:46.70ID:K9rE6wVy
琵琶湖は鯖街道などを使いそこそこ栄えてたけど
京極とか六角とか浅井、朝倉などが湖畔に居た時はさほどはポテンシャルが生かされず
織田家が占有して一気に経済力が高騰したんだよな
元から大津、草津などは栄えてたけど湖畔全体を底上げしたでしょ
0043人間七七四年2019/03/24(日) 01:29:37.91ID:DTppBaiM
成田氏の領地 標高20m
上町台地(大阪) 標高2〜38m
琵琶湖 湖面標高84m
甲府盆地 標高300m
諏訪地域 標高760m
0044人間七七四年2019/03/24(日) 01:38:46.93ID:M/DW+yAs
>>42
六角は全盛期の三好とやりあうぐらいの勢力だったんだが。
あと近江京極氏の全盛期は応仁の乱ぐらいまで。
0045人間七七四年2019/03/24(日) 01:43:45.27ID:DTppBaiM
小学生でも分かることだが水は(標高が)高いほど流れが
急になって遡れない
川を遡る時はなるべく小舟にして曳き子と呼ばれる者を
舟の両側に付けて数日かけて人力で引き上げていかなければならない
海運水運の利点は陸上から攻撃されずに荷を運べること
毛利水軍が本願寺に兵糧を運んだようにね
戦国時代の治安の悪い時に荷運ルートが川沿いと限られて
曳き子を斬られたら荷を奪われる水運を誰がやろうか
0046人間七七四年2019/03/24(日) 01:51:17.02ID:DTppBaiM
そして曳き子が川沿いを歩くために田畑を曳き子が
踏み荒らすということで江戸時代でも藩を跨いで了承を
えなければならなかった
後、曳き子が歩けるように川沿いの道を整備
川底を深くする土木工事もね
曳き子は重労働だったために早死にしてたという話もある
0047人間七七四年2019/03/24(日) 02:16:06.08ID:VyainpRR
そもそもの話、今川から塩止めみたいに下流でストップされたら終わり
今川が重税の津料を課したら誰も利用しなくなって終わり
戦に金がかかる戦国時代に武田がそんなもんに大金掛けて整備するってのが有り得ない
今川が邪魔になるから攻めて奪ったら塩も手に入るし海運もできるようになるからやっぱ河川水運要らないわってなるw
0048人間七七四年2019/03/24(日) 05:17:22.19ID:Uy8ExLXk
駿河整備する間もなく始まった西上
駿河整備する間もなく大敗した長篠

糸冬
0049人間七七四年2019/03/24(日) 07:58:46.15ID:gxPMBUA3
諏訪本拠地論を連呼してる奴は夢物語しか頭にないんだろう
単に自分が「こうだったらいいのになぁ」と言う願望をしつこく言ってるだけで
それが出来てたら、江戸時代でやってるっての
0050人間七七四年2019/03/24(日) 08:24:28.74ID:K9rE6wVy
仮に道州制発布で長野県と山梨県が合併されたら州議会や州政府は甲府に置かれるのだろうか?
なんとなくそうは思いにくい。商業の中心地も甲府になるだろうか、相当微妙だと思う
0051人間七七四年2019/03/24(日) 09:01:20.87ID:VyainpRR
資金も人手もたくさん使えた信長でさえ甲州征伐では兵糧を途切れないようにしろ
兵糧不足にならないために征伐兵は精鋭に絞れと陣触れして山への物資輸送は困難と判断している
それを山への輸送もしたことがない現代っ子が ぼくがかんがえたさいきょうのすいうん と言ってるだけだしな
0052人間七七四年2019/03/24(日) 09:21:12.79ID:oXl/GzC1
つまり、武田はどう足掻いても経済的に困窮し滅ぶ運命だった。よって勝頼は無能では無いと結論が出る訳だ
0053人間七七四年2019/03/24(日) 10:14:29.62ID:1f5lcefj
道州制なら関東甲信越で一つだから長野や山梨はただの支所になるだけだぞ
0054人間七七四年2019/03/24(日) 10:31:57.30ID:CreOYu8l
>>52
長篠の決断は経済は無関係。
あれは明らかに勝頼に責任がある。
開戦前に出した手紙からして思い上がりも激しいし。
0055人間七七四年2019/03/24(日) 10:56:51.77ID:1f5lcefj
>>54
あそこまで自信満々な手紙書いてる以上は
軍議で四天王が猛反対したとかそういうイメージがわかないんだよねぇ
四天王は「敵の罠だと言い張ってて」勝頼は「敵は手立てを失ってる」って判断したわけでしょ?
さすがにあの時期なら四天王や親類衆が反対すれば勝頼に突撃命じる権限はない
0056人間七七四年2019/03/24(日) 11:05:25.30ID:1f5lcefj
オートバイがガードパイプに衝突 山口県の大学生死亡 鹿児島
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190321-00000003-kts-l46

バイクは燃料タンクくらいしか傷ついてないように見える
0057人間七七四年2019/03/24(日) 11:22:26.23ID:VyainpRR
勝頼はむしろ長篠後の北条への対応や高天神城のが酷い
0058人間七七四年2019/03/24(日) 12:20:53.94ID:ZZV0o/mq
勝頼の手紙は本音とは限らないだろ。願文みたいなもん。
本国を留守にしてる状態で、負けるかも逃げるかもなんて手紙書けるか?
0059人間七七四年2019/03/24(日) 12:38:20.12ID:at4lJaI1
あれでも思慮をめぐらして書いてるなら、やっぱ脳筋だわ
0060人間七七四年2019/03/24(日) 12:50:05.12ID:41OIvOzW
>>58
こういう反論ってブーメランだよな
勝頼はむしろ反対だったが軍議の雰囲気がイケイケで
「今更俺が止めようなんて言えない」って事実があったとも考えられるんだよなぁ
でも手紙にはそんなこと書けない
0061人間七七四年2019/03/24(日) 13:20:34.80ID:ekn7UAHh
長篠の後に勝頼降ろしが起きなかったという事は、武田の重臣の中に決戦派が多かったとも考えられるでしょ。
0062人間七七四年2019/03/24(日) 13:25:31.76ID:QwIWFTUX
穿った見方かもしれんけど、勝頼が当主としての正統性が弱いとか
家臣との軋轢があったとかって勝頼や武田家に対するフォローな気がする

特に問題ないけど長篠の戦いでは大敗しました、というよりは勝頼が家中を
まとめるためにあせっていたとか、古くからの家臣団はわかっていたと書けば
まだ頑張り次第で何とかなった感がだせる
0063人間七七四年2019/03/24(日) 13:35:42.44ID:rThLYE3I
軍鑑は信玄を神聖視し、かつ一部の重臣を除き、武田家臣団にはさほどの 落ち度はなかった、という基本線のもと、徳川将軍家を刺激しない内容にする、という制約がござってな
0064人間七七四年2019/03/24(日) 13:54:04.68ID:VyainpRR
>>58
敵は手立てを失ってるからこちらから乗り込んでやるという書状通りの行動をしたからな
むしろ勝頼の意思だろうな
0065人間七七四年2019/03/24(日) 14:10:38.72ID:CreOYu8l
仮に馬防柵なし、まともな野戦でも、とても兵力的に武田が勝てるとは思えない。よくて痛み分けとしか。

勝頼らは何を思って勝てると考えたんだろうか?
0066人間七七四年2019/03/24(日) 14:22:17.85ID:VyainpRR
信長公記と勝頼の書状の通りでしょ
信長公記=長篠城にはすぐに行かずに設楽原の窪地に兵を潜ませて少数に見せた
勝頼の書状=敵は手立てを失い行き詰まって縮こまってる有り様だからこちらから乗り込んでやる

策にかけた者と策にかかった者でお互い合致している
0067人間七七四年2019/03/24(日) 16:41:47.88ID:LqbVV2lf
中入した挙句に敵の後詰到着とかほぼ負け
これから逆転しようと思ったら並大抵の戦術じゃ無理

資料は見つかってないがなんらかの勝てる奇策が勝頼にはあったんじゃないだろうな
0068人間七七四年2019/03/24(日) 16:46:25.08ID:oPeD6QuI
設楽が原に武田軍をおびき寄せるのが信長の作戦だけど
あのまま進出しなければどうしたんだろうな
最終的に長篠城が落城寸前になれば動くしかないよね?
0069人間七七四年2019/03/24(日) 17:21:15.03ID:k6Cz3nB9
>>68
ノブはリアリスト
武田が策に乗って来なければ長篠を見捨てるだけ
家康は泣いて縋りつくかもしれんが
0070人間七七四年2019/03/24(日) 18:01:53.81ID:DTppBaiM
長篠城包囲軍が酒井の別動隊に急襲かけられても
陣城に突撃し続けたのは川中島で啄木鳥戦法破られたのを
織田にやろうとしたんじゃないかって話は過去スレにあったね
0071人間七七四年2019/03/24(日) 18:50:23.26ID:k6Cz3nB9
武田の諜報は貧弱だからな
織田の正確な兵数も把握できていなかった
謙信は武田の兵力と動きを正確に把握できていたからあんな離れ業ができた
要するに信玄期から武田の防諜はユルユルで情報駄々洩れだった
0072人間七七四年2019/03/24(日) 19:01:59.95ID:QwIWFTUX
>>65
wikiで見ただけなんで細かい日程は確かではないけど、前年の高天神城攻めと
長篠城攻めの時期は5月上旬と同じくらいの時期。んで織田領から東海道ルートで
移動した場合の距離は大体同じくらい

高天神の時は6/17に吉田城にようやく着いたのに対し、長篠では5/18に設楽が原に
着いてる。だから武田から見ると、長篠の時は相当早く援軍に来たことになるので、
兵数はしれてる(しかも防御柵を立ててる)と考えた可能性がある
んでほっとけば後から援軍が追加されるだろうから、先手を取って攻めたんじゃ
ないかと思う
0073人間七七四年2019/03/24(日) 19:09:21.39ID:k6Cz3nB9
178 人間七七四年 sage ▼ 2019/03/03(日) 06:48:36.70 ID:QcGIKWxp [1回目]
292 人間七七四年 sage ▼ 2019/01/15(火) 20:39:44.88 ID:tEMVUZbH [2回目]
>>261
勝頼 『くっ、織田の援軍が来てしまったか・・・ん?思ったより兵が少ないな・・・』
馬場 『信長殿は自ら先陣を切る事を好むとの事。黒衣衆のみ引き連れて来たのでは』
内藤 『なれば主力は何らかの手違いで遅れておるのやも知れませぬな』
山県 『勝頼殿!これは信長殿を討ち取る好機ですぞ!!』

勝頼 『うむ!御旗盾無し御照覧あれ!!』
0074人間七七四年2019/03/24(日) 19:12:13.81ID:QwIWFTUX
最も信長は高天神の時は京都にいたのに対し、長篠では多分美濃にいたので
援軍の出発時期に差が出ていた

まあこれは武田側が詳しく知り得る情報ではないけど、何度も徳川領を攻めるなら
織田側も事前に準備をするだろうし、長島一揆がその間に滅んでいるので抑えに
回していた兵力も出せるし、警戒すべき勢力もないので素早く進軍できると
考えると、武田側の見込みが甘かったんじゃないかと思う
0075人間七七四年2019/03/24(日) 19:21:32.88ID:VyainpRR
高天神城に援軍間に合わなかったことから佐久間に命じて三河に大量の兵糧を運びこんでるからな
兵糧の準備から必要ないし、援軍に間に合わなかった対策を講じて早く出陣できたってことだな
野戦築城もあまりにも早く出来てるから木材も事前に用意してたんだろう
0076人間七七四年2019/03/24(日) 19:34:19.12ID:rThLYE3I
なんで俺たちまでもが丸太を担いでいかなきゃいけないんだ?ってブーブー言ってる織田兵が目に浮かぶようだ
0077人間七七四年2019/03/24(日) 20:10:14.45ID:K9rE6wVy
>>76
鬼畜島を見習おう
0078人間七七四年2019/03/24(日) 20:10:47.68ID:K9rE6wVy
彼岸島だったw
0079人間七七四年2019/03/24(日) 20:15:31.91ID:k6Cz3nB9
>>76
で、ノブが丸太一本につきいくらいくら褒美を出すぞとか兵に言ってるんだぜ
0080人間七七四年2019/03/24(日) 23:18:10.21ID:zHVJKG3k
>>62
一枚岩で無かったのはあり得ると思うけどね
家督相続の段階で血判起請文を提出させたり

あと重臣つっても一括りには出来ず、山県や内藤らの譜代家老は勝頼に意見できたのか微妙だし、逆に穴山辺りは一門衆として破格の扱いだったことから発言力は強かったのではないかな
0081人間七七四年2019/03/25(月) 01:16:56.35ID:tE6VZUqr
勝頼が死なずに大名として江戸時代も生き抜いてたら
長篠敗北の理由は勝頼のせいになってないと思う
その後に死んだ奴らに罪押し付けて
だから勝頼の突撃強要説とかああいうの真に受けない方が良いと思う
0082人間七七四年2019/03/25(月) 07:28:20.74ID:F+R3GqN9
滅亡直前の武田家臣の書状とかでも
北条との手切れを批判する内容はたまに目に付くが
長篠の件について言及してるものは見当たらないからな
つまり武田家内では長篠での勝頼の判断は真っ当と思われていたって事
0083人間七七四年2019/03/25(月) 09:05:46.60ID:6sKCNRYZ
甲州流軍学の創始者って
1572年生まれなんだな
こいつは甲陽軍鑑の原作者ではないとされるが実際はどうなんだろうな
高坂が本当に執筆したのか
0084人間七七四年2019/03/25(月) 09:20:41.94ID:5xiP2nTa
>>83
高坂は途中の1578年に死んで、その甥が引き継いだ。1582年に高坂の息子は殺されてるので、その間にどうなったのかは不明。
0085人間七七四年2019/03/25(月) 09:30:47.91ID:+/r3HaKz
勝頼と太平洋戦争の日本軍ってすごく似てるんだよな
最初は破竹の勢いで進撃してたけど一度大打撃食らったら
二度と攻勢に出れずに終了
ワンセットしかない主力すり潰したら終わり
0086人間七七四年2019/03/25(月) 09:50:21.59ID:5xiP2nTa
そもそも勝頼は1580年に織田信長に和睦を求めているけど、あの時点だと対等な和睦なんて絶対無理だろ。どんな条件を勝頼は考えていたんだろ。

かつて信玄が今川、諏訪、上杉と外交でコケにしてきたけど、このときはまさに武田が織田にコケにされてるんだよな。
0087人間七七四年2019/03/25(月) 09:52:55.94ID:+/r3HaKz
和睦するなら最後のチャンスは1577年だろうな
上杉謙信死んだらもう和睦のチャンスはない
かと言ってこの時点で和睦したら謙信が川中島に出てくる
勝頼は織田の援軍来ないと確実に負けるw
0088人間七七四年2019/03/25(月) 10:17:46.52ID:9C+bCYKE
>>55
勝頼が半ば独断かつ強引に「御旗盾無し」の誓いをやったからだと思う
これをやられるともう家臣たちは反論なんてできない
信玄以来そういう習わしだから
御旗盾無しの誓いをやるとどんな理由があろうと主従が最後までその誓い通り行動しなきゃならない
勝頼はそれを勝手に家臣たちに通告もなく一人で「織田軍に突撃をかけると御旗盾無しの前で誓って来た」と言ったに違いない
だから家臣たちは勝頼がそこまで言うなら仕方ないと、最期まで付き合ってやっただけ
そしたら案の定くっそみそのボロ負けになっただけ
0089人間七七四年2019/03/25(月) 10:33:34.04ID:5xiP2nTa
勝頼が1580年に和睦を求めるなら、まあ勝頼の息子を人質に差し出す、松姫の輿入れ、まあこのあたりは当然で、そのほかに信濃と上野の割譲、武田に織田の奉行を監督として派遣、信長の指示には絶対服従。まあこのあたりか?
0090人間七七四年2019/03/25(月) 10:35:27.34ID:9C+bCYKE
戦国大名として有名な武田信玄。この武田家では、当主が「御旗・楯無も御照覧あれ」と言うと、
それまで反対意見などがあっても、この家宝の前で誓ったことは、全員が死を持っても守らなければならず、
それ以上の議論は止めなければならなかったのです。
「御旗・楯無」は共に武田家の家宝であり、絶対に従わなくてはならない最も神聖なものでありました。
御旗(みはた)というのは新羅三郎義光の父頼義が後冷泉天皇(1045-1068年、第70代)から下賜された「日の丸御旗」であり、
源氏の直系を示す旗であり、「楯無(たてなし)」というのは義光が使っていた鎧(楯が無くても槍や刀を通さない丈夫な鎧)」のことであり、
「この鎧に勝る楯無し」がその語源です。
実は、長篠の戦いの前夜、武田軍側は「引くべきか、攻めるべきか」で議論が紛糾した。
長老達は「引くべき」と主張し、若手は「攻めるべき」と主張し意見が分かれまとまらなかったのです。
このため、勝頼が「御旗・楯無も御照覧あれ、明日は戦いで勝負をつけよう!」というと、その瞬間、
その場にいたすべての人は議論を止め、戦が始まったと伝えらています。
その結果は、皆さんがよくご存知のように、武田軍は信長の三段構えの鉄砲隊の繰り出す砲弾の前に無謀な突撃を繰り返したのです。
途中から体制を立て直し、作戦を変えることも出来たでしょうに、勝てぬ戦と知りながらも引くことは許されなかったのでしょう。
この結果天下無敵と言われた武田の騎馬隊もほぼ全滅してしまったのです。
この時武田軍が勝っていればそれから先の歴史は大きく変わっていたのは確かだと思います。
0091人間七七四年2019/03/25(月) 10:39:48.41ID:9C+bCYKE
武田家は家臣たちの力や発言力が強く、信玄も気を使って合議制で物事を進めてきたが
「御旗、盾無し御照覧あれ」
と棟梁が宣言した場合、家臣はそれに反論することは許されないというのが武田家のしきたりだったから
この言葉は、会議で決定したことを宣言する場合に使われていたと同時に
反対する家臣に対抗できる、棟梁としての言ってみれば唯一最後の特権的手段だと言えると思う
0092人間七七四年2019/03/25(月) 12:20:27.44ID:XEoj33RZ
>その結果は、皆さんがよくご存知のように、武田軍は信長の三段構えの鉄砲隊の繰り出す砲弾の前に無謀な突撃を繰り返したのです。

この時点でもうねw
0093人間七七四年2019/03/25(月) 12:33:17.84ID:5xiP2nTa
柵があるのに突撃するのは、確かに無謀だよな。仮に兵力が同数でもおかしいとしか。
0094人間七七四年2019/03/25(月) 12:39:14.35ID:9C+bCYKE
でも設楽原で直線に御旗盾無しの誓いをわざわざやってるってことは
間違いなく、突撃に対する強い反対意見もあったってことは想像できるし
その反対意見を逆に突撃賛成意見も強くて、勝頼自身も突撃したかったから
反対意見を抑え込むために、伝家の宝刀「御旗盾無し」の宣誓をしたんだと思う
0095人間七七四年2019/03/25(月) 12:42:21.79ID:6sKCNRYZ
>>94
小説読んでて楽しいのはわかるけどさ
ここは歴史議論スレなのよ
板違いだから出ていってくれない?
0096人間七七四年2019/03/25(月) 13:00:45.91ID:/HqKtv0U
>>5
小山田信茂の変心を潔しとせず、最期まで行動を供にした傍系の小山田も何人かいたそうだね
0097人間七七四年2019/03/25(月) 13:30:45.24ID:WlQmgUiy
>>82
北条との手切れ批判するのなんてないだろ
家臣が上を批判する文書なんてない、長篠も同様
0098人間七七四年2019/03/25(月) 13:33:50.29ID:9C+bCYKE
>>95
御旗盾無しの誓いをやったのは確かでしょ
0099人間七七四年2019/03/25(月) 13:43:39.63ID:OQwUwsO4
>>89
条件も何も、話を聞く以前に門前払いだったから無理だろう
使者をずっと安土に留め置かれたそうだし
上杉にも同様の対応をしている

信長の書状でも「詫び言」という言葉を使っているから、その時点では和睦という形は不可能だと思う
0100人間七七四年2019/03/25(月) 13:45:10.56ID:OQwUwsO4
>>98
やってない
というか一次史料にないから確証がない
0101人間七七四年2019/03/25(月) 13:47:13.84ID:WlQmgUiy
御旗楯無は一次史料にも見られる武田の願掛けだよ
長篠の時も当然やったとみるのは自然
0102人間七七四年2019/03/25(月) 14:18:41.96ID:XEoj33RZ
>>96
高遠で戦死した小山田大学とか
0103人間七七四年2019/03/25(月) 14:19:49.84ID:ZTsncnZT
>>97
甲乱記の話かな?
確かあれには北条との手切れを批判してたよ。
0104人間七七四年2019/03/25(月) 14:20:50.68ID:nK+f/kl/
>>102
そっちは石田小山田家という、郡内とは全くの別系統
0105人間七七四年2019/03/25(月) 19:04:45.34ID:fl+fJSc2
長篠の大敗後でも大多数は勝頼に忠誠を誓って裏切らなかったからな
長篠の大敗後から甲州征伐までに大半の家臣の忠誠が落ちていった
勝頼の政策が悪かったんだろうね
0106人間七七四年2019/03/25(月) 19:08:52.41ID:6sKCNRYZ
政策も外交も悪いんだから強固なイデオロギーで結ばれてなければ上級武士の人心も離れるわ
0107人間七七四年2019/03/25(月) 19:49:44.82ID:lrB358JQ
長篠は大打撃だったが勝頼政権になってまだ2年だし、この敗戦で学んでくれるだろうから見守ろうと思ってたところもあったんだろうな
0108人間七七四年2019/03/25(月) 20:19:54.26ID:4ocXCcSP
武田は信玄末期には今川から奪った金山も枯渇しつつあったし
財政的にかなりひっ迫してた
そういう意味では信玄が最後の遠征で尾張まで進出して
水運等の利権を奪取するという考えは正しかったと思う

ただそれも失敗したのに武田軍は大規模遠征を止めず
長篠の大敗北後は鉄砲装備率の向上等で税金が増え続ける
しかも北条と敵対し徳川からは常に侵攻され一年中戦争してる状態で財政は火の車
最後は甲州征伐で民が離反し滅亡
0109人間七七四年2019/03/25(月) 20:40:07.53ID:9sLzplIb
尾張目指してたのあれ?

それなら既定路線の通り越後に侵攻する方がはるかにマシだと思うけど
0110人間七七四年2019/03/25(月) 21:16:27.06ID:9C+bCYKE
>>109
そこは分からいが、まあ強欲信玄のことだからねぇ
駿河欲しがったのも水運や金山目当てもあっただろうし
あの時、体の不調を押してまで織田に喧嘩を仕掛けたわけだから
三方ヶ原で徳川を叩いた後だっただけに、あのまま体調に変化が無ければ
尾張ぐらいまでは手中に入れたかったんではないかと思うけど
兵站がね・・・
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