第四次川中島の被害と義信事件で武田はガタガタだっただろうね
川中島で信繁と有力家臣を失い。損害が3000、これは最大動員30000程度だと再起不能の軍が崩壊するレベルの損害
そして義信事件はこういう危機的状況で今川を敵にするという方針と姻戚関係がある今川と手を切ることの反発で起きた

事件の首謀者のオブは板垣甘利が上田原で同時に死んだ後、唯一残った信玄のクーデターの首謀者の一人で重鎮で
武田の最強軍団の赤備えを従えて、かなりの影響力があった
甘利の息子曽根長坂と次世代の武将も事件に加担。穴山の4兄弟のうち3人も加わっている。信君も加わっていた可能性が高い。

もうこの時点で武田は詰んでいた
そして甲斐は地場の寄生虫で死人が出まくり、体が浸かるだけで死ぬ池の沼が存在していた