関ヶ原合戦の真実 Part9
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0001人間七七四年
2018/12/23(日) 14:17:08.63ID:uA0riSLH豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
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関ヶ原合戦の真実 Part8
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0065人間七七四年
2018/12/23(日) 15:39:33.89ID:uA0riSLH(この文書は、慶長六年のものにかかる)
中場言樣へ申上候条數之案
今度和睦相調、我等満足此事に候、此中之儀、世上之批判之所承及候之通、雖申上度候、
此御調無殘致首尾候而と存、延引仕候、就其事多御座候へ共、初中後之樣子、以一書申上候、
一 去七月、安國寺佐和山被罷越候て、石治大形被遂相談、如何御座候つるか、忍候而大坂被罷下候、
吾等儀、早々可罷上之由候而、七月十三日、飛脚到來候、於幡州参會候、大坂罷越、長老對談候之處、彼被申樣者、
内府樣會津御出馬被相定候、今度景勝上洛延引之儀者、太閤樣依 御諚、國之仕置被申付候
三年役儀御免被成候、故如此候、其身非如在候間、先拵に可被仰出哉之段、爲各度々雖言上候、
無御承引、今度御出馬被相極候、彼表之儀可相果迄に候、か樣に候へは、諸大名進退更無安堵之事に候、
0066人間七七四年
2018/12/23(日) 15:40:20.40ID:uA0riSLH石治大刑申合、揄E其外も同意に候、於于今者、 中納言樣一刻片時も早々御上洛尤之通申下之由被申候、
然者、我等申樣者、日本二つ之御弓矢、大篇之儀候間、我等式存道無御座候、安國寺御分別此時に候、
先吾等令申所者、先年 太閤樣御逝去之前かと、諸大名被召集、靈社起請文以血判、向後各深重に申合、
公儀可有馳走之旨、可申上之由候而、重疊於 御前被相究候、其後 内府樣よ奉行方御半之刻、 中納樣別而被仰談、
已來御兄弟御契約、并藤七樣被成御契約に付而、又以御~文被仰合、已來内府樣被對 中納言樣無御等閑御座候故、
天下之聞え異于他儀共候、然者、憐國之諍、又は自他國引請候儀者、其身無如在候ても不及是非候、
何之道にもあらす候て、内府樣へ御別心非可有之儀候、其上今度謀叛候衆中被成御同心、御弓矢被思食立候事如何に候、
縱天下屬御勝手候而も、後代之聞え無曲候、左候へは、奉行方一味中よ被仰候衆中は備中、筑中、九州衆奉行衆に候、
兩中納言殿御若輩に候、其上家來區々に候、九州之儀者、遠國と申、如水、加主計別儀御座有間敷候、
惣國之衆中手前之覺悟可有馳走衆も、人數至來可爲不自由候、又奉行衆之儀弓矢方之儀は不承及候、
0067人間七七四年
2018/12/23(日) 15:41:17.85ID:uA0riSLH前々に相替候、惣樣天下之さけすみも、此御弓矢御まけに可成哉と心得候、
又先年 太閤樣内府樣、於尾州小牧山御陣被及一戰、毛利武藏、池勝入被討死候、關白殿も先手を被崩、被失御覺候、
其一戰内府樣雖被得御勝利候、太閤樣以御思慮御拵に罷成、御緣邊以下相調、大躰者大形御勝手に罷成候、
其時太閤樣は、五幾内、中國、北國之諸大名被屬御手に御發足候、 内府樣は、其刻三ヶ國御領知候、
於于今者、八州御隨逐候、諸大名も在覺人者、悉東國方に有之事に候、然時は、御弓矢懸合不申候かと存候、
日ョ樣被仰置候も、當分五ヶ國十ヶ國御手に入候段は、時之御仕合にて候、已來之儀者、於御子孫も、
天下御竸望曾以被思召寄間敷通、連々被仰聞たる之由、元春内々申候き、万一天下御手に入候共、
權柄者可爲奉行衆候、左候はん時者、 内府樣へ被屬候よりも、御外聞實共可爲御心遣候、御まけに成候上にては、
惣之大名衆は、任時之躰に不可有實儀候、相極所者、揄E、石治、大刑、 中納言樣可爲御迷惑候哉、旁以安國御思慮此時に候段、
再三申候、然處、大坂西丸御留主居衆申理候間、此方人數可入置之通達而被申候、 中納言樣御意承届候はて、
0068人間七七四年
2018/12/23(日) 15:42:18.70ID:uA0riSLH此儀に付而之事之由被申候而、一圓に無同心候、宰相殿、完戸殿其外もか樣之儀少も無御存知之由に候、此時は長老いかに被申候ても、
御意承届候はては、聊爾之働不相成事に候段申候、其時長老其申分に候時は、無曲次第に候とて、腹可仕之由候て、
以外違亂被仕候き、縱左候共、御爲には替不申候間、長老被相果候而も、中國之御爲に候間、不及是非之通申候半、
はや可有御上之樣に御至來も少々御座候、其時各申段、椙杜下總守至廣嶋被罷下候へと申候、此節は先以廣嶋被成御(木偏に只)、
御分國え被仰付尤に候、此方之儀者、木津各被籠候而、世上之儀承届可申下之通、相含差下申候之處、於中途被參會、
然々不申達候て、被罷上候之事、
0069人間七七四年
2018/12/23(日) 15:42:55.35ID:uA0riSLH可然候之間、木津御留主居之者として言上仕之通、關東へ可申遣候哉、其旨趣は、中納言樣此企會無御存知候、其段自廣嶋雖可申開候、
遠路に候之間延引仕候、先輝元不被存之段、木津留守居之者共言上候由、申捨度候、後々御用に立御事もやと被申候、
是は無余儀被申樣と申候て、完戸、益玄、熊豐より榊式、本佐、長右近迄之書狀被認候、吾等も書狀相調、
完戸殿飛脚同然に可遣と催候之處、中納言樣御上着候間、此時は此文言僞に候間、飛脚指留申候、私儀者、
如水已來K甲州累年懇切に候間、一旦不申遣之段も無曲存、此儀 殿樣無御存、安國以計如此成下候通申遣候、
其返書に大御所樣御書相添到來候、則nョへ見せ申候事、
一 安國寺佐和山より被罷戻戾、於大坂被申趣は、 輝元此儀に付而被呼返候間、從江州罷歸候通、大名衆御馬廻へも數通書狀被遣候、
聞召も被可及候、又何方にも多々可有之間、已來紙面可有御覽候事、
0070人間七七四年
2018/12/23(日) 15:43:38.68ID:uA0riSLH堅被申付候て社尤候、勢州さしむかひたる儀にもあらす候間、出勢無詮候、雖然、長太、安國寺被罷向、
あのの津近邊掠本よ申所、兩人被陣取候、如何候哉、夜中我等陣所關之地藏へ被引取候、其より猶以敵味方覺相替候、
其後又津之城可指寄之由被相催候、左樣へは、大御所樣被成御打上候は、大分之一戰可有之前かとに、
不數城乘崩候ても無詮候、万一手負死人罷成候はは、一方御をくれに罷成儀に候處、首尾不合行被仕、城被乘崩候へ共、
手負死人候て人數半分に罷成、味方之覺莫大に罷替候事、
一 如此御弓矢出來候而、御名利共に、無曲可成行事如何に候、於此上も以御拵御家被續尤に候哉と、
nョ申合、堅兵少勢州呼越申、此段之物語申、差返候、其後 御諚之段、一日一日と奉待候つる事、
一 石治、大刑兼々相談被相澄樣子、大垣關か原人數、南宮山へ相まるみ一戰可仕に被相極候處、
九月十三日、 内府樣赤坂御着候刻、治少、大刑少大垣南宮を捨候て、山中へ引取候時は、前日之儀定相違候而、
佐和山へ可被打入催露顯候、然者、拵之儀連々申上も、此時に候間、K甲州へ可申試之通、
nョ申段、一人遣之、以口上申候處、則井兵、本中、mカ太、K甲州靈社血判之以起請文被申易候、
此方よりもnョ我等~文進之候て、九月十四日、御和平相澄候事
0071人間七七四年
2018/12/23(日) 15:44:25.41ID:uA0riSLHたとへは當日可爲勝利見懸仕候共、前日に血判起請文を以申替候辻、違返非可仕之儀候、其上南宮山と關か原之間二里之中間にて候、
又南宮へ之手宛、羽三左、一柳右近已下二万計指むけ被置候、其當日霧ふかく候て、五間十間相隔候所會見え不申候、
又は高山にて候故、山下行之趣、一圓見え不申躰に候、兼々も南宮衆一力之一戰可被申付との議定無之候、
何之条も其時筈難被仕合見え申候、只今世上之人口と、其刻之有躰には可爲相違よ存候、先年備中高松之城
太閤樣御責之刻、信長御生害之故、當方御和平被仰談、御陣可被打入之折節、從紀州雜賀、信長不慮之段、
遂に申越候、下々申樣は、此時手を返矛楯に及候者、天下則時に可被任御存分に所を、隆景元春御分別違候と各被申へ共、
前日~文被取替候辻、無忘却被相届之段、太閤樣御感候而、其故御當家于今如此御安堵候段、隆景折々御物語候て、
御自慢之一に候、定而各も可被及聞召候間、不及申候、併去年之御和平、此時に相應候哉之事、
一 九月十五日、南宮山にて合戰、只今各如被申候、其程被見懸候者、幸大將之長大藏、長老兩人被罷出候間、
nョ我等には不被搆、則時に一戰可被仕儀に候處、臨其期は、長束、安國寺不被相進候、只今世上之讃談は相違申躰に候、
又可成よ被見懸候所は、我等式へ一言之尋無御座候而も被申付候、其故は、津之城にて八月廿四日進陣、廿五日に仕寄候て、
廿六日に可乘崩よ申合候筈悉違候て、長束責口より町口へ被仕懸、其まま城乘に罷成候、爰を以可被成御推量候哉、
事過候て何かと致沙汰方も御座候哉、か樣之事は連々相聞え可申候間、已來可被 聞召合之候、已上
吉川藏人
廣家
0072人間七七四年
2018/12/23(日) 15:44:55.11ID:uA0riSLH「防戦よふなく柴田(島左近か)即時に敗軍すれば、石田軍皆陳破れて敗北す、然れば午の刻の事なるか」
大重平六覚書
「石田殿、一時もこたえず候て、中書様(島津豊久)陣場へ崩れかかり候」
舜旧記
「美濃堺、於柏原、内府先勢、福田(福島か)、長岡越中、加藤左馬助、合戦之由、
□大□(谷か)之勢、敗北大谷刑部少輔打死、余(金か)吾殿依叛逆也、巳刻也」
当代記
「関ヶ原には石田治部浮田中納言大谷刑部島津兵庫小西摂津守将陣の処に、
金吾中納言内府公属味方之間、敵敗北、数百討取」
十六・七世紀イエズス会日本報告集
「(戦闘が)始まったと思う間もなく、これまで奉行たち(西軍)の味方と考えられていた
何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった」
「こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利をおさめた」
0073人間七七四年
2018/12/23(日) 15:46:30.25ID:uA0riSLH0074人間七七四年
2018/12/23(日) 15:50:25.65ID:+zd6oLLV0075人間七七四年
2018/12/23(日) 15:52:37.80ID:Zazyr1a00076人間七七四年
2018/12/23(日) 15:55:14.18ID:IN/3D5/80077人間七七四年
2018/12/23(日) 16:28:38.21ID:el2tBTnt0078人間七七四年
2018/12/23(日) 19:10:41.04ID:IN/3D5/8ずいぶんと勝手なこと言っていないか。そんな権限があるのかと思った。それで家康のこと非難できるのかと
0079人間七七四年
2018/12/23(日) 22:23:54.22ID:uA0riSLH作る場合には規制対策のため、途中短文を入れたり
書状を短めに分割してたりしてますので
ご配慮お願いします
0080人間七七四年
2018/12/23(日) 23:20:48.52ID:c9q2yG/90082人間七七四年
2018/12/24(月) 08:31:34.68ID:2Bk2osnf0083人間七七四年
2018/12/24(月) 10:43:56.61ID:RHNyixu90084人間七七四年
2018/12/24(月) 11:06:38.13ID:OJ88uN1B0085人間七七四年
2018/12/24(月) 11:12:56.98ID:0zobcdDY0086人間七七四年
2018/12/24(月) 14:36:42.32ID:5kswMVyj0087人間七七四年
2018/12/24(月) 15:41:53.85ID:xL/yVIIfみんな有名な知ってて当たり前な史料だから今更読まないけどいちいち本を引っ張り出さなくていいのは便利かなとは思う
0088人間七七四年
2018/12/24(月) 18:30:28.21ID:RHNyixu90089人間七七四年
2018/12/24(月) 18:49:35.91ID:/Jky83bv0090人間七七四年
2018/12/24(月) 21:57:56.02ID:zR07V92w>>82
内府ちかひの条々とか直江状とかの有名ところもまだ無いしね
>>84
史料自体は前スレにも全部あった奴だから、これからよほどの長文でも無い限り
大丈夫じゃないのかな
0091人間七七四年
2018/12/25(火) 01:08:48.16ID:c5zOpzhd遅まきながら、今スレでのテンプレ史料等コピペ作業、誠に比類なき働きで見事です。
言うまでもありませんが、とてもめでたいことです。
めでたしめでたし(珍重珍重)。
ifスレの14レス分でもめんどくさいのに70レス分は相当たいへんだったと思う。
とりあえずこのスレ保存して、なにか必要になれば、「真実スレP9の>>1-70読め」
で済むようになると思う。
というか養徳院宛徳川家康消息も入れたか。
まぁたしかに内府違いの条々はあったほうがいいなとは思うけど、
全文がよくわからんからなぁ。
前スレで挙げた時慶記8月17日分を再掲しときます。
時慶記 8月17日 天晴、請取番早参、中山中納言番所ニテ物語アリ、
退出ノ後近衛殿へ参上、大坂ト内府間ノ拵ノ義被仰聞数刻伺候候、
麦飯・酒給、柳原ト間ノ義紫竹ノ一義ヲ申入御合点也、
又御所へ参、宿ノ義ハ阿野へ語テ退出、豊国社へ参、衣冠ハ御供所ニテ改、
於神前拝、如例、参詣ノ衆大略下向ニテ静也、
吉田父子(兼見・兼治)へ遣人、丹後義モ無心元旨申候、
照門へ参上、月待トテ乍立御物語?ニ申入御酒給、
月ハ二条辺ニテ拝、左近丞雇番所ニ置、
花園左近二郎ハ瘧病煩由ニテ不出、餅・酒如例出、
新内侍在付由聞、准后御方(勧修寺晴子)ニモ御懇ニ承、
女御殿同、於豊国社神楽可参??候処ニ吉田私ニ可取行由候、
不謂由ニテ伝奏ヨリ被押テ此度ハ無之由候
大坂と家康の和睦案?や丹後のことについて触れられてる。
なんか時慶って酒飲んで酔っ払ってばかりの印象。
0093人間七七四年
2018/12/25(火) 08:30:19.55ID:GylJE9ME東軍…徳川家康、井伊直政、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政、福島正則、竹中重門
西軍…石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家、大谷吉継、小早川秀秋、平塚為広
0094人間七七四年
2018/12/25(火) 10:28:59.94ID:p7qugNNw石田は蟄居の刑罰を受けた受刑者だよ。
そんな人間が、後陽成天皇の下賜を受けて出陣した武家で最高の地位につく内大臣に謀反をおこしたのが関ヶ原の戦いだ
たしか太政大臣家の豊臣も、主君の天皇家と一緒に物資援助をしている。
そもそも、豊臣という存在は、惣無事と聚楽第行幸で、帝を主君として関白が采配をふるう体制として成立したので、
豊臣が主君を名乗るのは帝に対する僭越もはなはだしい。まぁ、豊臣はしょせん主家を乗っ取って成立した逆臣の家ってことだな
0095人間七七四年
2018/12/25(火) 10:41:18.58ID:p7qugNNw主君の帝から大政をゆだねられ、公儀の運営を委託されている最高位の内大臣としては対応せざるえない
なのに直江状で弁明せず居直るのだから征伐も当然。帝も下賜して征伐を支持している。上杉も石田も大義はないな
0098人間七七四年
2018/12/25(火) 22:57:29.40ID:1RzT74FN清正あたりは三成に対する処置が穏便すぎて、家康に不満を持った説があった様な
0099人間七七四年
2018/12/25(火) 23:13:05.61ID:c9zb2rzGどうせ返り咲き目的で暴走するのは分かっているのだから清正が不満を持つのも仕方がない
0100人間七七四年
2018/12/26(水) 16:01:47.44ID:hzb1j2VS直江状は偽書の疑いが強いし、上杉も上洛には一端は応じたけど、条件が合わず断念した筈
0101人間七七四年
2018/12/26(水) 19:53:12.06ID:XRNHDNWN0102人間七七四年
2018/12/26(水) 19:57:38.23ID:8WHt4+O60103人間七七四年
2018/12/26(水) 20:01:36.53ID:BkNctwHr帝からゆだねられた大政の主催者としてトップになった存在だからな。
でも聚楽第行幸で大政をゆだねられた関白左大臣内覧を殺した時点で、その立場は壊れた。秀頼にはなんの大義もない。
諸大名、特に大大名も、領地を削られたり、故郷を奪われたり、左遷されたり、娘を殺されたり、冷遇されたりと、豊臣に恨みを持つ者ばかり。
秀頼は祈祷士の子供という話もあるし、乱世になっただろう。
0104人間七七四年
2018/12/26(水) 20:05:47.01ID:BkNctwHr○関白左大臣内覧豊臣長者
訂正
聚楽第行幸で公認された関白左大臣内覧の豊臣長者を殺して出てきたのが秀頼なので、こいつに大義はない。
しかも秀吉が九州にいたときに祈祷師と乱交して生まれた子供という話だ。血統を重視する当時の価値観からするとゴミ以外の何者でもない。
内大臣の家康がまとめなきゃ乱世だったろう。
0105人間七七四年
2018/12/26(水) 20:16:14.29ID:8WHt4+O6関白は公家の常任役職だからさ
あれが太政大臣や征夷大将軍だったら朝廷の怨み買わなかったよ
役職は有限なんだから公家の頂点職を盗んだら怨まれるって
0106人間七七四年
2018/12/26(水) 20:27:43.19ID:BkNctwHrそもそも秀吉に大義はないからな。諸大名に命令できる正当性は帝に認められたという一点のみ
秀吉は、織田家子飼いの草履取りで、主君に寵愛されて軍団長になると
主君を備中に招き寄せて死なせ、没後1年たたずに側室や孫娘や息子や妹をつぎつぎに殺して
主家を簒奪した逆臣なわけで、こんなクズには誰も従わんよ。認めれば謀反を容認することになる。
けど天皇が関白に任命し、太政大臣に任命し、豊臣賜姓をおこない、聚楽第行幸して大政をゆだねたから
草履取りに正当性が生まれたわけ。
けど2度目の聚楽第行幸で公認された関白左大臣内覧の豊臣長者を殺した時点で豊臣にはなんの正当性もなくなった。
だから契約書を乱発したわけ。
けどそんな契約書は帝が関白や征夷大将軍を任命すればなんの意味もない
0107人間七七四年
2018/12/26(水) 21:12:51.29ID:R9ANC1n90108人間七七四年
2018/12/26(水) 22:00:34.53ID:BkNctwHr「主家乗っ取り」「関白左大臣内覧殺し」の豊臣を持ち上げて、「脱獄囚」の石田が謀反をおこし
「帝が下賜」をおこなって出陣した「最高位の内大臣」率いる軍に謀反をおこした戦いが関ヶ原だ
0109人間七七四年
2018/12/27(木) 20:14:11.44ID:fuQD2Fka>>100
奉行たちと交渉してて折り合わなかったんだっけ?
景勝だかが怒ってなかったっけかな
0110人間七七四年
2018/12/27(木) 20:40:24.71ID:h8GZu21A豊臣が家康に感謝するべきだろうね
0111人間七七四年
2018/12/27(木) 21:12:53.80ID:nggvcBVy脱獄囚って三成は佐和山に隠居しただけで、別に捕われていたわけでは無いぞ
だから加賀征伐のときも家康の要請に応じて兵を派遣したりしている
自分の結論ありきで、歴史上の物事を勝手に妄想して貰っては困る
三成を脱獄囚というなら三成が監禁状態でそこから逃げ出したという史料でも出してくれないと
0112人間七七四年
2018/12/27(木) 22:34:42.07ID:w7aFe/E40113人間七七四年
2018/12/27(木) 23:33:43.76ID:h8GZu21A三成の蟄居は温情といっていい刑罰だろうに
それで我慢できないなら三成を斬首刑にするのも仕方がないよ
0114人間七七四年
2018/12/28(金) 00:23:20.83ID:hansGQMQ頭悪いなあその程度の知識しかないのになんで書き込みしたんだ?
とっとと自殺してくれ無能な働き者
0115人間七七四年
2018/12/28(金) 02:07:44.38ID:F7I0ip2/蟄居迄命じた史料はない、だから家康暗殺計画を三成が家康に密告できたりする分けで、勝手な思い込みではなく、史料に拠って書いてくれ
でなければ妄想と言われても仕方ない
0116人間七七四年
2018/12/28(金) 12:01:42.61ID:3SoFFi7W後陽成天皇が下賜をおこなっておくりだした武家で最高位の内大臣に謀反をおこした逆賊とでも言えばいいか
朝敵石田三成
0117人間七七四年
2018/12/28(金) 12:08:42.99ID:i5L6PffT関ヶ原オナニーはおもしろいか?あ?
0119人間七七四年
2018/12/28(金) 12:38:30.56ID:xXLL2Qk2明らかに豊臣を混乱させて天下を乗っ取ろうと企てていた
更に秀吉が死ぬと毛利や上杉と結託するなど謀反の準備を急速に進めていた
家康が関ヶ原で三成の謀反を鎮圧したからいいものの
家康の手腕がなければ日本全体が三成によって大混乱に陥れられていたところだった
0121人間七七四年
2018/12/28(金) 13:38:26.32ID:c6Th/AFR三成が世間で言われてるほど清廉じゃなくかなり悪さしてるっていうのは明実録なり太閤遺言なりで説明できるんだから
やった確証がない秀次への讒言とか隠居についてもヒステリックに答えるんじゃなく、史料をもって客観的に答えるべきだよ
0122人間七七四年
2018/12/28(金) 15:27:18.24ID:lMl4j7Y0実質国元で蟄居だろ。
佐和山までの道中も護衛という名目だけど、実際には結城秀康に護送されてるわけだし
0123人間七七四年
2018/12/28(金) 20:11:30.49ID:Dv7vyiRL0124人間七七四年
2018/12/28(金) 20:53:50.90ID:3SoFFi7W石田三成 wiki
家康の仲裁によって三成は奉行を辞し佐和山城に蟄居
関ヶ原 wiki
家康・毛利輝元・上杉景勝・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる
って書かれているので、蟄居じゃねぇ、隠居だ!というなら、書き直してくれば?
讒言しまくって恨みを買い、私闘事件をおこしたあげく
責任をとって奉行を更迭されて佐和山まで護送され、出てくるなってのは蟄居だと思うが。
家康に保護してやらなきゃ、厳しい処罰を求める武断派の主張どおり斬首や切腹だったろうしな。改易もありうるか
0125人間七七四年
2018/12/28(金) 21:13:15.83ID:a9gtCD53蟄居と言うのは例えば、加藤清正が公儀の意に逆らい、庄内の乱に介入し
伊集院忠真を援助した結果、家康が激怒し清正に上洛を禁じた上、
もし清正が上洛しようとしたなら、菅平右衛門、有馬則頼に淡路で阻止するように
命じたような状態だろう。
ちなみに上記の清正の件は山田貴司氏の説によっている
0126人間七七四年
2018/12/29(土) 12:12:08.34ID:Nsl/x/wP0127人間七七四年
2018/12/29(土) 14:25:53.34ID:84mqrX/0ちょっと調べたけど、三成は徳川邸に逃げ込んだわけじゃないのかね。史料そのものが少ないみたいだが。
奉行更迭、佐和山蟄居は定説のようだが
0128人間七七四年
2018/12/29(土) 14:40:42.48ID:GgZ9lKen0129人間七七四年
2018/12/29(土) 15:27:16.31ID:hrRY8kN/今更、それか。もしかして秀次は切腹ではなく自害説も知らないとか
0130人間七七四年
2018/12/29(土) 16:07:45.94ID:84mqrX/0ついでに信長の息子の秀勝は秀吉が関白になると病死という
0131人間七七四年
2018/12/29(土) 22:08:53.67ID:R8LZ+zvlここで史料の紹介を一つ。
有名な史料で、概要や意訳は目にしてきたのですが、最近漸く元の文を目にする機会があったので上げてみます
0132人間七七四年
2018/12/29(土) 22:11:14.04ID:R8LZ+zvl豐光寺承兌書狀寫
態以飛札申達候、然者景勝卿御上洛遲滞に付而、内府樣御不審候儀不少候、上方雜説穩便無之候付、
伊奈圖書、河村長門被差下候、此段者、使者口上に可申達候得共、多年申通上者、愚僧笑止に存如此候、
香指原新地被取立、越後津河口道橋被做候段、何篇不可然候、中納言殿御分別相違候共、
貴殿御異見油斷與存候、内府樣御不審無據歟存候事、
一 景勝卿御別心無之候者、靈社之起請文を以、御申開可被成旨、内府公御内存に而候事、
一 景勝卿律儀成御心入者、太閤樣へ幷内府公御存知之事候得者、被仰分之品々さへ相立候者、異儀不可有事、
一 近國堀監物一々申上候間、御陳謝堅無之者、御申分相達申間敷哉、何篇御心中に可有事、
一 當春北國肥前守利長異儀之處、内府公順路成思食に而、無別儀思之儘靜謐仕候、是皆前車之誠に而候間、
其元兼而御覺悟、可爲尤歟之事、
一 京都に而揄E、大刑部少萬事、内府公へ被申含候間、御申分候者、御申越可有候、榊式太へも被仰越候而、可然歟之事、
一 千萬も不入、中納言殿御上洛遲候付、如此候間、一刻も早御上洛候樣に、取沙汰可被爲計事、
一 上方に而專取沙汰之事者、會津に而武具取集候と道橋被做候との事に而候、内府公壹入、中納言殿上洛御待被成候事者、
高麗へ御使者被遣候間、各降參被仕候者、來年歟來々年歟、御人數可被遣候、其御相談可被成候由に候間、
御入洛近々可然候、其上に而、無諫意被仰分候樣に、少も早御上洛尤候事、
一 愚僧與貴殿、數ヶ年無等閑申通候得者、何事も笑止に存如此に候、其地之存亡、上杉之興廃之境に候条、
被廻思案之外、他事有間敷候、萬端使者口上に申含候、頓首、
卯月朔日 豐光寺
承兌
直江山城守殿
御宿所
0133人間七七四年
2018/12/29(土) 22:12:13.01ID:R8LZ+zvl0134人間七七四年
2018/12/29(土) 22:31:59.89ID:NHa82hYIまあ蟄居と言っても間違いじゃない
0135人間七七四年
2018/12/30(日) 13:52:31.60ID:q8Zd2oqR0136人間七七四年
2019/01/02(水) 22:05:34.34ID:2voG3EYs>>19にあるようなこんな勝手な事約束したら駄目だろう
此書立之人數五三日已前に悉從國々馳上相知候、於仕置者可御心易候、其上金銀、玉薬料入候者可承候、從 秀ョ樣可被遣候、
太閤樣御貯之金銀幷闕地何も御忠節次第其々に可被下候、今度伏見表手柄仕置九州衆、内府江州之地行十万石令割符、
當座之引出物金銀に添感狀被下候
0137人間七七四年
2019/01/03(木) 14:49:20.87ID:sWrCXp7k0138人間七七四年
2019/01/04(金) 15:11:51.84ID:SjsLpbTs0139人間七七四年
2019/01/05(土) 16:55:49.16ID:1jGIG3HOだから考えが甘いとか言われるんだよなぁ
0140人間七七四年
2019/01/05(土) 17:02:59.91ID:0VlajGwn0141人間七七四年
2019/01/05(土) 17:14:07.28ID:vHbRIAm3しかしなあ、西軍はそもそもの挙兵理由が『政権を私的に専横してる家康をこらしめる』だった訳で、
その言葉を使ってしまうと「お前ら人の事エラそうに説教出来るのか!?」という話になってしまう
それにその論法は秀吉死後のの家康の行動を非難する理由が完全になくなってしまうぞ
それこそ、『勝てば官軍』なのだから
0142人間七七四年
2019/01/05(土) 17:19:08.37ID:0VlajGwn0143人間七七四年
2019/01/05(土) 17:46:42.68ID:r7uEEEFB豊臣が行幸で公認されていた関白左大臣内覧の豊臣長者を一家皆殺しにしたことで公儀性が失われたからな。
相国の秀吉が織田家を簒奪したときのように正当化しようとしたけど、誓詞を乱発しただけだった。誓詞に公儀性はない。
太政大臣の死後は、将軍も大臣も内大臣以外いない状態だったので、内大臣が政務をおこなった。
その内大臣が後陽成天皇の下賜をうけて征伐をおこなった軍に謀反をおこしたのが、奉行を更迭されて隠居していた元奉行なわけで。
石田三成には最初から大義なんてものはない。大義を主張したいなら、最低でも太政大臣家に公認されて物資援助を受けることは必要で
家康と対等な関係になりたいなら、後陽成天皇に大臣に任命してもらって、下賜を受けて兵をあげないとね。
0145人間七七四年
2019/01/05(土) 19:39:47.08ID:z7OdQs2C伏見攻めで手柄を立てた連中に内府江州十万石の割符を恩賞にしたみたいだけど
文脈から見れば江戸の地だろうけど、江州と言えば普通近江で江戸は武州だと思うんだけど
この時代、江戸を江州と読んだ例が外にもあるのかな
>>139
考えが甘いと言えば、書状が送られてきたくらいで上杉と敵対していた堀が味方に付くと
あっさり信じる甘さがどうしようも無い。書状に出てくる丹羽長重が西軍に付いた理由もよく分からんけど
>>144
どのスレでも似たようなこといつも書いている奴だろう
0147人間七七四年
2019/01/05(土) 20:48:20.45ID:z7OdQs2C三河風土記からでこれは後世の編纂物なので
あまり当てにならないって事じゃ無かったかな
0148人間七七四年
2019/01/05(土) 21:18:52.96ID:0VlajGwn0149人間七七四年
2019/01/05(土) 22:36:47.82ID:r7uEEEFBその聚楽第行幸で公認された関白左大臣内覧の豊臣長者をぶっ殺した時点で豊臣に大義はないからな。
1600年当時は、内大臣が公儀を運営し、内大臣の率いる軍は後陽成天皇が下賜をして見送った軍だ。
豊臣に大義はないし、石田三成にも大義はない。
0152人間七七四年
2019/01/06(日) 11:24:27.38ID:uYWxqC8b逆に浅井畷後に丹羽の人質になった前田利常は長重の優しさを爺さんになっても忘れなかったらしいね
0153人間七七四年
2019/01/06(日) 17:03:30.79ID:MoR2zbE7長重も東軍に味方しとけばよかったのに、近視眼的に内大臣と敵対して改易だものな。
丹羽は目の前のことしかわからないニワトリみたいな家だな
0154人間七七四年
2019/01/06(日) 17:40:44.82ID:3cUkVyuZ0155人間七七四年
2019/01/06(日) 22:31:18.96ID:ks/d9lLz0156人間七七四年
2019/01/07(月) 00:03:12.39ID:ePEqQNrP丹羽長重
123万石 親から相続する
↓
15万石 家臣が佐々に内応したといちゃもんを付けられ秀吉に奪われる。重臣3人も奪われる
↓
4万石 家臣が狼藉したといちゃもんをつけられ秀吉に奪われる
↓
12万石 小田原征伐に参加して功績で
↓
改易 関ヶ原で西軍に参加し前田に攻撃を仕掛けたため
↓
1万石 1603年に許されて大名復帰
↓
2万石
↓
5万石
↓
10万700石 息子に相続して死亡
0157人間七七四年
2019/01/07(月) 08:36:31.09ID:drN6O2K6まあ、家康にしてみれば前田さえ折れれば丹羽のような小大名なんてどうでもよかったんだろうけど
というか前田は小勢の丹羽にやられて進軍を諦めたわけだけど、やっぱり前田家って戦下手なんかな?
0158人間七七四年
2019/01/07(月) 12:40:37.00ID:W2/9kn0z帰りがけの駄賃で小松でも取るかぁと攻めたら手強くてそのまま退却
進軍諦めたのは小松攻める前やね
0159人間七七四年
2019/01/07(月) 13:02:19.67ID:GBvbFgNnその後大聖寺城を落として南下、帰路に小松攻めという流れだな。
0160159
2019/01/07(月) 14:12:12.46ID:GBvbFgNn0161人間七七四年
2019/01/07(月) 15:38:59.36ID:TxS3EYo/0162人間七七四年
2019/01/07(月) 21:58:34.39ID:iELVGKMFこんな書状出しているんだよな。如水らしいと言えばらしいが
0163人間七七四年
2019/01/07(月) 21:59:18.71ID:iELVGKMF廣家
參人々御申 如水
天下之儀てるもと樣御異見被成候樣にと奉行衆被申、大坂城御うつりなされ候事、目出度存候、左候て、
秀ョ樣へ別心存者あるましく候条、やかて目出度しつまり可申候、左樣候て、九州四國衆人しちてるもと樣
御あつかり候やうに被仰上可然存候、九州にても鍋賀州、賀主、羽左近、毛壹、嶋津此衆專存候、甲州人しちは、
貴所樣てるもと樣より御あつかり候やうに御才覺給へく候、左候て、何樣にも御馳走可申候、人しち奉行衆候へは、
てるもと樣御馳走不成事候条、其御分別專一候、内府公上國は必定あるへきと存候、左樣時は、又貴所樣御きもいりにて、
てるもとさま御事相澄可申候、とかく此節御分別專用候、扨々不慮之事共如何成行可申候や、其表樣子具令仰聞、
一人御下候へかしと存候、左候て、我等心中も貴所樣へは不殘可申上候、かしこ、
八月一日
0164人間七七四年
2019/01/07(月) 22:24:34.38ID:qpqtoTgY■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています