関ヶ原合戦の真実 Part9
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0054人間七七四年
2018/12/23(日) 15:20:05.06ID:uA0riSLH早々御飛脚本望存候、其樣子則御耳に立申候、然者去十四日赤坂に被成御着、十五日巳之刻關ヶ原へ指懸被為及一戰、
治部少輔、嶋津兵庫頭、小西、備前中納言十四日之夜五つ時分に大垣外曲輪を焼払、關ヶ原へ一所に打寄申候つる
此地之衆幷井兵又s殿、爲先手其外悉打続く、敵切所を抱有所へ指懸、とりむすひ候刻、筑前中納言、
わき坂中書、小河土佐父子、此四人御味方被申、うらきりを被致候、則敵敗軍仕、追討に無際限うちとり申候、
大將分は大谷刑部少輔、嶋左近、嶋津中務、戸田武蔵平塚因幡此外討取り申候へ共、先人之存候衆は此分に候条、
打捨はなをかき候て捨申候間、誰を討捕申候も、然々と不被不存、又十六日に佐和山へ指懸とりまき候て、
田中兵部水の手をとり、本丸へ押懸申候へは石田杢父子、治部少輔しうと父子、同治部おや、妻子一人も不殘きりころし、
てんしゅに火を懸、悉焼払落城仕候、其刻城より三百人ほと取○、手前へ罷出候處を一人も不殘うちとり申候、
皆々小姓共まて高名いたし候間、可御心安候、治部少補は十五日之合戰場より行かた于今聞へ不申候、
將又安國寺をは吉川、ふく原兩人思食にからめ出し申候、輝元御訴詔被申候由候へ共、如何可有か不被存候
犹替儀候者追々可申入候、恐々謹言
九月十七日 石川長門
彦坂小刑部
松平和泉守殿へ
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