関ヶ原合戦の真実 Part9
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001人間七七四年
2018/12/23(日) 14:17:08.63ID:uA0riSLH豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください
前スレ
関ヶ原合戦の真実 Part8
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1518176864/
0478人間七七四年
2019/02/23(土) 11:44:20.72ID:H0eLOuwnむしろ現代まで慕われているだけでも清正はよく頑張ったと言える
0479人間七七四年
2019/02/23(土) 12:20:24.37ID:TYbPY+Mp冨田、富田一白
寺西、寺西正勝or是成
森壱岐守、毛利吉成
堀田若狹、堀田一継
佐々淡路、佐々行政
石田木工、石田正澄
片切守善、片桐貞隆
石川久五郎、石川光元
山中山城守、山中長俊
木下與左衞門尉、木下延重
かな
0481人間七七四年
2019/02/23(土) 21:41:13.04ID:QdkZQZYw0482人間七七四年
2019/02/23(土) 21:41:48.54ID:QdkZQZYw蜂須賀家政書狀
猶々兩人御同意之儀、初者雜説と存、不實候處、安國寺より承候旨は、今度東國へ之御人數被指留之由蒙仰に付而、驚入候、以上、
態啓上候、仍今度石治、大刑逆意無是非存候、就夫、輝元様も御同意之樣に爰元申成候、無御心元奉存候、若於事實者、
さりとては世間之批判無御勿軆存候、勿論、近年内府無御屆儀共可有御座候、雖然、被奉對 秀ョ公、餘相違之題目、
拙者式不承候、於然者、以御覺悟天下之亂可有出來儀、歎敷御事、不可過御分別候、か樣之儀、推參、其恐如何御座候へ共、
年來別而御懇に付而申上候、此旨御披露所仰候、恐々謹言、
七月十六日 (家政花押)
蜂須賀阿波守
堅田兵部少輔殿
0483人間七七四年
2019/02/23(土) 21:42:47.48ID:QdkZQZYwK田圓C自筆書狀
如水軒
廣家樣 圓C
參人々御中
以上
態申入候、内府御上之由取沙汰申候、必定に候哉、其口に貴殿御座候間、一入氣遣に存候、御手前無御越度之樣に、
兼日御分別干要に候、上方人數之儀者、悉内府へ内儀有之様に申候間、御手前之儀專一に候、爲其此者進之候、
九州之儀今迄は靜に御座候、何樣に猥候共、手前之儀者、御氣遣被成間敷候、恐々謹言
九月三日 圓C(花押)
廣家樣
參
0484人間七七四年
2019/02/23(土) 21:44:17.68ID:QdkZQZYwK田圓C自筆書狀
廣家樣 圓C
貴報
尚々、小倉之儀、從輝元加番入之由候間、壹岐へ不渡樣に可被仰付候、
去月廿二日之御狀、昨日三日に拜見由候、
一 先年より隆景元春申談、彦右衞門拙者中國之儀御馳走申、其續貴殿隆景無御忘却候、殘衆者、
備前中納言同前之御覚悟候き、雖少身候、林肥前者、先年之筋目無忘却通、去年於京都拙者に申理候、
一 今度中國御家之續之事、貴殿御律儀故、羽左太、甲斐守に被仰談、御家再興中々不得申候、定而中國上下只今可存當事、
一 彌羽左太、甲斐守御入魂肝要候、兩人迄輝元幷貴殿御事御馳走候へと申遣候事、
一 宰相殿御事御幼少之節、別而馳走申候き、元C先年より無御等閑故申談候、又久留米藤四郎殿儀、是又貴殿御存之事候、
御兩所より近年捨文一通不被下候、只今申候は不入儀候へ共、貴殿御事者、㝡前之馳走無御忘却通、奉感候故、兩人之儀を申事候、
一 上方於美濃口御取相當月迄も御座候者、中國へ切上、花々と見知返し候而、一合戰可仕と存候に、はやく内府御勝手に罷成殘多候、
一 於九州者、奉行方之者は嶋津、立花迯下有之事候、内府樣へ得御意に上せ候間、被仰出次第兩人之者共則時討果、
罷上、以面萬々可申承候、恐惶謹言
十月四日 圓C(花押)
廣家樣
貴報
0485人間七七四年
2019/02/23(土) 23:03:49.00ID:hdlgyYWL逆らうものは皆殺しの勢いで粛清やったから生産力は当然落ちるわけで
これをいくら代官としての統治経験はあるものの
こないだまで3000石だった清正が乗り込んで運営するのって簡単ではないのでは
しかも九州の大名だから唐入りにおける大目の軍役負担までついてくる
0486人間七七四年
2019/02/24(日) 01:14:58.50ID:+eN63wEiそれは清正の問題で一揆後の肥後が取り立てて難治というわけでもないとおもう
大規模戦に巻き込まれた土地の生産力が一時的に落ちるのは普通だし
0487人間七七四年
2019/02/24(日) 14:25:22.30ID:BeCH2r4pそれは、霧が晴れたとき、敵方の度肝を抜く狙いであり、今日の戦に賭ける、家康の、決意の現れでもあった。
西軍の陣型は、相手を包囲するのに相応しい、鶴翼の陣備えであり、対する家康は、中央突破型の、縦隊魚鱗の陣型である。
0489人間七七四年
2019/02/24(日) 15:59:07.53ID:Wo4KYOLo0490人間七七四年
2019/02/24(日) 16:18:58.74ID:XIZk66y10491人間七七四年
2019/02/24(日) 16:20:44.16ID:0l0HP60f0492人間七七四年
2019/02/24(日) 16:27:51.25ID:BeCH2r4p0493人間七七四年
2019/02/24(日) 16:29:24.15ID:wlWcvXRt軍記では西軍は特に記述は無くて、東軍も家康本陣を
魚鱗(関ヶ原方面)鶴翼(南宮山方面)と記述した程度
0494人間七七四年
2019/02/24(日) 19:38:57.78ID:sMq4NJ0Q石田正澄が近江愛知川で人留めして上杉征伐参加予定だった衆を西軍に
引き入れたという部分だけど、
石田三成は7月29日に伏見城に到着するまで大きな動きがない。
これを以てか、石田三成は首謀メンバーではなく勧誘されただけ、
という説があるけど、石田正澄が愛知川で人留めしてるのに、
三成は首謀メンバーではないと言えるのだろうか?
もし勧誘されただけだと言うならば、首謀メンバーは毛利輝元+安国寺恵瓊、
増田・長束ら奉行衆、石田正澄、(大谷吉継、宇喜多秀家、上杉景勝?)となる。
石田三成は首謀メンバーだが、人望がないし隠居してる身なので、
出しゃばらずに目立たないようにしていた、のほうが説得力があるように思うが。
0495人間七七四年
2019/02/25(月) 01:02:42.67ID:8e2yyEUd合ってる
ドラマみたいな布陣とか松平の抜け駆けとか奥平鉄砲とか無いから
松尾山の小早川、それに追随する小川、朽木らと家康勢に挟まれて2時間くらいで上方勢は壊滅
0496人間七七四年
2019/02/25(月) 09:59:59.67ID:UNqAGK97三成らも背後からの攻めに備えてたんだろうけど大軍で怒涛のようにくるのは予想外だったのかな
0497人間七七四年
2019/02/25(月) 10:48:54.22ID:XkaBMRKi外曲輪を焼き払うって必要だったんだろうか
0498人間七七四年
2019/02/25(月) 11:40:33.32ID:M+0oTvVg0499人間七七四年
2019/02/25(月) 12:40:57.53ID:B4pQad8Y西軍の中で関ヶ原で壊滅したとされてきた軍が、三成と一緒に松尾山へ向かった部隊ということかな
0500人間七七四年
2019/02/25(月) 13:57:07.76ID:j5dQ9xft立花宗茂はそのままの評価で良いし黒田孝高も人望や名声はあれとしても実力はあったからあの評価で良いと思う。
評価が低いのは鍋島直茂と黒田長政。この二人は加藤清正黒田孝高立花宗茂の餌になってる気がする。実力凄いあるんだけど残念。毛利勝永みたい。
0501人間七七四年
2019/02/25(月) 14:08:48.00ID:5gTt4FAt多分もっと早い段階で逃げてたと思う。戦闘終了間際で両軍とも混乱してるのに正確に敵兵の逃走劇を記憶して記述できる人間が居るとは思えない。
おそらく戦闘開始時に島津軍がいた事と終わってから島津に逃げ帰ったらしいという事実があって、
島津かどうか確証はないがが島津らしき軍団が大急ぎで逃げていったのを目撃したものが居て、話が合わさって作られた都市伝説のようなものだろうな。
0502人間七七四年
2019/02/25(月) 14:45:53.77ID:j5dQ9xftかなりの乱戦で長寿院盛淳もどこで戦死したかも定かじゃ無いし甥の島津豊久は生存してると思って後々探させた話もある位だからね。退き口云々は後世の作り話でしょ。
0503人間七七四年
2019/02/25(月) 14:47:19.79ID:xBNzk8Y3というところじゃないか
0504人間七七四年
2019/02/25(月) 15:14:14.00ID:eZN8MutS0505人間七七四年
2019/02/25(月) 15:33:52.03ID:Ta183y5V0506人間七七四年
2019/02/25(月) 15:39:35.49ID:j5dQ9xftこの徳川家康旗本ってのは多分井伊直政隊や本多忠勝隊だと思うけど
手紙の内容で薩摩兵が斬っても斬っても屍を越えて襲って来る三河武士は人に非ずみたいな事書いてある。
つまり薩摩兵が最強に強くて退き口したなんてのは当人の島津義弘さえも言って無いから前方にたまたま空間が空いてそこに真一文字で逃走したのが後世美化されただけ。
0507人間七七四年
2019/02/25(月) 18:15:45.33ID:LJZcEaAP0508人間七七四年
2019/02/25(月) 19:02:52.51ID:z+jvJIab0509人間七七四年
2019/02/25(月) 20:35:41.70ID:hoXmKKrf0510人間七七四年
2019/02/25(月) 21:39:32.91ID:SkjB+sJJそして小早川により大谷が壊滅、東軍の先陣が宇喜多隊を壊滅し、次に島津に攻めかかり、
その間に東に陣取った三成を別部隊が壊滅。その部隊も島津に攻めかかり、その両軍の間を抜け島津が逃走。
それが何故か三成に不満を持っていた島津が戦闘には参加せず、最後に敵本陣に突撃を懸け
敵中突破した話になっている。
0511人間七七四年
2019/02/26(火) 00:33:31.57ID:OfNxPws60513人間七七四年
2019/02/26(火) 01:02:19.40ID:KOpQygXH石田方は大垣城、家康方は美濃垂井、小早川が松尾山城、毛利勢が南宮山で合ってるよね?
家康方は石田方と比して西側(大坂寄り)にいたってこと?
0514人間七七四年
2019/02/26(火) 02:22:51.42ID:HmmkxOmn0515人間七七四年
2019/02/26(火) 03:17:43.34ID:Wj4VC52J0516人間七七四年
2019/02/26(火) 05:38:44.30ID:gZqW6TXM0517人間七七四年
2019/02/26(火) 09:55:56.39ID:tv+10ucVそれが関ヶ原の戦いの2年後だったから島津軍があの赤鬼を仕留めた!みたいになった。
実際は赤備えと交戦した時に修羅の様な強さで親を鉄砲で射抜いても子供がその親の屍を越えて襲いかかるというヤバさだったらしい。
その後に来た本多忠勝なんかは釣り野伏せして馬が射抜かれて落馬したが鬼の形相で島津兵を蜻蛉切で串刺しにしたとある。島津義弘も本多忠勝隊に追い付かれ死を覚悟したが本多忠勝が見逃したらしい。何故見逃したのかは謎。
その後島津助名を井伊直政と本多忠勝が家康に取りなししている。
0518人間七七四年
2019/02/26(火) 10:16:56.67ID:tv+10ucVちなみに本多忠勝隊は500にも満たない数で関ヶ原を縦横無尽に駆けて首級90挙げたとある。
徳川四天王って地味なイメージあるけど信長や秀吉に絶賛されてたり格上の武田北条豊臣と戦って勝利して大将首迄獲ってる猛者揃い
自分は家康好きじゃないけど関ヶ原の戦いの時に徳川家康と徳川軍が強くて勝ったは頷ける。
西軍が勝てる要素が無いのが悲しい。
昔テレビのシュミレーションで立花宗茂の大津城包囲部隊も関ヶ原に布陣してたらってのがあったけどやはり最後は東軍の勝ちになってて悲しかった。
0519人間七七四年
2019/02/26(火) 10:31:29.18ID:tv+10ucV毛利勢が入る予定だった。
最初は大垣城主伊藤盛正が松尾山に布陣したが小早川秀秋に追い出されている。
これを聞いた石田三成が焦って関ヶ原に急行したが既に松尾山の麓に居た大谷隊は壊滅。その後はここに書いてある通り。
0520人間七七四年
2019/02/26(火) 10:35:59.49ID:tv+10ucV0521人間七七四年
2019/02/26(火) 12:31:36.20ID:tv+10ucV逆に南宮山にこちらの末次元康隊を配置するとかね…。
毛利輝元が意図してやった事なんだろうけどさ。
0523人間七七四年
2019/02/26(火) 12:55:18.21ID:tv+10ucV酒井忠次と榊原康政
酒井忠次は長篠の戦いで武田軍の背後を獲って長篠の戦いの勝利にみちびいた立役者。
榊原康政は小牧・長久手の戦いで羽柴秀次隊を壊滅寸前にして森長可、池田恒興親子を討ち死にさせた。
自分は西軍派なので徳川武将は好きじゃないけど強さは相当なもんだよ。
0525人間七七四年
2019/02/26(火) 14:09:59.05ID:qJ0fUvzt0526人間七七四年
2019/02/26(火) 14:22:40.16ID:DslkMrnF東の口をしめる南宮山と、西の口を閉じる松尾山が、動かなければ、西軍の戦いは、底も蓋もない桶で、水をすくう徒労に終わる。
0527人間七七四年
2019/02/26(火) 22:17:05.96ID:PBt3C7dWその書状読んでみたいんですけど、何に収録されていますか
0528人間七七四年
2019/02/26(火) 22:30:00.30ID:IWd+y9Pn三河の人間は家康の祖父や父親を殺したように気に入らない主君にはすぐ謀反をおこすクズだが、
よく言えば反骨精神旺盛で能力に優れている猛者ぞろいだ。
それを束ねあげて忠臣にした家康がすごいんだよ。光秀を蹴り倒し、秀吉をバカにする信長が唯一尊重する相手だからな
0529人間七七四年
2019/02/26(火) 22:43:44.86ID:DslkMrnF0530人間七七四年
2019/02/26(火) 22:48:38.55ID:JQBgtYjO0531人間七七四年
2019/02/26(火) 22:51:45.43ID:JQBgtYjO煽るとかそういう意図じゃないんだけど、家康の豊臣を排除した政権運営への意欲って関ヶ原前からだったのか後だったのかなと思って
0532人間七七四年
2019/02/26(火) 23:03:08.81ID:2qmGUMyX西軍挙兵によって豊臣に公儀性というものが全くないことが証明されて
もう豊臣政権というものを家宰として維持することが不可能という認識にはなったんじゃないかな
とはいえ誰かが公儀をやらなければいけないし、江戸に幕府を開いて直接諸侯の首根っこつかんで抑える形にシフトしたって感じ
誰かが言ってたけど天下人ってむしろみんななりたくない、他人に押し付けて自分は要職ポジション確保してうまい汁すすりたい、でも誰かが天下人やらなきゃいけないっていう貧乏くじの押し付け合いが当時の共通認識であるって考え方も意識した方がいいかも
それはそれとしてちょっと上の方のはロマンに酔いすぎな記述の仕方な気がするなぁ
0533人間七七四年
2019/02/26(火) 23:05:01.00ID:HANAgwzp関ヶ原が起きなくても秀吉利家亡きあとの家康の豊臣政権での立場は鎌倉幕府の執権、室町幕府での管領相当の立場だし
結果的に関ヶ原で反徳川派が一掃されたことで単独政権の可能性が出てきただけで起きなくても政権の第一人者ではあった
0534人間七七四年
2019/02/27(水) 00:17:15.31ID:Pj1w2Wda形式的には豊臣政権の内紛という構図だけど
豊臣家がどっちにも肩入れしなかった(できなかった)ことにより地位の失墜は免れなくなってしまった
なら何もできない豊臣家より勝った方の徳川家に天下を任せたほうがいいなってことになる
0535人間七七四年
2019/02/27(水) 00:30:24.25ID:4oLe2Dje秀吉の死後は内大臣が最高位の武士なので、仮の公儀を運営する資格を持つ。1601年に関白が、1603年に征夷大将軍が任命されたあとは
公家関白制のもと、将軍の実効支配体制だ。鎌倉室町江戸と続く伝統な流れ。豊臣はあぶくみたいなもんだ
0536人間七七四年
2019/02/27(水) 01:36:19.12ID:IoU7MPC30537人間七七四年
2019/02/27(水) 05:59:11.95ID:Q5QzTiAT一応別の選択肢として、統一政権を完全に無力化して
都合のいい時だけ利用する古ぼけた神輿にするって手はあるがな
要は諸大名が好きに政権運営や領地拡大をする戦国時代に時計の針を戻すって方法だな
つーか、家康はこっちのルートもアリな筈なんだよね
内府違いの条々出された時点で「じゃあ好きにやらせてもらうわ」って選択肢もあったと思う
0539人間七七四年
2019/02/27(水) 16:46:14.47ID:1r2PHvdHまぁそうなんすよね、動乱の時代カムバックも十分あり得たんですよね
だからまぁ関ケ原って動乱に巻き戻るかどうかに諸侯がノー!と突っぱねたものなんですよね
勿論毛利や上杉は大諸侯で動乱のがうまい汁吸えるから挙兵したんでしょうけど
0540人間七七四年
2019/02/27(水) 22:27:03.51ID:KpQV53yb別の主君に仕える気はないから官位も感状もいらないとか
他の主君に仕えるくらいなら切腹するとか面倒くさい家臣も居るけどね
0541人間七七四年
2019/02/28(木) 01:42:55.64ID:Z2BM86Zfまあ、あの時点で自分の領地に引き篭もる選択肢も有る事は有る。
但し、その場合は一度は膨大な討伐軍が来るんじゃ無いの?
0543人間七七四年
2019/02/28(木) 08:32:16.80ID:iYNG1a0i0544人間七七四年
2019/02/28(木) 18:18:23.23ID:N/5zygS1むしろ家康が自力で信用できる部下たちを作った上で、のちのち後世の人たちが三河武士は忠実という風聞を作ったんでしょ
0545人間七七四年
2019/02/28(木) 19:45:44.37ID:KQrcomlm0546人間七七四年
2019/02/28(木) 19:56:37.43ID:2IwWMeA1三河人は不器用で武闘派な狂犬みたいなものだ。主人と認めなければかみ殺す。一向宗にドハまりした狂信者もいれば、石川数正みたいなのもいる。
その三河人をたばねあげて忠誠を誓わせ、秀吉に嫌がらせをされて左遷されてもついてくるくらい統率したのだから家康がすごいわけさ。
さすが信長が唯一の同盟者と認めただけのことはある。
0547人間七七四年
2019/02/28(木) 19:59:57.05ID:yeTnUQ9H0548人間七七四年
2019/02/28(木) 20:23:23.60ID:2IwWMeA10549人間七七四年
2019/02/28(木) 20:29:21.63ID:q9eBVSmlそのリスクがあるのは認めるよ、割と博打な決断だしね
ただし賭ける価値はあるとみる、毛利と上杉にとって強大な中央政権は結局邪魔だからだ
早い話が毛利と上杉に密使を送ってこう言えばいい
「味方になれとは言わん、征伐への従軍を拒否してくれたら毛利は播磨以西、
上杉は東北や北陸でどう動こうが徳川は関知しない」と
つまり毛利に西国、上杉に東北や北陸での優位性を認めるという事、
もっと言うなら「中央政権なんか無視して地方で好き勝手やろうぜ!」って事だ
まあ絶対とは言わんが話に乗ってくる可能性はあると思う
0550人間七七四年
2019/02/28(木) 20:29:43.64ID:tSlZOTPb0551人間七七四年
2019/02/28(木) 20:35:53.76ID:nE89rieY秀頼くんに最低限の器量さえあればつつがなく続いてたよ
お話の大坂の陣だとさすがにそれじゃああんまりだから花のようなる秀頼さまなんてしてるけど
0552人間七七四年
2019/02/28(木) 20:48:42.23ID:2IwWMeA1家康のように武術の達人とは言わないまでも、香取神道流や新陰流を学んで印可を受けるとか、弓の腕を磨くとか、毎日馬で朝駆けしたり鷹狩りしたりしないと。
しかし、160キロをこえた疱瘡アバタ顔のデブを花のようにってどの花なんだろうな。ホトトギスの花とかか
0555人間七七四年
2019/02/28(木) 21:25:52.83ID:i8/xWqaL長く詳しく派手になっていくものだね
0556人間七七四年
2019/02/28(木) 21:26:26.01ID:i8/xWqaL一 九月十四日夜入り候てより大柿御打立、夜中に關ヶ原へ御着被成候、夜明候へは東國衆大谷刑部殿陳にかかり、
六七度之合戰有之候處に、上之山より筑前中納言白旗をささせ横入仕、大谷殿人數壹人も不殘打取り申候、
備前中納言殿陳へは新手之大將相懸追崩、此方之御陣へ相かかり申候、東は別手之大將相懸候間、石田殿陣追崩候間、
此方之御陳へ相かかり、其猛勢眞中へ 惟新尊公御掛り被成、大敵を打捕り眞中を切明、東之ことく御切通被成候、
然處に如此御通被成候而も、何方へ御出可被成事に而候哉と人々申候へ者、又本之ことく大柿へ御籠可被成との御意に而、
南宮山と申所へ御出被成、大柿を御覽被成候へは、もはや本丸に火之手あがり申候付、御籠被成候事不罷成、
自其伊勢地こま野之坂江御上り被成、近江、伊賀、大和、河内、和泉御歸國之路次傳、片時も御側を不相離御奉公被成候事、
我等日夜御側に罷在爲存知前に而候、
0557人間七七四年
2019/02/28(木) 21:27:39.42ID:i8/xWqaL一 大柿御打立之時より雨ふり、悉くぬれ申候而人々ふるひ申候、九月十五日之日出に、もはや東國衆のほりを指立候而、
岡山より關ヶ原江參申候、先一番に大谷刑部殿陳にかゑり申候、大谷殿衆もかかり合、追つまくつ六七度之合戰仕候處に、
上之山より筑前中納言逆心殿白はたを差せ横入仕、大谷殿人數壹人茂不殘討捕申候、備前中納言殿陳へは別大將相掛申候而
一戰被成候得共、前に岡御座候而此方之陳よりは見得不申候、中納言殿相山申候、其敵則此方之陣江相掛申候、
何茂亦したく爲仕敵に而候、東は石田治部殿陣猛勢相掛一戰有之候得共、石田殿陳茂相崩、其敵則此方之御陣江相掛申候、
此方之御陣は弐番そなへに而候、然處、惟新樣被成御意候は、敵は何方か猛勢か御尋に而候、東より之敵以之外猛勢之由被申上候へは、
其猛勢之中へ可相掛之由御意候而、脇々に少つつの敵はいかほとも有之候而も、其方は打置候而、猛勢之眞中江かけ入、
過分成る大敵を打捕中を切明、山通なされみかたを見申候へは、漸下々かけて御手廻の人數五拾人程にて罷なり候、
きりもの衆被申候者、このごとくの無人に而者軍仕事罷成間敷候、是よりは御思ひ被成候而は罷成間敷候よし被申候而、
刀之ひるまきをとらて、御馬の印も打捨、東のごとく御通被成候、然處先を見申候へは、馬乘の敵いつかた騎共不知罷居申候に付、
人々被申上候は、先に見得申候者皆敵に而御坐候、何と可仕候哉と被申上候得者、被聞召候而被成御意候は、
敵に而候はは切通る、切通事不罷成候はは、兵庫頭切腹可被成之由御意に而候、何茂承候而畏たる由申上候而、
0558人間七七四年
2019/02/28(木) 21:28:09.37ID:i8/xWqaL年之比四拾才程之法軆乘物よりおり立、駕を此方之預に仕候而罷通候を御覽被成候而、其鑓與御意被成候へは、
御道具衆頓而申上候、御取被成候而可被遊與被成候得共、いやあれ通之者はと御意に而遊し不申候、
然處に後醍院喜兵衞江走出被申候へは、其所討捕申事は何より安候得共、後日之爲跡證にたすけ申候、只今爰元を召通候へは、
西國之嶋津兵庫頭に而候、少茂北候而は不罷通候、東國衆之分に而は討留事不罷成候に付、只罷通申候、
少茂北は不仕候由被申候處、人々被申候は、是程御忍被成度に不入名乘被申候、はかなく由口々に被申候時、喜兵衞耳に入、
さりとては言語道斷、比興至極成儀を被申候、 惟新樣は御たすかり可被成と被遊候哉、御討死可被成事は覺悟之前に而候間、
如斯名乘爲申由被申候へは、とかくを申候人無之候、其場を御邂候而より人々被申候は、如斯御除被成候而、
何方江御出可被成事に而候哉、被申候へは、又本之大柿之城江御籠可被成と御意に而候付、大柿を差て御出被成候處、
南宮と申所より大柿を見申候へは、本丸に火掛り候而落城而候付、御籠被成候事不罷成候、
0559人間七七四年
2019/02/28(木) 21:29:21.67ID:i8/xWqaL一 彼南宮山に長曾我部長宗新殿陳取罷居被申候、 惟新樣被成御意候者、於關ヶ原秀ョ公御奉公に別而分骨を被遊、
人數如此に討なされ御通被成候由に而、御使被遣候由御意に而候、人々被申候は、長宗新殿は眞下を敵御通被成、
一戰茂不被成候時者、御心替に而もや御坐候半と、左候處御使被遣候而者、味方無人にて社候へ、不入儀に而候由、
何も巧者衆被申候、右之段被聞召候而被成御意候は、長宗新殿心替に而もくるしからす被思召候、昨日今日迄被迎合たる儀に而候、
其上高麗已來より之御念比に而候間、先々心替には御かまひ不被成候間、御使可被遣之由に而、誰かしと御意候へ共、
我等可參と申人無之候處に、伊勢平左衞門殿被申上候、參候人無御坐候間、我等可參由被申上候、 惟新樣御悦被成、
早々平左衞門被參候へと被成御意候、趣は 秀ョ公御奉公、於關ヶ原度々之合戰仕候而、人數如斯討なされ罷通候、
後日出合之時分、證跡に御立被成候へと被仰候、右之御意平左衞門被承、主從三人に而長宗新殿陳江馬かけにて、
そなへ之内に入被申候、人々申候は、平左衞門殿もはや被討被成候半與、口々に申候、暫歸宅無之候に付、
0560人間七七四年
2019/02/28(木) 21:29:55.84ID:i8/xWqaL左候而御返事に、關ヶ原に而の合戰に御手柄之程可申樣無御坐候、去とては比類類御坐御事も、我等之下を東國衆罷通候へとも、
此方江者かまひ不申罷通候間、我等人數壹人もそこね不申候間、何時に而も一合戰可仕候、長宗新殿も何方江成共、
惟新樣御陳へ可被成樣除可申由に候、夫より伊勢之駒野之坂へ御上り被成、近江之内土山江御出被成候而御聞被成候へは、
最早 公方樣京都江御打入被成たる由申に付、直に京都へ御出被成候事不罷成、又伊勢關地藏江御出、伊勢道之ことく御出被成候、
楠平與申候左門町より西江御出被成、大山を御越、伊賀之内しからきと申所之樣に御出云々
0561人間七七四年
2019/02/28(木) 21:30:22.62ID:i8/xWqaL一 日出時分よりはや東國衆のほりを指立、大谷殿陳にかかり申候、此方之御陳之前備前中納言殿、東者石田殿請取之陣場、
此方者二番備に而候處、大谷殿戰死、備前之中納言殿、石田治部殿追崩し、此方之御陳に猛勢かかり申候時、
貴老御親父拜領之長刀を持、大音に而嶋津兵庫頭内之小弁慶と名乘、猛勢之中へ切入、敵數多打取、又 惟新樣御側之如く御參候、
其後御跡を閉目可申候間、御心安御除被成候へと、被申上、山田民部殿、刑部左殿、只兩人御跡へ返敵をふせき、
惟新様をのかせ上被申候處、伊賀國之内しからきと申所に而御一大事に而候へ共、刑部左衞門殿被罷出種々被申候而、
其場無何事御座候、しからきの事は細成儀多候へ共、老筆不得書申候、夫より七ヶ國御通被成候、片時も御側を不相離、
御共に而御下向に而候、
0562人間七七四年
2019/02/28(木) 21:32:08.90ID:i8/xWqaLもう落城していたので諦めたというのが少し気になりますね
0563人間七七四年
2019/02/28(木) 21:45:47.39ID:i8/xWqaL0564人間七七四年
2019/02/28(木) 21:54:17.65ID:6DaPn8es0566人間七七四年
2019/02/28(木) 23:58:33.76ID:i8/xWqaL>>54書状だと西軍自ら外郭をを燃やしたはずなのに
自ら防御力低下させた城にわざわざ籠城しようとするかな
0567人間七七四年
2019/03/01(金) 00:47:11.69ID:poeiOndEこの外曲輪を三成らが移動するときに敵に利用されないように焼いてっただけだから城自体は無傷
0569人間七七四年
2019/03/01(金) 03:07:24.97ID:2brakp2y??「世になきお太り」
??「この春(慶長13年2月1608年2月)、大坂の秀頼公は疱瘡をお患いになり、はなはだ危急」
0570人間七七四年
2019/03/01(金) 23:01:33.37ID:YnbGhLUF急度申入候、
一 会津表各出陣之定日従関東可被仰出候条、
七月十日以前ニ被罷立儀者無用由候、
急被罷立候而在陣之所地下人可為迷惑候間、右之通被 仰出候事
一 於先陣軍法之儀、何様ニも内府様御下知次第ニ可被相働旨候、
被背御下知自然心々ニ被相候者、可為越度事
一 路次中泊々之儀も、御兵粮丈夫ニ被遣候上者自賭ニ可被申付旨候、
為御目付御使番衆所々ニ被置候間、若下々非分之族有之者、
其主人可為越度旨御意候条可被入御念候、恐々謹言、
六月十五日 増右 長大 徳善
長盛 正家 玄以
金松又四郎殿
御宿所
6月25日付前田玄以・増田長盛・長束正家連署状
今度東海道金松又四郎出陣、人数四拾人・馬三疋事、
如帳面兵粮・馬飼料?可被計渡候、若雨降於逗留者、
応日数可被相渡候、則右米・大豆 公儀御算用ニ可被相立候間、
其主人請取を可被取置候、恐々謹言、
六月廿五日 長大 増右 徳善
正家 長盛 玄以
草津(近江)にて二日分
新庄東玉(直忠)
駒井中務(重勝)殿
亀山(伊勢)にて二日分
岡本次兵衛殿
あつた(尾張)にて二日分
羽柴左衛門大夫(福島正則)殿
すセ(三河嵩山(すせ))にて二日分
田中兵部太輔(吉政)殿
見付(遠江)にて一日分
堀尾信濃守(忠氏)殿
島田(駿河)にて一日分
山内対馬守(一豊)殿
駿府(駿河)にて一日分
中村式部少輔(一氏)殿
神原(駿河蒲原)にて二日分
同人
0571人間七七四年
2019/03/02(土) 06:17:19.21ID:YypkSGSt体重計も無い時代に見た目の体重43貫なんてのは書いた人間の主観に過ぎず「猪のような大男」と言ってるのと同じだよ。
茶々の家系は普通に大男が多いわけだから母親にと思えば何もおかしくは無い。
身長はあってるとして体重もせいぜい100キロ程度だと思うぞ。
0572人間七七四年
2019/03/02(土) 06:38:01.44ID:5ToCR+Pg宇喜田と石田をそれぞれ壊滅させた軍が攻めて来たので、その間を抜けて大垣城に戻ろうとしたら、
南宮山付近で落城しているのが見えたので、伊勢路の駒野坂方面に逃げて行ったってことでいいのかな
0573人間七七四年
2019/03/02(土) 11:38:38.42ID:K7IXs2IA米やら武具やらの計量をするのに使うだろうから
たぶん城内に重さを測れるテンビン秤もあったんだろうけど
でかい天秤に秀頼を乗せて計量するの想像したら、かなりシュールな光景だな
0574人間七七四年
2019/03/02(土) 12:35:56.60ID:lwoO24Pw0576人間七七四年
2019/03/02(土) 18:29:08.78ID:RKcGEcQw0577人間七七四年
2019/03/02(土) 19:10:29.09ID:YypkSGSt■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています