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関ヶ原合戦の真実 Part9

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0001人間七七四年2018/12/23(日) 14:17:08.63ID:uA0riSLH
慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦い。
豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
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前スレ
関ヶ原合戦の真実 Part8
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0478人間七七四年2019/02/23(土) 11:44:20.72ID:H0eLOuwn
肥後は佐々も統治失敗しているしかなり難しい土地だからな
むしろ現代まで慕われているだけでも清正はよく頑張ったと言える
0479人間七七四年2019/02/23(土) 12:20:24.37ID:TYbPY+Mp
>>477
冨田、富田一白
寺西、寺西正勝or是成
森壱岐守、毛利吉成
堀田若狹、堀田一継
佐々淡路、佐々行政
石田木工、石田正澄
片切守善、片桐貞隆
石川久五郎、石川光元
山中山城守、山中長俊
木下與左衞門尉、木下延重

かな
0480人間七七四年2019/02/23(土) 15:19:05.30ID:LyAEtr3r
>>478
佐々さんが命を代償に国衆をお掃除してくれたあとはそんなに難しく無いのでは?
0481人間七七四年2019/02/23(土) 21:41:13.04ID:QdkZQZYw
かつての取次だった蜂須賀、黒田から毛利、吉川宛の書状
0482人間七七四年2019/02/23(土) 21:41:48.54ID:QdkZQZYw
輝元家臣宛家政書状

蜂須賀家政書狀

猶々兩人御同意之儀、初者雜説と存、不實候處、安國寺より承候旨は、今度東國へ之御人數被指留之由蒙仰に付而、驚入候、以上、

態啓上候、仍今度石治、大刑逆意無是非存候、就夫、輝元様も御同意之樣に爰元申成候、無御心元奉存候、若於事實者、

さりとては世間之批判無御勿軆存候、勿論、近年内府無御屆儀共可有御座候、雖然、被奉對 秀ョ公、餘相違之題目、

拙者式不承候、於然者、以御覺悟天下之亂可有出來儀、歎敷御事、不可過御分別候、か樣之儀、推參、其恐如何御座候へ共、

年來別而御懇に付而申上候、此旨御披露所仰候、恐々謹言、

    七月十六日         (家政花押)

                     蜂須賀阿波守
     堅田兵部少輔殿   
0483人間七七四年2019/02/23(土) 21:42:47.48ID:QdkZQZYw
吉川広家宛如水書状

K田圓C自筆書狀

              如水軒
   廣家樣         圓C
       參人々御中
   以上

態申入候、内府御上之由取沙汰申候、必定に候哉、其口に貴殿御座候間、一入氣遣に存候、御手前無御越度之樣に、

兼日御分別干要に候、上方人數之儀者、悉内府へ内儀有之様に申候間、御手前之儀專一に候、爲其此者進之候、

九州之儀今迄は靜に御座候、何樣に猥候共、手前之儀者、御氣遣被成間敷候、恐々謹言

   九月三日             圓C(花押)

     廣家樣
         參 
0484人間七七四年2019/02/23(土) 21:44:17.68ID:QdkZQZYw
吉川広家宛如水書状

K田圓C自筆書狀

   廣家樣         圓C
       貴報

尚々、小倉之儀、從輝元加番入之由候間、壹岐へ不渡樣に可被仰付候、

去月廿二日之御狀、昨日三日に拜見由候、

一 先年より隆景元春申談、彦右衞門拙者中國之儀御馳走申、其續貴殿隆景無御忘却候、殘衆者、

   備前中納言同前之御覚悟候き、雖少身候、林肥前者、先年之筋目無忘却通、去年於京都拙者に申理候、

一 今度中國御家之續之事、貴殿御律儀故、羽左太、甲斐守に被仰談、御家再興中々不得申候、定而中國上下只今可存當事、

一 彌羽左太、甲斐守御入魂肝要候、兩人迄輝元幷貴殿御事御馳走候へと申遣候事、

一 宰相殿御事御幼少之節、別而馳走申候き、元C先年より無御等閑故申談候、又久留米藤四郎殿儀、是又貴殿御存之事候、

   御兩所より近年捨文一通不被下候、只今申候は不入儀候へ共、貴殿御事者、㝡前之馳走無御忘却通、奉感候故、兩人之儀を申事候、

一 上方於美濃口御取相當月迄も御座候者、中國へ切上、花々と見知返し候而、一合戰可仕と存候に、はやく内府御勝手に罷成殘多候、

一 於九州者、奉行方之者は嶋津、立花迯下有之事候、内府樣へ得御意に上せ候間、被仰出次第兩人之者共則時討果、

   罷上、以面萬々可申承候、恐惶謹言

     十月四日             圓C(花押)

     廣家樣
         貴報
0485人間七七四年2019/02/23(土) 23:03:49.00ID:hdlgyYWL
>>480
逆らうものは皆殺しの勢いで粛清やったから生産力は当然落ちるわけで
これをいくら代官としての統治経験はあるものの
こないだまで3000石だった清正が乗り込んで運営するのって簡単ではないのでは
しかも九州の大名だから唐入りにおける大目の軍役負担までついてくる
0486人間七七四年2019/02/24(日) 01:14:58.50ID:+eN63wEi
>>485
それは清正の問題で一揆後の肥後が取り立てて難治というわけでもないとおもう
大規模戦に巻き込まれた土地の生産力が一時的に落ちるのは普通だし
0487人間七七四年2019/02/24(日) 14:25:22.30ID:BeCH2r4p
慶長5年9月15日早暁、関ヶ原は、濃い霧に包まれていた。家康は、既に安全な桃配山を降り、関ヶ原の東の端に陣を敷いている。
それは、霧が晴れたとき、敵方の度肝を抜く狙いであり、今日の戦に賭ける、家康の、決意の現れでもあった。
西軍の陣型は、相手を包囲するのに相応しい、鶴翼の陣備えであり、対する家康は、中央突破型の、縦隊魚鱗の陣型である。
0488人間七七四年2019/02/24(日) 14:44:36.27ID:S3it2bcK
>>487
西軍は決戦のために布陣したのか追撃を受けて追い付かれたのが関ヶ原なのか
0489人間七七四年2019/02/24(日) 15:59:07.53ID:Wo4KYOLo
損害からみるとまともに戦ったとは思えないんだよなぁ
0490人間七七四年2019/02/24(日) 16:18:58.74ID:XIZk66y1
今だと小早川の裏切りによる松尾山占拠に対して、それを討つ為に出陣したら、東軍と意図せぬ戦闘となって、そのまま壊滅だったっけ
0491人間七七四年2019/02/24(日) 16:20:44.16ID:0l0HP60f
ドラマはないけどそうやろなぁ
0492人間七七四年2019/02/24(日) 16:27:51.25ID:BeCH2r4p
家康は、今日の戦いを、人間の体力の限界で考えていた。西軍は、家康の思わぬ出現により後手に廻り、前夜より、殆ど眠っていない。家康は、西軍の体力が回復しないうちに、合戦の火蓋を切って置きたかったのである。
0493人間七七四年2019/02/24(日) 16:29:24.15ID:wlWcvXRt
>>487
軍記では西軍は特に記述は無くて、東軍も家康本陣を
魚鱗(関ヶ原方面)鶴翼(南宮山方面)と記述した程度
0494人間七七四年2019/02/24(日) 19:38:57.78ID:sMq4NJ0Q
首謀メンバーについて思ったことなんだけど、
石田正澄が近江愛知川で人留めして上杉征伐参加予定だった衆を西軍に
引き入れたという部分だけど、
石田三成は7月29日に伏見城に到着するまで大きな動きがない。
これを以てか、石田三成は首謀メンバーではなく勧誘されただけ、
という説があるけど、石田正澄が愛知川で人留めしてるのに、
三成は首謀メンバーではないと言えるのだろうか?
もし勧誘されただけだと言うならば、首謀メンバーは毛利輝元+安国寺恵瓊、
増田・長束ら奉行衆、石田正澄、(大谷吉継、宇喜多秀家、上杉景勝?)となる。

石田三成は首謀メンバーだが、人望がないし隠居してる身なので、
出しゃばらずに目立たないようにしていた、のほうが説得力があるように思うが。
0495人間七七四年2019/02/25(月) 01:02:42.67ID:8e2yyEUd
>>490
合ってる
ドラマみたいな布陣とか松平の抜け駆けとか奥平鉄砲とか無いから
松尾山の小早川、それに追随する小川、朽木らと家康勢に挟まれて2時間くらいで上方勢は壊滅
0496人間七七四年2019/02/25(月) 09:59:59.67ID:UNqAGK97
吉川広家が内通して東軍は南宮山素通り
三成らも背後からの攻めに備えてたんだろうけど大軍で怒涛のようにくるのは予想外だったのかな
0497人間七七四年2019/02/25(月) 10:48:54.22ID:XkaBMRKi
小早川から家康に密使も行ったろうし大垣城の外曲輪を焼き払って移動と資料にあるからバレバレだったか
外曲輪を焼き払うって必要だったんだろうか
0498人間七七四年2019/02/25(月) 11:40:33.32ID:M+0oTvVg
じゃあ島津の退き口は無かったの?
0499人間七七四年2019/02/25(月) 12:40:57.53ID:B4pQad8Y
>>490
西軍の中で関ヶ原で壊滅したとされてきた軍が、三成と一緒に松尾山へ向かった部隊ということかな
0500人間七七四年2019/02/25(月) 13:57:07.76ID:j5dQ9xft
加藤清正って過大評価されてる気がする築城名手で熊本城素晴らしいけどさ…。
立花宗茂はそのままの評価で良いし黒田孝高も人望や名声はあれとしても実力はあったからあの評価で良いと思う。
評価が低いのは鍋島直茂と黒田長政。この二人は加藤清正黒田孝高立花宗茂の餌になってる気がする。実力凄いあるんだけど残念。毛利勝永みたい。
0501人間七七四年2019/02/25(月) 14:08:48.00ID:5gTt4FAt
>>498
多分もっと早い段階で逃げてたと思う。戦闘終了間際で両軍とも混乱してるのに正確に敵兵の逃走劇を記憶して記述できる人間が居るとは思えない。


おそらく戦闘開始時に島津軍がいた事と終わってから島津に逃げ帰ったらしいという事実があって、
島津かどうか確証はないがが島津らしき軍団が大急ぎで逃げていったのを目撃したものが居て、話が合わさって作られた都市伝説のようなものだろうな。
0502人間七七四年2019/02/25(月) 14:45:53.77ID:j5dQ9xft
戦闘開始直後に家老の長寿院盛淳や甥の島津豊久に殿させて薩摩に帰国したのを退き口と呼ぶのは誇張だと思うよ。それだけ早くに勝負(関ヶ原の戦い)がついていたという確証にもなってる訳なんだよな。
かなりの乱戦で長寿院盛淳もどこで戦死したかも定かじゃ無いし甥の島津豊久は生存してると思って後々探させた話もある位だからね。退き口云々は後世の作り話でしょ。
0503人間七七四年2019/02/25(月) 14:47:19.79ID:xBNzk8Y3
合戦が始まってあっという間に西軍が潰滅してしまい、後方が逃げる西軍と追撃する小早川らで大渋滞してしまい、(実は)やや前方に布陣していた島津隊は追撃の結果やや隙間の空いた前方に逃げるしかなかった

というところじゃないか
0504人間七七四年2019/02/25(月) 15:14:14.00ID:eZN8MutS
島津は普通に戦って普通に負けて普通に逃げただけ
0505人間七七四年2019/02/25(月) 15:33:52.03ID:Ta183y5V
広家によると義弘、一騎で伊勢路の方に逃げたみたいだけどね
0506人間七七四年2019/02/25(月) 15:39:35.49ID:j5dQ9xft
島津義弘が関ヶ原の戦いから薩摩に帰国した時に手紙で徳川家康旗本の精強さに震え上がったと書いてある。
この徳川家康旗本ってのは多分井伊直政隊や本多忠勝隊だと思うけど
手紙の内容で薩摩兵が斬っても斬っても屍を越えて襲って来る三河武士は人に非ずみたいな事書いてある。
つまり薩摩兵が最強に強くて退き口したなんてのは当人の島津義弘さえも言って無いから前方にたまたま空間が空いてそこに真一文字で逃走したのが後世美化されただけ。
0507人間七七四年2019/02/25(月) 18:15:45.33ID:LJZcEaAP
旗倒してこそこそ東軍の左軍と右軍の間の隙間逃げただけだからな
0508人間七七四年2019/02/25(月) 19:02:52.51ID:z+jvJIab
島津は覚書がたくさんあったよね
0509人間七七四年2019/02/25(月) 20:35:41.70ID:hoXmKKrf
正直島津が武勇を誇れたのは九州でしかなかったよな
0510人間七七四年2019/02/25(月) 21:39:32.91ID:SkjB+sJJ
島津家臣の覚書だと第一陣が宇喜多と小西、二陣が島津でその東側に三成が陣取り、大谷が遅れて合流
そして小早川により大谷が壊滅、東軍の先陣が宇喜多隊を壊滅し、次に島津に攻めかかり、
その間に東に陣取った三成を別部隊が壊滅。その部隊も島津に攻めかかり、その両軍の間を抜け島津が逃走。
それが何故か三成に不満を持っていた島津が戦闘には参加せず、最後に敵本陣に突撃を懸け
敵中突破した話になっている。
0511人間七七四年2019/02/26(火) 00:33:31.57ID:OfNxPws6
松尾山には本来宇喜田隊が入る予定だったんだっけ?
0512人間七七四年2019/02/26(火) 00:56:14.75ID:KOpQygXH
>>499
石田、小西、宇喜多、島津あたりかな主力は
0513人間七七四年2019/02/26(火) 01:02:19.40ID:KOpQygXH
これ疑問なんだけど、合戦前夜のそれぞれの陣営位置について、
石田方は大垣城、家康方は美濃垂井、小早川が松尾山城、毛利勢が南宮山で合ってるよね?

家康方は石田方と比して西側(大坂寄り)にいたってこと?
0514人間七七四年2019/02/26(火) 02:22:51.42ID:HmmkxOmn
前夜なら東軍は岡山だろ
0515人間七七四年2019/02/26(火) 03:17:43.34ID:Wj4VC52J
島津は捨てがまり戦法で井伊軍に打撃を与えたのが風聞化したのかな
0516人間七七四年2019/02/26(火) 05:38:44.30ID:gZqW6TXM
かなり盛ってるよね。義弘が国に戻れてもあんな壊滅状態なのをほめられたもんじゃない
0517人間七七四年2019/02/26(火) 09:55:56.39ID:tv+10ucV
井伊直政は完全に島津の踏み石にされた感じよね。井伊直政は鉄砲の被弾で亡くなったのでは無くて過労死。
それが関ヶ原の戦いの2年後だったから島津軍があの赤鬼を仕留めた!みたいになった。
実際は赤備えと交戦した時に修羅の様な強さで親を鉄砲で射抜いても子供がその親の屍を越えて襲いかかるというヤバさだったらしい。
その後に来た本多忠勝なんかは釣り野伏せして馬が射抜かれて落馬したが鬼の形相で島津兵を蜻蛉切で串刺しにしたとある。島津義弘も本多忠勝隊に追い付かれ死を覚悟したが本多忠勝が見逃したらしい。何故見逃したのかは謎。
その後島津助名を井伊直政と本多忠勝が家康に取りなししている。
0518人間七七四年2019/02/26(火) 10:16:56.67ID:tv+10ucV
釣り野伏せじゃなくて捨て奸でした。
ちなみに本多忠勝隊は500にも満たない数で関ヶ原を縦横無尽に駆けて首級90挙げたとある。

徳川四天王って地味なイメージあるけど信長や秀吉に絶賛されてたり格上の武田北条豊臣と戦って勝利して大将首迄獲ってる猛者揃い

自分は家康好きじゃないけど関ヶ原の戦いの時に徳川家康と徳川軍が強くて勝ったは頷ける。
西軍が勝てる要素が無いのが悲しい。

昔テレビのシュミレーションで立花宗茂の大津城包囲部隊も関ヶ原に布陣してたらってのがあったけどやはり最後は東軍の勝ちになってて悲しかった。
0519人間七七四年2019/02/26(火) 10:31:29.18ID:tv+10ucV
>>511
毛利勢が入る予定だった。
最初は大垣城主伊藤盛正が松尾山に布陣したが小早川秀秋に追い出されている。
これを聞いた石田三成が焦って関ヶ原に急行したが既に松尾山の麓に居た大谷隊は壊滅。その後はここに書いてある通り。
0520人間七七四年2019/02/26(火) 10:35:59.49ID:tv+10ucV
伊藤盛正は石田三成に松尾山は中国勢が入ると言われておりそれは毛利勢なのは伊藤盛正も理解してたみたく小早川秀秋が来た時に小早川側は毛利一門だから松尾山を降りられよと言われて無理矢理降りたらしい。小早川は毛利一門ではあるが中国勢では無いからね。
0521人間七七四年2019/02/26(火) 12:31:36.20ID:tv+10ucV
歴史にIfは無いけど…大津城攻めの末次元康、小早川秀包、立花宗茂この部隊15000が松尾山に陣取ったらどうなっただろうか。この部隊が主戦派なんだよね。流石にこの部隊が松尾山に布陣してたら南宮山の毛利秀元や吉川広家も動かざるを得ないよね。
逆に南宮山にこちらの末次元康隊を配置するとかね…。
毛利輝元が意図してやった事なんだろうけどさ。
0522人間七七四年2019/02/26(火) 12:43:31.14ID:USBAJKCx
>>518
井伊と本田はイメージあるが
他の二人がようわからん
0523人間七七四年2019/02/26(火) 12:55:18.21ID:tv+10ucV
>>522
酒井忠次と榊原康政

酒井忠次は長篠の戦いで武田軍の背後を獲って長篠の戦いの勝利にみちびいた立役者。

榊原康政は小牧・長久手の戦いで羽柴秀次隊を壊滅寸前にして森長可、池田恒興親子を討ち死にさせた。

自分は西軍派なので徳川武将は好きじゃないけど強さは相当なもんだよ。
0524人間七七四年2019/02/26(火) 14:02:29.75ID:USBAJKCx
>>523
なるほど

井伊も本多も自分で戦うからすごいね

井伊はやり過ぎだが
0525人間七七四年2019/02/26(火) 14:09:59.05ID:qJ0fUvzt
松平忠吉「あれ?……俺は?」
0526人間七七四年2019/02/26(火) 14:22:40.16ID:DslkMrnF
あっという間に味方の最前線を駆け抜けた井伊直政、松平忠吉の軍勢は、今日の戦で最強と見られていた島津勢に攻めかかり、静かだった高原盆地は、あっという間に動揺と混乱、修羅の坩堝と化した。
東の口をしめる南宮山と、西の口を閉じる松尾山が、動かなければ、西軍の戦いは、底も蓋もない桶で、水をすくう徒労に終わる。
0527人間七七四年2019/02/26(火) 22:17:05.96ID:PBt3C7dW
>>506
その書状読んでみたいんですけど、何に収録されていますか
0528人間七七四年2019/02/26(火) 22:30:00.30ID:IWd+y9Pn
>>523
三河の人間は家康の祖父や父親を殺したように気に入らない主君にはすぐ謀反をおこすクズだが、
よく言えば反骨精神旺盛で能力に優れている猛者ぞろいだ。
それを束ねあげて忠臣にした家康がすごいんだよ。光秀を蹴り倒し、秀吉をバカにする信長が唯一尊重する相手だからな
0529人間七七四年2019/02/26(火) 22:43:44.86ID:DslkMrnF
だからこそ三者は、類い稀な友情で結ばれ、信長48歳、秀吉63歳、彼らから天下平定事業を託された家康は、19歳にして建てた厭離穢土欣求浄土を、59歳にして、関ヶ原に打ち立てのである。
0530人間七七四年2019/02/26(火) 22:48:38.55ID:JQBgtYjO
ということは豊臣にとって代わる気満々で関ヶ原に臨んだってことかな
0531人間七七四年2019/02/26(火) 22:51:45.43ID:JQBgtYjO
ああ
煽るとかそういう意図じゃないんだけど、家康の豊臣を排除した政権運営への意欲って関ヶ原前からだったのか後だったのかなと思って
0532人間七七四年2019/02/26(火) 23:03:08.81ID:2qmGUMyX
とってかわるというよりは
西軍挙兵によって豊臣に公儀性というものが全くないことが証明されて
もう豊臣政権というものを家宰として維持することが不可能という認識にはなったんじゃないかな
とはいえ誰かが公儀をやらなければいけないし、江戸に幕府を開いて直接諸侯の首根っこつかんで抑える形にシフトしたって感じ

誰かが言ってたけど天下人ってむしろみんななりたくない、他人に押し付けて自分は要職ポジション確保してうまい汁すすりたい、でも誰かが天下人やらなきゃいけないっていう貧乏くじの押し付け合いが当時の共通認識であるって考え方も意識した方がいいかも

それはそれとしてちょっと上の方のはロマンに酔いすぎな記述の仕方な気がするなぁ
0533人間七七四年2019/02/26(火) 23:05:01.00ID:HANAgwzp
色々な見方があるだろうが後じゃないかな
関ヶ原が起きなくても秀吉利家亡きあとの家康の豊臣政権での立場は鎌倉幕府の執権、室町幕府での管領相当の立場だし
結果的に関ヶ原で反徳川派が一掃されたことで単独政権の可能性が出てきただけで起きなくても政権の第一人者ではあった
0534人間七七四年2019/02/27(水) 00:17:15.31ID:Pj1w2Wda
家臣を押さえつけられない時点で家としては死に体だからね
形式的には豊臣政権の内紛という構図だけど
豊臣家がどっちにも肩入れしなかった(できなかった)ことにより地位の失墜は免れなくなってしまった
なら何もできない豊臣家より勝った方の徳川家に天下を任せたほうがいいなってことになる
0535人間七七四年2019/02/27(水) 00:30:24.25ID:4oLe2Dje
聚楽第行幸で公認されていた武家関白制の関白・豊臣長者一家を虐殺するのは明確な謀反行為だからね。秀吉秀頼の豊臣に公儀性はないよ。
秀吉の死後は内大臣が最高位の武士なので、仮の公儀を運営する資格を持つ。1601年に関白が、1603年に征夷大将軍が任命されたあとは
公家関白制のもと、将軍の実効支配体制だ。鎌倉室町江戸と続く伝統な流れ。豊臣はあぶくみたいなもんだ
0536人間七七四年2019/02/27(水) 01:36:19.12ID:IoU7MPC3
家康の方は豊臣旗下にはいる前からしっかり組織が固まってたしなあ
0537人間七七四年2019/02/27(水) 05:59:11.95ID:Q5QzTiAT
>>532
一応別の選択肢として、統一政権を完全に無力化して
都合のいい時だけ利用する古ぼけた神輿にするって手はあるがな
要は諸大名が好きに政権運営や領地拡大をする戦国時代に時計の針を戻すって方法だな
つーか、家康はこっちのルートもアリな筈なんだよね
内府違いの条々出された時点で「じゃあ好きにやらせてもらうわ」って選択肢もあったと思う
0538人間七七四年2019/02/27(水) 12:15:25.28ID:Bsm9wVUp
>>527
横からだけど島津家文書だと思う。
違ってたらごめんね。
0539人間七七四年2019/02/27(水) 16:46:14.47ID:1r2PHvdH
>>537
まぁそうなんすよね、動乱の時代カムバックも十分あり得たんですよね
だからまぁ関ケ原って動乱に巻き戻るかどうかに諸侯がノー!と突っぱねたものなんですよね
勿論毛利や上杉は大諸侯で動乱のがうまい汁吸えるから挙兵したんでしょうけど
0540人間七七四年2019/02/27(水) 22:27:03.51ID:KpQV53yb
>>536
別の主君に仕える気はないから官位も感状もいらないとか
他の主君に仕えるくらいなら切腹するとか面倒くさい家臣も居るけどね
0541人間七七四年2019/02/28(木) 01:42:55.64ID:Z2BM86Zf
>>537
まあ、あの時点で自分の領地に引き篭もる選択肢も有る事は有る。
但し、その場合は一度は膨大な討伐軍が来るんじゃ無いの?
0542人間七七四年2019/02/28(木) 07:16:39.58ID:QU7ChQlj
>>540
そんな中石川数正はかなり異質な配下だったんだな
0543人間七七四年2019/02/28(木) 08:32:16.80ID:iYNG1a0i
西三河の領主だけに尾張の影響も受けやすいとか
0544人間七七四年2019/02/28(木) 18:18:23.23ID:N/5zygS1
家康のお祖父ちゃんも父ちゃんも部下にやられた可能性高いし家康自身が三河一向一揆で部下の離反多くて苦労してるのに三河という土地柄だから部下がしっかりしてるってのはないんじゃね
むしろ家康が自力で信用できる部下たちを作った上で、のちのち後世の人たちが三河武士は忠実という風聞を作ったんでしょ
0545人間七七四年2019/02/28(木) 19:45:44.37ID:KQrcomlm
父親の時は領内乱れまくりだしね
0546人間七七四年2019/02/28(木) 19:56:37.43ID:2IwWMeA1
家康が偉大なんだよ。
三河人は不器用で武闘派な狂犬みたいなものだ。主人と認めなければかみ殺す。一向宗にドハまりした狂信者もいれば、石川数正みたいなのもいる。
その三河人をたばねあげて忠誠を誓わせ、秀吉に嫌がらせをされて左遷されてもついてくるくらい統率したのだから家康がすごいわけさ。
さすが信長が唯一の同盟者と認めただけのことはある。
0547人間七七四年2019/02/28(木) 19:59:57.05ID:yeTnUQ9H
唯一の同盟者とかさらっと嘘をつくんじゃありません
0548人間七七四年2019/02/28(木) 20:23:23.60ID:2IwWMeA1
秀頼の爺さんは裏切っただろ?妹を妻にむかえておきながらいきなり後方から奇襲して
0549人間七七四年2019/02/28(木) 20:29:21.63ID:q9eBVSml
>>541
そのリスクがあるのは認めるよ、割と博打な決断だしね
ただし賭ける価値はあるとみる、毛利と上杉にとって強大な中央政権は結局邪魔だからだ
早い話が毛利と上杉に密使を送ってこう言えばいい
「味方になれとは言わん、征伐への従軍を拒否してくれたら毛利は播磨以西、
上杉は東北や北陸でどう動こうが徳川は関知しない」と
つまり毛利に西国、上杉に東北や北陸での優位性を認めるという事、
もっと言うなら「中央政権なんか無視して地方で好き勝手やろうぜ!」って事だ
まあ絶対とは言わんが話に乗ってくる可能性はあると思う
0550人間七七四年2019/02/28(木) 20:29:43.64ID:tSlZOTPb
家康は飽くまでも大坂方との和議を望んでおり、大坂に集まった浪人衆が元凶と考えていたが、秀忠ら主戦派の勢いを止められなかったのである
0551人間七七四年2019/02/28(木) 20:35:53.76ID:nE89rieY
ぶっちゃけ秀頼くんがバカ殿すぎて大揉めした結果だからなぁ、あれ
秀頼くんに最低限の器量さえあればつつがなく続いてたよ

お話の大坂の陣だとさすがにそれじゃああんまりだから花のようなる秀頼さまなんてしてるけど
0552人間七七四年2019/02/28(木) 20:48:42.23ID:2IwWMeA1
秀頼はまずダイエットしないとね。武士の頭領になりたいなら馬に乗れないと話にならないよ。20歳前後の若武者なんだし。
家康のように武術の達人とは言わないまでも、香取神道流や新陰流を学んで印可を受けるとか、弓の腕を磨くとか、毎日馬で朝駆けしたり鷹狩りしたりしないと。
しかし、160キロをこえた疱瘡アバタ顔のデブを花のようにってどの花なんだろうな。ホトトギスの花とかか
0553人間七七四年2019/02/28(木) 20:53:58.48ID:kUKf71LC
>>552
死ねガイジ
0554人間七七四年2019/02/28(木) 21:20:49.54ID:oOTlw0Ka
>>552
家康が秀頼は産まれながらの大将の器と称してるからそんな奇形体格なわけ無いだろ。
0555人間七七四年2019/02/28(木) 21:25:52.83ID:i8/xWqaL
島津家臣の覚書を何点か。しかしこの手の覚書って後年に行く程、
長く詳しく派手になっていくものだね
0556人間七七四年2019/02/28(木) 21:26:26.01ID:i8/xWqaL
~戸五兵衞覺書

一 九月十四日夜入り候てより大柿御打立、夜中に關ヶ原へ御着被成候、夜明候へは東國衆大谷刑部殿陳にかかり、

  六七度之合戰有之候處に、上之山より筑前中納言白旗をささせ横入仕、大谷殿人數壹人も不殘打取り申候、

  備前中納言殿陳へは新手之大將相懸追崩、此方之御陣へ相かかり申候、東は別手之大將相懸候間、石田殿陣追崩候間、

  此方之御陳へ相かかり、其猛勢眞中へ 惟新尊公御掛り被成、大敵を打捕り眞中を切明、東之ことく御切通被成候、

  然處に如此御通被成候而も、何方へ御出可被成事に而候哉と人々申候へ者、又本之ことく大柿へ御籠可被成との御意に而、

  南宮山と申所へ御出被成、大柿を御覽被成候へは、もはや本丸に火之手あがり申候付、御籠被成候事不罷成、

  自其伊勢地こま野之坂江御上り被成、近江、伊賀、大和、河内、和泉御歸國之路次傳、片時も御側を不相離御奉公被成候事、

  我等日夜御側に罷在爲存知前に而候、
0557人間七七四年2019/02/28(木) 21:27:39.42ID:i8/xWqaL
~戸久五郎覺書

一 大柿御打立之時より雨ふり、悉くぬれ申候而人々ふるひ申候、九月十五日之日出に、もはや東國衆のほりを指立候而、

  岡山より關ヶ原江參申候、先一番に大谷刑部殿陳にかゑり申候、大谷殿衆もかかり合、追つまくつ六七度之合戰仕候處に、

  上之山より筑前中納言逆心殿白はたを差せ横入仕、大谷殿人數壹人茂不殘討捕申候、備前中納言殿陳へは別大將相掛申候而

  一戰被成候得共、前に岡御座候而此方之陳よりは見得不申候、中納言殿相山申候、其敵則此方之陣江相掛申候、
  
  何茂亦したく爲仕敵に而候、東は石田治部殿陣猛勢相掛一戰有之候得共、石田殿陳茂相崩、其敵則此方之御陣江相掛申候、

  此方之御陣は弐番そなへに而候、然處、惟新樣被成御意候は、敵は何方か猛勢か御尋に而候、東より之敵以之外猛勢之由被申上候へは、

  其猛勢之中へ可相掛之由御意候而、脇々に少つつの敵はいかほとも有之候而も、其方は打置候而、猛勢之眞中江かけ入、

  過分成る大敵を打捕中を切明、山通なされみかたを見申候へは、漸下々かけて御手廻の人數五拾人程にて罷なり候、

  きりもの衆被申候者、このごとくの無人に而者軍仕事罷成間敷候、是よりは御思ひ被成候而は罷成間敷候よし被申候而、

  刀之ひるまきをとらて、御馬の印も打捨、東のごとく御通被成候、然處先を見申候へは、馬乘の敵いつかた騎共不知罷居申候に付、

  人々被申上候は、先に見得申候者皆敵に而御坐候、何と可仕候哉と被申上候得者、被聞召候而被成御意候は、

  敵に而候はは切通る、切通事不罷成候はは、兵庫頭切腹可被成之由御意に而候、何茂承候而畏たる由申上候而、
0558人間七七四年2019/02/28(木) 21:28:09.37ID:i8/xWqaL
  敵之間四五間參候迄は、菟角之樣子無之軆に仕而參、間三間計に罷成候時、皆々刀をぬき、ゑいとう聲を上切通被申候時、

  年之比四拾才程之法軆乘物よりおり立、駕を此方之預に仕候而罷通候を御覽被成候而、其鑓與御意被成候へは、

  御道具衆頓而申上候、御取被成候而可被遊與被成候得共、いやあれ通之者はと御意に而遊し不申候、

  然處に後醍院喜兵衞江走出被申候へは、其所討捕申事は何より安候得共、後日之爲跡證にたすけ申候、只今爰元を召通候へは、

  西國之嶋津兵庫頭に而候、少茂北候而は不罷通候、東國衆之分に而は討留事不罷成候に付、只罷通申候、

  少茂北は不仕候由被申候處、人々被申候は、是程御忍被成度に不入名乘被申候、はかなく由口々に被申候時、喜兵衞耳に入、

  さりとては言語道斷、比興至極成儀を被申候、 惟新樣は御たすかり可被成と被遊候哉、御討死可被成事は覺悟之前に而候間、

  如斯名乘爲申由被申候へは、とかくを申候人無之候、其場を御邂候而より人々被申候は、如斯御除被成候而、

  何方江御出可被成事に而候哉、被申候へは、又本之大柿之城江御籠可被成と御意に而候付、大柿を差て御出被成候處、

  南宮と申所より大柿を見申候へは、本丸に火掛り候而落城而候付、御籠被成候事不罷成候、
0559人間七七四年2019/02/28(木) 21:29:21.67ID:i8/xWqaL
~戸久五郎覺書

一 彼南宮山に長曾我部長宗新殿陳取罷居被申候、 惟新樣被成御意候者、於關ヶ原秀ョ公御奉公に別而分骨を被遊、

人數如此に討なされ御通被成候由に而、御使被遣候由御意に而候、人々被申候は、長宗新殿は眞下を敵御通被成、

  一戰茂不被成候時者、御心替に而もや御坐候半と、左候處御使被遣候而者、味方無人にて社候へ、不入儀に而候由、

  何も巧者衆被申候、右之段被聞召候而被成御意候は、長宗新殿心替に而もくるしからす被思召候、昨日今日迄被迎合たる儀に而候、

  其上高麗已來より之御念比に而候間、先々心替には御かまひ不被成候間、御使可被遣之由に而、誰かしと御意候へ共、

  我等可參と申人無之候處に、伊勢平左衞門殿被申上候、參候人無御坐候間、我等可參由被申上候、 惟新樣御悦被成、

  早々平左衞門被參候へと被成御意候、趣は 秀ョ公御奉公、於關ヶ原度々之合戰仕候而、人數如斯討なされ罷通候、

  後日出合之時分、證跡に御立被成候へと被仰候、右之御意平左衞門被承、主從三人に而長宗新殿陳江馬かけにて、

  そなへ之内に入被申候、人々申候は、平左衞門殿もはや被討被成候半與、口々に申候、暫歸宅無之候に付、
0560人間七七四年2019/02/28(木) 21:29:55.84ID:i8/xWqaL
  扨被討候事一定に而候と申候處、そなへ之内より馬を乘出、歸宅被成候を人々見申候、扨者心替にに而無之由人々被申候、

  左候而御返事に、關ヶ原に而の合戰に御手柄之程可申樣無御坐候、去とては比類類御坐御事も、我等之下を東國衆罷通候へとも、

  此方江者かまひ不申罷通候間、我等人數壹人もそこね不申候間、何時に而も一合戰可仕候、長宗新殿も何方江成共、

  惟新樣御陳へ可被成樣除可申由に候、夫より伊勢之駒野之坂へ御上り被成、近江之内土山江御出被成候而御聞被成候へは、

  最早 公方樣京都江御打入被成たる由申に付、直に京都へ御出被成候事不罷成、又伊勢關地藏江御出、伊勢道之ことく御出被成候、

  楠平與申候左門町より西江御出被成、大山を御越、伊賀之内しからきと申所之樣に御出云々
0561人間七七四年2019/02/28(木) 21:30:22.62ID:i8/xWqaL
~戸五兵衞覺書木脇休作働之次第

一 日出時分よりはや東國衆のほりを指立、大谷殿陳にかかり申候、此方之御陳之前備前中納言殿、東者石田殿請取之陣場、

  此方者二番備に而候處、大谷殿戰死、備前之中納言殿、石田治部殿追崩し、此方之御陳に猛勢かかり申候時、

  貴老御親父拜領之長刀を持、大音に而嶋津兵庫頭内之小弁慶と名乘、猛勢之中へ切入、敵數多打取、又 惟新樣御側之如く御參候、

  其後御跡を閉目可申候間、御心安御除被成候へと、被申上、山田民部殿、刑部左殿、只兩人御跡へ返敵をふせき、

  惟新様をのかせ上被申候處、伊賀國之内しからきと申所に而御一大事に而候へ共、刑部左衞門殿被罷出種々被申候而、

  其場無何事御座候、しからきの事は細成儀多候へ共、老筆不得書申候、夫より七ヶ國御通被成候、片時も御側を不相離、

  御共に而御下向に而候、
0562人間七七四年2019/02/28(木) 21:32:08.90ID:i8/xWqaL
大垣城に再び籠城しようとしたら、本丸から火の手が上がり
もう落城していたので諦めたというのが少し気になりますね
0563人間七七四年2019/02/28(木) 21:45:47.39ID:i8/xWqaL
あと小西に触れられていないのは、何でかなと思うですが
0564人間七七四年2019/02/28(木) 21:54:17.65ID:6DaPn8es
ちゃんと訳せよ
0565人間七七四年2019/02/28(木) 22:47:31.83ID:KQrcomlm
>>562
何が気にかかるの?
0566人間七七四年2019/02/28(木) 23:58:33.76ID:i8/xWqaL
>>565
>>54書状だと西軍自ら外郭をを燃やしたはずなのに
自ら防御力低下させた城にわざわざ籠城しようとするかな
0567人間七七四年2019/03/01(金) 00:47:11.69ID:poeiOndE
大垣城は小規模な城で大軍を収容する能力はなく集結した西軍は城の周りに陣城を築いて駐屯していたわけで
この外曲輪を三成らが移動するときに敵に利用されないように焼いてっただけだから城自体は無傷
0568人間七七四年2019/03/01(金) 02:21:11.97ID:bmuvUISK
>>554
社交辞令というのもあるしねぇ
たとえば北の将軍様との会談で面と向かってデブともいえまいw
0569人間七七四年2019/03/01(金) 03:07:24.97ID:2brakp2y
??「彼は30歳を超えざるに、甚だ肥満し、自由に身体を動かすこと能わず」
??「世になきお太り」
??「この春(慶長13年2月1608年2月)、大坂の秀頼公は疱瘡をお患いになり、はなはだ危急」
0570人間七七四年2019/03/01(金) 23:01:33.37ID:YnbGhLUF
6月15日付兼松正吉宛前田玄以・長束正家・増田長盛連署状

急度申入候、
一 会津表各出陣之定日従関東可被仰出候条、
  七月十日以前ニ被罷立儀者無用由候、
  急被罷立候而在陣之所地下人可為迷惑候間、右之通被 仰出候事
一 於先陣軍法之儀、何様ニも内府様御下知次第ニ可被相働旨候、
  被背御下知自然心々ニ被相候者、可為越度事
一 路次中泊々之儀も、御兵粮丈夫ニ被遣候上者自賭ニ可被申付旨候、
  為御目付御使番衆所々ニ被置候間、若下々非分之族有之者、
  其主人可為越度旨御意候条可被入御念候、恐々謹言、

六月十五日    増右     長大     徳善
              長盛     正家     玄以

金松又四郎殿
         御宿所



6月25日付前田玄以・増田長盛・長束正家連署状

今度東海道金松又四郎出陣、人数四拾人・馬三疋事、
如帳面兵粮・馬飼料?可被計渡候、若雨降於逗留者、
応日数可被相渡候、則右米・大豆 公儀御算用ニ可被相立候間、
其主人請取を可被取置候、恐々謹言、

六月廿五日       長大     増右    徳善
                 正家     長盛    玄以

草津(近江)にて二日分
      新庄東玉(直忠)
      駒井中務(重勝)殿

亀山(伊勢)にて二日分
     岡本次兵衛殿

あつた(尾張)にて二日分
    羽柴左衛門大夫(福島正則)殿

すセ(三河嵩山(すせ))にて二日分
    田中兵部太輔(吉政)殿

見付(遠江)にて一日分
    堀尾信濃守(忠氏)殿

島田(駿河)にて一日分
    山内対馬守(一豊)殿

駿府(駿河)にて一日分
    中村式部少輔(一氏)殿

神原(駿河蒲原)にて二日分
    同人
0571人間七七四年2019/03/02(土) 06:17:19.21ID:YypkSGSt
栄養状態も良くなく天下人ですらハイカロリーの食事ができ無い戦国時代では、そもそもBMI40越えるまで太る事ができない。
体重計も無い時代に見た目の体重43貫なんてのは書いた人間の主観に過ぎず「猪のような大男」と言ってるのと同じだよ。 
茶々の家系は普通に大男が多いわけだから母親にと思えば何もおかしくは無い。
身長はあってるとして体重もせいぜい100キロ程度だと思うぞ。
0572人間七七四年2019/03/02(土) 06:38:01.44ID:5ToCR+Pg
>>556
宇喜田と石田をそれぞれ壊滅させた軍が攻めて来たので、その間を抜けて大垣城に戻ろうとしたら、
南宮山付近で落城しているのが見えたので、伊勢路の駒野坂方面に逃げて行ったってことでいいのかな
0573人間七七四年2019/03/02(土) 11:38:38.42ID:K7IXs2IA
>>571
米やら武具やらの計量をするのに使うだろうから
たぶん城内に重さを測れるテンビン秤もあったんだろうけど
でかい天秤に秀頼を乗せて計量するの想像したら、かなりシュールな光景だな
0574人間七七四年2019/03/02(土) 12:35:56.60ID:lwoO24Pw
すくなくとも「呆れるぐらいぶざまに肥っている」と思われ記録された事実がある
0575人間七七四年2019/03/02(土) 15:24:11.06ID:pDrOl5Od
>>571
秀頼はハイカロリーなかまぼこが大好物だったんでちけお
0576人間七七四年2019/03/02(土) 18:29:08.78ID:RKcGEcQw
家康みたいに晩年に肥るならまあわかるけど、本当に青年期に肥っていたなら堕落しすぎだわ
0577人間七七四年2019/03/02(土) 19:10:29.09ID:YypkSGSt
だから肉も乳製品もない当時の食事で肥満になる事はあり得ないって
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