関ヶ原合戦の真実 Part9
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0001人間七七四年
2018/12/23(日) 14:17:08.63ID:uA0riSLH豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
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関ヶ原合戦の真実 Part8
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0429人間七七四年
2019/02/16(土) 11:49:22.21ID:3CpA4sYb戦後は三成に罪をかぶせて家康と手打ち
0430人間七七四年
2019/02/16(土) 12:56:20.69ID:E+niLnyN0431人間七七四年
2019/02/16(土) 17:38:40.96ID:RjO+kSOW負け戦だと判断し、損切りにかかったってことだね。
で、とかげのしっぽ切りされたのが、安国寺恵瓊と。
0432人間七七四年
2019/02/17(日) 11:17:23.29ID:pQacb8rc0433人間七七四年
2019/02/17(日) 14:02:10.17ID:7OAGiOkF0434人間七七四年
2019/02/17(日) 14:06:14.20ID:5occYRlc豐臣家五大老連署條目
御掟
一 諸大名緣邊之儀、得 御意、以其上可申定事、
一 大名小名深重令契約、誓帋等堅御停止事、
一 自然御喧嘩口論者、致堪忍可屬理運事、
一 無實儀申上輩在之者、双方召寄、堅可被遂御糺明事、
一 乘物御赦免之衆、家康、利家、景勝、輝元、隆景、幷古公家、長老、出世衆、此外雖爲大名、
若年衆者可爲騎馬、年齢五十已後之衆者、路次及一里者、駕籠儀可被成御免、於當病者、是又駕籠御免之事、
右條々於違之犯輩者、速可被處嚴科者也、
文祿四年八月三日 隆景(花押)
輝元(花押)
利家(花押)
景勝(花押)
秀家(花押)
家康(花押)
0435人間七七四年
2019/02/17(日) 14:08:23.68ID:5occYRlc御掟追加
一 諸公家、諸門跡被嗜家々道可被專 公儀御奉公事
一 諸寺社儀、寺法社法如先規相守、專修造、學問勤行不可致油斷事、
一 天下領知方儀、以毛見之上、三分二者地頭、三分一者百姓可取之。菟角田地不荒樣可申付事、
一 小身衆者本妻外、遣者壹人者可召置、但別に不可持家、雖爲大身、手懸者不可過一兩人事、
一 隨知行分限、諸寺進退可相働事、
一 可致直訴儀、於擧目安者先十人へ可申、十人衆訴人以馳走双方召寄、慥可被聞申分、直訴目安者、
各別之儀候間、此六人へ可被申、以談合上、御耳へ於可入儀者。可被申上事、
十人衆
冨田、寺西、森壱岐守、堀田若狹、佐々淡路、石田木工、片切守善、石川久五郎、山中山城守、木下與左衞門尉
六人之衆
家康、利家、景勝、秀家、輝元、隆景
一 衣裳紋、御赦免外、菊桐不可付之、於御服拜領者其御服所持間者可着之、染替別衣裳、御紋不可付之事、
一 酒者可隨樣器、但大酒御制禁事、
一 覆面仕往來儀、堅御停止事、
右條々於違之犯輩者、速可被處嚴科者也、
文祿四年八月三日 隆景(花押)
輝元(花押)
利家(花押)
景勝(花押)
秀家(花押)
家康(花押)
0436人間七七四年
2019/02/17(日) 14:10:19.01ID:5occYRlc目出度期見參候、以上
急度申候、石治部、輝元申談色立候由、上方より内府へ御注進候、如此可有之とかねて申たる事に候、
其外殘衆ことことく一味同心之由候、定而内府早速御上洛可在之候、然は則時に可爲御勝手候、
此狀參着次第、松井と市正は番子まで不殘召連、丹後へ可被越、自然之時は松くらをもすて、
女子をつれ宮津へ被越可然候樣にすまさるへく候、ョ入候、四郎右其外之者共之儀は其國のていを見合、
可成ほと木付にい候て、其上は居城にうつるへく候、かねて申合てをき候、此狀は丹後よりひめち邊へ遣、
舟にて屆候へと申付候、
一 内府は江戸を今日廿一御立候由候、我等は昨日うつの宮まて越在之事に候、さためてひつくり返し、
上方へ相働たるへくと存候、恐々謹言
七月廿一日 忠(花押)
松井殿
四良殿
市正殿
0437人間七七四年
2019/02/17(日) 14:13:03.36ID:5occYRlc尚以、其許番衆入候者、此返事に委可承候、則申付可遣候、以上、
急度申入候、越中殿御身上之儀、秀ョ樣より曲事に被思召由而、丹後國へ隣國衆を差遣、城請取候へと、從奉行衆被申付候由候、
就其、越中殿御女房衆、爲留主居衆つれ候て退候由候、慥に我等者罷下、其樣子申候仕合者、屋敷中へ十七日之夜火をかけ
自害之樣子に仕成退候由候、則丹後へ遣上使衆への觸狀寫進之候、然時者其元に四郎右壹人被殘置、松佐早々丹後へ御越尤候、
か樣に可有之と存、先書へも申候き其元少にも候はは、自是似相之番衆をも合力可申候間、必可有御越候、爲其以飛脚申候、
委曲立本かたより可申候、恐々謹言
七月廿七日子刻 C正(花押)
松佐渡殿
有四郎右殿
御宿所
0438人間七七四年
2019/02/17(日) 14:14:53.08ID:5occYRlc已上、
被差越使者去廿七日御狀、今日晦午刻到來、拜見、彼口上承屆候、
一 主計樣より種々御懇之御書中忝存候、度々被入御心被仰越、可申上樣無之候、御報申上候間、御被露候て可然樣に御取成奉ョ候事、
一 大坂より慥成御使者被罷下、越中屋敷之樣子被仰越候、此方へ追々申來候、女房衆大畧可爲自害と存候事、
一 丹後へ去十九日、おく丹波衆、但馬衆、城請取に越被由、此地へも慥に相聞へ申候事、
一 幽齋田辺に被居候事、
一 丹後城々不可有異儀候、河守なとは兼而引払、殘之城々丈夫に可有之候、可御心易候事、
一 丹後城々兵粮等も、當年は國中米留仕、一切不出候間、可有之と存候、此段不可有御機遣候事、
一 松井罷上儀、先書に如申、加子一切無之候、倂不捨置談合仕候、聊無由斷候事、
一 當郡之知行拜領を第一に被申之条、城請取に可參由承候、可爲其分候、各一返に覺悟仕候、其段可御心易候、
兵粮、玉藥之儀、被仰越、忝存候、如形用意仕候条、自然不足之儀候者、重而可申入候事、
一 御加勢之儀、是又過分に候事、松井有之間は不及御加勢候事、
一 大坂之樣子、如水御小性直口先書に申入候事、
一 忠興 内府樣御共候て可被上候、然者隣國則時申付可遂本意候、尚口上に申候間、書中不具候、恐々謹言、
七月晦日 康之
立行
立本老
御報
0439人間七七四年
2019/02/17(日) 14:16:08.30ID:5occYRlc尚々甲斐守分領之儀、少も御氣遣被成間敷候、丈夫に致覺悟候、已上、
如貴札久敷不申承候、仍上邊之儀、不慮之仕合無是非候、如承候甲斐守致出陣候間、一入氣遣可有御推量候、
津國之儀候間、互に可申合候、其元之儀者、一揆多所候間、其御用心專一候、上方之樣子去月廿五日に出候舟申候、
何茂替儀者無御座候、
一 伏見之城者堅固に御座候、
一 丹後之儀、幽齋、越中殿居城堅固之由、申來候、丹波衆押に被居、但馬衆者江州へ被參候由候、
一 P田に中國衆城を拵申之由候、
一 伊勢、江州之堺目城を拵、其大將に刑少被參之由候、右之樣に城へ相拵候時者、内府之御一上國と見へ申候、
一 上方之樣子追々可相聞へ候間可申入候、委細態藤介方迄申入候間、不具候間、恐々謹言
如水軒
八月朔日 圓C(花押)
中修理樣 參
貴報
0441人間七七四年
2019/02/17(日) 17:42:08.41ID:lWxdG4Fe秀吉の死後は遺言で徳川前田に政治がゆだねられていたので、秀吉が許可を出す部分は徳川前田が許可を出すと置き換えて考えるべきだろうな
前田が死んだあとは、徳川が許可を出す。
0442人間七七四年
2019/02/17(日) 18:41:43.94ID:5occYRlc浅野家文書には景勝の署名は無いですけど、大井氏所蔵文書等には景勝の署名があったりするので、
どちらにしようかなとも思ったんですけど、同日の追加の方には署名しといて御掟には無いのも
景勝の立場からして不自然な気がしたので入れときました。
0443人間七七四年
2019/02/17(日) 22:06:18.85ID:5occYRlc前に書き込んだ史料も含め、所蔵文書によって一部文章に違いがある史料は
個人の勝手な判断で恐縮ですが、妥当では無いかと思う方を取捨選択して
書き込んでいます。
0444人間七七四年
2019/02/18(月) 02:59:34.03ID:dtaGjq+A0445人間七七四年
2019/02/18(月) 10:45:00.77ID:X8EZJhy7清正、松井からあまり信用されていない感じがするな
したこと考えると仕方ないけど、家康からも疑われているし
島津からも非難されているし、言われているほど清正、人望ないんじゃないかな
0446人間七七四年
2019/02/18(月) 22:34:24.91ID:ZQiOe4OB恵瓊って長篠の戦いで有名な鳥居強右衛門の息子に生け捕りにされているんだよな
0447人間七七四年
2019/02/18(月) 22:44:32.77ID:jhMRUpd90448人間七七四年
2019/02/18(月) 22:58:21.21ID:98qPRPJ7恵瓊って長篠の戦いで有名な、鳥居強右衛門の息子に生け捕りにされているんだよな
句読点使わんから意味が違ってくる。
ここではきものを脱いでください。 これといっしょ。
0449人間七七四年
2019/02/18(月) 23:36:16.79ID:i7JlxoWb絵形が12くらいか
0451人間七七四年
2019/02/20(水) 21:34:21.53ID:OAFlCsMU清正、朝鮮や庄内の乱とかの行動を見ると、欲深いというか姑息というか、そういうところが結構あるからなぁ
死んだタイミングが良くて、持ち上げられているけど、生きていても大したこと出来なかっただろう
0452人間七七四年
2019/02/20(水) 23:46:57.06ID:ZGyVNgT0柳川開城後の島津攻めでも、黒田如水や立花宗茂は島津家に徳川との和睦を勧めたり
色々と便宜を図ってくれてたんだけど、清正だけはやたらと島津に攻め込むのを主張してたんだよな
0453人間七七四年
2019/02/21(木) 00:07:58.14ID:IyJVDJgx0455人間七七四年
2019/02/21(木) 06:27:13.76ID:KluW3caX立花についても清正、浅野宛の書状で、立花は絶対赦すなって書いているしね
0456人間七七四年
2019/02/21(木) 07:38:51.85ID:8NZuwl+O0457人間七七四年
2019/02/21(木) 18:48:44.41ID:MZHxrV6Z清正たちと交渉して開城してるし、そもそも大坂城を退去した時点で徹底抗戦する気はないんだよな
0458人間七七四年
2019/02/21(木) 22:58:08.95ID:ZKwZ7Ihe0459人間七七四年
2019/02/21(木) 23:01:03.86ID:ybIfOpfU0460人間七七四年
2019/02/21(木) 23:07:11.78ID:ZKwZ7Iheおまえらはおとなしくまぬけ面してニダニダよだれ垂らしながら韓流サルダンスでも見てろ猿wwww
0461人間七七四年
2019/02/21(木) 23:09:17.08ID:ZKwZ7Iheいや、知恵と度胸で 個人的な能力で
0462人間七七四年
2019/02/21(木) 23:36:44.25ID:ybIfOpfU0463人間七七四年
2019/02/21(木) 23:38:08.43ID:ybIfOpfU0464人間七七四年
2019/02/21(木) 23:42:02.35ID:2/eVSA0k0465人間七七四年
2019/02/21(木) 23:52:13.17ID:i4Lwnydu気概はあるけど突き抜けたものがない
したたかというほどでもない印象
0466人間七七四年
2019/02/22(金) 00:42:43.42ID:9BXE9MbQ清正は肥後移封以来加増ないし
唐入りの戦費で領国は荒廃してるのに秀吉の死で戦果なしだからなあ
何とか収入増やそうとあれこれしたけど庄内の乱に介入したのは悪手で
会津征伐には従軍許されず関ヶ原では主戦場から遠く離れた九州戦線だから
なんとか挽回したいというか功を焦っている心境ではあるだろう
0467人間七七四年
2019/02/22(金) 01:31:31.09ID:RCSQea6Jそれを2代目の時まで引きずって経営不能の一因となったようで
そりゃあ少しでもどこか領地取って足しにしなきゃ首も回らない状況でしょうね
逆に他の唐入り大名たちはよく経営続けられたなーというレベル
0468人間七七四年
2019/02/22(金) 11:50:54.95ID:TjFrWt0V個人的にはフィクションだけど、真田丸での景勝像が、あぁこういう人物だったんだなぁ、と
腑に落ちたわ。
0469人間七七四年
2019/02/22(金) 18:08:18.37ID:wQiOeQoX0470人間七七四年
2019/02/22(金) 19:39:41.86ID:KqMMnf/l小野鎮幸との逸話で文盲だと思ってた
0471人間七七四年
2019/02/22(金) 19:48:08.45ID:1lDMrJ0b0472人間七七四年
2019/02/22(金) 20:25:35.74ID:uu0e5plSつい最近も熊本城普請に関して指示をしてる花押なしの清正自筆書状が初公開とかでニュースになってたな
0473人間七七四年
2019/02/22(金) 21:45:55.43ID:SRHKkWAG城主、国衆、大名など領地の規模の差はあるにせよ、
他の連中は領地経営に対してある程度蓄積されたノウハウがあっただろうけど
清正は秀吉と同じく一代で成り上がった人間でその辺が不足していたのかも
あと明征伐に対する本気度の違いもあったんじゃ無いかな
0474人間七七四年
2019/02/22(金) 22:06:51.22ID:bxA4Lm+u領地経営で失敗してないから
清正のパーソナリティーが大きい気がする
0475人間七七四年
2019/02/22(金) 23:11:41.33ID:RCSQea6J清正はすべての仕事を全部自分が指示するスーパートップダウン形態だったとか
そのせいで家臣にまるで仕事をこなすノウハウが蓄えられず、清正がなくなった時点で詰んだと
この辺りは劉邦は3傑がいて頼朝にも3人の重臣がいたけど、秀吉は全部ひとりでやってると評された状況と似てるのやもしれませんね
0476人間七七四年
2019/02/22(金) 23:57:38.24ID:Dizbf5g4そのまま代替わりして好転することもなくあえなく改易と
0477人間七七四年
2019/02/23(土) 10:21:21.16ID:bBiwtr/O十人衆、誰かわからないのが何人かいるな
0478人間七七四年
2019/02/23(土) 11:44:20.72ID:H0eLOuwnむしろ現代まで慕われているだけでも清正はよく頑張ったと言える
0479人間七七四年
2019/02/23(土) 12:20:24.37ID:TYbPY+Mp冨田、富田一白
寺西、寺西正勝or是成
森壱岐守、毛利吉成
堀田若狹、堀田一継
佐々淡路、佐々行政
石田木工、石田正澄
片切守善、片桐貞隆
石川久五郎、石川光元
山中山城守、山中長俊
木下與左衞門尉、木下延重
かな
0481人間七七四年
2019/02/23(土) 21:41:13.04ID:QdkZQZYw0482人間七七四年
2019/02/23(土) 21:41:48.54ID:QdkZQZYw蜂須賀家政書狀
猶々兩人御同意之儀、初者雜説と存、不實候處、安國寺より承候旨は、今度東國へ之御人數被指留之由蒙仰に付而、驚入候、以上、
態啓上候、仍今度石治、大刑逆意無是非存候、就夫、輝元様も御同意之樣に爰元申成候、無御心元奉存候、若於事實者、
さりとては世間之批判無御勿軆存候、勿論、近年内府無御屆儀共可有御座候、雖然、被奉對 秀ョ公、餘相違之題目、
拙者式不承候、於然者、以御覺悟天下之亂可有出來儀、歎敷御事、不可過御分別候、か樣之儀、推參、其恐如何御座候へ共、
年來別而御懇に付而申上候、此旨御披露所仰候、恐々謹言、
七月十六日 (家政花押)
蜂須賀阿波守
堅田兵部少輔殿
0483人間七七四年
2019/02/23(土) 21:42:47.48ID:QdkZQZYwK田圓C自筆書狀
如水軒
廣家樣 圓C
參人々御中
以上
態申入候、内府御上之由取沙汰申候、必定に候哉、其口に貴殿御座候間、一入氣遣に存候、御手前無御越度之樣に、
兼日御分別干要に候、上方人數之儀者、悉内府へ内儀有之様に申候間、御手前之儀專一に候、爲其此者進之候、
九州之儀今迄は靜に御座候、何樣に猥候共、手前之儀者、御氣遣被成間敷候、恐々謹言
九月三日 圓C(花押)
廣家樣
參
0484人間七七四年
2019/02/23(土) 21:44:17.68ID:QdkZQZYwK田圓C自筆書狀
廣家樣 圓C
貴報
尚々、小倉之儀、從輝元加番入之由候間、壹岐へ不渡樣に可被仰付候、
去月廿二日之御狀、昨日三日に拜見由候、
一 先年より隆景元春申談、彦右衞門拙者中國之儀御馳走申、其續貴殿隆景無御忘却候、殘衆者、
備前中納言同前之御覚悟候き、雖少身候、林肥前者、先年之筋目無忘却通、去年於京都拙者に申理候、
一 今度中國御家之續之事、貴殿御律儀故、羽左太、甲斐守に被仰談、御家再興中々不得申候、定而中國上下只今可存當事、
一 彌羽左太、甲斐守御入魂肝要候、兩人迄輝元幷貴殿御事御馳走候へと申遣候事、
一 宰相殿御事御幼少之節、別而馳走申候き、元C先年より無御等閑故申談候、又久留米藤四郎殿儀、是又貴殿御存之事候、
御兩所より近年捨文一通不被下候、只今申候は不入儀候へ共、貴殿御事者、㝡前之馳走無御忘却通、奉感候故、兩人之儀を申事候、
一 上方於美濃口御取相當月迄も御座候者、中國へ切上、花々と見知返し候而、一合戰可仕と存候に、はやく内府御勝手に罷成殘多候、
一 於九州者、奉行方之者は嶋津、立花迯下有之事候、内府樣へ得御意に上せ候間、被仰出次第兩人之者共則時討果、
罷上、以面萬々可申承候、恐惶謹言
十月四日 圓C(花押)
廣家樣
貴報
0485人間七七四年
2019/02/23(土) 23:03:49.00ID:hdlgyYWL逆らうものは皆殺しの勢いで粛清やったから生産力は当然落ちるわけで
これをいくら代官としての統治経験はあるものの
こないだまで3000石だった清正が乗り込んで運営するのって簡単ではないのでは
しかも九州の大名だから唐入りにおける大目の軍役負担までついてくる
0486人間七七四年
2019/02/24(日) 01:14:58.50ID:+eN63wEiそれは清正の問題で一揆後の肥後が取り立てて難治というわけでもないとおもう
大規模戦に巻き込まれた土地の生産力が一時的に落ちるのは普通だし
0487人間七七四年
2019/02/24(日) 14:25:22.30ID:BeCH2r4pそれは、霧が晴れたとき、敵方の度肝を抜く狙いであり、今日の戦に賭ける、家康の、決意の現れでもあった。
西軍の陣型は、相手を包囲するのに相応しい、鶴翼の陣備えであり、対する家康は、中央突破型の、縦隊魚鱗の陣型である。
0489人間七七四年
2019/02/24(日) 15:59:07.53ID:Wo4KYOLo0490人間七七四年
2019/02/24(日) 16:18:58.74ID:XIZk66y10491人間七七四年
2019/02/24(日) 16:20:44.16ID:0l0HP60f0492人間七七四年
2019/02/24(日) 16:27:51.25ID:BeCH2r4p0493人間七七四年
2019/02/24(日) 16:29:24.15ID:wlWcvXRt軍記では西軍は特に記述は無くて、東軍も家康本陣を
魚鱗(関ヶ原方面)鶴翼(南宮山方面)と記述した程度
0494人間七七四年
2019/02/24(日) 19:38:57.78ID:sMq4NJ0Q石田正澄が近江愛知川で人留めして上杉征伐参加予定だった衆を西軍に
引き入れたという部分だけど、
石田三成は7月29日に伏見城に到着するまで大きな動きがない。
これを以てか、石田三成は首謀メンバーではなく勧誘されただけ、
という説があるけど、石田正澄が愛知川で人留めしてるのに、
三成は首謀メンバーではないと言えるのだろうか?
もし勧誘されただけだと言うならば、首謀メンバーは毛利輝元+安国寺恵瓊、
増田・長束ら奉行衆、石田正澄、(大谷吉継、宇喜多秀家、上杉景勝?)となる。
石田三成は首謀メンバーだが、人望がないし隠居してる身なので、
出しゃばらずに目立たないようにしていた、のほうが説得力があるように思うが。
0495人間七七四年
2019/02/25(月) 01:02:42.67ID:8e2yyEUd合ってる
ドラマみたいな布陣とか松平の抜け駆けとか奥平鉄砲とか無いから
松尾山の小早川、それに追随する小川、朽木らと家康勢に挟まれて2時間くらいで上方勢は壊滅
0496人間七七四年
2019/02/25(月) 09:59:59.67ID:UNqAGK97三成らも背後からの攻めに備えてたんだろうけど大軍で怒涛のようにくるのは予想外だったのかな
0497人間七七四年
2019/02/25(月) 10:48:54.22ID:XkaBMRKi外曲輪を焼き払うって必要だったんだろうか
0498人間七七四年
2019/02/25(月) 11:40:33.32ID:M+0oTvVg0499人間七七四年
2019/02/25(月) 12:40:57.53ID:B4pQad8Y西軍の中で関ヶ原で壊滅したとされてきた軍が、三成と一緒に松尾山へ向かった部隊ということかな
0500人間七七四年
2019/02/25(月) 13:57:07.76ID:j5dQ9xft立花宗茂はそのままの評価で良いし黒田孝高も人望や名声はあれとしても実力はあったからあの評価で良いと思う。
評価が低いのは鍋島直茂と黒田長政。この二人は加藤清正黒田孝高立花宗茂の餌になってる気がする。実力凄いあるんだけど残念。毛利勝永みたい。
0501人間七七四年
2019/02/25(月) 14:08:48.00ID:5gTt4FAt多分もっと早い段階で逃げてたと思う。戦闘終了間際で両軍とも混乱してるのに正確に敵兵の逃走劇を記憶して記述できる人間が居るとは思えない。
おそらく戦闘開始時に島津軍がいた事と終わってから島津に逃げ帰ったらしいという事実があって、
島津かどうか確証はないがが島津らしき軍団が大急ぎで逃げていったのを目撃したものが居て、話が合わさって作られた都市伝説のようなものだろうな。
0502人間七七四年
2019/02/25(月) 14:45:53.77ID:j5dQ9xftかなりの乱戦で長寿院盛淳もどこで戦死したかも定かじゃ無いし甥の島津豊久は生存してると思って後々探させた話もある位だからね。退き口云々は後世の作り話でしょ。
0503人間七七四年
2019/02/25(月) 14:47:19.79ID:xBNzk8Y3というところじゃないか
0504人間七七四年
2019/02/25(月) 15:14:14.00ID:eZN8MutS0505人間七七四年
2019/02/25(月) 15:33:52.03ID:Ta183y5V0506人間七七四年
2019/02/25(月) 15:39:35.49ID:j5dQ9xftこの徳川家康旗本ってのは多分井伊直政隊や本多忠勝隊だと思うけど
手紙の内容で薩摩兵が斬っても斬っても屍を越えて襲って来る三河武士は人に非ずみたいな事書いてある。
つまり薩摩兵が最強に強くて退き口したなんてのは当人の島津義弘さえも言って無いから前方にたまたま空間が空いてそこに真一文字で逃走したのが後世美化されただけ。
0507人間七七四年
2019/02/25(月) 18:15:45.33ID:LJZcEaAP0508人間七七四年
2019/02/25(月) 19:02:52.51ID:z+jvJIab0509人間七七四年
2019/02/25(月) 20:35:41.70ID:hoXmKKrf0510人間七七四年
2019/02/25(月) 21:39:32.91ID:SkjB+sJJそして小早川により大谷が壊滅、東軍の先陣が宇喜多隊を壊滅し、次に島津に攻めかかり、
その間に東に陣取った三成を別部隊が壊滅。その部隊も島津に攻めかかり、その両軍の間を抜け島津が逃走。
それが何故か三成に不満を持っていた島津が戦闘には参加せず、最後に敵本陣に突撃を懸け
敵中突破した話になっている。
0511人間七七四年
2019/02/26(火) 00:33:31.57ID:OfNxPws60513人間七七四年
2019/02/26(火) 01:02:19.40ID:KOpQygXH石田方は大垣城、家康方は美濃垂井、小早川が松尾山城、毛利勢が南宮山で合ってるよね?
家康方は石田方と比して西側(大坂寄り)にいたってこと?
0514人間七七四年
2019/02/26(火) 02:22:51.42ID:HmmkxOmn0515人間七七四年
2019/02/26(火) 03:17:43.34ID:Wj4VC52J0516人間七七四年
2019/02/26(火) 05:38:44.30ID:gZqW6TXM0517人間七七四年
2019/02/26(火) 09:55:56.39ID:tv+10ucVそれが関ヶ原の戦いの2年後だったから島津軍があの赤鬼を仕留めた!みたいになった。
実際は赤備えと交戦した時に修羅の様な強さで親を鉄砲で射抜いても子供がその親の屍を越えて襲いかかるというヤバさだったらしい。
その後に来た本多忠勝なんかは釣り野伏せして馬が射抜かれて落馬したが鬼の形相で島津兵を蜻蛉切で串刺しにしたとある。島津義弘も本多忠勝隊に追い付かれ死を覚悟したが本多忠勝が見逃したらしい。何故見逃したのかは謎。
その後島津助名を井伊直政と本多忠勝が家康に取りなししている。
0518人間七七四年
2019/02/26(火) 10:16:56.67ID:tv+10ucVちなみに本多忠勝隊は500にも満たない数で関ヶ原を縦横無尽に駆けて首級90挙げたとある。
徳川四天王って地味なイメージあるけど信長や秀吉に絶賛されてたり格上の武田北条豊臣と戦って勝利して大将首迄獲ってる猛者揃い
自分は家康好きじゃないけど関ヶ原の戦いの時に徳川家康と徳川軍が強くて勝ったは頷ける。
西軍が勝てる要素が無いのが悲しい。
昔テレビのシュミレーションで立花宗茂の大津城包囲部隊も関ヶ原に布陣してたらってのがあったけどやはり最後は東軍の勝ちになってて悲しかった。
0519人間七七四年
2019/02/26(火) 10:31:29.18ID:tv+10ucV毛利勢が入る予定だった。
最初は大垣城主伊藤盛正が松尾山に布陣したが小早川秀秋に追い出されている。
これを聞いた石田三成が焦って関ヶ原に急行したが既に松尾山の麓に居た大谷隊は壊滅。その後はここに書いてある通り。
0520人間七七四年
2019/02/26(火) 10:35:59.49ID:tv+10ucV0521人間七七四年
2019/02/26(火) 12:31:36.20ID:tv+10ucV逆に南宮山にこちらの末次元康隊を配置するとかね…。
毛利輝元が意図してやった事なんだろうけどさ。
0523人間七七四年
2019/02/26(火) 12:55:18.21ID:tv+10ucV酒井忠次と榊原康政
酒井忠次は長篠の戦いで武田軍の背後を獲って長篠の戦いの勝利にみちびいた立役者。
榊原康政は小牧・長久手の戦いで羽柴秀次隊を壊滅寸前にして森長可、池田恒興親子を討ち死にさせた。
自分は西軍派なので徳川武将は好きじゃないけど強さは相当なもんだよ。
0525人間七七四年
2019/02/26(火) 14:09:59.05ID:qJ0fUvzt0526人間七七四年
2019/02/26(火) 14:22:40.16ID:DslkMrnF東の口をしめる南宮山と、西の口を閉じる松尾山が、動かなければ、西軍の戦いは、底も蓋もない桶で、水をすくう徒労に終わる。
0527人間七七四年
2019/02/26(火) 22:17:05.96ID:PBt3C7dWその書状読んでみたいんですけど、何に収録されていますか
0528人間七七四年
2019/02/26(火) 22:30:00.30ID:IWd+y9Pn三河の人間は家康の祖父や父親を殺したように気に入らない主君にはすぐ謀反をおこすクズだが、
よく言えば反骨精神旺盛で能力に優れている猛者ぞろいだ。
それを束ねあげて忠臣にした家康がすごいんだよ。光秀を蹴り倒し、秀吉をバカにする信長が唯一尊重する相手だからな
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