関ヶ原合戦の真実 Part9
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0001人間七七四年
2018/12/23(日) 14:17:08.63ID:uA0riSLH豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
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関ヶ原合戦の真実 Part8
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0405人間七七四年
2019/02/11(月) 10:41:42.24ID:xr+oEANP西軍連中は勢いの良かった前半は書状よく出しているけど
後半は途切れがちみたいな印象受けていたけど、史料残っていたら
どうだっただろう
0406人間七七四年
2019/02/11(月) 10:42:43.38ID:xr+oEANP態飛脚を以申入候、仍今度濃州表爲御先手早々御越、岐阜表之仕合羽越、加左馬より申來候、誠ここち能仕合可申入樣も無之候、
がうど河口迄治少罷出候處、御兩人河を被越彼人數被追崩、數多被討捕之旨、御手柄共候、就其、すくに佐和山表可被押寄儀、
彌其分候哉、樣子承度候、此表之儀、一兩日中に小松表急度可相働覺悟候、尚追々可申入候、恐々謹言、
羽肥前守
九月三日 利長(花押)
K甲州樣
藤佐州樣
御陣所
京極高次宛家康書状
切々使札御懇意之段、難申尽候、去三日大津江被打返、手切之行可有由、修理殿、井伊兵部方より申越候間、一刻も出馬急申候、
中納言は中山道罷上候、我等は今日七日、至遠州中泉着陣候、委細修理殿、可被仰候間、不能具候、恐々謹言
九月七日 御名乗御直判(家康)
大津宰相殿
伊達政宗宛家康書状
追而申候、この書狀最上へ御屆候而可給候、以上
急度申入候、大津宰相以日來好味、此方と同意被成、去四日手合に候、京極殿書狀、爲御披見進候、
其元無油斷御行等肝要候、恐々謹言
九月七日 家康(花押)
大崎少將殿
最上義光宛家康書状
急度申
一 備前中納言、嶋津兵庫、石田治部少、大柿へ追籠、切通路陣所事。
一 就夫、父子共令出馬候、其口政宗相談、無油斷行等分別尤候、
一 大津宰相相此間は越前在陣之處、日來無等閑故、大津へ歸城。今月三日手合被申候、恐々謹言、
九月七日 家康
最上侍從殿
0407人間七七四年
2019/02/11(月) 10:43:19.14ID:xr+oEANP三枝源三罷歸、其表之樣子承令滿足候、然者濃州一篇申付、大柿城に備前中納言、石田治部、嶋津、
小西已下取籠置候得者、爲後詰敵罷出候所をくい留置候由申來付而、爲可討果、以夜次日罷上候、
殊大津宰相も罷歸色を立候、其許早々御手合之儀尤存候、爲其申入候、恐々謹言、
九月八日 判(家康)
加賀中納言殿
土方雄久宛家康書状
急度申候、仍小松宰相方書狀指越候間、爲披見中納言殿へ進上候、此節有御入魂、先々墓行候樣に尤候、
木紀伊守も内々申越候間、何樣にも乳納言可爲相談旨申遣候間、其方被致才覺、御入魂候て、
早々越前表江御手合候事肝要候、今十三日岐阜着陣候、近日凶徒可討果、可心易候、恐々謹言、
九月十三日 家康
土方勘兵衞殿
高畠定吉宛利長書状
尚々るすの事たのみ入候、
わさと申入候、小松表すみ候、明日大しよう寺まてちんかへ申候、左候時は越前もきをひ有ましく候間、
すくにきの本へ出可申候、跡の事たのみ入候、かわる事追而可申入候、以上
九月十八日 はひ利長 判
岩見守殿
0408人間七七四年
2019/02/11(月) 10:46:20.16ID:xr+oEANPあと利長、>>42のもそうだけど家臣宛の書状だと仮名書きが増えるのはなんでかな
0409人間七七四年
2019/02/11(月) 10:46:53.56ID:mhW9ReR4そもそも家康が8万の大軍で攻めてきて、配下には恐ろしい武断派が勢ぞろい
逆に西軍側を仕切っているのが文官で現場から超絶嫌われている三成だよ
まともな戦なんか成立するわけがないでしょ
処刑確実な三成とお友達連中以外はみんな逃亡か降伏で即決着だろ
実際に当時の書状は全てすぐに東軍が勝ったと書いているわけで
現実的に考えれば一進一退の攻防なんてありえないのは簡単に理解できる
0410人間七七四年
2019/02/11(月) 12:32:09.15ID:7oqXKqFQ島津の書状から、岐阜城の戦いから南宮山に毛利勢到着まで、
大垣の西軍は孤立状態だったので、その辺の影響が大きい
0411人間七七四年
2019/02/11(月) 13:59:11.98ID:jYmXAVzT家康を善玉にしたい制作者の意図があったのかな?歴史資料にはまったく書かれてないのに
0412人間七七四年
2019/02/11(月) 14:01:49.80ID:zKYnd5LR白峰さんの真実は読んだけど高橋さんの最新著がアマゾンに無くて比較ができない
0413人間七七四年
2019/02/11(月) 15:15:40.29ID:f8d7yib4まずは>>1-72を読んで自分で考えてみることをおすすめする。
山中村周辺だけで両軍合わせて6〜10万の大軍が布陣できるか考えてみるといい。
0414人間七七四年
2019/02/12(火) 14:53:08.80ID:GTYpEo+x史料、また増えたのか
0415人間七七四年
2019/02/12(火) 18:51:47.68ID:7dpJZi+g一般的には花押の方が厚礼、ハンコの方が薄礼
「目の調子が悪いので花押じゃなくハンコにします」なんて一文がついてるのも書状でよくある
花押なのかハンコなのかっては厚礼か薄礼かを決める要素だよ
最後の利長書状や>>42
仮名書(文)なのは1通常より私的な連絡に使われるもの、2差出人や宛先人が女性や子供、3法令の場合は室町時代以降に多くの人間に見せて読めるように仮名書のものが増える
この場合は1でおそらく利長の自筆なんじゃないかな
公的と私的の違いや使い分けが理解しにくいと思うけど、利長の場合は以下のように家臣に指示する内容も仮名書の書状で出してるものが存在するのが特徴だな
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/86336
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/220944
0416人間七七四年
2019/02/12(火) 19:42:18.99ID:4fBJ/wfz高橋さんの本を読んだ限り、新説を証明する記述としてはかなり書き方が怪しいんだ。
アカデミックの訓練を受けていない人の書き方で、白峰さんと同列にしてよいものではないね。
ざっと読んだだけで引っ掛かる箇所も多いし。たとえば脇坂が大津で京極と一緒に籠城していたことになっていたり。
0417人間七七四年
2019/02/12(火) 21:08:29.55ID:D8LmFAO40418人間七七四年
2019/02/12(火) 21:21:34.06ID:3fVavJAYそれは先祖助命して貰っている上に、三成の事を家康が評価してたのもあるんじゃないか
むしろ脇坂、朽木、赤座、小川を嫌っている感じがしたな
しかしそれでも子孫よく先祖の敵だった家康の子供の家系の家に仕える気になったな
仕える方もそうだが、召し抱えた方もよくその気になったな
0419人間七七四年
2019/02/12(火) 22:25:17.33ID:30VSJJNGもちろんあまりにもトンチンカンなこと言ってる場合は傾聴に値しない場合もあるけども
0420人間七七四年
2019/02/12(火) 23:37:21.40ID:Div5fmWr白峰もダメ、高橋もダメじゃあもちろん持論があるんだろうが
大垣から先行して出てきていた大谷隊が小早川軍の裏切りに遭って壊滅
小早川を潰そうと大垣から出てきた宇喜多、島津、小西、石田は
東軍の追跡に遭い、小早川、小川その他の軍勢とに挟み撃ちにされ瞬時に敗走
0421人間七七四年
2019/02/13(水) 00:13:08.48ID:SR+ZtMh/@内々の儀を任された利休が奉行を無視して諸大名の取次を握ろうとする→命を奪われる
A関白を任された秀次が奉行を無視して自分の側近で政をしようとする→命を奪われる
B筆頭大老を任された家康が奉行を無視して政をしようとする→命を奪おうと戦を仕掛けられる
Bを三成が仕掛けたなら@やAも三成が仕掛けただろうというのは当然に考えられることだろう
0422人間七七四年
2019/02/13(水) 00:24:43.48ID:aFRdKti10423人間七七四年
2019/02/13(水) 01:41:08.58ID:xMBoge03いつ大谷が大垣に入城した?脇坂・朽木・小川・平塚らもいっしょ?
現大垣市草道島町の西圓寺に出した
9月5日付の禁制の連署には石田、小西、島津、宇喜多の連署がある。
もし大垣に大谷がいたなら連署してるはず。
大谷は北陸では禁制出してたんだから。
だから少なくとも9月5日以前には大垣に大谷はいないと見ていいと思われる。
9月6〜14日の間に大垣入城したというなら可能性はあるが、
>>52には
>一 今度勢州口より被働衆、中國は不逮是非其外長大、大刑幷御弓鐵炮衆も長大、
安國寺一手に被引向樣に相見え之候間、
大人數廻り兼候、人數も少々そつに罷成體に候事、
とある。
訳が難しいけど、大谷ならびに弓鉄砲衆は長束・安国寺らの方へ引き向かうように見える?
長束・安国寺の指揮権のことを言っているのか布陣のことを言っているのかよくわからんけど
9月12日には大谷は石田が把握できる場所にいたであろうことはわかるが。
状況的には、垂井に東軍がいるんだから山中村に布陣して畿内、近江と
美濃、大垣との連絡線の維持、及び近江への東軍の進攻阻止は理にかなってると思うが。
そんな要衝を放置して大垣入城したら垂井の東軍に山中村押さえられたらどうすんの?
実際には小早川秀秋に松尾山占拠されてるが。
0424人間七七四年
2019/02/13(水) 10:32:23.96ID:RKvG7noa同じく>>50に
>太田駒野に今度城を搆候而能候はんと存候、
江濃之境目松尾之御城、何れ之御番所にも中國衆入可被置御分別尤にて候、
とある。太田・駒野は大垣から長島・桑名方面に抜ける南濃の狭路。
(信長が長島から撤退するとき氏家・柴田の損害出したルート)
これを鍋島勝茂・原長頼にやらせるつもりだったんじゃないかな?
そして松尾山には輝元が来てもいいように伊藤盛正が待機中だったと。
一応押さえるべき所は押さえてるってかんじだが…、負けちゃってるんだよね。
0425人間七七四年
2019/02/14(木) 10:02:38.44ID:K3MUaDkl尚以小松表之儀切々御注進尤候、ふかと相働に付て、
拙者人数つれ、不寄時日懸付、可有一戦候間、御気遣間敷候、
何時も可申便候、追々可得御意候、以上、
去月廿八日御飛札、今日朔参着、於大坂拝見候、
拙者儀昨日当地着候、仍小松表之様子承候、令得其意候、
定為差働ニても不可在之候、?各令談、小松へも御加勢、
其外大聖寺、丸岡、其他何へも御加勢可在之候、
相究御書立候条、頓て御人数可被差遣候間、於様子者、可御心安候、
其上何時も拙者懸合可申候間、被成御気遣間敷候、
将亦、今日伏見城本丸へ悉乗入、西丸何茂焼失候、
こほり落候者共数多討果候、殿主も悉焼亡、
加様早速相済候儀、天命難遁儀と存事候、
猶小松表之様子、追々御注進尤候、恐惶謹言、
八月朔日 石治部三成
青紀伊様
御報
0426人間七七四年
2019/02/14(木) 21:58:35.75ID:av89u8bMそれよりは頼りになる武将を送ってくれって気持ちだったんじゃないかな
そもそも盟友扱いの吉継にしたって将として評価されるのは関ヶ原以後で、それまでは奉行としてはともかく、将としての実績はほぼないはずだし
0427人間七七四年
2019/02/15(金) 19:05:15.87ID:VGLUSFqT具体的にどこが笑えるの?
0428人間七七四年
2019/02/16(土) 03:29:24.54ID:uL02e/68個人的な考えとしては伊藤が松尾山を小早川に乗っ取られて
小早川が更に大谷を攻撃、大谷壊滅、石田らの救援、垂井軍との挟み撃ち
までの時間経過は2日もかかってないと思う
0429人間七七四年
2019/02/16(土) 11:49:22.21ID:3CpA4sYb戦後は三成に罪をかぶせて家康と手打ち
0430人間七七四年
2019/02/16(土) 12:56:20.69ID:E+niLnyN0431人間七七四年
2019/02/16(土) 17:38:40.96ID:RjO+kSOW負け戦だと判断し、損切りにかかったってことだね。
で、とかげのしっぽ切りされたのが、安国寺恵瓊と。
0432人間七七四年
2019/02/17(日) 11:17:23.29ID:pQacb8rc0433人間七七四年
2019/02/17(日) 14:02:10.17ID:7OAGiOkF0434人間七七四年
2019/02/17(日) 14:06:14.20ID:5occYRlc豐臣家五大老連署條目
御掟
一 諸大名緣邊之儀、得 御意、以其上可申定事、
一 大名小名深重令契約、誓帋等堅御停止事、
一 自然御喧嘩口論者、致堪忍可屬理運事、
一 無實儀申上輩在之者、双方召寄、堅可被遂御糺明事、
一 乘物御赦免之衆、家康、利家、景勝、輝元、隆景、幷古公家、長老、出世衆、此外雖爲大名、
若年衆者可爲騎馬、年齢五十已後之衆者、路次及一里者、駕籠儀可被成御免、於當病者、是又駕籠御免之事、
右條々於違之犯輩者、速可被處嚴科者也、
文祿四年八月三日 隆景(花押)
輝元(花押)
利家(花押)
景勝(花押)
秀家(花押)
家康(花押)
0435人間七七四年
2019/02/17(日) 14:08:23.68ID:5occYRlc御掟追加
一 諸公家、諸門跡被嗜家々道可被專 公儀御奉公事
一 諸寺社儀、寺法社法如先規相守、專修造、學問勤行不可致油斷事、
一 天下領知方儀、以毛見之上、三分二者地頭、三分一者百姓可取之。菟角田地不荒樣可申付事、
一 小身衆者本妻外、遣者壹人者可召置、但別に不可持家、雖爲大身、手懸者不可過一兩人事、
一 隨知行分限、諸寺進退可相働事、
一 可致直訴儀、於擧目安者先十人へ可申、十人衆訴人以馳走双方召寄、慥可被聞申分、直訴目安者、
各別之儀候間、此六人へ可被申、以談合上、御耳へ於可入儀者。可被申上事、
十人衆
冨田、寺西、森壱岐守、堀田若狹、佐々淡路、石田木工、片切守善、石川久五郎、山中山城守、木下與左衞門尉
六人之衆
家康、利家、景勝、秀家、輝元、隆景
一 衣裳紋、御赦免外、菊桐不可付之、於御服拜領者其御服所持間者可着之、染替別衣裳、御紋不可付之事、
一 酒者可隨樣器、但大酒御制禁事、
一 覆面仕往來儀、堅御停止事、
右條々於違之犯輩者、速可被處嚴科者也、
文祿四年八月三日 隆景(花押)
輝元(花押)
利家(花押)
景勝(花押)
秀家(花押)
家康(花押)
0436人間七七四年
2019/02/17(日) 14:10:19.01ID:5occYRlc目出度期見參候、以上
急度申候、石治部、輝元申談色立候由、上方より内府へ御注進候、如此可有之とかねて申たる事に候、
其外殘衆ことことく一味同心之由候、定而内府早速御上洛可在之候、然は則時に可爲御勝手候、
此狀參着次第、松井と市正は番子まで不殘召連、丹後へ可被越、自然之時は松くらをもすて、
女子をつれ宮津へ被越可然候樣にすまさるへく候、ョ入候、四郎右其外之者共之儀は其國のていを見合、
可成ほと木付にい候て、其上は居城にうつるへく候、かねて申合てをき候、此狀は丹後よりひめち邊へ遣、
舟にて屆候へと申付候、
一 内府は江戸を今日廿一御立候由候、我等は昨日うつの宮まて越在之事に候、さためてひつくり返し、
上方へ相働たるへくと存候、恐々謹言
七月廿一日 忠(花押)
松井殿
四良殿
市正殿
0437人間七七四年
2019/02/17(日) 14:13:03.36ID:5occYRlc尚以、其許番衆入候者、此返事に委可承候、則申付可遣候、以上、
急度申入候、越中殿御身上之儀、秀ョ樣より曲事に被思召由而、丹後國へ隣國衆を差遣、城請取候へと、從奉行衆被申付候由候、
就其、越中殿御女房衆、爲留主居衆つれ候て退候由候、慥に我等者罷下、其樣子申候仕合者、屋敷中へ十七日之夜火をかけ
自害之樣子に仕成退候由候、則丹後へ遣上使衆への觸狀寫進之候、然時者其元に四郎右壹人被殘置、松佐早々丹後へ御越尤候、
か樣に可有之と存、先書へも申候き其元少にも候はは、自是似相之番衆をも合力可申候間、必可有御越候、爲其以飛脚申候、
委曲立本かたより可申候、恐々謹言
七月廿七日子刻 C正(花押)
松佐渡殿
有四郎右殿
御宿所
0438人間七七四年
2019/02/17(日) 14:14:53.08ID:5occYRlc已上、
被差越使者去廿七日御狀、今日晦午刻到來、拜見、彼口上承屆候、
一 主計樣より種々御懇之御書中忝存候、度々被入御心被仰越、可申上樣無之候、御報申上候間、御被露候て可然樣に御取成奉ョ候事、
一 大坂より慥成御使者被罷下、越中屋敷之樣子被仰越候、此方へ追々申來候、女房衆大畧可爲自害と存候事、
一 丹後へ去十九日、おく丹波衆、但馬衆、城請取に越被由、此地へも慥に相聞へ申候事、
一 幽齋田辺に被居候事、
一 丹後城々不可有異儀候、河守なとは兼而引払、殘之城々丈夫に可有之候、可御心易候事、
一 丹後城々兵粮等も、當年は國中米留仕、一切不出候間、可有之と存候、此段不可有御機遣候事、
一 松井罷上儀、先書に如申、加子一切無之候、倂不捨置談合仕候、聊無由斷候事、
一 當郡之知行拜領を第一に被申之条、城請取に可參由承候、可爲其分候、各一返に覺悟仕候、其段可御心易候、
兵粮、玉藥之儀、被仰越、忝存候、如形用意仕候条、自然不足之儀候者、重而可申入候事、
一 御加勢之儀、是又過分に候事、松井有之間は不及御加勢候事、
一 大坂之樣子、如水御小性直口先書に申入候事、
一 忠興 内府樣御共候て可被上候、然者隣國則時申付可遂本意候、尚口上に申候間、書中不具候、恐々謹言、
七月晦日 康之
立行
立本老
御報
0439人間七七四年
2019/02/17(日) 14:16:08.30ID:5occYRlc尚々甲斐守分領之儀、少も御氣遣被成間敷候、丈夫に致覺悟候、已上、
如貴札久敷不申承候、仍上邊之儀、不慮之仕合無是非候、如承候甲斐守致出陣候間、一入氣遣可有御推量候、
津國之儀候間、互に可申合候、其元之儀者、一揆多所候間、其御用心專一候、上方之樣子去月廿五日に出候舟申候、
何茂替儀者無御座候、
一 伏見之城者堅固に御座候、
一 丹後之儀、幽齋、越中殿居城堅固之由、申來候、丹波衆押に被居、但馬衆者江州へ被參候由候、
一 P田に中國衆城を拵申之由候、
一 伊勢、江州之堺目城を拵、其大將に刑少被參之由候、右之樣に城へ相拵候時者、内府之御一上國と見へ申候、
一 上方之樣子追々可相聞へ候間可申入候、委細態藤介方迄申入候間、不具候間、恐々謹言
如水軒
八月朔日 圓C(花押)
中修理樣 參
貴報
0441人間七七四年
2019/02/17(日) 17:42:08.41ID:lWxdG4Fe秀吉の死後は遺言で徳川前田に政治がゆだねられていたので、秀吉が許可を出す部分は徳川前田が許可を出すと置き換えて考えるべきだろうな
前田が死んだあとは、徳川が許可を出す。
0442人間七七四年
2019/02/17(日) 18:41:43.94ID:5occYRlc浅野家文書には景勝の署名は無いですけど、大井氏所蔵文書等には景勝の署名があったりするので、
どちらにしようかなとも思ったんですけど、同日の追加の方には署名しといて御掟には無いのも
景勝の立場からして不自然な気がしたので入れときました。
0443人間七七四年
2019/02/17(日) 22:06:18.85ID:5occYRlc前に書き込んだ史料も含め、所蔵文書によって一部文章に違いがある史料は
個人の勝手な判断で恐縮ですが、妥当では無いかと思う方を取捨選択して
書き込んでいます。
0444人間七七四年
2019/02/18(月) 02:59:34.03ID:dtaGjq+A0445人間七七四年
2019/02/18(月) 10:45:00.77ID:X8EZJhy7清正、松井からあまり信用されていない感じがするな
したこと考えると仕方ないけど、家康からも疑われているし
島津からも非難されているし、言われているほど清正、人望ないんじゃないかな
0446人間七七四年
2019/02/18(月) 22:34:24.91ID:ZQiOe4OB恵瓊って長篠の戦いで有名な鳥居強右衛門の息子に生け捕りにされているんだよな
0447人間七七四年
2019/02/18(月) 22:44:32.77ID:jhMRUpd90448人間七七四年
2019/02/18(月) 22:58:21.21ID:98qPRPJ7恵瓊って長篠の戦いで有名な、鳥居強右衛門の息子に生け捕りにされているんだよな
句読点使わんから意味が違ってくる。
ここではきものを脱いでください。 これといっしょ。
0449人間七七四年
2019/02/18(月) 23:36:16.79ID:i7JlxoWb絵形が12くらいか
0451人間七七四年
2019/02/20(水) 21:34:21.53ID:OAFlCsMU清正、朝鮮や庄内の乱とかの行動を見ると、欲深いというか姑息というか、そういうところが結構あるからなぁ
死んだタイミングが良くて、持ち上げられているけど、生きていても大したこと出来なかっただろう
0452人間七七四年
2019/02/20(水) 23:46:57.06ID:ZGyVNgT0柳川開城後の島津攻めでも、黒田如水や立花宗茂は島津家に徳川との和睦を勧めたり
色々と便宜を図ってくれてたんだけど、清正だけはやたらと島津に攻め込むのを主張してたんだよな
0453人間七七四年
2019/02/21(木) 00:07:58.14ID:IyJVDJgx0455人間七七四年
2019/02/21(木) 06:27:13.76ID:KluW3caX立花についても清正、浅野宛の書状で、立花は絶対赦すなって書いているしね
0456人間七七四年
2019/02/21(木) 07:38:51.85ID:8NZuwl+O0457人間七七四年
2019/02/21(木) 18:48:44.41ID:MZHxrV6Z清正たちと交渉して開城してるし、そもそも大坂城を退去した時点で徹底抗戦する気はないんだよな
0458人間七七四年
2019/02/21(木) 22:58:08.95ID:ZKwZ7Ihe0459人間七七四年
2019/02/21(木) 23:01:03.86ID:ybIfOpfU0460人間七七四年
2019/02/21(木) 23:07:11.78ID:ZKwZ7Iheおまえらはおとなしくまぬけ面してニダニダよだれ垂らしながら韓流サルダンスでも見てろ猿wwww
0461人間七七四年
2019/02/21(木) 23:09:17.08ID:ZKwZ7Iheいや、知恵と度胸で 個人的な能力で
0462人間七七四年
2019/02/21(木) 23:36:44.25ID:ybIfOpfU0463人間七七四年
2019/02/21(木) 23:38:08.43ID:ybIfOpfU0464人間七七四年
2019/02/21(木) 23:42:02.35ID:2/eVSA0k0465人間七七四年
2019/02/21(木) 23:52:13.17ID:i4Lwnydu気概はあるけど突き抜けたものがない
したたかというほどでもない印象
0466人間七七四年
2019/02/22(金) 00:42:43.42ID:9BXE9MbQ清正は肥後移封以来加増ないし
唐入りの戦費で領国は荒廃してるのに秀吉の死で戦果なしだからなあ
何とか収入増やそうとあれこれしたけど庄内の乱に介入したのは悪手で
会津征伐には従軍許されず関ヶ原では主戦場から遠く離れた九州戦線だから
なんとか挽回したいというか功を焦っている心境ではあるだろう
0467人間七七四年
2019/02/22(金) 01:31:31.09ID:RCSQea6Jそれを2代目の時まで引きずって経営不能の一因となったようで
そりゃあ少しでもどこか領地取って足しにしなきゃ首も回らない状況でしょうね
逆に他の唐入り大名たちはよく経営続けられたなーというレベル
0468人間七七四年
2019/02/22(金) 11:50:54.95ID:TjFrWt0V個人的にはフィクションだけど、真田丸での景勝像が、あぁこういう人物だったんだなぁ、と
腑に落ちたわ。
0469人間七七四年
2019/02/22(金) 18:08:18.37ID:wQiOeQoX0470人間七七四年
2019/02/22(金) 19:39:41.86ID:KqMMnf/l小野鎮幸との逸話で文盲だと思ってた
0471人間七七四年
2019/02/22(金) 19:48:08.45ID:1lDMrJ0b0472人間七七四年
2019/02/22(金) 20:25:35.74ID:uu0e5plSつい最近も熊本城普請に関して指示をしてる花押なしの清正自筆書状が初公開とかでニュースになってたな
0473人間七七四年
2019/02/22(金) 21:45:55.43ID:SRHKkWAG城主、国衆、大名など領地の規模の差はあるにせよ、
他の連中は領地経営に対してある程度蓄積されたノウハウがあっただろうけど
清正は秀吉と同じく一代で成り上がった人間でその辺が不足していたのかも
あと明征伐に対する本気度の違いもあったんじゃ無いかな
0474人間七七四年
2019/02/22(金) 22:06:51.22ID:bxA4Lm+u領地経営で失敗してないから
清正のパーソナリティーが大きい気がする
0475人間七七四年
2019/02/22(金) 23:11:41.33ID:RCSQea6J清正はすべての仕事を全部自分が指示するスーパートップダウン形態だったとか
そのせいで家臣にまるで仕事をこなすノウハウが蓄えられず、清正がなくなった時点で詰んだと
この辺りは劉邦は3傑がいて頼朝にも3人の重臣がいたけど、秀吉は全部ひとりでやってると評された状況と似てるのやもしれませんね
0476人間七七四年
2019/02/22(金) 23:57:38.24ID:Dizbf5g4そのまま代替わりして好転することもなくあえなく改易と
0477人間七七四年
2019/02/23(土) 10:21:21.16ID:bBiwtr/O十人衆、誰かわからないのが何人かいるな
0478人間七七四年
2019/02/23(土) 11:44:20.72ID:H0eLOuwnむしろ現代まで慕われているだけでも清正はよく頑張ったと言える
0479人間七七四年
2019/02/23(土) 12:20:24.37ID:TYbPY+Mp冨田、富田一白
寺西、寺西正勝or是成
森壱岐守、毛利吉成
堀田若狹、堀田一継
佐々淡路、佐々行政
石田木工、石田正澄
片切守善、片桐貞隆
石川久五郎、石川光元
山中山城守、山中長俊
木下與左衞門尉、木下延重
かな
0481人間七七四年
2019/02/23(土) 21:41:13.04ID:QdkZQZYw0482人間七七四年
2019/02/23(土) 21:41:48.54ID:QdkZQZYw蜂須賀家政書狀
猶々兩人御同意之儀、初者雜説と存、不實候處、安國寺より承候旨は、今度東國へ之御人數被指留之由蒙仰に付而、驚入候、以上、
態啓上候、仍今度石治、大刑逆意無是非存候、就夫、輝元様も御同意之樣に爰元申成候、無御心元奉存候、若於事實者、
さりとては世間之批判無御勿軆存候、勿論、近年内府無御屆儀共可有御座候、雖然、被奉對 秀ョ公、餘相違之題目、
拙者式不承候、於然者、以御覺悟天下之亂可有出來儀、歎敷御事、不可過御分別候、か樣之儀、推參、其恐如何御座候へ共、
年來別而御懇に付而申上候、此旨御披露所仰候、恐々謹言、
七月十六日 (家政花押)
蜂須賀阿波守
堅田兵部少輔殿
0483人間七七四年
2019/02/23(土) 21:42:47.48ID:QdkZQZYwK田圓C自筆書狀
如水軒
廣家樣 圓C
參人々御中
以上
態申入候、内府御上之由取沙汰申候、必定に候哉、其口に貴殿御座候間、一入氣遣に存候、御手前無御越度之樣に、
兼日御分別干要に候、上方人數之儀者、悉内府へ内儀有之様に申候間、御手前之儀專一に候、爲其此者進之候、
九州之儀今迄は靜に御座候、何樣に猥候共、手前之儀者、御氣遣被成間敷候、恐々謹言
九月三日 圓C(花押)
廣家樣
參
0484人間七七四年
2019/02/23(土) 21:44:17.68ID:QdkZQZYwK田圓C自筆書狀
廣家樣 圓C
貴報
尚々、小倉之儀、從輝元加番入之由候間、壹岐へ不渡樣に可被仰付候、
去月廿二日之御狀、昨日三日に拜見由候、
一 先年より隆景元春申談、彦右衞門拙者中國之儀御馳走申、其續貴殿隆景無御忘却候、殘衆者、
備前中納言同前之御覚悟候き、雖少身候、林肥前者、先年之筋目無忘却通、去年於京都拙者に申理候、
一 今度中國御家之續之事、貴殿御律儀故、羽左太、甲斐守に被仰談、御家再興中々不得申候、定而中國上下只今可存當事、
一 彌羽左太、甲斐守御入魂肝要候、兩人迄輝元幷貴殿御事御馳走候へと申遣候事、
一 宰相殿御事御幼少之節、別而馳走申候き、元C先年より無御等閑故申談候、又久留米藤四郎殿儀、是又貴殿御存之事候、
御兩所より近年捨文一通不被下候、只今申候は不入儀候へ共、貴殿御事者、㝡前之馳走無御忘却通、奉感候故、兩人之儀を申事候、
一 上方於美濃口御取相當月迄も御座候者、中國へ切上、花々と見知返し候而、一合戰可仕と存候に、はやく内府御勝手に罷成殘多候、
一 於九州者、奉行方之者は嶋津、立花迯下有之事候、内府樣へ得御意に上せ候間、被仰出次第兩人之者共則時討果、
罷上、以面萬々可申承候、恐惶謹言
十月四日 圓C(花押)
廣家樣
貴報
0485人間七七四年
2019/02/23(土) 23:03:49.00ID:hdlgyYWL逆らうものは皆殺しの勢いで粛清やったから生産力は当然落ちるわけで
これをいくら代官としての統治経験はあるものの
こないだまで3000石だった清正が乗り込んで運営するのって簡単ではないのでは
しかも九州の大名だから唐入りにおける大目の軍役負担までついてくる
0486人間七七四年
2019/02/24(日) 01:14:58.50ID:+eN63wEiそれは清正の問題で一揆後の肥後が取り立てて難治というわけでもないとおもう
大規模戦に巻き込まれた土地の生産力が一時的に落ちるのは普通だし
0487人間七七四年
2019/02/24(日) 14:25:22.30ID:BeCH2r4pそれは、霧が晴れたとき、敵方の度肝を抜く狙いであり、今日の戦に賭ける、家康の、決意の現れでもあった。
西軍の陣型は、相手を包囲するのに相応しい、鶴翼の陣備えであり、対する家康は、中央突破型の、縦隊魚鱗の陣型である。
0489人間七七四年
2019/02/24(日) 15:59:07.53ID:Wo4KYOLo0490人間七七四年
2019/02/24(日) 16:18:58.74ID:XIZk66y10491人間七七四年
2019/02/24(日) 16:20:44.16ID:0l0HP60f0492人間七七四年
2019/02/24(日) 16:27:51.25ID:BeCH2r4p0493人間七七四年
2019/02/24(日) 16:29:24.15ID:wlWcvXRt軍記では西軍は特に記述は無くて、東軍も家康本陣を
魚鱗(関ヶ原方面)鶴翼(南宮山方面)と記述した程度
0494人間七七四年
2019/02/24(日) 19:38:57.78ID:sMq4NJ0Q石田正澄が近江愛知川で人留めして上杉征伐参加予定だった衆を西軍に
引き入れたという部分だけど、
石田三成は7月29日に伏見城に到着するまで大きな動きがない。
これを以てか、石田三成は首謀メンバーではなく勧誘されただけ、
という説があるけど、石田正澄が愛知川で人留めしてるのに、
三成は首謀メンバーではないと言えるのだろうか?
もし勧誘されただけだと言うならば、首謀メンバーは毛利輝元+安国寺恵瓊、
増田・長束ら奉行衆、石田正澄、(大谷吉継、宇喜多秀家、上杉景勝?)となる。
石田三成は首謀メンバーだが、人望がないし隠居してる身なので、
出しゃばらずに目立たないようにしていた、のほうが説得力があるように思うが。
0495人間七七四年
2019/02/25(月) 01:02:42.67ID:8e2yyEUd合ってる
ドラマみたいな布陣とか松平の抜け駆けとか奥平鉄砲とか無いから
松尾山の小早川、それに追随する小川、朽木らと家康勢に挟まれて2時間くらいで上方勢は壊滅
0496人間七七四年
2019/02/25(月) 09:59:59.67ID:UNqAGK97三成らも背後からの攻めに備えてたんだろうけど大軍で怒涛のようにくるのは予想外だったのかな
0497人間七七四年
2019/02/25(月) 10:48:54.22ID:XkaBMRKi外曲輪を焼き払うって必要だったんだろうか
0498人間七七四年
2019/02/25(月) 11:40:33.32ID:M+0oTvVg0499人間七七四年
2019/02/25(月) 12:40:57.53ID:B4pQad8Y西軍の中で関ヶ原で壊滅したとされてきた軍が、三成と一緒に松尾山へ向かった部隊ということかな
0500人間七七四年
2019/02/25(月) 13:57:07.76ID:j5dQ9xft立花宗茂はそのままの評価で良いし黒田孝高も人望や名声はあれとしても実力はあったからあの評価で良いと思う。
評価が低いのは鍋島直茂と黒田長政。この二人は加藤清正黒田孝高立花宗茂の餌になってる気がする。実力凄いあるんだけど残念。毛利勝永みたい。
0501人間七七四年
2019/02/25(月) 14:08:48.00ID:5gTt4FAt多分もっと早い段階で逃げてたと思う。戦闘終了間際で両軍とも混乱してるのに正確に敵兵の逃走劇を記憶して記述できる人間が居るとは思えない。
おそらく戦闘開始時に島津軍がいた事と終わってから島津に逃げ帰ったらしいという事実があって、
島津かどうか確証はないがが島津らしき軍団が大急ぎで逃げていったのを目撃したものが居て、話が合わさって作られた都市伝説のようなものだろうな。
0502人間七七四年
2019/02/25(月) 14:45:53.77ID:j5dQ9xftかなりの乱戦で長寿院盛淳もどこで戦死したかも定かじゃ無いし甥の島津豊久は生存してると思って後々探させた話もある位だからね。退き口云々は後世の作り話でしょ。
0503人間七七四年
2019/02/25(月) 14:47:19.79ID:xBNzk8Y3というところじゃないか
0504人間七七四年
2019/02/25(月) 15:14:14.00ID:eZN8MutS■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています