中野等著「石田三成伝」によると、慶長3年7月初句頃までは筑前・筑後(旧小早川秀秋領)
の検地もしくは視察のため浅野長政と石田三成は北九州にいた。
慶長3年5月26日付島津義弘・忠恒宛福原長堯・垣見一直・熊谷直盛連署状には

これまで要衝佐和山を託せる人物がいなかったがちょうど筑前・筑後が空いたので、
秀吉が石田に筑前・筑後を拝領するか?と尋ねたがこれまで通り近江で奉公したいと
申すので、ならばこれまで同様佐和山にあり、筑前・筑後を代官支配するがよい、
ということになりました。
また慶長4年には第3次朝鮮出兵の計画があり、大将は福島正則、石田三成、
増田長盛です。
とある。
(かなりてきとーに引用)

少なくとも石田に豊臣を守る気がないなら筑前・筑後の転封を受けてると思うが。
所領倍増52万石でしょ?
秀吉は徳川家康、前田利家を信頼していただろうけど、
直臣家来としては石田三成もまた信頼していたと見えるが。
でなければ筑前・筑後転封の話なんて出さないでしょ。