>>334
別に織田の要請とかではなく、普通に謙信側の都合で、8月には北陸に再び遠征を開始し、
10月11日には長らく上杉に敵対してきました越中豪族神保の重臣である狩野・小嶋、が
上杉家重臣河田に書状を送り、神保家の跡目を認めてもらえた事に感謝し、
「これ以後は謙信様を一筋に奉るつもりです。」的に書状で述べて、服属表明のような事を示しておりますし、
で、これ以後に越中における領土を家臣達に宛がう謙信の書状が出される事になり、
その後の12月5日の書状で「近日越山をしようと思うが、」的な文言が書かれておりますねえ。
で、>>371にもありますように、普通に謙信が1573年12月25日に出した書状では、
「越中から戻ってきたら、そのまま越山して関東に向かうつもりではありましたが、
兵が疲れている為に、年が明けてからにする事にします。」
的に普通に書いているわけなのではございますが、
いかがなものなのではございましょうかねえ。